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打ち明け話
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12月27日、社の年内最終営業日の朝。
今朝の開けは私と友紀が担当となっている。
元々地頭が良く要領も良い友紀には、近頃仕事の進め方についての工夫を教えてもらったりしている。
情報量の多い来客リストの見方も、コツを聞いてから実際にやってみると、これまでよりもだいぶはかどる実感がある。
「冴子、最近何か変わったね」
一通りの出勤ピークが過ぎた所で、友紀にそう指摘されたものの、私には何も起きてはいない。秘書検定も英語の勉強も、やっているだけでまだ成果には繋がっていない。
「なんにも変わってないよ」
「…そうかなあ?感じが変わったって事だよ」
「……」
「まさかハイスペ男子と付き合い出したとか、そういうんじゃないよね」
友紀は冗談めかして言ったはずだけど、でもどこか探られているように聞こえたのは私に思い当たるふしがあったからだろうか。
確かにハイスペックな人と仲良くはしているが、それは男子ではない。
そこでつい、考えないようにしていたはずの袴田氏の事を思い出し、表情が変わりそうになるのをどうにかこらえた。
自分が意識的に袴田氏の事を見ないように、考えないようにしている理由は薄々わかっている。
じっくり考えてしまったら、私は間違いなく嫉妬するからだ。
別に自分に対してどう思われていても、もしくは何の意識をされていなくても、それはどうでも良い事だが、彼が日々美咲さんの近くをうろちょろしているのかと思うと、気が滅入ってくる。
あの、噂の妙な宣言のせいで、絶対に美咲さんは迷惑しているに違いない。そういう気使いのなさにも苛立つものがある。
むしゃくしゃしたので帰り道は会社最寄りの駅ではなく、少し余計に歩いて違う駅から帰る事にした。
オフィス街の中にもきれいにイルミネーションが飾り付けられた通りがあって、時々写真を撮って行く人もいたりする。
美咲さんの部屋から見た、おしゃれで近代的なものも綺麗だけど、ここの通りは落ち着いた色味の、温かな雰囲気のあるイルミネーションが飾られていて、これはこれで美しいと思った。
年末のせいか、通りに並ぶショップにも人が多く来ているようで、なんとなく浮足立った雰囲気がある。ブランドショップが立ち並ぶ一角で、なぜかそのショップ群のどこかに美咲さんがいるのではないかという気がして、立ち並ぶショップをなんとなく眺めながら私は歩いた。
ほどなくしてバターと生地が焼ける甘い香りが漂ってくる。クレープ店の屋台が出ていた。そこだけは、若者や外国人が集まっていて、庶民的な空気が漂っている。
おいしそうな甘い匂いに思わず足が止まりそうになるが、どうにか立ち止まらずに通り過ぎる事はできた。
確かこの店のクレープは、ある女性タレント姉妹が大好物だと公言しているものではなかったか。それで一気に人気の店となったのだ。テレビ番組で、姉妹で仲良くクレープを買い求めている場面を見た記憶があった。
そのタレントと美咲さんはなんとなく顔が似ているよな、と思い至り、急にその屋台のクレープを、美咲さんと一緒に食べたい気分になる。一緒に歩いていない今は勿論そんな事はできないのだが。
「……」
思わず私は通り過ぎた道を引き返して、屋台のメニューに目を走らせた。
あの姉妹タレントは何が好物と言っていたっけ、という事を考えながら。
*-*-*-*-*-
私は、我慢している。
美咲さんの部屋の鍵はけじめとして一旦返したけれども、本当は毎日美咲さんと一緒にいたいし、一緒に食事もして、一緒に寝て、毎日濃密な快楽の時間を過ごしたい。
けれどももしそれだけの時間を一緒に過ごす事ができたとして、私は美咲さんの邪魔にならずにそばにいられるのかどうかという自信がなかった。美咲さんが、私のわがままを「もう聞けない」と言い出す限界を知りたくない、だからどうしても踏み込めない部分があるのだ。
なんとも、自分の勇気のなさにげんなりする。
実際これだけ受け入れてくれているのだから、いける所まで行ったって、あるいは行き過ぎた事をしたとしても、美咲さんがどこかへ消えるというわけでもない。
何もかも全部受け止めてくれなければ嫌だ、という、それこそわがまま過ぎる願望のために、私は何もできずにいるという事なのだと思うと、なんとも言えない気持ちになった。
美咲さんと会わずに自宅で一人過ごす夜には、毎日のように自分を慰めている。以前に一度例のアプリの通話機能を使って、美咲さんにその様子を聞かせてしまった事もあった。
ああいう場面では、声でしか自分の事を伝えられないから、一生懸命描写もするし、一生懸命美咲さんに「お姉さま」と呼びかけ、いやらしい気分になってもらえるような声も出す。自分がどれだけ感じているのかを、持ち合わせるあらゆる言葉を尽くして表現する感じだ。
屋台のクレープは確かにおいしかった。結局記憶が定かでなかったから、検索でそのタレント姉妹の情報を探して、彼女らが好きなメニューを突き止めた所、それは「ハニー&ベリー&クリーム」というメニューだとわかり、それを選んで食べてから帰宅した。
そのままお風呂に入り、美咲さんがプレゼントしてくれたシャワーソープを使っていると、あのクリスマス・イヴの夜の出来事が記憶に蘇ってくる。
「…」
あの時と同じように、自分の手で泡を作って身体を洗ってみる。
一旦目を閉じてやってみるけれど、どうにも、自分の手だと違う感じがする。
もう一度目を閉じて、あの夜の美咲さんを思い出しながら身体を洗う。
そう言えば背中に美咲さんの胸が当たっていたなあ、とか、あの日美咲さんのネイルデザインはピンクベージュのグラデーションだったなとか、そういう細かい所まで思い出していくと、なんだか身体が火照ってきて、自分の手を動かすのも忘れていた。
美咲さんが私の胸を触る時は、爪の先で軽く引っかけたり、人差し指から小指までを揃えてその四本の指の内側で乳首を撫でたりする。
