凩の吹かない季節と、君を忘れた歪んだ世界《The biased world without you.》

紺痲 游也

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第一話:人の口に戸は立てられぬ《unconscious》

008

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 風凪が、目の前にいた壮年の女性を幕上の母親であると同定できた理由というのを言語化することは、実はかなり難しいのだが(これもまた、彼女からの伝聞であることの一つの弊害かもしれない)、しかし、幕上の母親が「歪み」を有していると断定できた理由というのは明らかだった。


 それは、道端でたまたま出くわした息子に対して、最初に出る質問が、幕上の食事の内容であったという事実。

 もちろん、母親が息子に対してその日の過ごし方を問う方法の一つとして、あるいは今日の夕食に何を作るかの参考として、食事の内容を聞いたという見方はできないこともない。

 しかし、後者については幕上の母親が提げているエコバッグに既に買い物の形跡が見られたことや、その量が何日か分を買いだめた、というよりは今日必要な分を揃えたという程度であったために、その仮説はやや現実味を欠いていた。
 そして、前者についてはさらに現実味、あるいは人間味を欠いていた。幕上と彼の母親は絶賛喧嘩中なのである。そんな状況で、開口一番に出る言葉が、幕上が食したものの質問なんていうことがあるだろうか。幕上の味覚消失という状況を母親が認識しているのであれば、まだ文脈として分からなくもないが、だがそれは今朝幕上と合流したときに本人が否定している。

 いや、そんな細かい仮説の検証など抜きにしても、直前まで話していた幕上家の食生活に関する状況を思えば、母親の発言はあまりにらしい。

 理由が判然としない菜食主義と、何よりも先に息子の食したものを確認しようとする母親。

 その背景と言動は、符合しすぎるほどに符合していて、そして「人々の平均」から逸しているように思えた。

 もちろん、すべからく菜食主義者は「歪み」を有していると断定すべき、ということではない。
 食生活のこだわりというのは、あくまで嗜好や主義の範疇であって、それが数的にマイノリティであったとしても、必ずしも「歪み」に直結する訳ではない。
 その証拠に母親と同様の食習慣であると考えられる幕上本人に対して、風凪が「歪み」の存在を確信するようなことはなかった。


 重要なのは行動そのものではなく、その裏側にある。精神的な――「歪み」だ。


 「歪み」に向き合うためには、目に見えるものや耳で聞こえるもの、手で触れられるもの、あるいはこの場合、口に入れられるものの中から、人間だけが有する、いわゆるを見抜かなくてはならない。

 それは、理性として頭で考えられることよりももっと奥深く、仏教における用語になぞらえて言うなれば、第六識たる意識ではなく、無意識の領域――第七識たる末那識まなしき
 染汚意ぜんまいとも呼ばれるそれは、人が我に執着するがゆえに生じる汚れであり、迷いの根源であり、そしてあるいは自己の存在を裏付けようとする心の働きでもある。


 風凪は回帰式たる明日語の「代理人」ではあるけれど、「歪み」に関して特別な能力を有している訳ではない。ゆえに、幕上の母親が「歪み」を有していることを直感したとしても、それに対して直接的に何かしらの手段を講じることはできない。
 したがって、風凪がこの場面ですべきことは、幕上の母親が「歪み」を有しているのかを、その言動から汲み取ることであった。



「別に。朝食べて以降、まだ何も口にしていないよ」

 問われた幕上はその質問を特に不思議がることなく、答えた。つまり、母親から食べたものを確認されることに大した違和感を感じていないということだった。いや、もちろんそれ自体はどんな親子だったとしても、あるいは親子じゃなかったとしても、あり得る問答ではあるのだが、問題は脈絡もなく食べたものを聞かれるということに、なんの疑問を抱いていないということだった。
 それは、つまり、こういうコミュニケーションが日常的に存在している可能性があるということだった。


 二人の会話が止まったそのタイミングを見計らって、風凪は、一歩前に出て幕上の横に並んだ。

「あ、あの! はじめまして、私、日暮くんの友達で凩 風凪といいます!」
「ひゃっ! ……あ、あら、ごめんなさい。気づかなくて……。はじめまして、凩さん、日暮の母です」

