凩の吹かない季節と、君を忘れた歪んだ世界《The biased world without you.》

紺痲 游也

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第一話:人の口に戸は立てられぬ《unconscious》

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「それで……どうなったの?」

 幕上の語りがひと段落して、一拍置いたところで、風凪はずっと閉じていた口を開き、問うた。

「一つしか目がない雀の群れに襲われて、そのまま気を失っていた。気づいた時には橋の上で倒れてたな。それで、最初は悪い夢でも見たのかと半信半疑で、とにかく家に戻る前に腹に何か入れておこうと思ったんだ。やっぱりまだ母親に会うのは気が進まなかったからな。だからあのカレー屋に行って、あんたに出くわしたってわけだ。後のことはあんたも見てたんだし、知ってるだろ」

 
 風凪は幕上の身体を観察しながら考える。

 というのも、それだけの群体に襲われたにしては、彼の肉体や衣類にそれらしい痕跡、傷や汚れは認められなかったのだ。
 それは彼の話が空想の作り話だと疑っているわけではなく(こういう時に疑うことがないから彼女なのだけれど)、現在の彼の身体に生じている現象――具体的に言えば、味覚の消失が、その単眼の雀の群体による襲撃とどのように結びついて、あるいは結びついていないのか、を考える必要があるということだった。
 もしも、彼が今置かれている状況を生み出しているものが、彼女の想定しているの類なのだとしたら、それがどういう見た目であったのか、だけに囚われるのではなく、それが、そしてそれにどんながあるのかを考えなくてはならないのだと、彼女には分かっていた。

「その雀はどうして襲ってきたのだと思う?」
「そんなこと俺に分かるわけないだろう? 化け物の考えていることなんて分かるわけもない」
「まぁ、それはそうなのだけれど……。でも、何か目的めいたものはなかったのかな? 何かを守ろうとしていたとか、何かを奪おうとしていたとか……」
「うーん……そう言われてもなぁ……」

 幕上は腕を組んで、目を閉じて、首を傾げるようにして、思いを巡らせた。
 そして、数十秒後、何かに思い当たったかのように顔を上げる。

「あ。」
「何? 何か思い出したの?」
「いや、はっきりとは覚えてないんだけど、でもその雀の群れはちょうど顔を目掛けて突っ込んできたんだよ」
「顔……頭じゃなくて?」
「そう、顔面。もっというと、そうだな、口元を狙っていた気がする。もしかしたら口の中にも入られていたかもしれない」

 小型とはいえ、いや、小型こそかもしれないが、鳥類が口の中に飛び込んでくるというのは、想像するだに不気味だ、と風凪は思った。

「口の中に……というのは、そうね、なんだか意図のようなものは感じるね。ましてや、その直後に味覚を失っているというのだから、口に関するエピソードとして捉えない方が、この場合は不自然かもしれない」
「じゃあ何か? あの雀の群れが俺の舌の、味を感じる器官、みたいなものを壊したってことになるのか?」
「まだ断言はできないけれど、その雀が味覚を奪った、というのはそれなりにあり得る仮説だと思う。でも、それが物理的な外傷なのかと言われると、そうでもないかもしれない――だってほら、実際に出血とかはしてないわけだし」
「まぁそれはそうなんだけどさ……でも、傷をつける以外だと、毒とか、そういう話か?」
「それも分からない。日暮くん、おそらく私たちが今向き合っているものに対しては、いわゆる常識のようなものは通じない。ただそれは、そういう存在だから、そういう風に作用するもの――なんだって」

 風凪は誰かの言葉――まぁ、実のところを言ってしまえば、彼女を代理人として使役している明日語の言葉なのだが――を思い出しながら、自分に言い聞かせるようにして言った。

「そういう存在だから、そういう風に作用するもの……ね」
「だから、それがどんな仕組みで、あなたの味覚を奪ったのか、を考えるのは一旦後回しにしましょう。とにかく、概念として、あなたの味覚を奪った……この場合は雀だから、舌を切ったというのが自然なのかしら……そう、その『舌切り雀』が、どういう理由で、どういう事情でそうしたのか、を考えないと」
「ははっ。人の舌を切る『舌切り雀』、ねぇ。オリジナルはそんな話じゃなかった気がするけど。まぁ、皮肉って意味では洒落が効いてるとは思うぜ」

