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第一話:人の口に戸は立てられぬ《unconscious》
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風凪が下北沢駅から小田急線で5分程度乗ったところにある豪徳寺駅の改札を出たのは、一月十二日土曜日、午後八時二十七分のことだった。(時間の表記についてやや細かすぎる部分があるかもしれない。しかし時間というのは重要なものだ。特に僕と彼女にとっては。)
年末年始特有のどことなく忙しない街の雰囲気はもう収まり、いつも通りの、ルーティンとしての忙しなさが街に戻っている頃だった。駅前から左右に続く商店街に並ぶ店々も、出していた正月飾りを既にしまっており、休業の貼り紙もなくなってきている。
一方で、学校に通っているわけでも、企業に勤めているわけでも、ましてや自分で事業を起こしているわけでもない彼女からしてみれば、そうした世の中の動きはあまり自身とは関係ないものだったかもしれない。
かといって彼女は別に家に引きこもっているわけでもなく、むしろ何かと出かけるのが好きな性分なわけだが、その日に半日出歩いていたのは、「代理人」としての仕事(とはいっても、何か給与のようなものが明日語から支払われているわけでもなく、それを仕事と言っていいのかは悩むところだ。そして、彼女の生活費というのは僕がみることになっているのだというのだから、なんとも理不尽な話だ、とも思う。)で世田谷区中を歩き回り、下北沢駅から電車に乗って帰って来た、ということだったらしい。
明日語から依頼された「仕事」というのは、「逆さ絵馬」なるものを道中、目立たないところに置いて回るというものだったらしい。
「逆さ絵馬」は普通の絵馬と天地が逆になった状態で吊るし紐が結ばれているものなのだが、それを道中ランダムに置いて回るというのは些か気が滅入る話ではある。しかも、別にどこどこに置いて欲しいという指定があるわけでもなく、かといって預かった「逆さ絵馬」をまとめて置いてしまってはいけないということで、なんだか目的があるのかないのか分からないような仕事だとは思う。
もちろん明日語がそうするようにと言った以上、少なくとも彼にとっては意味のあることだったのだろうが、その辺りの目的意識が説明されたわけでもなかったらしく、風凪自身も動き回った以上に疲れた、という話だった。
そういう、「自分だけがわかっている」感じが明日語に対して僕がどことなく苦手意識を感じているところではあるのだが、風凪としてはそれを断るというのは難しい立場にあるのだった。
そんな一日を過ごした彼女が豪徳寺駅の改札を出てすぐに置いてある大きめの招き猫の像(ちなみに豪徳寺は招き猫発祥の地だ。縁を呼ぶ猫であるらしく、小判は持っておらず、縁を活かせるかは本人次第という、なんともシビアな言い伝えである)をぼんやりと眺めながら考えていたのは夕食のことだった。
油断をすれば音が鳴ってしまいそうな胃を抱えながら、右に曲がってカレーを食べに行くか、左に曲がって自宅でカレーを作るか、数十秒悩んだ末に彼女は右に向かって歩き出した。
ちなみになぜ、その二択だったのかと、後から問えば、下北沢で有名なカレー屋に寄って帰ろうとしたが、あまりに並んだ行列を見て諦めたからだということだった。
なんだか分かるような分からないような理由だった。
歩き出した、と言ってもほんの二、三分ほどで目的のカレー屋に到着し、ドアを開けてテーブルに座ると、巨躯の外国人男性が風凪を迎える。
「イラッシャイメセ」
にこやかに、しかし、微妙に間違っている挨拶をしながら、メニューを風凪の前においた。(この辺りの描写は多少僕の想像も混じっているかもしれないが、趣意としては大きく違いは生じないはずなので、ご勘弁願いたい)
「オ客サンハ、一眼サンデスカ? 一眼サンニハ、キーマカレー、オススメ」
おそらく、初めて来た客という意味で「一見さん」と言いたかったのだろうが、「一眼さん」ではなんだかカメラレンズのお化けみたいだ、と彼女は思った。
それに実際は初めてどころか、数十回単位では来ているはずなのだが、彼女としては正直否定しようがしまいが、大きな変化はないし、ましてや疲労のあまり何か考えて返答するのも億劫だったので、じゃあそれで、と返すのだった。
銅製のコップ(僕はあまり好きではないのだけど)に注がれた水をチビチビと飲みながら、カレーが来るのを待つ。
ちなみに、その頃僕が何をしていたかといえば、同じ駅にあるバーでアルバイトをしているところだった。