同じように動かしてみるが、私は指が少し短くて太さは普通なのに対して美咲さんは指が細長い。だから伝わる感触もどうしても違うのだ。
ついでに言うと美咲さんは唇も私よりやや薄い。生まれつきなのかどうかはわからないけれど、美咲さんは唇も舌も本当につるっとしていて柔らかい。女性はみんなそうなのかもしれないけれど、私はあのツルツルの舌と唇で触れられると、それだけで何もわからなくなるぐらい、気持ち良くなれてしまうのだ。
その感触を思い出していると、唐突に自分の下半身に熱が集まる気がしてくる。とりあえず全身に泡がついているので、そのまま両腿の間に手を滑り込ませて、指先だけで秘部の周囲を弄ってみた。
「あ…ん」
肝心な部分は避けてそっと花弁の縁をなぞってみると、温かくとろりとしたものがこぼれて来ていた。
美咲さんはあの日、そんなにいやらしい事は言っていなかった。仮想だろうけれど風俗店の真似をして「失礼しまーす」とかそんな口調で触ってきていたのに、私は一人で感じてしまっていた。
「んん…」
私は目を開いてシャワーで身体を洗い流した。まだ、それほどいやらしく濡らしてはいなかったから、その部分もしつこく洗い流す必要もなくバスルームを出る。
…美咲さんは今、どうしているだろう。まだ仕事中だろうか。それとも忘年会で盛り上がっているのだろうか。
私は美咲さんが年末をどう過ごす事が普通なのかもよく知らない。
急いでタオルで身体を拭いてスマホを手に取った。
美咲さんからは特に何も連絡は入っていないけれど、今どうしているのかだけでも知りたくなり、メッセージを送ってみる。
案の定、部の忘年会で居酒屋に来ているという返信だった。
私たち受付担当は人数も少なく、ハイシーズンに入る前にちょっとした飲み会は済ませてしまっており、年内最終日は特に何のイベントもない。大きなスーツケースを引きずって出勤し、そのまま海外へ飛ぶという人もいるし、彼氏持ちも多いので彼氏と過ごすという人もいる。
だから最終日と言っても地味なものなのだ。とにかくさっさと帰るなりプライベートの予定に突入するなり、お互いそれを邪魔しないというルールが暗黙の了解となっている。
私は、勇気を出して美咲さんにこんなメッセージを送った。
良かったらそれが終わった後でうちに来ませんか、と。
美咲さんからは、短く「じゃあ、お邪魔しようかな」という返信があった。
私は改めてバスルームに戻り、入念に身体を洗って全身のケアもした。
部屋着として着ている、薄手だがふわふわ素材の白のワンピースを頭からかぶって着る。
既に若干緊張しているが、美咲さんがここに来るのは少なくとも1時間以上後になるだろう。
そう言えば、美咲さんの身体の大きさに合う着替えがこの部屋にあるかと考えて、ない事に気付いた。
「…」
衝動的に誘ってしまったものの、準備らしい準備が全くできていない。これから買いに行くというわけにもいかないし、困ってしまった。
「急にお誘いしてしまったので、着替えも何も用意できておりません、すみません」
とりあえずそれだけメッセージを送った。
きっと、美咲さんは飲んでいるだろうし、部屋に来てももしかしたら疲れているかもしれない。
さっきまではいやらしい事ばかり考えていたはずなのに、いざとなると美咲さんが疲れていないか、この部屋でも極力心地良く過ごしてもらえるか、そんな事ばかりが気になってしまった。
しかし今更成す術もなく、ただ美咲さんを待っているうちに、やはり心臓がどきどきしてきて、また身体が熱くなっていく。
私はスマホを片手にベッドに潜り込んで、寝るでもなく、かと言って何かをするでもなく、じりじりとした時間を過ごした。
21時を過ぎた頃に、「これから向かう」という旨のメッセージが美咲さんから届き、私の鼓動はいっそう速くなった。
この部屋に美咲さんが来る、そう思うとやっぱり緊張する。
私はお茶の用意をしながら美咲さんの来訪を待った。道中の美咲さんからは「余計な気使いはいらない」というメッセージが届いており、必要最低限の気使いが何なのかもよくわからぬまま、気持ちばかりせわしくなっていた。
緊張しているからか、いつも聞いているはずのインターホンのチャイム音が妙に大きく感じられ、私はそれにびっくりしながらも、玄関の扉をすぐに開けた。
私の部屋の玄関先に美咲さんが立っている、その絵面がものすごく異様な光景に見えて、私は固まってしまう。
「なんだ、部屋間違えたかと思っちゃった」
私が扉を開けたまま黙って立ち尽くしているので、美咲さんがそんな冗談を言う。
このアパートには、美咲さんのような年恰好の女性が住んでいても、決しておかしいとは言い切れないのだが、その瞬間の私の頭の中には、いつぞやかビジネス誌に取り上げられていた美咲さんの写真が、目の前の美咲さんとだぶってしまって、有名人を目の前にして何も言葉が出ないような状況に近かったと言えよう。実際に目の前の美咲さんは、あのビジネス誌に載っていた時と同じ色合いの、明るいグレーのスーツの上からコートを羽織っていた。
「…おかえりなさい」
私は、これだけは言おうと決めていた言葉を口にする。きちんと、冗談だとわかるように言うべきだったのに、変に真面目なトーンになってしまった。
美咲さんは一瞬不思議そうな顔をしたが、真っ赤になった私の顔を見てすぐ笑顔になり、私の頭を撫でてくれる。
私が、フォローしようと口を開きかけた所で、美咲さんが「ただいま♪」と言葉を返してきて、私の手を握って玄関に入ってきた。
狭い玄関なので、美咲さんを先に立たせて後ろ手に扉の鍵をかけていると、美咲さんが笑いを含んで「可愛い」と呟きながら靴を脱ごうとしていた。
「気付いてる?冴子はいやらしい事考えてる時には切羽詰まった顔になるんだよね」
「…え?」
「今もそう」
美咲さんは靴を脱ぐのを止めて私の身体を包み込むように抱きしめてくる。着たままのコートからは、居酒屋帰りらしく煙草の匂いが微かに漂ってきた。
「……」
「我慢できなくなっていきなり呼んでくれたんでしょ?ここに」
「…はい、そうです」