 自嘲気味に笑いながら、幕上は言う。

「しかし、俺自身、そんなに人に好かれるとは思ってねぇけど、だからって舌を切られるほど恨まれるような覚えはねぇなぁ。ましてやその『舌切り雀』に出会したのは、その時が初めてなんだぜ? そもそも、あんな化け物に意思っつうか、知性なんてものがあるのか?」
「あぁ、ごめん、私の言い方が悪かったかな。どちらかといえば、その存在自体に意思があるというよりも、それを生み出した人がどういう意識を持っているか、ということなんだけど」
「それを生み出した……人? あの化け物は人が作ってるのか?」

 幕上と風凪の会話が噛み合っていないのは、風凪ががどういうものなのか、という根本の説明を失念していることに起因しているのだが、そして、風凪自身もこのあたりのタイミングで自身の説明に抜けがあることを自覚し始めていたのだが、しかし、それをこの時に話すことはできなかった。


 ジリリリッ! ジリリリッ!


 耳障りなベル音――実際には、風凪が持っているスマートフォンから鳴っている着信音だったが――がけたたましく鳴った。

「わ、わ!」

 風凪は、慌てて危うく落としそうになりながらポケットの中からスマートフォンを取り出すと、画面の文字とそこに表示された時間――午後九時四十九分という数字を見て、しまった、という顔を浮かべた。そして恐る恐る通話ボタンを押して、スマートフォンを耳に押し当てる。

「もしもし……はい……はい…………えっと、九時四……はい……ごめんなさい…………えっと、もう駅には着いてて…………実はその……あ、はい…………家でちゃんと説明します…………はい、急いで帰ります…………はい、それじゃあ、あとで……」

 電話の向こうの人物に対して見えもしないのに頭を下げながら話す風凪を不思議そうにしている幕上を横目に見ながら、風凪はスマートフォンの通話ボタンを切った。

「日暮くん、ごめん…………。私どうしても帰らなきゃいけなくて……」
「みたいだな。居候って言ってたか? 随分過保護な家主なんだな」
「いや、まぁ、それは仕方ないことというか、なんというか……」
「別にいいよ。女に送ってもらわないと帰れないわけじゃないしな」
「……さっきは悲鳴上げてたけど」
「う、うるせぇ! そりゃいきなり腕つかまれりゃ、びっくりもするっての!」
「まぁ、そういうことにしておいてあげるよ。それで、話の続きは明日でもいいかな?」
「この――はぁ。わかったよ。明日は特に予定は入れてねぇよ」
「であれば、またここで待ち合わせでいいかな? 朝の九時に」
「いいけど……随分早いな。俺あんまり早起きしたくないんだけど」

 幕上がぼりぼりと頭を掻きながらそう言うと、風凪は突然にまじめな顔になって幕上に向き直り、そして、幕上の顔を両手で挟むようにしてその目をまっすぐ見つめ、こう言った。

「だめ。絶対に九時にはここに来て。絶対に――遅れないで」

 その表情の真剣さ――それは、この短時間の会話の中でも異質であったと、僕は想像するが――に幕上は少し気圧されたような様子で、うなずいた。

「わ、わかった。遅れない」
「うん、よろしくね……って、やばっ! もう帰らないと! じゃあ明日の九時この場所で!」
「お、おう……」

 また明日、という幕上の言葉を言い切る前に、風凪は駆けだした。

 それを見送る幕上が、そのあと、どのような顔で彼女を見送ったかまでは、そもそもここまでの語りが、風凪による伝聞をもとに、僕が少しの憶測と言いがかりと決めつけで語っているものであるが故に、正確には知りえないが、だがしかし、僕が幕上の立場であったとするならば、きっとこんな風に呟いたと思う。

