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第一話:人の口に戸は立てられぬ《unconscious》
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「……って、なんで朝から家の前で待ち伏せしてんだよ、あんたは」
一月十四日の月曜日、成人の日当日、八時二十七分。
スーツ姿の幕上は、自宅アパートの玄関先で風凪を見つけるなり、呆れたように言った。
「えへへ。まぁ、スーツ姿の日暮くんでも拝んでもおこうと思ってさ」
「なんだよ、それは……。わざわざ笑いに来たのかよ」
「別にそんな意地悪をしに来たわけじゃないよ。まぁ、日暮くんの大人としての門出を祝いに来たというのも、もちろんあるのだけれど、主目的は経過観察だよ」
「経過観察?」
「ほら、昨晩少し味覚消失が治ってきているかも、って言ってたじゃない? その症状がどのように変化しているのか把握したうえで、私の方でも調査したほうがいいかな、と思ってね」
「あぁ、そういうこと。……そうだな、昨日の夕飯時は少し良くなった気がしてはいたんだけど、どうもそれは勘違いだったみたいだ。さっき朝食をとった時には、また味覚は機能しなくなっていた」
「そっか――」
神妙な顔で答える風凪ではあったが、実はある程度予想の範囲内だった。
なにせ、風凪が幕上の母親と出会ってからもうすでに十六時間以上が経過しているのだから。
風凪は俯き加減の幕上の手を取り、まっすぐ見つめて続ける。
「でも、きっと良くなる。私がどうにかしてみせる」
「お、おう……」
風凪の視線に圧されたように、幕上は答えた。
「き、昨日も言ったけど、俺も今日はなんだかんだ一日予定があるからさ。また合流するとしたら夜にはなるんだけど、構わないか?」
「うん。また夜の九時くらいにね。昨日携帯の番号も教えてもらったし、頃合いを見て私から連絡するよ」
幕上の手を離して、風凪は一歩下がった。
「じゃあ、そろそろ日暮くん。行かないとだよね。改めて、成人おめでとう」
「そうやって改めて言われると、なんだかむず痒いな。まぁ、いいや。また夜にな」
そう言って、幕上は風凪を通り過ぎるようにして歩き出した。
その背中を風凪はしばらく見送っていたが、何かを思い出したように呼び掛けた。
「幕上 日暮くん!」
遠くで幕上は振り返った。
「私にも、まだ何が大人か分からないけどさ! きっと自分では知らないうちに誰かに助けられながら、大人になっていくんだと思うの! 先生とか、友達とか、いろんな人に! 面倒に感じるかもしれないけれど、けどきっと日暮くんのお母さんにも支えられてる! だから、きっと……きっと大丈夫だよ! きっとうまくいく!」
そんな風に叫ぶ風凪に、幕上は少し驚いたような顔をして、そして少しだけ微笑むと、軽く手を振って、また歩き出した。
そして今度こそ、風凪は、幕上が角を曲がってその姿が見えなくなるまで見送った。
もういいのか?と僕は、幕上が見えなくなった曲がり角を見つめたまま立っている風凪に声をかけた。
「うん、もういいの。多分、言いたかったことは言えたし。日暮くんにはほとんど伝わってないだろうけれど」
そうか、と僕はそれに答えた。
「じゃあ……お願い。二不二くん」
やれやれ、と僕は思いながら風凪に続いて、幕上の住んでいるアパートの玄関に入っていった。
*****
幕上の母親がパートを終えてアパートに帰宅した姿を、遠目から風凪が確認したのは同日の十六時を過ぎたあたりのことであった。それは、前日に初めて風凪が幕上の母親に出会ったのと同じくらいの時間だった。
しかし、風凪は彼女に話しかけることはせず、そのまま語匿神社へと向かった。
語匿神社に着くと、明日語(前日に引き続き、十歳くらいの少年の姿をとっていた)が何やら準備をしていた。
「やぁ、風凪ちゃん。もうこちらの準備はできているよ。ことは首尾よく進んだかい?」
風凪が語匿神社に来たのに気づくと、明日語はニヤニヤしながらそう言った。