 虚をつかれたように幕上の母親は返答すると、やや風凪を警戒するような様子を見せながら、すぐに幕上に向き直った。

「日暮、今日は夕飯はどうするの? 昨日は外で食べたみたいだけど」
「それは今から考えるよ。ちょっとこの人と用事があるから」
「用事もいいけど、明日は成人式でしょ? 準備は終わってるの?」
「準備っていったって、別にスーツ着て会場に行けばいいだけだろ。大した準備はないよ」
「そんなこと言って、忘れ物しても知らないわよ。もう成人になるんだから、自分のことは自分でやってよ?」
「だから、言われなくてもやるって」
「そんなんで、よく一人暮らしなんて言い出したもんだわ」
「人前でやめろよ、そんな話、みっともない」


 じわじわと二人の言葉に苛立ちが滲みはじめたのに、風凪は気まずさを感じながらも口を開いた。


「すみません、ちょっと私の用事に付き合ってしまってもらっていて。あまり遅くないうちに日暮くんは帰れるようにしますので」
「あら、ごめんなさい。そんなつもりで言ったんじゃないのよ、凩さん。ただちょっと、日暮がだらしないもんだから、つい、ね」
「ご夕飯は何時くらいですか? それに間に合うようにはしようと思います」
「なんだか気を使わせちゃって悪いわね。そうね、今から帰って、大体七時くらいかしらね」
「分かりました。……ちなみに今日は何を作られるんですか? 私も家に帰って何作ろうか悩んでいて」
「………そうねぇ。そんな大したものは作らないわよ。今日も冷え込んだし、鍋にでもしようかなと思っているところ。ほら、ちょうど白菜とネギも買ってきたのよ」

 そう言って、幕上の母親は肩に提げたエコバックを見せてみせた。
 そんな彼女を見ながら、風凪は慎重に言葉を選ぶ。自然な会話の中で、どうすれば彼女の「歪み」に近づけるのか。



「なるほど、今日は一段と寒いですし――」

 あくまで平然を装い、そして息子の友人として無知で、無邪気な質問を。

「――お出汁だけとって野菜と一緒にとか入れちゃえば簡単にできていいですよね。日暮くんも、一人暮らししたら、鍋なら忙しくてもすぐにできるし、おすすめだよ」



 その言葉を聞いた幕上の母親の雰囲気に、風凪は、一瞬のようなものを感じた。それは表情や言葉にはならないものだったが、しかし、確かに幕上の母親が隠そうとしていることに触れたような感覚があった。

「――そうね。日暮、あんたも一人暮らししたいっていうなら、ちょっとくらい家事を手伝いなさい」

 幕上の母親は、風凪が意図的に含めた、「肉」というキーワードには触れず――もちろん、それはあえて触れなかったということなのだろうが――幕上の方に向き直った。
 一方で、当の幕上は、彼女たちの裏側の思いに気づくことはないまま、再び母親の詰るような口調に辟易した様子で、深いため息をついた。

「はいはい、分かったよ。今日明日は無理だろうから、それ以降でやるって……。ほら、もう行こうぜ」

 幕上は一刻もこの状況から抜け出したいという風に風凪を急かした。

「う、うん。では、ここで失礼します」
「えぇ。日暮、くれぐれも凩さんに失礼のないようにね」
「そんなもんあるかよ。ほら、もう帰った帰った」

 そう言って、幕上は風凪の手を取って、すたすたと歩きだした。それに引っ張られるようにして歩きながら、風凪は後ろ手に幕上の母親を見やった。

 沈みゆく夕日に照らされた彼女の表情は、なんとも感情が読み取れないものだったけれど、しかしその瞳はまっすぐに風凪を見つめていた。

 その瞳は、夕日を映しているはずなのに、それを飲み込むように、暗く、昏く、黒々しかった。
 それはまるで、見え透いたような真似をしてみせた風凪の白々しさを塗りつぶさんとするかのように。



 そのまま、風凪と幕上は歩いていき、ちょうど十六時半頃に、羽根木公園に到着した。
 幕上が前日の昼下がりに訪れたときとは打って変わって、親子連れが遊んでいるような姿はなく、閑散としていた。