まだ、私の部屋に美咲さんがいるという事実にいまいち現実感を得られずにいる中で、美咲さんに全てを見透かされているように言われてしまうと、ますます今起きているのは現実のものではないような、錯覚のような気分になった。そうではない事を確かめるために、私は美咲さんの身体に腕を回して強く力を込める。美咲さんの身体は確かにそこにあった。
「冴子の身体、あったかいね」
「お風呂に入ったから、かもしれません」
「そっか、だからいい匂いもする」
美咲さんが私のうなじ辺りに鼻を近づけて言う。私も負けじと美咲さんの匂いを嗅いだ。やっぱり、仕事帰りかつ居酒屋帰りなので、無機質で混沌とした空気に染まってはいるものの、美咲さんの素肌を間近にすれば、やっぱりいつもの美咲さんの匂いがする。
「…袴田さんとも一緒に飲んでたんですか」
意識してではなく、無意識のうちに言葉が先に出てしまった。美咲さんの衣服に染みついた匂いの中に、仕事とか、男性とか、そんなものが連想されたからかもしれない。
「知ってるの?…」
「一応、噂も流れてますし」
「…そっか」
「偶然街中で見かけた事もあります」
その言葉も、なぜだか無意識に口走ってしまった。美咲さんは一旦私の首元から顔を離して「どう思った?」と聞いてくる。
私は素直に「お姉さまにとっては、面倒そうな人だなと思いました」と答えた。
美咲さんがくつくつと笑い出して身体が揺れる。私は不安になり美咲さんの顔を見上げた。
「…ごめんね、変な意味じゃない」と断った後で、美咲さんは「冴子も、自分で思ってる以上に私の事よくわかってるなって思って」と付け加えた。
「はあ…そうですか」
きょとんとした私に、美咲さんはこう続ける。
「だからもっと私に甘えていいんだよ」
「……」
「それ、その顔」
私が、さっき指摘された「切羽詰まった顔」をしたという事だろうか。
美咲さんは私の顔を指差してから、すぐにキスをしてくれた。
ついさっきシャワーを浴びながら思い出した感触とは比べ物にならないリアリティを伴って、あのつるつるの柔らかい唇と舌が私の口内に侵入してくる。私は息が詰まりそうになりながらも、少しでもその時間が長く続くようにと願いながら、美咲さんのキスに応えた。
しばらくして顔が離れた所で、美咲さんが「こんな所で始める予定じゃなかったんだけどな」とこぼしながら、改めて靴を脱ぎにかかる。
そうか。美咲さんはヒールの靴を履いたままだったから、身長差が余計にできてしまったのか。
「す、すみません」
「いいのいいの」
私は恐縮しながら美咲さんを部屋に招き入れ、とりあえず落ち着いて座れそうなスペースに誘導する。狭い1DKの部屋なので、リビングといっても小さなローテーブルと座布団を兼ねたクッションやマットをいくつか並べただけで、ダイニングセットやソファを置くスペースはない。
私は美咲さんが着ていたコートを預かりハンガーにかける。
「お邪魔しまーす」
ついさっきまであんなに艶めかしいキスをしていた相手なのに、まるで別人のような調子で言いながら、美咲さんはそこに腰を落ち着けた。その様子にも、私の中には猛烈な違和感がありすぎてどうしたらいいのかわからなくなるほどだった。
「ふーん、こんな部屋なんだ」
「あ、あの、恥ずかしいので…」
「そうだよね」
そう言いつつも、多分美咲さんはさらっと私の部屋の全貌と、私の趣味や学びの軌跡なんかも見通してしまったに違いない。ひょっとしたら私にかつてどんな彼氏がいたかなんかも気付く所があったりするのかもしれない、と思った。
「…その、気使い無用との事だったんですが、何が正解なのかよくわからずでして」
居酒屋で飲んだ後なら温かいお茶は欲しいだろうと思って、それを出しながら聞いてみる。
「だいたい合ってるから大丈夫」
「…?」
「おいしいね」とお茶についてコメントした後に、美咲さんは続けた。
「…例えば一回メイク落としたのにまた化粧したりとか、そんな感じの事を言ったつもりだから、だいたい合ってる」
「そうですか」
実際私はシャワーを浴びた後に再度メイクはせずに美咲さんを迎えている。
「…あと、その部屋着の下にブラもパンツも履いてないのも正解」
「……」
私は恥ずかしくなり下を向いた。さっき玄関で抱きついた時にそれに気づいたのだろう。
締め付けが嫌で、私はお風呂上りには下着を着けずに過ごす事が多いのだが、美咲さんをそのまま迎えてしまったのは、今にして思えば不用意過ぎるというか、ある意味失礼ではないか。本来目上の来客に対してさすがにノーブラ、ノーパンはあんまりだろうと思うべきなのに、美咲さんの部屋でも割とそういう恰好で過ごすのに慣れていたので、見落としていたのだ。
「正解だから、いいのよ」
「…そうなんですけど、なんだかこの部屋にお姉さまが来ているというだけでも、かなり不思議な感じがしてしまって」
さっきからずっとそうだ。美咲さんが、私の普段使う湯呑でお茶を飲んでいる姿さえも、いちいち違和感である。
「だったらもっと早く押しかければ良かったわね」
美咲さんが笑ってそんな事を言う。
「私だって若い頃からあんな所に住んでたわけじゃなくて、働き始めた頃は、勿論こういう部屋に住んで、時間をかけて通勤して、って時代もあったわけよ、そんな昔の事でもないんだけど」
「はい」
「って言うか、むしろそういう時代の方が長いぐらいで、管理職になってからやっと、少し贅沢な暮らしをするようになったぐらいかな」
「…そうですよね」
「うん、だからちょっと懐かしい感じっていうか、これはこれで落ち着くと言うか」
「そうなんですか」
「そうだよー」
湯呑の中のお茶が思いのほか減っているようなので、私は美咲さんの湯呑にお茶をさした。
「さっき、冴子は袴田君の事気にしてたけど、ああいう育ちの良い人と、私は違うから」
「…私から見ると、あくまでも今の時点ではという事ですが、何が違うのかよくわかりません」
「そうだよね」
「はい」
美咲さんはほっと溜息を吐いた。
「…冴子の部屋に来て、やっぱり、冴子ぐらいの頃の自分の気持ちはもうだいぶ忘れちゃった、って事に気付いたりしてね。確かに入社二年目ぐらいで、部長と呼ばれてる人と、その周囲で活躍してる側近の人たちの細かい違いなんて全然わかんなかったよ」