訳あって風凪を保護する立場にある僕は、それなりの収入源を必要としており、幸いにも――これも結局は明日語による斡旋ではあるのだが――働き口として人手が慢性的に足りていないバーを紹介してもらったのだ。人手が足りない分、というか、オーナー以外には僕しか店員がいないという状況ゆえに、僕が空いている日には基本シフトに入ることになるので、余裕で、とは言えないまでもなんとか風凪と自身の食いぶちをつないでいた。
実のところ、その日に風凪の「仕事」に付き合うという選択肢も、あったにはあった(というか、実際風凪からも「仕事」に付き合ってほしい、という申し出はあった)のだが、先ほど述べたように今ひとつ要領を得ない内容に対して億劫に思う気持ちと、明日語からの「君が手伝うと何かと台無しになる」というありがたいお言葉を踏まえて、この日バイトのシフトに入ることによって得られる収入と天秤にかけた結果、彼女と別行動をとることになったのだった。
でも、僕はその億劫な「仕事」に付き添うべきだったかもしれない。「仕事」には間に合わずとも、労いの意味を込めて夕食を自宅で振る舞うだけでもよかったかもしれない。
とにかく、その日その場所に彼女を一人で行かせるべきではなかったのだ。
なぜなら、そこに、彼は――幕上 日暮は、来たのだから。
幕上は風凪の座っているテーブルの向かいの席に相席する形で座った。
「あの……何かご用ですか?」
風凪としてはその見ず知らずの青年がなぜ向かいに座ったのか理解できず、そう尋ねた。
一方の幕上も、風凪が声を発したことで目の前に先客が座っていたことに気づいたような様子で、ガタガタッと音を立てて立ち上がった。
「わ、わ、すんません! 座っているのに気づかなくて!」
そう言って別の席に移動する彼の顔面は蒼白で、今にも倒れそうだったという。
それは座ったテーブルの目の前に人がいたことに驚いたのも原因の一つではあったろうが、別の席に座って風凪が話しかけられたのと同じ店員と会話している時も、とてもではないが普通とは言えない様子だった――まるで、化け物にでも行き遭ったかのような。
そんな彼から、風凪は意識を逸らすことができなくなった。
一足先に風凪がオーダーしたチキンカレーとナンが彼女の前に置かれ、それを機械的に口に運びながら、幕上から目を逸らさない。
あれほどカレーに執心していたにも関わらず、そのカレーが美味しかったのかどうかも、あまり覚えていないくらい、彼女には彼が気にかかった。
もちろんだが、それは別に彼の容姿が気に入ったとか、そういう話ではない、というのは彼女の名誉のためにも言っておかなければならない。
ただ彼女には予感めいたものがあった。
彼には何かが起きていると。
それがなんなのかは分からないが、何か、日常から逸脱した何かが、彼の身に襲いかかったのだと。
そしてそれは、彼の注文したカレー(おそらくベジタリアン向けのメニュー)が運ばれてきたことを契機に片鱗を見せた。
温かい食事を目にしたことで、少し安堵したかのような様子を見せたあと、彼はカレーを口に運んだ。
しかし、その直後に彼の表情は目に見えて強張ったのだ。それは、ただカレーが口に合わなかった、などという日常的な展開を思わせるものではなかった。
そして、何かを確かめるように、何かに縋るように、彼は次々とカレーを口に運び、時々首を傾げ、うな垂れた。
ガツガツ、と。
ガツガツガツガツ、と。
ガツガツガツガツガツガツガツガツ、と。
ガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツ、と。
ガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツ、と。
ガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツ、と。
ガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツ、と。
とてもではないが、食事に喜びを感じているようには見えないその食事風景に、風凪は一種の恐怖のようなものが背中を伝うのを感じた。
食べているのは、カレーのはずなのに、本来は口にしてはいけないものを貪り食らっているかのような。その姿は餓鬼道に落ちた亡者のようにも思えて、湯気立つカレーは、餓鬼が手にした食物は炎に変わってしまって食すことができないという話を思い出させた。