ちなみに、そのころ僕はというと、またぞろ「君がいると台無しになる」という明日語からのお達しにより、語匿神社に同行することはなく、せっせとバーで仕込みをしていた。
「…………まぁ、ある意味では」
言葉少なに、風凪は答えた。しかし、それは無理からぬことだった。
あんな真相を知ってしまえば、ショックを受けずにはいられない。
あんな、誰も救われない、隠しておいたほうがいいような真相を。
そんな風凪の心境を知ってか知らずか、明日語は彼女から視線を逸らして、語った。
「『歪み』なんて、できれば知らないほうがいいことばかりだよ。だから、人の心の奥底で隠されて、そして知らない間に腐っていく。だけど、それは人が人である以上、仕方ないことだし、そういう汚い部分で誰かを傷つけないために奥底にしまっておこうとするのも、人の心だ」
そうやって語る明日語の表情は風凪からは見えなかったけれど、その声音には先ほどまでのニヤニヤと笑っているような印象はどこにもなかった。
そしてそれを聞いている風凪は、明日語の言葉に対して肯定も否定もせず、ただ口を閉ざしていた。
「人は、その心故に『歪む』。でも、そうやって『歪む』からこそ、人は人らしい。そして、そんな人らしい『歪み』を受け入れて、受け止めるのが、僕たち回帰式の役目だ。そして、風凪ちゃん、君はその回帰式である僕の『代理人』だ」
明日語は、風凪の背中を押すように、続ける。
「だから、幕上 日暮くんとその母親の『歪み』も受け入れて、そして受け止めるんだ。それが今回、君のやるべき仕事だ」
その言葉に、風凪は息を大きく吐き、そして覚悟を決めたように頷いた。
そして、ポケットから携帯電話を取り出して、着信をかけた。
その発信先は、幕上 日暮の携帯――ではなく。
彼の母親のいる――幕上家の固定電話だった。
*****
『もしもし、幕上です』
三回のコールのあと、幕上の母親は電話に出た。
『もしもし? どちら様ですか?』
「私は……私は、凩 風凪と言います」
風凪は前日に自己紹介しているにも関わらず、まるで、「初めて」幕上の母親と話すかのように答えた。
しかし、それは彼女が緊張しているからでも、謙遜しているからでもなかった。
「コガラシ……さん? えっと、息子のお知り合いでしょうか……? それか電話番号をお間違えではないですか? うちは幕上ですけれども」
幕上の母親は、凩 風凪を――認識していなかった。
幕上の母親は、凩 風凪を――記憶していなかった。
これが幕上の母親の「歪み」とは全く無関係に生じている現象であることを、風凪は、そして、僕も明日語も――知っていた。
原因は、風凪の方にこそある。だが、風凪が能動的に何かをしたわけではない。
むしろ、能動的に何もしなかったから、こうなっているのだ。
凩 風凪は、他人の記憶に残ることができない。
被忘却体質。
僕や明日語は、そう呼んでいるが、それこそが凩 風凪という人物が有している体質――あるいは、失っている素質だった。
初めて面識を持ってから――正確には視認できる範囲から外れたタイミングが起算の基準になるが――十二時間以内に物理的に触れること。それが記憶の忘却を回避するための唯一の手段だった。
それ以降、十二時間ごとに触れなければ、彼女は記憶から消える――彼女を忘却することになる。
それが彼女が課されたルール。
そして、僕が強いたルーティン。
それは去年の十一月――木枯らしが観測されることのなかった、あの季節のことだった。
結果だけを見れば、嘘偽りなく、この僕が、凩 風凪という人間の「歪み」――言い換えれば彼女の個人性を、ずたずたに破壊し、蹂躙し、凌轢した末に、彼女は個性を完全に消失した。「人々の平均」へ過剰に回帰されたが故の、異常なほどの無個性。
無個性ゆえに彼女は、他人の認識の中で、風景に紛れ、雑踏に紛れ、記憶の中で少しずつ――薄れていく。
つまり、彼女は自身の「歪み」によって忘れられるのではなく、自身の「歪み」の無さによって忘れられるのだ。
もし仮に、あらゆる人間の記憶から消失してしまった時、彼女がどうなるのかといえば、それは明日語をしても確証めいたことは言えないのだが、最悪の場合、彼女という存在自体が消失する可能性すらあるのだという。