美咲さんが手招きするので、私は美咲さんのすぐ隣に腰を下ろした。すぐに美咲さんの腕に包まれて、間近で話を聞かせてくれる。
きっと、私が美咲さんの話し声をすごく好きなのをわかってくれているから、そんな風にしたのだと思った。
「…冴子がそういう立場になれるかどうかはわからないけど、一度通り過ぎてしまったら、もうその頃の、何も知らなくて、何でも新鮮で刺激に未知ていると思える感性というものも、取り戻せないって事なんだろうな…真面目に考えた事もなかったけど」
美咲さんは今、他の人にはしていない話をしてくれている、その事だけは感じながら黙って話に耳を傾けていると、「なんかめちゃくちゃ婆臭い話しちゃった」と美咲さんは自分から締めくくってしまった。
私は、何も言わずに美咲さんを見つめて、視線だけで「そんな事ないです」という気持ちを伝える。
すると美咲さんも自分を許せる気になったのか、更に話をしてくれた。
「私が冴子ぐらいの頃は、全然、冴子みたいに真面目な事なんて考えてなかったなあ」
「私も真面目じゃないです」
「…毎日オナニーばっかりしてるから?」
「そういう、意味じゃなくて」
「…してるんだ?」
「……はい」
かつてその事は話したつもりだったように思うが、改めてカマをかけられてしまい、私は恥ずかしくなった。
「大丈夫、みんなだいたいそんなもんでしょ」
「お姉さまは、どうだったんですか」
「どうだったかなあ」
「…教えてくれないんですか?」
すると美咲さんは急に私の肩に回していた手に力を込めて私を向き直らせるとこう言った。
「冴子がこれまでに何人と付き合って週に何回ぐらいセックスしてたか聞かせてくれたら、教えてあげようかな」
「…」
「…冗談よ」
実は、そのまま黙っていられたら正直に言ってしまいそうだったので、答えるまでに間を置いて良かったと胸をなで下ろした。
「じゃ教えてくれるんですか」
「うーん、毎日とは言わないまでもけっこうしてたかな」
「…今は?」
美咲さんがじっと私を見てきて、それで私もはっとする。
「冴子は、遠慮しーなのかそうじゃないのか時々わからないわね」
「すみません…」
「そんな事、聞いてどうするの?」
「自分だけそうなのかどうか、知りたいだけです、お姉さまも、その…してるんだってわかったら、ちょっと嬉しいから」
私の中では、それでもせいぜい「たまに」とか「もうあまりしない」とか、そのような答えに決まっているだろうという思い込みがあって、その後の美咲さんの言葉があまりに意外で、思わず聞き返してしまうほどだった。
「冴子、もし私が『毎日かそれ以上』って答えたら、どうするの?」
「え…」
「そういう答えがもし返ってきたら、それは嬉しい答えになるのかしらね」
…そうだった。私はまだ、美咲さんの生活の全てを把握しているわけじゃない。だからそういう答えが返ってくる可能性も、あるに決まっているし、あるいは私以外にも、男性ともたまにはそういう事をしているかもしれないわけで、流れの中で安易に聞くべき質問ではなかったのだ。しかも袴田氏の事だって、噂の真相はわかっていないし、ひょっとしたら一回ぐらいそれらしき事があって、それで袴田氏も本気になって美咲さんを口説きにかかっているのかもしれないのだ。
私の頭の中であらゆる不確定要素が、ネガティブな方向に広がっていくようで、思わず質問について取り消すべきとわかっても、それが言葉として口から出るのに時間がかかってしまった。
「お姉さま、その」
「…追い詰めちゃったかな、ごめんね」
「いえ、その、変な事を聞いてしまってすみませんでした」
「そんなに謝らなくていいから、意地悪な事言ってごめんね」
「でも…」
「じゃ、冴子が今からどんな風にオナニーしてるのか実際に見せてくれたら、教えてあげる」
「…わかりました」
そんな事はお安い御用だ、と思い私は即答した。美咲さんはいつもの笑顔で答えてくれる。
「そうだなあ…今だと」
その先の言葉を聞くのが怖いような気がして、私はものすごく緊張した。
「毎日、という訳じゃないけど、それでも週に2回ぐらいはしてるんじゃないかな、むらはあると思うけど」
「そうなんですか」
「…特に冴子が帰った次の日とか、たくさんしてるかも」
「え…」
緊張と興奮が入り混じって、おかしな気分だ。
そもそも美咲さんが自分を慰める様子というものをまともに想像した事もなかったから、美咲さんの生々しい答えを聞いて、一気に想像が膨らんでしまう。
「…もったいないです」
「え?」
「お姉さまが、そんな事、しなくたっていい」
私は美咲さんの方に身体を向けて、今しかないと思いながらしっかりと伝えた。
「その、私ではない人となら、仕方ないと思いますが…そうじゃないのなら、夜中でも明け方でも日曜日でも、いつだって私はお姉さまの身体に触れたいんです」
「冴子…?」
「でもその、一人でするのは別腹という事もあるので、あれですけど…そんな場面が見られないのも勿体ないと思うんですが、わざわざ自分でしなくても、私の身体を使って気持ちよくなって欲しいんです」
到底、伝わりやすい表現とは言えないけれど、私なりに精いっぱいアピールした。
本来私は、美咲さんの性の対象物として関わり始めた人間だ。だからむしろ、シンプルに性的欲求をぶつけたい時に私を使って欲しい。
美咲さんは優しい人だから、人の心の部分まで考えているのかもしれないが、私は、美咲さんの性のはけ口として消費されたいのだと、正直に思っている。格差を気にしての事だけではなく、そもそも私たちはそういう目的で関係性をスタートさせているからだ。
「…ねえ、冴子」
美咲さんが、あの声色で呼びかけてくる。その先にどんな言葉が控えているのか、なんとなく予想ができた。
「…はい」
私は、あえて真面目に受け止める。
「なんでそんなにいやらしい事ばっかり言うのかしらね」
半分は叱っているように、もう半分は期待を込めたように美咲さんが言った。
「…お姉さまに、そんな風にいやらしく叱って欲しいからです」
「…冴子」
どちらからともなく再び唇を重ねる。さっき玄関でしたのとは違う、これは前戯のキスだ。お互いにその続きを意識させるような、期待と緊張感に満ちたものだ。