しかし、そのおぞましい食事風景は、彼が飢餓に苦しんでいたわけではなかった。それは彼が最初の一口で見せた表情からも明らかだった。もし、そうであったのなら、風凪も「相当に腹が減っていたのだろう」で済ますことができたはずだ。幕上 日暮という青年をスルーすることができたはずだ。
そして、七割ほどを胃に収めた後で(彼が頼んだのは大盛りだったので、それでも相当な量だった。ちなみに風凪はあまりの光景にほとんど食事が進んでいなかった。)、風凪と幕上に食事を運び終わってテレビを眺めているカタコトの店員に向かって、震えた声で言った。
「あ、あの、このカレー、味が全くしないんすけど」
そのセリフは文字面だけで見てしまえば、ただのクレームのようだったけれど、しかし、少なくとも風凪には、何かの間違いだと言って欲しい、という懇願の言葉のように思えた。
その言葉に対して、風凪とは違って彼に注意を払っているわけでもない店員は眉をひそめて「ソンナハズハナイヨ」と言い放った後、小さな皿に幕上の注文したカレーを少量とり、味見をした。
「コレ、チャント味スルヨ、嘘ツカナイデヨ! 舌切リ千万、嘘ツイタラ針千本飲セルヨ!」
店員の言葉に、彼の懇願が滲む表情はみるみる絶望に侵されていった。
だってそれは、おかしくなっているのが自分の身体なのだと確定してしまった、ということを意味していたのだから。
本来は誰かと約束するときに使う「指切りげんまん」を間違えて覚えたセリフだったのだろうが、この状況に「舌切り」という表現は皮肉にもふさわしいようにも思えた。
公平を期するのであれば、さらに第三者がそのカレーを食べて味がするのかどうかを確認しなければ、多数決は成立しえないのだが、だが、幕上本人も最初の一口で既に気づいていたのだろう。
自身が――味覚を消失している、ということに。
その後、幕上をクレーマーだと思っている店員と自身の体に生じた異常に動揺している幕上との間で、言い合いが繰り広げられ(その会話の全てを具体的に描写することはあえてしないが)、最終的には幕上としてもその場にいることがいたたまれなくなったのか、完食することなく、会計を済ませて退店する流れとなった。
おぼつかない足取りで店を後にする幕上を、最初はにこやかだった店員は迷惑そうな顔で見送る。
そしてどこかの外国語で(おそらく彼の母国語だろう)ぶつぶつと独り言を言いながら厨房の中に入っていった。
そして、そんな一部始終を見ていた風凪だったが、彼女が次に取った行動は――僕がこの時に一緒にいたとしたら確実に止めていたのだが――彼を追いかける、だった。
年末年始特有のどことなく忙しない街の雰囲気はもう収まり、いつも通りの、ルーティンとしての忙しなさが街に戻っている頃だった。駅前から左右に続く商店街に並ぶ店々も、出していた正月飾りを既にしまっており、休業の貼り紙もなくなってきている。
一方で、学校に通っているわけでも、企業に勤めているわけでも、ましてや自分で事業を起こしているわけでもない彼女からしてみれば、そうした世の中の動きはあまり自身とは関係ないものだったかもしれない。
かといって彼女は別に家に引きこもっているわけでもなく、むしろ何かと出かけるのが好きな性分なわけだが、その日に半日出歩いていたのは、「代理人」としての仕事(とはいっても、何か給与のようなものが明日語から支払われているわけでもなく、それを仕事と言っていいのかは悩むところだ。そして、彼女の生活費というのは僕がみることになっているのだというのだから、なんとも理不尽な話だ、とも思う。)で世田谷区中を歩き回り、下北沢駅から電車に乗って帰って来た、ということだったらしい。
明日語から依頼された「仕事」というのは、「逆さ絵馬」なるものを道中、目立たないところに置いて回るというものだったらしい。
「逆さ絵馬」は普通の絵馬と天地が逆になった状態で吊るし紐が結ばれているものなのだが、それを道中ランダムに置いて回るというのは些か気が滅入る話ではある。しかも、別にどこどこに置いて欲しいという指定があるわけでもなく、かといって預かった「逆さ絵馬」をまとめて置いてしまってはいけないということで、なんだか目的があるのかないのか分からないような仕事だとは思う。
もちろん明日語がそうするようにと言った以上、少なくとも彼にとっては意味のあることだったのだろうが、その辺りの目的意識が説明されたわけでもなかったらしく、風凪自身も動き回った以上に疲れた、という話だった。
そういう、「自分だけがわかっている」感じが明日語に対して僕がどことなく苦手意識を感じているところではあるのだが、風凪としてはそれを断るというのは難しい立場にあるのだった。