それは一種の量子力学における、コペンハーゲン解釈――観測されないものは、存在しない。
観測されなくなった人物は、人物として存在しえない。
それは、ある意味では透明人間のようなものなのかもしれない。
哲学的ゾンビならぬ――哲学的透明人間。
その哲学的透明人間になってしまうという可能性をできるだけ下げるために、僕は彼女と暮らし、明日語は彼女を「代理人」として自分の近くに置いているのだった。
そして、前の夜に風凪が幕上に接触した二つ目の目的というのも、幕上の記憶から消えることを防ぐためであった。
今回の「舌切り雀」に関する事案の終幕に向けた道筋が立っていないうちは、幕上に忘れられるわけにはいかなかった。
それは一種のマナー。彼女として、彼の抱えている問題を解決するまで逃げ出さないという意思表示だった。
一方で、幕上の母親とは、前の日の十六時に会話して以降、接触していない。そのことは、今朝の四時頃には既に、幕上の母親の記憶から凩 風凪という存在は消失していることを意味していた。
だからこそ、今朝の時点で幕上の味覚消失は再発したのだ。
口封じの対象として、風凪に標的が分散していた前日の夜は症状が緩和されていたのに対して、その分散先である風凪を忘れてしまっているのだから、それも当然のことであった。
それは幕上からしてみれば、ぬか喜びもいいところなのだが、しかし、これは必要な工程、あるいは工作だった。
今回の物語の、終幕のためには。
「いえ、間違い電話ではないんです。そして、確かに私は日暮くんの知り合いではあるのですけれど、でも、私がお話したいのは、あなたです」
『私に?』
「ええ。あなたです」
風凪は、息をついて、話を続けた。
「私は……あなたの秘密を知っています。あなたがひた隠しにしている、あなたが、日暮くんも含めた周囲の人間に絶対に知られまいとしている、過去の話を」
『な……何をおっしゃっているのか……私には全然わかりません。嫌がらせなら切りますよ』
「嫌がらせじゃありません。そして、あなたはこの電話を切ることはできないはずです。私が何を知っているのか、知らない限りは夜も眠れない――いえ、この場合は、喉も通らない、と言うのが適切でしょうか」
『…………こんなことを話して、あなたはどうする気なの? 私を脅して、お金でも要求するっていうの?』
「そんなことを……したいんじゃないんです。私は日暮くんも助けたいし、あなたも救われてほしいと、思っている。それが法律とか、モラルとかに反することであっても」
『だ、だから、なんなのよ! あなたは……! あなたは……誰なのよ!』
「私は……私は日暮くんの友達です。出会ってから、まだそんなに時間は経ってないけれど、それにやっぱりまだ彼のことはよく知らないけれど、それでも、彼が進めるように願っている、彼の友達です」
『日暮が……進む……?』
「あなたも、もう、進んでいいんです。いや、あなたももう、子離れしなくちゃいけない」
『子離れ……あなたに、あなたに何が分かるっていうの? 私には……私はどうすればよかったっていうの……?』
「私は……私は、あなたの過去の一部は知っていますが、私には何故あなたがそんな風にしたか、やっぱり分かりません。それでも、あなたが日暮くんを守ろうとして、そして日暮くんを守るためにあなた自身の罪を隠したのだと、そう思います」
幕上の母親の罪。
その内容は口にすることも憚られたが、しかし、それを知っていることを本人に伝えることが必要だった。
何故ならそれを隠すことが幕上の母親が無意識のうちに「舌切り雀」へ託した願いだったのだから。
その罪を秘匿しようとする想いこそが、幕上の味覚を奪うことにつながった。風凪の口を封じようとすることにつながった。
であれば、その秘匿に失敗すれば、その想いは無に帰す。
既に周知となったものに対して、秘匿しようとするエネルギーは発生しない。
秘匿しようとする「歪み」が意味を消失する。
もう、終わらせなくてはならない。そう、風凪は思った。
