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続編1:水面に緩ふ華の間章。

05 架水。

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 まっすぐな廊橋が河川の上を通っている。瓦を葺いた屋根、等間隔に赤い提灯が吊り下がる。橋脚の間には隔扇門のような美しい朱色の木板が広がっている。その中の中央がはたはたと開いていく。
 水上の仕切りの中心から戸の一枚一枚が蛇腹に折り畳まれ次々に閉じていき、美しい模様の格子戸はあっという間に消え去り、水上に視界が開けた。水中の鉄格子は既に引き上げられ、廊橋の床下にちらりと濡れた鉄が覗くのみ。
 
 華火の邸は京師の南側にあり、正門は北を向いている。今はもう枯れた牡丹畑やあと半月もすれば開花するだろう蓮の生えた池がある、外院を通り、垂花門を越えると美しい内院の中に主屋を中心とする幾つかの建物が見えてくる。その裏手に北に向けて緩やかな弧を描き、西から東に流れる河川を内包した園林がある。築山も林もある。外院と異なり橋はないが、蓮池のものとは別に水辺に張り出した亭があった。

 その河川に今、楼船が浮かんでいた。園林の西の水門を潜り抜けて、京師の南部を西から東に流れる架水に美しく装飾された楼船が静かに漕ぎ出した。
 
 架水の水は驚くほどに透き徹り、燦めいていた。
 
 船が架水に漕ぎ出してしばらく、小さな手が薄紗の裂け目を掴み、帷を少しだけ開いた。

 眩しい。

 黒髪がつやつやと輝き、日に焼けたことのないような真っ白い肌が覗く。
 蒼穹は高く、たゆたう水面みなもは鏡面のよう、河沿いに軒をつらねる建物を果てに望む。薄墨の甍の波、日に焼けた朱の欄干の繊細な格子の模様が雲霧のように掛かる。等間隔に吊された赤い提灯から流蘇が垂れる。
 家屋から飛び出た木棹に衣類が干されている。露台の片隅にひっそりと置かれた植木鉢の木は花がたわわに咲き乱れ、日蔭で鮮烈なつつじ色を主張している。
 立派な楼閣の複雑な格子に挟んだ玻璃が光を弾き、ゆれる提灯が色鮮やかだ。別の枯淡閑寂な風情ある河房では、ゆるりと香煙の燻り立つような簾を繊手で掻き分けて、しどけない妓女が姿を覗かせようとしていた。

 玉蓉は朱い欄干に腕をかけて、船上から京師の生活を遠く眺めた。
 襟足から高く掻き上げられ、高く結い上げられた艶やかな黒髪、雪肌のうなじに濡れたような黒色の後れ毛がかかって色っぽい。

 白い生絹すずしの透けるような背子は小花の流れる流水紋を青糸で刺し、緑松石を散りばめている。
 高髻は、正面からみると二重の円環になるように頭頂部でまとめている。円環に真珠を散りばめ、右に青く輝く、紅玉髄や藍玉を飾った蝶や花の金釵を二本挿している。翠鳥カワセミの羽根を貼った点翠というものだ。左に真っ赤な小花の集まった龍船花を挿頭している。
 小さな膨らみまで象牙色の長裙は引き上げられ、ぬけるような翡翠色の帯を胸元でふわっと胡蝶結びに締めている。霞のような青紫の領巾が肩から掛かる。 

 愛らしい幼女は船上から望める雄大な景色に無邪気に顔を輝かせた。

 ゆるゆると流れる河川に点々と船影がある。一人の男が櫂を漕ぐ小舟が河を横切る。何列にも並んで流れてくる木材は、運輸のために筏にされたものだろう。
 遊覧船も貨物船も浮かんでいた。