「なんだか……嵐みたいなやつだったな」


 *****


 幕上の推察通りというか、もう言われた通りではあるのだが、幕上と風凪の会話を中断させた着信というのは、バーでのアルバイトの仕事を終えて自宅に戻り、「仕事」から午後九時半には家に帰っておくと約束をしていたはずの風凪が不在にしていることに気づいた、僕による着信であった。

「ご、ごめんなさい! 今帰りま……いたたたた! 痛い痛い痛い! 某日曜アニメの破天荒五歳児の母親みたいに頭を拳で締め上げないで!」


 家に飛び込むように入ってきた風凪に対して、息つく間もなくギリギリと頭を締め上げた拳を離しながら、僕はため息をつき、そんなに愉快な髪形はしていない、と訂正しておいた。

『おかえり、心配したよ』

 そして、とりあえず間に合ったからいいにしておくけれど何があったかはちゃんと説明してくれよ、と付け足した。

 勘違いのないように言っておくと、別に僕は風凪の保護者面をしたいわけでも、ましてや彼氏面をしたいわけでもない。ただ、彼女にとって必要だから、時間に対して厳密に連絡をし、そして彼女の頭を締め上げたのだ。
 こうやって文面に起こしてしまうと、いやはや、なんだか自覚のないモラハラ彼氏のような言い草になってしまうのだけれど、しかし、僕としてはそのように自分の行動の理由を説明するほかないのだ。

 いや、正確に言えば、凩 風凪という人物が有している体質――あるいは、失っている素質なのかもしれなかったが――を説明すれば、僕がどうしてこのような行動をとるのか、もう少しクリアに説明することができるのかもしれないが、だがしかし、物語の主要な登場人物である幕上が観測しえないこのシーンを語る中で、位置外にいる語り手たる僕が、彼女の体質について開示するというのは、なんだかミステリー小説で探偵役を差し置いてナレーターが勝手に手がかりを発見するかのような不自然さ、いうなれば、そう、歪みのようなものを生んでしまうような気がするのである。

 だから、せめてもの妥協点として、その体質によって生じるについて、ここで明記しておくことにしておこう。



 十二時間。七百二十分。四万三千二百秒。



 それは、僕と風凪が離れることが許されている時間。
 そのが経過する前に、僕たちはお互いの身体に触れなければならない。
 それが、僕たちに課されたルールだった。


 ――いや、それはいくらなんでも僕にとって都合が良すぎる解釈かもしれない。少なくとも、そんなことを言えば、明日語はその表現を訂正するように言うはずだ。


 それはルールだ、と言うべきだろう、と。


 今さら何を言ったところで、変えられない過去の話であるし、なかったことになればいいのにと願うことさえおこがましい。なんにしても、僕はそのというルールを順守するように動く義務があるし、彼女がルールから外れないように、たとい彼女にとっては邪魔な存在になったとしても、そう仕向ける責務がある。

 正確にいえば、幕上も含めてそのの適応する範囲内ではあるのだが――そして実際に、それ故に風凪はあの北沢川緑道の真ん中において、幕上の顔に触れた状態で、日曜日の午前九時に約束を取り付けたわけなのだが――それはルールというよりもマナーに近いのだと、僕は思う。

 守らなくてはいけないルールと、守ったほうがいいマナー。
 そこには、やはり、確かな違いがある。
 そんなことをのたまうこともまた、思い上がりなのかもしれないが。

 だって、彼女が僕を選んだわけでもなければ、僕が彼女を選んだわけでもないのだから。
 ただ、あの時に居合わせたのが僕で、僕にはそれ以上何もできなかっただけなのだから。

 そんなことを思いながら、右手に着けている動かなくなった時計の針を、左手に着けた時計(こちらはきちんとした時刻を指すソーラー式の電波時計だ、僕にしては珍しく気に入っている)を見ながら調整する。最後に彼女と触れた時刻を、動かない時計に記録する。そして、左手の時計が右手の時計と同じ形になる前に風凪と接触する。それが、次のを忘れないようにするために僕が行っている習慣だった。

 病的だとは思うけれど。そして実際にある種の病人なのだろう、僕は。


「うーん、とりあえず、説明するのはシャワー浴びてからでもいい?」

 僕の憂悶など知らぬように、彼女は言った。
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