風凪の脳裏には、いつか聞いた「舌切り雀」の怨嗟のような鳴き声がよぎった。
そして、告げる。
「あなたは、日暮くんに、父親の――」
一月十四日の月曜日、成人の日当日、八時二十七分。
スーツ姿の幕上は、自宅アパートの玄関先で風凪を見つけるなり、呆れたように言った。
「えへへ。まぁ、スーツ姿の日暮くんでも拝んでもおこうと思ってさ」
「なんだよ、それは……。わざわざ笑いに来たのかよ」
「別にそんな意地悪をしに来たわけじゃないよ。まぁ、日暮くんの大人としての門出を祝いに来たというのも、もちろんあるのだけれど、主目的は経過観察だよ」
「経過観察?」
「ほら、昨晩少し味覚消失が治ってきているかも、って言ってたじゃない? その症状がどのように変化しているのか把握したうえで、私の方でも調査したほうがいいかな、と思ってね」
「あぁ、そういうこと。……そうだな、昨日の夕飯時は少し良くなった気がしてはいたんだけど、どうもそれは勘違いだったみたいだ。さっき朝食をとった時には、また味覚は機能しなくなっていた」
「そっか――」
神妙な顔で答える風凪ではあったが、実はある程度予想の範囲内だった。
なにせ、風凪が幕上の母親と出会ってからもうすでに十六時間以上が経過しているのだから。
風凪は俯き加減の幕上の手を取り、まっすぐ見つめて続ける。
「でも、きっと良くなる。私がどうにかしてみせる」
「お、おう……」
風凪の視線に圧されたように、幕上は答えた。
「き、昨日も言ったけど、俺も今日はなんだかんだ一日予定があるからさ。また合流するとしたら夜にはなるんだけど、構わないか?」
「うん。また夜の九時くらいにね。昨日携帯の番号も教えてもらったし、頃合いを見て私から連絡するよ」
幕上の手を離して、風凪は一歩下がった。
「じゃあ、そろそろ日暮くん。行かないとだよね。改めて、成人おめでとう」
「そうやって改めて言われると、なんだかむず痒いな。まぁ、いいや。また夜にな」
そう言って、幕上は風凪を通り過ぎるようにして歩き出した。
その背中を風凪はしばらく見送っていたが、何かを思い出したように呼び掛けた。
「幕上 日暮くん!」
遠くで幕上は振り返った。
「私にも、まだ何が大人か分からないけどさ! きっと自分では知らないうちに誰かに助けられながら、大人になっていくんだと思うの! 先生とか、友達とか、いろんな人に! 面倒に感じるかもしれないけれど、けどきっと日暮くんのお母さんにも支えられてる! だから、きっと……きっと大丈夫だよ! きっとうまくいく!」
そんな風に叫ぶ風凪に、幕上は少し驚いたような顔をして、そして少しだけ微笑むと、軽く手を振って、また歩き出した。
そして今度こそ、風凪は、幕上が角を曲がってその姿が見えなくなるまで見送った。
もういいのか?と僕は、幕上が見えなくなった曲がり角を見つめたまま立っている風凪に声をかけた。
「うん、もういいの。多分、言いたかったことは言えたし。日暮くんにはほとんど伝わってないだろうけれど」
そうか、と僕はそれに答えた。
「じゃあ……お願い。二不二くん」
やれやれ、と僕は思いながら風凪に続いて、幕上の住んでいるアパートの玄関に入っていった。
*****
幕上の母親がパートを終えてアパートに帰宅した姿を、遠目から風凪が確認したのは同日の十六時を過ぎたあたりのことであった。それは、前日に初めて風凪が幕上の母親に出会ったのと同じくらいの時間だった。
しかし、風凪は彼女に話しかけることはせず、そのまま語匿神社へと向かった。
語匿神社に着くと、明日語(前日に引き続き、十歳くらいの少年の姿をとっていた)が何やら準備をしていた。
「やぁ、風凪ちゃん。もうこちらの準備はできているよ。ことは首尾よく進んだかい?」
風凪が語匿神社に来たのに気づくと、明日語はニヤニヤしながらそう言った。
ちなみに、そのころ僕はというと、またぞろ「君がいると台無しになる」という明日語からのお達しにより、語匿神社に同行することはなく、せっせとバーで仕込みをしていた。
「…………まぁ、ある意味では」