そんな一日を過ごした彼女が豪徳寺駅の改札を出てすぐに置いてある大きめの招き猫の像(ちなみに豪徳寺は招き猫発祥の地だ。縁を呼ぶ猫であるらしく、小判は持っておらず、縁を活かせるかは本人次第という、なんともシビアな言い伝えである)をぼんやりと眺めながら考えていたのは夕食のことだった。
油断をすれば音が鳴ってしまいそうな胃を抱えながら、右に曲がってカレーを食べに行くか、左に曲がって自宅でカレーを作るか、数十秒悩んだ末に彼女は右に向かって歩き出した。
ちなみになぜ、その二択だったのかと、後から問えば、下北沢で有名なカレー屋に寄って帰ろうとしたが、あまりに並んだ行列を見て諦めたからだということだった。
なんだか分かるような分からないような理由だった。
歩き出した、と言ってもほんの二、三分ほどで目的のカレー屋に到着し、ドアを開けてテーブルに座ると、巨躯の外国人男性が風凪を迎える。
「イラッシャイメセ」
にこやかに、しかし、微妙に間違っている挨拶をしながら、メニューを風凪の前においた。(この辺りの描写は多少僕の想像も混じっているかもしれないが、趣意としては大きく違いは生じないはずなので、ご勘弁願いたい)
「オ客サンハ、一眼サンデスカ? 一眼サンニハ、キーマカレー、オススメ」
おそらく、初めて来た客という意味で「一見さん」と言いたかったのだろうが、「一眼さん」ではなんだかカメラレンズのお化けみたいだ、と彼女は思った。
それに実際は初めてどころか、数十回単位では来ているはずなのだが、彼女としては正直否定しようがしまいが、大きな変化はないし、ましてや疲労のあまり何か考えて返答するのも億劫だったので、じゃあそれで、と返すのだった。
銅製のコップ(僕はあまり好きではないのだけど)に注がれた水をチビチビと飲みながら、カレーが来るのを待つ。
ちなみに、その頃僕が何をしていたかといえば、同じ駅にあるバーでアルバイトをしているところだった。
訳あって風凪を保護する立場にある僕は、それなりの収入源を必要としており、幸いにも――これも結局は明日語による斡旋ではあるのだが――働き口として人手が慢性的に足りていないバーを紹介してもらったのだ。人手が足りない分、というか、オーナー以外には僕しか店員がいないという状況ゆえに、僕が空いている日には基本シフトに入ることになるので、余裕で、とは言えないまでもなんとか風凪と自身の食いぶちをつないでいた。
実のところ、その日に風凪の「仕事」に付き合うという選択肢も、あったにはあった(というか、実際風凪からも「仕事」に付き合ってほしい、という申し出はあった)のだが、先ほど述べたように今ひとつ要領を得ない内容に対して億劫に思う気持ちと、明日語からの「君が手伝うと何かと台無しになる」というありがたいお言葉を踏まえて、この日バイトのシフトに入ることによって得られる収入と天秤にかけた結果、彼女と別行動をとることになったのだった。
でも、僕はその億劫な「仕事」に付き添うべきだったかもしれない。「仕事」には間に合わずとも、労いの意味を込めて夕食を自宅で振る舞うだけでもよかったかもしれない。
とにかく、その日その場所に彼女を一人で行かせるべきではなかったのだ。
なぜなら、そこに、彼は――幕上 日暮は、来たのだから。
幕上は風凪の座っているテーブルの向かいの席に相席する形で座った。
「あの……何かご用ですか?」
風凪としてはその見ず知らずの青年がなぜ向かいに座ったのか理解できず、そう尋ねた。
一方の幕上も、風凪が声を発したことで目の前に先客が座っていたことに気づいたような様子で、ガタガタッと音を立てて立ち上がった。
「わ、わ、すんません! 座っているのに気づかなくて!」
そう言って別の席に移動する彼の顔面は蒼白で、今にも倒れそうだったという。
それは座ったテーブルの目の前に人がいたことに驚いたのも原因の一つではあったろうが、別の席に座って風凪が話しかけられたのと同じ店員と会話している時も、とてもではないが普通とは言えない様子だった――まるで、化け物にでも行き遭ったかのような。
そんな彼から、風凪は意識を逸らすことができなくなった。
一足先に風凪がオーダーしたチキンカレーとナンが彼女の前に置かれ、それを機械的に口に運びながら、幕上から目を逸らさない。
あれほどカレーに執心していたにも関わらず、そのカレーが美味しかったのかどうかも、あまり覚えていないくらい、彼女には彼が気にかかった。
もちろんだが、それは別に彼の容姿が気に入ったとか、そういう話ではない、というのは彼女の名誉のためにも言っておかなければならない。