 高台のようになっており、豊かな木々が育っている羽根木公園の中を、二人は一通り歩いてまわってみたが、しかし何かそれらしいものが見つかるわけでもなかった。

 朝から一日中屋外を移動し続けていたこともあって、風凪も幕上も脚が棒のようになっていたので、自動販売機で温かい飲み物を買ってベンチで今日の振り返りをすることにした。


「結局、なんにも見つからなかったな。あの、明日語とかいうおっさんの言う通りに、俺の行動を終点から始点まで辿ってはみたけれど、結果だけを見れば、あんたを連れまわして、散歩をした形にしかなってないぜ」

 幕上はコーヒー缶で手を温めながら言ったが、風凪は口を閉ざしたままだった。


「なんだよ。なんか気づいたことでもあったのか?」
「……うーん、まだ何か証拠めいたものがあるわけじゃないんだけど……」
「なんだよ、歯切れ悪いな。何かあるなら、はっきり言えよ」

 もちろん、この時風凪が考えていたのは、幕上の母親のこと――そして、彼女が有しているかもしれない「歪み」のことだった。
 しかし、それを幕上本人にこの段階で話すことが、本当に正しいことなのか判断できなかった。実の母親が息子から味覚を奪った――「舌切り雀」を生み出した、なんて仮説を、具体的な証拠がないままに提示して、それを幕上がどのように受け取るのか、予想できなかった。
 それに、風凪が幕上親子の会話に感じた違和感をできるだけ丁寧に伝えたところで、それのどこがおかしいのかを幕上が理解できるように思えなかった。だって、それを当たり前だと感じていること自体が、風凪にとっては気味悪く思っているのだから。

 だから、その仮説を提示する前に、幕上に母親のことをもう少し聞いてみることにした。


「日暮くん、改めて聞くけれど、どうしてお母さんはお肉を食べようとしないんだと思う?」
「なんか、唐突だな……。だからそれはよく知らないって言ったろ? それが今回の件とどう関係あるんだ? 別に肉を食べなかったからって、味覚障害になるってわけじゃないだろ?」
「そうなんだけどさ……。もしかしたら、そういう些細なこともヒントになるかもって……。ほら、例えば、日暮くんがお肉を食べようとしたらお母さんが嫌がったって言ってたじゃない? その時何か理由を言ってたりしないの?」
「それも随分前だし…………何を言われたかなんて全然覚えてねぇよ」
「随分前って、具体的にどれくらい前なの?」
「どうだったかな……少なくとも、父親はいなかったから一歳よりは後だと思うけど」


 父親。


 それは、幕上に風凪が初めて出会ったときに、あえて深く聞かなかった話題だった。もちろん初対面でそんなことを聞くことは失礼にもほどがあるし、別にこのご時世、苗字が変わる人間などごまんといる。

 だが、この「舌切り雀」に関する一連の事象を、幕上「親子」に起きた事象だと捉えるなら、現在における幕上「親子」だけでなく、過去における幕上「親子」にまで話を遡るということは一つの方策だといえるかもしれなかった。いや、もっと正確に言うならば。


 幕上 日暮が 日暮になる前の話。
 つまり、母親と父親がまだ一緒にいたときの話。


 だが、それを幕上に聞くことはできない。というか、それは意味がないことだった。
 父親がいなくなったのが幕上が一歳の頃なのだとすると、まだ物心つく前で、母親と父親の間、あるいは幕上本人も含めた三人に何が起きたのかを知らない可能性が高いのだ。

 であれば、風凪がアプローチすべき相手は、幕上本人ではなく、幕上の母親なのかもしれなかった。
 そして、それに幕上を巻き込むのは得策ではない。なぜなら、下手に刺激をすれば、「舌切り雀」がどう幕上を襲うか予想もつかないからだった。



 そんなことを思いながら、風凪は幕上はしばらく会話したのち、一度解散してから改めて夜中にまた合流することにした。
 幕上を母親との約束通り帰して、風凪としてはその間に明日語から助言をもらおうという算段だった。



 しかし、彼女はこのあとすぐに、思い知ることになる――他人のことだけではなく、自身の身も案ずるべきだったのだと。
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