言葉少なに、風凪は答えた。しかし、それは無理からぬことだった。
あんな真相を知ってしまえば、ショックを受けずにはいられない。
あんな、誰も救われない、隠しておいたほうがいいような真相を。
そんな風凪の心境を知ってか知らずか、明日語は彼女から視線を逸らして、語った。
「『歪み』なんて、できれば知らないほうがいいことばかりだよ。だから、人の心の奥底で隠されて、そして知らない間に腐っていく。だけど、それは人が人である以上、仕方ないことだし、そういう汚い部分で誰かを傷つけないために奥底にしまっておこうとするのも、人の心だ」
そうやって語る明日語の表情は風凪からは見えなかったけれど、その声音には先ほどまでのニヤニヤと笑っているような印象はどこにもなかった。
そしてそれを聞いている風凪は、明日語の言葉に対して肯定も否定もせず、ただ口を閉ざしていた。
「人は、その心故に『歪む』。でも、そうやって『歪む』からこそ、人は人らしい。そして、そんな人らしい『歪み』を受け入れて、受け止めるのが、僕たち回帰式の役目だ。そして、風凪ちゃん、君はその回帰式である僕の『代理人』だ」
明日語は、風凪の背中を押すように、続ける。
「だから、幕上 日暮くんとその母親の『歪み』も受け入れて、そして受け止めるんだ。それが今回、君のやるべき仕事だ」
その言葉に、風凪は息を大きく吐き、そして覚悟を決めたように頷いた。
そして、ポケットから携帯電話を取り出して、着信をかけた。
その発信先は、幕上 日暮の携帯――ではなく。
彼の母親のいる――幕上家の固定電話だった。
*****
『もしもし、幕上です』
三回のコールのあと、幕上の母親は電話に出た。
『もしもし? どちら様ですか?』
「私は……私は、凩 風凪と言います」
風凪は前日に自己紹介しているにも関わらず、まるで、「初めて」幕上の母親と話すかのように答えた。
しかし、それは彼女が緊張しているからでも、謙遜しているからでもなかった。
「コガラシ……さん? えっと、息子のお知り合いでしょうか……? それか電話番号をお間違えではないですか? うちは幕上ですけれども」
幕上の母親は、凩 風凪を――認識していなかった。
幕上の母親は、凩 風凪を――記憶していなかった。
これが幕上の母親の「歪み」とは全く無関係に生じている現象であることを、風凪は、そして、僕も明日語も――知っていた。
原因は、風凪の方にこそある。だが、風凪が能動的に何かをしたわけではない。
むしろ、能動的に何もしなかったから、こうなっているのだ。
凩 風凪は、他人の記憶に残ることができない。
被忘却体質。
僕や明日語は、そう呼んでいるが、それこそが凩 風凪という人物が有している体質――あるいは、失っている素質だった。
初めて面識を持ってから――正確には視認できる範囲から外れたタイミングが起算の基準になるが――十二時間以内に物理的に触れること。それが記憶の忘却を回避するための唯一の手段だった。
それ以降、十二時間ごとに触れなければ、彼女は記憶から消える――彼女を忘却することになる。
それが彼女が課されたルール。
そして、僕が強いたルーティン。
それは去年の十一月――木枯らしが観測されることのなかった、あの季節のことだった。
結果だけを見れば、嘘偽りなく、この僕が、凩 風凪という人間の「歪み」――言い換えれば彼女の個人性を、ずたずたに破壊し、蹂躙し、凌轢した末に、彼女は個性を完全に消失した。「人々の平均」へ過剰に回帰されたが故の、異常なほどの無個性。
無個性ゆえに彼女は、他人の認識の中で、風景に紛れ、雑踏に紛れ、記憶の中で少しずつ――薄れていく。
つまり、彼女は自身の「歪み」によって忘れられるのではなく、自身の「歪み」の無さによって忘れられるのだ。
もし仮に、あらゆる人間の記憶から消失してしまった時、彼女がどうなるのかといえば、それは明日語をしても確証めいたことは言えないのだが、最悪の場合、彼女という存在自体が消失する可能性すらあるのだという。
それは一種の量子力学における、コペンハーゲン解釈――観測されないものは、存在しない。