「はぁ…ん…」
美咲さんの手が、私の背中や腰をさすってきて、私は思わず声を漏らす。
「…さっき簡単に返事してたけど、冴子はこれから一人でオナニーするのよ?」
「は、はい」
今となってはあの安請け合いを後悔するほど、美咲さんに触って欲しくて仕方ないが、自分から約束した事だしそれはそれでやるつもりだ。
でも、もう少しだけ美咲さんにもその気になって欲しい。このまま、私を咎める気持ちだけで私の自慰を見られたくない。そう思って私はもう一度だけ美咲さんにしがみついて自分から唇を重ねた。
「ん…っ……」
美咲さんも自慰をしていると知った今、それを黙ってスルーできるはずもない。私は、いつも美咲さんの秘部にするような動きで唇と舌を使って美咲さんの口内を愛撫した。美咲さんの舌先を甘噛みして、何時間後になるかわからないが、美咲さんの萌芽にも必ずこれと同じ刺激を与える事を予告する。
「んぁ…ふ…」
たまらないといった様子で美咲さんの吐息が漏れる。
こういう声を、誰にも聞かせず発するなんて、本当に勿体ない。誰も聞いていないのなら、せめて私に聞かせて欲しい。
私は美咲さんのスーツの上着のボタンを外して、インナーのブラウスの上から大きく美咲さんの胸をまさぐるように掴んだ。同時に顔を動かして、美咲さんの唇から頬や耳たぶ、首筋や鎖骨の辺りにもキスの雨を降らせる。
「冴子…っ…」
「オナニーはします、だから少しだけ」
「もうっ、…ん……」
美咲さんの表情から余裕が消えていく感じと、体温が上がっていく感じがあって、私はその様子にそこそこ満足した。
「お姉さま、ここ…」
スカートごしに美咲さんの恥丘をさする。美咲さんは軽く頬を上気させつつ少し息を切らせていた。
「…ここ、濡れてきたら、いつでも私が舐めるんです」
「うん…」
「お姉さまが気持ちよくなって、イっちゃっても、ずーっと舐めますから」
「冴子…」
「お姉さま、私のオナニー見てください」
今朝の開けは私と友紀が担当となっている。
元々地頭が良く要領も良い友紀には、近頃仕事の進め方についての工夫を教えてもらったりしている。
情報量の多い来客リストの見方も、コツを聞いてから実際にやってみると、これまでよりもだいぶはかどる実感がある。
「冴子、最近何か変わったね」
一通りの出勤ピークが過ぎた所で、友紀にそう指摘されたものの、私には何も起きてはいない。秘書検定も英語の勉強も、やっているだけでまだ成果には繋がっていない。
「なんにも変わってないよ」
「…そうかなあ?感じが変わったって事だよ」
「……」
「まさかハイスペ男子と付き合い出したとか、そういうんじゃないよね」
友紀は冗談めかして言ったはずだけど、でもどこか探られているように聞こえたのは私に思い当たるふしがあったからだろうか。
確かにハイスペックな人と仲良くはしているが、それは男子ではない。
そこでつい、考えないようにしていたはずの袴田氏の事を思い出し、表情が変わりそうになるのをどうにかこらえた。
自分が意識的に袴田氏の事を見ないように、考えないようにしている理由は薄々わかっている。
じっくり考えてしまったら、私は間違いなく嫉妬するからだ。
別に自分に対してどう思われていても、もしくは何の意識をされていなくても、それはどうでも良い事だが、彼が日々美咲さんの近くをうろちょろしているのかと思うと、気が滅入ってくる。
あの、噂の妙な宣言のせいで、絶対に美咲さんは迷惑しているに違いない。そういう気使いのなさにも苛立つものがある。
むしゃくしゃしたので帰り道は会社最寄りの駅ではなく、少し余計に歩いて違う駅から帰る事にした。
オフィス街の中にもきれいにイルミネーションが飾り付けられた通りがあって、時々写真を撮って行く人もいたりする。
美咲さんの部屋から見た、おしゃれで近代的なものも綺麗だけど、ここの通りは落ち着いた色味の、温かな雰囲気のあるイルミネーションが飾られていて、これはこれで美しいと思った。
年末のせいか、通りに並ぶショップにも人が多く来ているようで、なんとなく浮足立った雰囲気がある。ブランドショップが立ち並ぶ一角で、なぜかそのショップ群のどこかに美咲さんがいるのではないかという気がして、立ち並ぶショップをなんとなく眺めながら私は歩いた。
ほどなくしてバターと生地が焼ける甘い香りが漂ってくる。クレープ店の屋台が出ていた。そこだけは、若者や外国人が集まっていて、庶民的な空気が漂っている。
おいしそうな甘い匂いに思わず足が止まりそうになるが、どうにか立ち止まらずに通り過ぎる事はできた。
確かこの店のクレープは、ある女性タレント姉妹が大好物だと公言しているものではなかったか。それで一気に人気の店となったのだ。テレビ番組で、姉妹で仲良くクレープを買い求めている場面を見た記憶があった。
そのタレントと美咲さんはなんとなく顔が似ているよな、と思い至り、急にその屋台のクレープを、美咲さんと一緒に食べたい気分になる。一緒に歩いていない今は勿論そんな事はできないのだが。
「……」
思わず私は通り過ぎた道を引き返して、屋台のメニューに目を走らせた。
あの姉妹タレントは何が好物と言っていたっけ、という事を考えながら。
*-*-*-*-*-
私は、我慢している。
美咲さんの部屋の鍵はけじめとして一旦返したけれども、本当は毎日美咲さんと一緒にいたいし、一緒に食事もして、一緒に寝て、毎日濃密な快楽の時間を過ごしたい。
けれどももしそれだけの時間を一緒に過ごす事ができたとして、私は美咲さんの邪魔にならずにそばにいられるのかどうかという自信がなかった。美咲さんが、私のわがままを「もう聞けない」と言い出す限界を知りたくない、だからどうしても踏み込めない部分があるのだ。
なんとも、自分の勇気のなさにげんなりする。
実際これだけ受け入れてくれているのだから、いける所まで行ったって、あるいは行き過ぎた事をしたとしても、美咲さんがどこかへ消えるというわけでもない。
何もかも全部受け止めてくれなければ嫌だ、という、それこそわがまま過ぎる願望のために、私は何もできずにいるという事なのだと思うと、なんとも言えない気持ちになった。