ただ彼女には予感めいたものがあった。
彼には何かが起きていると。
それがなんなのかは分からないが、何か、日常から逸脱した何かが、彼の身に襲いかかったのだと。
そしてそれは、彼の注文したカレー(おそらくベジタリアン向けのメニュー)が運ばれてきたことを契機に片鱗を見せた。
温かい食事を目にしたことで、少し安堵したかのような様子を見せたあと、彼はカレーを口に運んだ。
しかし、その直後に彼の表情は目に見えて強張ったのだ。それは、ただカレーが口に合わなかった、などという日常的な展開を思わせるものではなかった。
そして、何かを確かめるように、何かに縋るように、彼は次々とカレーを口に運び、時々首を傾げ、うな垂れた。
ガツガツ、と。
ガツガツガツガツ、と。
ガツガツガツガツガツガツガツガツ、と。
ガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツ、と。
ガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツ、と。
ガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツ、と。
ガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツガツ、と。
とてもではないが、食事に喜びを感じているようには見えないその食事風景に、風凪は一種の恐怖のようなものが背中を伝うのを感じた。
食べているのは、カレーのはずなのに、本来は口にしてはいけないものを貪り食らっているかのような。その姿は餓鬼道に落ちた亡者のようにも思えて、湯気立つカレーは、餓鬼が手にした食物は炎に変わってしまって食すことができないという話を思い出させた。
しかし、そのおぞましい食事風景は、彼が飢餓に苦しんでいたわけではなかった。それは彼が最初の一口で見せた表情からも明らかだった。もし、そうであったのなら、風凪も「相当に腹が減っていたのだろう」で済ますことができたはずだ。幕上 日暮という青年をスルーすることができたはずだ。
そして、七割ほどを胃に収めた後で(彼が頼んだのは大盛りだったので、それでも相当な量だった。ちなみに風凪はあまりの光景にほとんど食事が進んでいなかった。)、風凪と幕上に食事を運び終わってテレビを眺めているカタコトの店員に向かって、震えた声で言った。
「あ、あの、このカレー、味が全くしないんすけど」
そのセリフは文字面だけで見てしまえば、ただのクレームのようだったけれど、しかし、少なくとも風凪には、何かの間違いだと言って欲しい、という懇願の言葉のように思えた。
その言葉に対して、風凪とは違って彼に注意を払っているわけでもない店員は眉をひそめて「ソンナハズハナイヨ」と言い放った後、小さな皿に幕上の注文したカレーを少量とり、味見をした。
「コレ、チャント味スルヨ、嘘ツカナイデヨ! 舌切リ千万、嘘ツイタラ針千本飲セルヨ!」
店員の言葉に、彼の懇願が滲む表情はみるみる絶望に侵されていった。
だってそれは、おかしくなっているのが自分の身体なのだと確定してしまった、ということを意味していたのだから。
本来は誰かと約束するときに使う「指切りげんまん」を間違えて覚えたセリフだったのだろうが、この状況に「舌切り」という表現は皮肉にもふさわしいようにも思えた。
公平を期するのであれば、さらに第三者がそのカレーを食べて味がするのかどうかを確認しなければ、多数決は成立しえないのだが、だが、幕上本人も最初の一口で既に気づいていたのだろう。
自身が――味覚を消失している、ということに。
その後、幕上をクレーマーだと思っている店員と自身の体に生じた異常に動揺している幕上との間で、言い合いが繰り広げられ(その会話の全てを具体的に描写することはあえてしないが)、最終的には幕上としてもその場にいることがいたたまれなくなったのか、完食することなく、会計を済ませて退店する流れとなった。
おぼつかない足取りで店を後にする幕上を、最初はにこやかだった店員は迷惑そうな顔で見送る。
そしてどこかの外国語で(おそらく彼の母国語だろう)ぶつぶつと独り言を言いながら厨房の中に入っていった。
そして、そんな一部始終を見ていた風凪だったが、彼女が次に取った行動は――僕がこの時に一緒にいたとしたら確実に止めていたのだが――彼を追いかける、だった。
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