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第一話:人の口に戸は立てられぬ《unconscious》

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 ところで、今僕が語っている物語というのは、いわば凩 風凪の回想であって、その中で語られる幕上 日暮の回想というのは、なんだかマトリョーシカみたいな構造だとは思う。
 しかし、物語の進行上は欠かすことができないエピソードではあるし、それが幕上 日暮の視点によって語られるものである、ということには十分留意するべきなのだと僕は思う。
 それが、どのように物語に影響を及ぼすのかどうかなどということまでは、僕には分からないけれど。

 だから、彼に代わる形で、そして同時に彼女に代わる形で、という前置きをつけたうえで、僕が語ろうと思う。

 彼の半日の物語、そして、その心の底に――あるいは、腹の底に――透ける彼の半生の物語を。


 *****


 一月十二日の午後十四時頃に幕上がいたのは、豪徳寺駅の隣駅、梅ヶ丘駅から歩いて数分のところにある羽根木公園のベンチだった。大学二年生である幕上としては、年末年始の休み明けの眠たい講義をなんとかやりすごし、成人の日となる月曜日を含めた三連休の最初の日を満喫したいところだったのだが、このときの彼は鬱々とした気分を抱えていた。
 あたりでもそれなりの広さを誇り、梅の名所としても知られるその公園には、子ども連れも多く、我が子が走り回るのを幸せそうに、あるいは心配そうに見守る母親の姿もちらほら見受けられた。

 そう――母親、である。

 彼が抱える鬱々とした気分のきっかけは、その朝に口論となった、彼の母親であった。
 大学生にもなって、それこそ二日後に成人式を迎えるというのに母親と口論というのは、なんだか思春期を引きずってしまっているようで、幕上本人としても情けないと思いつつも、ついこの前まで高校生であった自分と今の自分にどれほどの差があるだろう、とも感じていた。
 幸いなことに、なのかは分からないが、もともと幼いころから梅ヶ丘駅のほど近いところにある小さな団地に母親と二人で住み続けており、通う大学も都内にあったことから、大学に進学したことを機に一人暮らしを始めたわけでもなかったし、それゆえに生活習慣が変わったかといえば、通学時間が高校生のときよりも少し長くなったくらいのものだった。
 大学の講義の合間を縫ってアルバイトで自分自身の金を稼ぐようになった、というのは少しは大人らしいことなのかもしれなかったが、しかしそれでも家計を支えるというには、その額は雀の涙ほどだったし、それこそ学生らしく遊びたい気持ちもあって、家計の足しにするというよりは、自分で使える金がわずかばかり増えた、程度の認識でしかなかった。
 そういう意味で、自分は親不孝な息子だ、と幕上は思っていた。
 映画やドラマなんかで出てくる、母親が女手一つで育てた息子というのは、どうも親孝行な青年が多い気がする。あるいは、普段こそ素行の悪い不良だけれど、実は心の底では母親のことを大事に思っている、のような、いかにもストーリーラインに添ったキャラクター設定も多い。
 別に幕上自身も(そして今彼に代わって語っている僕自身も)そういう人物を憎んでいるわけでも、疎んでいるわけではなかった。
 できるのであれば、自身もそうあれたらいいなと思うのと同時に、自身はそうなることができないし、そうあろうと努力することもできないのだと、分かってしまっているだけで。
 それは、幕上にとって、彼の母親のことを一生恨むようなことがあった、というような意味ではなく、愛情にしろ、憎悪にしろ、そういう強い感情を持つ対象に、彼の母親はならなかった、ということだった。
 もし巷に存在する女手一つで育てられた息子のステレオタイプが、素行が悪くても心優しい母親想いな青年だとするならば、幕上は大して素行に問題があるわけでも、また逆に優秀なわけでもないが、自分の母親に対して、何とも思っていない青年だった。
 といっても、全く会話がないというわけでもない。同じ屋根の下で、同じ家計の中で、必要な会話と不必要な会話を交わす、そんな関係性だ。一般の親子関係としてありふれた日常だと、幕上自身も思っている。

