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猪瀬和人の盗み聞き
しおりを挟む重苦しい雰囲気がカフェの一角を包む。
春のうららかな空気に似合わないそれは、後ろの席から漂ってくる。触れない方がないいと分かっていながらも好奇心に負け、ちらりと横目で盗み見た。
そこにいたのは、向かい合って座る一組の男女。様子を見るに、恐らく恋人同士だろう。
少なくとも、今はまだ。
「へー、こんなカフェあったんだ!おしゃれでいいね、美味しいし!もっと早く教えてくれよ!」
不自然な程に喋りながら、店の至る所を褒めている男。
コーヒーの豆からサンドイッチの焼き目、しまいには観葉植物まで褒めている。
対して、向かいに座る女性は黙ったままだ。興味なさげにグラスの氷をストローで突いている。
「モーニング食べに行こうって、私何回も誘ったけどね」
静かな、しかしはっきりと響く声。言葉を失った男に、漸くストローを手放し顔を上げた。
「あなたは毎回『外行くのめんどくさい。簡単なのでいいから作って』って返してたけど」
絶対零度。
鋭利なナイフ。
そんな目をしていた。
「……あ……そうでしたね……」
先程までぺらぺらと喋っていた男は、それだけ言って小さくなった。
そっと目線を戻し、顔を伏せる。
見なければよかった。
人生で初めて見る、大人の男女の修羅場は思ったよりも恐ろしかった。ややあった好奇心は萎み、一刻も早くここから離れたいという思いでいっぱいだ。
しかし、声は嫌でも聞こえてくる。
「もう、分かってると思うけど」
少しの間があって、女性がそう切り出した。男性は、黙り込んでいる。
もう、薄々気づいていたのだろう。
一番奥のテーブル席。
わざわざ入り口から遠い所を選んだ理由に。
もしかしたら、ここの席の別名にも。
「あなたとは、これ以上はやっていけない」
「な……なんで……」
「理由を知りたい?」
それでも、黙って聞いてはいられなかったのか。絞り出すような声で訊ねるも、ばっさりと返されてしまった。
「……いや……」
逡巡の後、男性は小さく否定した。
はあ、とため息が一つ。
それは、諦めにも失望にも聞こえた。
そうして、最後通牒を突きつける。
「私達、別れましょう」
凄いものを見てしまった。
「はあぁあ……」
二人の姿が見えなくなって、漸く体の緊張が解れた。息を吐きながら、テーブルに突っ伏す。
ちょっとした野次馬根性のつもりだった。恋人らしき彼らが、これからどんな会話をするのか気になったから。
今となっては後悔しかない。
好奇心猫を殺すとはこのことだ。やはり、他人同士の揉め事なんかに安易に関わるべきじゃない。そう強く思いながら、少し薄まったオレンジジュースを飲んだ。
ふと、脳内に先程の映像が流れだす。
さっと席を立ち、かつかつと靴の音を鳴らして去っていく女。一度も振り返る事なくドアの向こうへと消えていった彼女と、取り残された彼。暫くの間肩を落として、それでも彼女が帰っては来ないと諦めたのか、とぼとぼとした足取りで店を後にしていた。
その後ろ姿は、酷く悲しそうだった。
当たり前だろう。終わり方こそかなり辛いものだったけど、彼らは恋人だったのだ。
つまり、お互いがお互いを好きになり、片方が告白して、片方はそれを受けた。
二人で出かけることもあっただろうし、手を繋いだこともあっただろう。あの様子では一緒に住んでいたのかもしれない。
そうやって繋いだ関係が、あっさりと終わってしまったのだから。
「……」
もう一口ジュースを啜る。予想外に受けたダメージが大きかったらしい。店の空気すらなんだかいつもより冷えているような気がする。
もう、帰ろう。立ち上がろうとした、その時。
「……うぅ……」
背後から、誰かの泣き声がした。
先程、あの二人が座っていた場所から。
二人が去って、空っぽの。
──誰もいない、テーブル席から。
ぞわり。
背筋に、冷たいものが走る。感じたこともないような恐怖がみるみるうちに体中を駆け巡った。心臓がバクバクと鳴っている。立ち上がろうと膝を曲げた、半端な体勢のまま固まった。
「……なんで……いっつもこうなるの……」
ぐす、ぐす。しゃくり上げるような、恨めしそうな女の声。ぶつぶつと何事かを呟きながら、時折呻き声を上げている。
明らかに、普通の状態ではない。
頭を、あの恐ろしい噂が過ぎる。
一番奥のテーブル席には、女の幽霊が……
恋人に捨てられた恨みから、人を呪って…
そんな訳ないだろう、と一笑に付した過去の自分はもう居ない。ひたすらに恐ろしさだけが募る。
ぎぎ、と音がしそうな程にぎこちない動きで、ゆっくり後ろを振り返る。
よせと警告を鳴らす脳に従わず、体が勝手に動いた。何もいないと、確認したかったのかもしれない。
しかし、こういう時はいつだって思い通りにはならない。
誰も居ないはずの、そこには。
「……私は……ただ……」
一人の女が座っていた。
うつむき加減の顔は長い黒髪に覆われたせいで見えず、服装は白いワンピース……ではなく、黒いセーラー服だった。一見すれば、普通の女子生徒の様だった。
彼女の体を通して、椅子の背面が見えていることを除けば。
半透明の体。誰も居ないはずの席に、突然気配なく現れた。明らかに生きている人間とは違う、所謂幽霊のようなそれ。
見てはいけないものを見てしまった。
叫び出しそうになるのをぐっと堪えて、強ばる体をどうにか動かす。
幸い、向こうは自分に気づいていない。こちらの存在を気取られない内に、この場を去れば万事解決だ。少しも音を立てないように注意を払いながら、リュックを背負う。
このまま、何食わぬ顔をして外に出よう。
そう決意し、立ち上がろうとしたその時。
カラン。
「うひっ!?」
なんの事は無い。オレンジジュースの氷が音を立てた、ただそれだけの事。
しかし、今の自分にはそれすら毒だった。思わず叫んだ後、慌てて口を塞ぐも間に合う訳もなく。ぴくり、女の肩が揺れた。
気づかれた。
痛いほどに心臓が鳴る自分にお構い無しに、女は、こちらにゆっくりと顔を向けた。
長い前髪から覗く黒い瞳が、たしかにこちらの姿を捉える。
「……」
「……」
膠着。
どちらも、動くことは出来なかった。恐怖のあまり、驚きのあまり。
永遠にも似た沈黙の後、口を開いたのは彼女の方だった。
「…あなた、私が見えるの?」
あ、やっぱり幽霊ってそれ言うんだ。
漫画とかでよく聞く台詞を、現実で聞くとは思わなかった。
人生、何が起きるかわからないなあ。
脳内で現実逃避しながら、しかし今更逃れられる訳もなく。
「はは……そうみたい、っすね……」
ただ、頷くことしか出来なかった。
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