美咲さんと会わずに自宅で一人過ごす夜には、毎日のように自分を慰めている。以前に一度例のアプリの通話機能を使って、美咲さんにその様子を聞かせてしまった事もあった。
ああいう場面では、声でしか自分の事を伝えられないから、一生懸命描写もするし、一生懸命美咲さんに「お姉さま」と呼びかけ、いやらしい気分になってもらえるような声も出す。自分がどれだけ感じているのかを、持ち合わせるあらゆる言葉を尽くして表現する感じだ。
屋台のクレープは確かにおいしかった。結局記憶が定かでなかったから、検索でそのタレント姉妹の情報を探して、彼女らが好きなメニューを突き止めた所、それは「ハニー&ベリー&クリーム」というメニューだとわかり、それを選んで食べてから帰宅した。
そのままお風呂に入り、美咲さんがプレゼントしてくれたシャワーソープを使っていると、あのクリスマス・イヴの夜の出来事が記憶に蘇ってくる。
「…」
あの時と同じように、自分の手で泡を作って身体を洗ってみる。
一旦目を閉じてやってみるけれど、どうにも、自分の手だと違う感じがする。
もう一度目を閉じて、あの夜の美咲さんを思い出しながら身体を洗う。
そう言えば背中に美咲さんの胸が当たっていたなあ、とか、あの日美咲さんのネイルデザインはピンクベージュのグラデーションだったなとか、そういう細かい所まで思い出していくと、なんだか身体が火照ってきて、自分の手を動かすのも忘れていた。
美咲さんが私の胸を触る時は、爪の先で軽く引っかけたり、人差し指から小指までを揃えてその四本の指の内側で乳首を撫でたりする。
同じように動かしてみるが、私は指が少し短くて太さは普通なのに対して美咲さんは指が細長い。だから伝わる感触もどうしても違うのだ。
ついでに言うと美咲さんは唇も私よりやや薄い。生まれつきなのかどうかはわからないけれど、美咲さんは唇も舌も本当につるっとしていて柔らかい。女性はみんなそうなのかもしれないけれど、私はあのツルツルの舌と唇で触れられると、それだけで何もわからなくなるぐらい、気持ち良くなれてしまうのだ。
その感触を思い出していると、唐突に自分の下半身に熱が集まる気がしてくる。とりあえず全身に泡がついているので、そのまま両腿の間に手を滑り込ませて、指先だけで秘部の周囲を弄ってみた。
「あ…ん」
肝心な部分は避けてそっと花弁の縁をなぞってみると、温かくとろりとしたものがこぼれて来ていた。
美咲さんはあの日、そんなにいやらしい事は言っていなかった。仮想だろうけれど風俗店の真似をして「失礼しまーす」とかそんな口調で触ってきていたのに、私は一人で感じてしまっていた。
「んん…」
私は目を開いてシャワーで身体を洗い流した。まだ、それほどいやらしく濡らしてはいなかったから、その部分もしつこく洗い流す必要もなくバスルームを出る。
…美咲さんは今、どうしているだろう。まだ仕事中だろうか。それとも忘年会で盛り上がっているのだろうか。
私は美咲さんが年末をどう過ごす事が普通なのかもよく知らない。
急いでタオルで身体を拭いてスマホを手に取った。
美咲さんからは特に何も連絡は入っていないけれど、今どうしているのかだけでも知りたくなり、メッセージを送ってみる。
案の定、部の忘年会で居酒屋に来ているという返信だった。
私たち受付担当は人数も少なく、ハイシーズンに入る前にちょっとした飲み会は済ませてしまっており、年内最終日は特に何のイベントもない。大きなスーツケースを引きずって出勤し、そのまま海外へ飛ぶという人もいるし、彼氏持ちも多いので彼氏と過ごすという人もいる。
だから最終日と言っても地味なものなのだ。とにかくさっさと帰るなりプライベートの予定に突入するなり、お互いそれを邪魔しないというルールが暗黙の了解となっている。
私は、勇気を出して美咲さんにこんなメッセージを送った。
良かったらそれが終わった後でうちに来ませんか、と。
美咲さんからは、短く「じゃあ、お邪魔しようかな」という返信があった。
私は改めてバスルームに戻り、入念に身体を洗って全身のケアもした。
部屋着として着ている、薄手だがふわふわ素材の白のワンピースを頭からかぶって着る。
既に若干緊張しているが、美咲さんがここに来るのは少なくとも1時間以上後になるだろう。
そう言えば、美咲さんの身体の大きさに合う着替えがこの部屋にあるかと考えて、ない事に気付いた。
「…」
衝動的に誘ってしまったものの、準備らしい準備が全くできていない。これから買いに行くというわけにもいかないし、困ってしまった。
「急にお誘いしてしまったので、着替えも何も用意できておりません、すみません」
とりあえずそれだけメッセージを送った。
きっと、美咲さんは飲んでいるだろうし、部屋に来てももしかしたら疲れているかもしれない。
さっきまではいやらしい事ばかり考えていたはずなのに、いざとなると美咲さんが疲れていないか、この部屋でも極力心地良く過ごしてもらえるか、そんな事ばかりが気になってしまった。
しかし今更成す術もなく、ただ美咲さんを待っているうちに、やはり心臓がどきどきしてきて、また身体が熱くなっていく。
私はスマホを片手にベッドに潜り込んで、寝るでもなく、かと言って何かをするでもなく、じりじりとした時間を過ごした。
21時を過ぎた頃に、「これから向かう」という旨のメッセージが美咲さんから届き、私の鼓動はいっそう速くなった。
この部屋に美咲さんが来る、そう思うとやっぱり緊張する。
私はお茶の用意をしながら美咲さんの来訪を待った。道中の美咲さんからは「余計な気使いはいらない」というメッセージが届いており、必要最低限の気使いが何なのかもよくわからぬまま、気持ちばかりせわしくなっていた。
緊張しているからか、いつも聞いているはずのインターホンのチャイム音が妙に大きく感じられ、私はそれにびっくりしながらも、玄関の扉をすぐに開けた。
私の部屋の玄関先に美咲さんが立っている、その絵面がものすごく異様な光景に見えて、私は固まってしまう。
「なんだ、部屋間違えたかと思っちゃった」
私が扉を開けたまま黙って立ち尽くしているので、美咲さんがそんな冗談を言う。