 だけれども、心のどこかで、ふとした時に。

 目の前にいる壮年の女性が自身と半分の染色体を同じくしているという事実に疑問を感じることがあった。
 本当は血が繋がっていないのかもしれないというようなことを思っていたわけではない。目鼻の形や髪の癖なんかは母親譲りで幼い頃には周囲からよく似ていると言われたものだった。

 幕上が疑問を感じていたのは、血が繋がっているのか、ではなく、血が繋がっているのか、ということだった。

 自分が頭の中の描いた想いが言外に母親へ伝わるわけでもない。
 母親が感じている痛みがありありと自分へ伝わるわけでもない。

 どこまでいっても別の人間であるのに、いつまでたっても親と子という関係性には変わりないという、その事実を、幕上は理解こそすれど、実感ができなかった。
 そんなことを考えていること自体が自身の親不孝を証明するものなのだと、罪悪感にも似たものを感じていた。そして、そんな存在がそばにいる事がお互いにとってよいことではないのではないか、とも思っていた。

 だから。

 成人式を二日後に控えた、土曜日、母親が作った野菜や豆ばかりの昼食を取りながら、彼は切り出した。

 一人暮らしをしたい、と。
 家を出たい、と。
 母親であるあなたの庇護の外に行きたい、と。

 しかし、幕上の母親は、それを許そうとはしなかった。
 もちろん、家計を二つに分けるということは、経済的にも非効率だし、通っている大学への通学時間は決して長いわけでもないから、彼の主張に合理的理由があるわけでもなかった。
 だが、会話していくうちに、母親が一人暮らしを許そうとしない理由が、経済的非効率性や時間的合理性によって成されるものではないことに、幕上は気付いた。いや、気付いた、というよりは勘付いた、というのが正しいかもしれない。
 論理もなく、理屈もなく、道筋もなく、息子を自分の庇護下に置くことに拘泥する、母親の言動を幕上は理解することができなかった。
 そもそも、幕上としては、自身が母親に強い感情(それが、愛情であれ、憎悪であれ)を向けることができないのと同じように、母親の方も自分に対して強い感情を持っていることはないのだろうと思っていたから、そんな対応になることを予想していなかった。
 少なくとも、幕上の視点からは、彼の母親から何かについて過度な干渉を受けることはなかったと認識していた。進学する先の大学を決めた時も、夜遊びで帰りが遅くなった時も、それについて母親が意思表示することはなかった。
 息子の決めたことや行ったことについて、それを肯定するわけでも、否定するわけでもなく、かといって受容しているというのにも届かない、いうなれば、するような態度が、母親としての基本姿勢なのだと、幕上は認識していた。
 だからこそ、幕上は母親がなぜそのように拘泥したのかが分からなかった。そして、そんな無理解(それが幕上自身の母親に対する無理解なのか、あるいは母親の息子に対する無理解なのかは、さておき)は、幕上に困惑よりも、苛立ちや気味の悪さのようなものを感じさせた。

 それが、幕上が土曜の昼下がりに母親と口論になったいきさつであり、そして家の中にいることが気まずくなって特にあてもなく歩いた結果、羽根木公園のベンチで行きかう家族を眺めることになったという成り行きであった。

 当然のことながら、公園で家族を眺めていても、鬱々とした気分が晴れるわけもなく、ましてや母親との口論が解決するわけでもなかったのだが、かといってこんなコンディションで友人に会ったところで、不機嫌さが滲み出て八つ当たりのようになるのも憚られて、(そういう時に何もかもを打ち明けられるような友人がいなかったというのもあるかもしれなかったが)結局一人で時間を潰すことに決めた。
 とはいえ、小一時間、ベンチでスマートフォンをいじりながら過ごしていたが、一月の頭の寒さはやはり身体に堪えるものがあった。
 かじかんで痛みを感じ始めた手をポケットの中で擦りながら、とにかく動いて身体を温めようと考えた幕上は、世田谷区の中に走っている緑道のことが頭によぎった。