観測されなくなった人物は、人物として存在しえない。
それは、ある意味では透明人間のようなものなのかもしれない。
哲学的ゾンビならぬ――哲学的透明人間。
その哲学的透明人間になってしまうという可能性をできるだけ下げるために、僕は彼女と暮らし、明日語は彼女を「代理人」として自分の近くに置いているのだった。
そして、前の夜に風凪が幕上に接触した二つ目の目的というのも、幕上の記憶から消えることを防ぐためであった。
今回の「舌切り雀」に関する事案の終幕に向けた道筋が立っていないうちは、幕上に忘れられるわけにはいかなかった。
それは一種のマナー。彼女として、彼の抱えている問題を解決するまで逃げ出さないという意思表示だった。
一方で、幕上の母親とは、前の日の十六時に会話して以降、接触していない。そのことは、今朝の四時頃には既に、幕上の母親の記憶から凩 風凪という存在は消失していることを意味していた。
だからこそ、今朝の時点で幕上の味覚消失は再発したのだ。
口封じの対象として、風凪に標的が分散していた前日の夜は症状が緩和されていたのに対して、その分散先である風凪を忘れてしまっているのだから、それも当然のことであった。
それは幕上からしてみれば、ぬか喜びもいいところなのだが、しかし、これは必要な工程、あるいは工作だった。
今回の物語の、終幕のためには。
「いえ、間違い電話ではないんです。そして、確かに私は日暮くんの知り合いではあるのですけれど、でも、私がお話したいのは、あなたです」
『私に?』
「ええ。あなたです」
風凪は、息をついて、話を続けた。
「私は……あなたの秘密を知っています。あなたがひた隠しにしている、あなたが、日暮くんも含めた周囲の人間に絶対に知られまいとしている、過去の話を」
『な……何をおっしゃっているのか……私には全然わかりません。嫌がらせなら切りますよ』
「嫌がらせじゃありません。そして、あなたはこの電話を切ることはできないはずです。私が何を知っているのか、知らない限りは夜も眠れない――いえ、この場合は、喉も通らない、と言うのが適切でしょうか」
『…………こんなことを話して、あなたはどうする気なの? 私を脅して、お金でも要求するっていうの?』
「そんなことを……したいんじゃないんです。私は日暮くんも助けたいし、あなたも救われてほしいと、思っている。それが法律とか、モラルとかに反することであっても」
『だ、だから、なんなのよ! あなたは……! あなたは……誰なのよ!』
「私は……私は日暮くんの友達です。出会ってから、まだそんなに時間は経ってないけれど、それにやっぱりまだ彼のことはよく知らないけれど、それでも、彼が進めるように願っている、彼の友達です」
『日暮が……進む……?』
「あなたも、もう、進んでいいんです。いや、あなたももう、子離れしなくちゃいけない」
『子離れ……あなたに、あなたに何が分かるっていうの? 私には……私はどうすればよかったっていうの……?』
「私は……私は、あなたの過去の一部は知っていますが、私には何故あなたがそんな風にしたか、やっぱり分かりません。それでも、あなたが日暮くんを守ろうとして、そして日暮くんを守るためにあなた自身の罪を隠したのだと、そう思います」
幕上の母親の罪。
その内容は口にすることも憚られたが、しかし、それを知っていることを本人に伝えることが必要だった。
何故ならそれを隠すことが幕上の母親が無意識のうちに「舌切り雀」へ託した願いだったのだから。
その罪を秘匿しようとする想いこそが、幕上の味覚を奪うことにつながった。風凪の口を封じようとすることにつながった。
であれば、その秘匿に失敗すれば、その想いは無に帰す。
既に周知となったものに対して、秘匿しようとするエネルギーは発生しない。
秘匿しようとする「歪み」が意味を消失する。
もう、終わらせなくてはならない。そう、風凪は思った。
風凪の脳裏には、いつか聞いた「舌切り雀」の怨嗟のような鳴き声がよぎった。
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