このアパートには、美咲さんのような年恰好の女性が住んでいても、決しておかしいとは言い切れないのだが、その瞬間の私の頭の中には、いつぞやかビジネス誌に取り上げられていた美咲さんの写真が、目の前の美咲さんとだぶってしまって、有名人を目の前にして何も言葉が出ないような状況に近かったと言えよう。実際に目の前の美咲さんは、あのビジネス誌に載っていた時と同じ色合いの、明るいグレーのスーツの上からコートを羽織っていた。
「…おかえりなさい」
私は、これだけは言おうと決めていた言葉を口にする。きちんと、冗談だとわかるように言うべきだったのに、変に真面目なトーンになってしまった。
美咲さんは一瞬不思議そうな顔をしたが、真っ赤になった私の顔を見てすぐ笑顔になり、私の頭を撫でてくれる。
私が、フォローしようと口を開きかけた所で、美咲さんが「ただいま♪」と言葉を返してきて、私の手を握って玄関に入ってきた。
狭い玄関なので、美咲さんを先に立たせて後ろ手に扉の鍵をかけていると、美咲さんが笑いを含んで「可愛い」と呟きながら靴を脱ごうとしていた。
「気付いてる?冴子はいやらしい事考えてる時には切羽詰まった顔になるんだよね」
「…え?」
「今もそう」
美咲さんは靴を脱ぐのを止めて私の身体を包み込むように抱きしめてくる。着たままのコートからは、居酒屋帰りらしく煙草の匂いが微かに漂ってきた。
「……」
「我慢できなくなっていきなり呼んでくれたんでしょ?ここに」
「…はい、そうです」
まだ、私の部屋に美咲さんがいるという事実にいまいち現実感を得られずにいる中で、美咲さんに全てを見透かされているように言われてしまうと、ますます今起きているのは現実のものではないような、錯覚のような気分になった。そうではない事を確かめるために、私は美咲さんの身体に腕を回して強く力を込める。美咲さんの身体は確かにそこにあった。
「冴子の身体、あったかいね」
「お風呂に入ったから、かもしれません」
「そっか、だからいい匂いもする」
美咲さんが私のうなじ辺りに鼻を近づけて言う。私も負けじと美咲さんの匂いを嗅いだ。やっぱり、仕事帰りかつ居酒屋帰りなので、無機質で混沌とした空気に染まってはいるものの、美咲さんの素肌を間近にすれば、やっぱりいつもの美咲さんの匂いがする。
「…袴田さんとも一緒に飲んでたんですか」
意識してではなく、無意識のうちに言葉が先に出てしまった。美咲さんの衣服に染みついた匂いの中に、仕事とか、男性とか、そんなものが連想されたからかもしれない。
「知ってるの?…」
「一応、噂も流れてますし」
「…そっか」
「偶然街中で見かけた事もあります」
その言葉も、なぜだか無意識に口走ってしまった。美咲さんは一旦私の首元から顔を離して「どう思った?」と聞いてくる。
私は素直に「お姉さまにとっては、面倒そうな人だなと思いました」と答えた。
美咲さんがくつくつと笑い出して身体が揺れる。私は不安になり美咲さんの顔を見上げた。
「…ごめんね、変な意味じゃない」と断った後で、美咲さんは「冴子も、自分で思ってる以上に私の事よくわかってるなって思って」と付け加えた。
「はあ…そうですか」
きょとんとした私に、美咲さんはこう続ける。
「だからもっと私に甘えていいんだよ」
「……」
「それ、その顔」
私が、さっき指摘された「切羽詰まった顔」をしたという事だろうか。
美咲さんは私の顔を指差してから、すぐにキスをしてくれた。
ついさっきシャワーを浴びながら思い出した感触とは比べ物にならないリアリティを伴って、あのつるつるの柔らかい唇と舌が私の口内に侵入してくる。私は息が詰まりそうになりながらも、少しでもその時間が長く続くようにと願いながら、美咲さんのキスに応えた。
しばらくして顔が離れた所で、美咲さんが「こんな所で始める予定じゃなかったんだけどな」とこぼしながら、改めて靴を脱ぎにかかる。
そうか。美咲さんはヒールの靴を履いたままだったから、身長差が余計にできてしまったのか。
「す、すみません」
「いいのいいの」
私は恐縮しながら美咲さんを部屋に招き入れ、とりあえず落ち着いて座れそうなスペースに誘導する。狭い1DKの部屋なので、リビングといっても小さなローテーブルと座布団を兼ねたクッションやマットをいくつか並べただけで、ダイニングセットやソファを置くスペースはない。
私は美咲さんが着ていたコートを預かりハンガーにかける。
「お邪魔しまーす」
ついさっきまであんなに艶めかしいキスをしていた相手なのに、まるで別人のような調子で言いながら、美咲さんはそこに腰を落ち着けた。その様子にも、私の中には猛烈な違和感がありすぎてどうしたらいいのかわからなくなるほどだった。
「ふーん、こんな部屋なんだ」
「あ、あの、恥ずかしいので…」
「そうだよね」
そう言いつつも、多分美咲さんはさらっと私の部屋の全貌と、私の趣味や学びの軌跡なんかも見通してしまったに違いない。ひょっとしたら私にかつてどんな彼氏がいたかなんかも気付く所があったりするのかもしれない、と思った。
「…その、気使い無用との事だったんですが、何が正解なのかよくわからずでして」
居酒屋で飲んだ後なら温かいお茶は欲しいだろうと思って、それを出しながら聞いてみる。
「だいたい合ってるから大丈夫」
「…?」
「おいしいね」とお茶についてコメントした後に、美咲さんは続けた。
「…例えば一回メイク落としたのにまた化粧したりとか、そんな感じの事を言ったつもりだから、だいたい合ってる」
「そうですか」
実際私はシャワーを浴びた後に再度メイクはせずに美咲さんを迎えている。
「…あと、その部屋着の下にブラもパンツも履いてないのも正解」
「……」
私は恥ずかしくなり下を向いた。さっき玄関で抱きついた時にそれに気づいたのだろう。
締め付けが嫌で、私はお風呂上りには下着を着けずに過ごす事が多いのだが、美咲さんをそのまま迎えてしまったのは、今にして思えば不用意過ぎるというか、ある意味失礼ではないか。本来目上の来客に対してさすがにノーブラ、ノーパンはあんまりだろうと思うべきなのに、美咲さんの部屋でも割とそういう恰好で過ごすのに慣れていたので、見落としていたのだ。