 今いる羽根木公園の目の前に通っている北沢川緑道は南東に向けて歩いていくと、目黒川緑道と烏山川緑道と合流する。合流地点からキックバックする形で南西に烏山川緑道に沿って歩いていけば、世田谷城址公園というあまり人気のない区内で唯一の歴史公園に行き当たる。
 そこから豪徳寺(駅ではなく、駅名の由来となった寺だ。実は豪徳寺駅の最寄駅は小田急線の豪徳寺駅でもその向かいにある山下駅でもなく、宮の坂駅という駅だったりする)の脇を通って商店街を抜ければ、再び北沢川緑道に合流することになる。
 ちょうどぐるりと一周する形で、ゆっくり歩けば三時間くらいの道程。
 夕方までの時間潰しとしては、悪くないアイデアだと幕上は思った。

 そして、実際にそれは良い暇つぶしだった――少なくとも、午後十八時頃に世田谷城址公園に辿り着くところまでは。

 一月の日没時間というのは、当然早いもので、十七時を迎える前には既にあたりはもう暗くなっていた。
 陽が差していた昼間でさえ手がかじかむほどの寒さだったのだから、当然、陽が沈んだその時間では、それこそ刺すような寒さであった。
 幕上としても、歩いていたとはいえ、家を出てから約四時間も外に出ていたこともあって、そろそろ屋内に入りたい気持ちはあったのだが、それでも母親との口論のことを思うと、なかなか帰途につく気持ちにはなれなかった。
 公園の少し手前で買った加糖のホットコーヒーで手を温めてながら、世田谷区城址公園の中に入っていく。
 城址公園というだけあって、城壁の名残のようなものはあり、公園内はそれなりに急な階段になっている。かつては烏山川が三方を囲む天然の堀になっていたということで、その痕跡として残っている小さな橋もあった。
 その橋の上に立って、かつては水に満たされていたのであろう空堀を見ながら、自分は何をやっているのだろうか、と甘いコーヒーの味を感じながら思った。
 ブラックコーヒーは大人の証なんてことを真っ当に受け入れるわけではないが、しかし母親との喧嘩が気まずくて半日を近場の放浪で費やしたという事実が、自分は子どもなのだという証明のように思えて、やるせなさが押し寄せてきていた。


 ――と、その時だった。


 大きな窪みのようになっている空堀の暗がりの中に何かが蠢いたような気がした。
 じっと目を凝らして、それが何なのかを確かめる。しかしあたりは真っ暗で、それが何かは判然としない――だが、気づいた。

 それが、ではなく、だということに。

 「背筋が凍る」という感覚を、この時初めて幕上は実感した。そして、上着のポケットの中からスマートフォンを出して、恐る恐る、ゆっくりとライトを照らす。


 そこにあったのは、おびただしい数の「目」だった。
 どこに目を向けても目。
 目、目、目、目目、目目、目目目目目、目目目目目、目目目目目目目目目目目目。
 目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目。
 目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目。

 しかも、それは対になったものではなかった。というより、その「目」達は形としては、人の目を模しているのだが、しかし人体に付属しているものではなかった。

 そう――それは、言うなれば、数百にも及ぶ、大きな目を一つしか持たない「雀」の群れ、だった。

 大きく見開かれた目をそれぞれの個体が、時々まばたきをしながら、だが、必ずどれかの個体が幕上を見据えていた。

 幕上は、悲鳴を上げなかった。
 しかしそれは、正常な恐怖の範囲を――例えば人から急に話しかけられた程度の――とうに超えていたからだった。

 声を上げることもできないまま、その場に立ち尽くしていた幕上は、思わずスマートフォンを落とし、照らしていた光が、その群れから外れる。



 そして――それが合図だったかのように、一斉に「雀」の群れが幕上に襲いかかってきたのだった。
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