 滔々たる河の流れ。清流が日差しを浴びて燦めく。ゆっくりと船が進む。ゆったりと奏でられていた典雅な曲が急に停まった。先ほどまで楽器を支えていた手がふと消える。輝く緑の霞のような玉虫の翅と蛋白石のような鮑貝、白の象牙の象嵌細工の白漆の琵琶がふかふかの榻の上に軽く放られ、もふんと受け止められた。ぽろん、と最後の音が零れて落ちる。
 華火が手慰みにつま弾いていた琵琶から離れ、玉蓉の傍にやって来て彼女の肩から外を覗いた。

 一艘の小舟が架水を渡っていく。

 生成りの頭巾を被り、褪せた紺の短衣を着た船頭が長い櫂を漕ぐ。一人の女性客を乗せていた。面は少し下向きで、荒い編み目の平らな円盤状の竹笠に被せた白い面紗に隠れていた。ちらりと覗く髪の先は影に隠れて分からない、暗い色に見える。
 彼女は鈍い薄紫の褙子を着ている。その丈は太股辺りまでであり、その袖も大きくはない。袖口は手首二つ程度の大きさで、筒型をしている。胸当て抹胸は隠れて良く見えないが白っぽい。裤子ずぼんは黄檗色を少し溶かしこんだような柔らかい白色で、その上をうっすらと紗が覆っている。両の腰まで切れ込みを入れた長い前掛けのようなもので、後ろにも同じものがある。下衣かいは二層構造になっていた。
 
 下向いていた顔が上げられる。笠の下から覗いた顔は年頃の美しい娘のものだった。吊り上がった眉、大きな扁桃形の瞳が煌めき、ふっくらとした蠱惑的な唇に鮮やかな躑躅色の口紅を佩いている。
 
 目線が合う。
 大きな褐色の双眸が溢れんばかりに見開かれる。
 玉蓉は愛らしいお目々を瞬かせた。
 すっと目を眇めて華火は扇子で顔を隠し、長い指で帷を閉めてしまった。
 
 帷の内側は氷柱に冷やされて涼しい。絶妙な色味の美しい紗が影の色調を染める。
 玉蓉は長椅子の端でまだ帷の向こう側を眺めていた。

「玉蓉ちゃん、僕のお膝においで。おやつにでもしよう」 
「はぁい、わが君」 

 幼女はふかふかの榻の上を伝って華火の膝に収まった。それだけで夫君は上機嫌になり、愛らしい妻君に相貌を崩した。
 

 真っ白くて滑らかな表面に匙が入れられる。ぷりんと断面が張りを持って震えた。そうでありながら、匙を入れたときの感触はすっと溶けるように崩れていく。

 華火は満面に笑みで匙を差しだす。

「はい。あーん」

 白い匙の窪みに蕩けるような乳白色の欠片が収まっている。ふりんと身をゆらして誘ってくる。

「あーん」  

 小さなお口にとろとろの白い甘味が吸いこまれていった。玉蓉は慣れた様子だった。二人の食事ではこれが当たり前のようになってきていた。

「わが君も、どうぞ」

 身長差から自然と上目づかいに差し出されたそれを、華火は口に含んだ。

「玉蓉ちゃん、ありがとう美味しいよ」

 そのまま、小さな肢体をぎゅうと抱きしめる。しばらくされるがままにしていた玉蓉だが、このままでは何時までも離してもらえないのでは、と思い始めた。

「わが君、もう一匙下さい」
「うん、いいよ」

 ところが、華火は掬い取ったものを自分の口に入れてしまう。おやつを含んだ彼の口元が幼女の口に押し当てられる。
 杏仁のふわっとした風味が鼻腔に溢れる。とろけるような食感を押しのけて、舌が侵入してきた。

「ふぁ……ふふぁふぃみ、なにお」 

 白い滑らかな固体が牛酪のように溶けて温かい透明な唾液と絡まりあっていく。淫らな舌に蹂躙され、玉蓉のなまめかしい喉が嚥下する。
 なんだか、おかしな気持ちになってきたと玉蓉は思った。

「あっ」

 華火の舌が離れていく。彼女は無意識に残念そうな声を上げてしまった。
 滴った唾液を舌で掬い取って華火は微笑んだ。 

「僕の奥方様はとても美味しいね」
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