「正解だから、いいのよ」
「…そうなんですけど、なんだかこの部屋にお姉さまが来ているというだけでも、かなり不思議な感じがしてしまって」
さっきからずっとそうだ。美咲さんが、私の普段使う湯呑でお茶を飲んでいる姿さえも、いちいち違和感である。
「だったらもっと早く押しかければ良かったわね」
美咲さんが笑ってそんな事を言う。
「私だって若い頃からあんな所に住んでたわけじゃなくて、働き始めた頃は、勿論こういう部屋に住んで、時間をかけて通勤して、って時代もあったわけよ、そんな昔の事でもないんだけど」
「はい」
「って言うか、むしろそういう時代の方が長いぐらいで、管理職になってからやっと、少し贅沢な暮らしをするようになったぐらいかな」
「…そうですよね」
「うん、だからちょっと懐かしい感じっていうか、これはこれで落ち着くと言うか」
「そうなんですか」
「そうだよー」
湯呑の中のお茶が思いのほか減っているようなので、私は美咲さんの湯呑にお茶をさした。
「さっき、冴子は袴田君の事気にしてたけど、ああいう育ちの良い人と、私は違うから」
「…私から見ると、あくまでも今の時点ではという事ですが、何が違うのかよくわかりません」
「そうだよね」
「はい」
美咲さんはほっと溜息を吐いた。
「…冴子の部屋に来て、やっぱり、冴子ぐらいの頃の自分の気持ちはもうだいぶ忘れちゃった、って事に気付いたりしてね。確かに入社二年目ぐらいで、部長と呼ばれてる人と、その周囲で活躍してる側近の人たちの細かい違いなんて全然わかんなかったよ」
美咲さんが手招きするので、私は美咲さんのすぐ隣に腰を下ろした。すぐに美咲さんの腕に包まれて、間近で話を聞かせてくれる。
きっと、私が美咲さんの話し声をすごく好きなのをわかってくれているから、そんな風にしたのだと思った。
「…冴子がそういう立場になれるかどうかはわからないけど、一度通り過ぎてしまったら、もうその頃の、何も知らなくて、何でも新鮮で刺激に未知ていると思える感性というものも、取り戻せないって事なんだろうな…真面目に考えた事もなかったけど」
美咲さんは今、他の人にはしていない話をしてくれている、その事だけは感じながら黙って話に耳を傾けていると、「なんかめちゃくちゃ婆臭い話しちゃった」と美咲さんは自分から締めくくってしまった。
私は、何も言わずに美咲さんを見つめて、視線だけで「そんな事ないです」という気持ちを伝える。
すると美咲さんも自分を許せる気になったのか、更に話をしてくれた。
「私が冴子ぐらいの頃は、全然、冴子みたいに真面目な事なんて考えてなかったなあ」
「私も真面目じゃないです」
「…毎日オナニーばっかりしてるから?」
「そういう、意味じゃなくて」
「…してるんだ?」
「……はい」
かつてその事は話したつもりだったように思うが、改めてカマをかけられてしまい、私は恥ずかしくなった。
「大丈夫、みんなだいたいそんなもんでしょ」
「お姉さまは、どうだったんですか」
「どうだったかなあ」
「…教えてくれないんですか?」
すると美咲さんは急に私の肩に回していた手に力を込めて私を向き直らせるとこう言った。
「冴子がこれまでに何人と付き合って週に何回ぐらいセックスしてたか聞かせてくれたら、教えてあげようかな」
「…」
「…冗談よ」
実は、そのまま黙っていられたら正直に言ってしまいそうだったので、答えるまでに間を置いて良かったと胸をなで下ろした。
「じゃ教えてくれるんですか」
「うーん、毎日とは言わないまでもけっこうしてたかな」
「…今は?」
美咲さんがじっと私を見てきて、それで私もはっとする。
「冴子は、遠慮しーなのかそうじゃないのか時々わからないわね」
「すみません…」
「そんな事、聞いてどうするの?」
「自分だけそうなのかどうか、知りたいだけです、お姉さまも、その…してるんだってわかったら、ちょっと嬉しいから」
私の中では、それでもせいぜい「たまに」とか「もうあまりしない」とか、そのような答えに決まっているだろうという思い込みがあって、その後の美咲さんの言葉があまりに意外で、思わず聞き返してしまうほどだった。
「冴子、もし私が『毎日かそれ以上』って答えたら、どうするの?」
「え…」
「そういう答えがもし返ってきたら、それは嬉しい答えになるのかしらね」
…そうだった。私はまだ、美咲さんの生活の全てを把握しているわけじゃない。だからそういう答えが返ってくる可能性も、あるに決まっているし、あるいは私以外にも、男性ともたまにはそういう事をしているかもしれないわけで、流れの中で安易に聞くべき質問ではなかったのだ。しかも袴田氏の事だって、噂の真相はわかっていないし、ひょっとしたら一回ぐらいそれらしき事があって、それで袴田氏も本気になって美咲さんを口説きにかかっているのかもしれないのだ。
私の頭の中であらゆる不確定要素が、ネガティブな方向に広がっていくようで、思わず質問について取り消すべきとわかっても、それが言葉として口から出るのに時間がかかってしまった。
「お姉さま、その」
「…追い詰めちゃったかな、ごめんね」
「いえ、その、変な事を聞いてしまってすみませんでした」
「そんなに謝らなくていいから、意地悪な事言ってごめんね」
「でも…」
「じゃ、冴子が今からどんな風にオナニーしてるのか実際に見せてくれたら、教えてあげる」
「…わかりました」
そんな事はお安い御用だ、と思い私は即答した。美咲さんはいつもの笑顔で答えてくれる。
「そうだなあ…今だと」
その先の言葉を聞くのが怖いような気がして、私はものすごく緊張した。
「毎日、という訳じゃないけど、それでも週に2回ぐらいはしてるんじゃないかな、むらはあると思うけど」
「そうなんですか」
「…特に冴子が帰った次の日とか、たくさんしてるかも」
「え…」
緊張と興奮が入り混じって、おかしな気分だ。
そもそも美咲さんが自分を慰める様子というものをまともに想像した事もなかったから、美咲さんの生々しい答えを聞いて、一気に想像が膨らんでしまう。
「…もったいないです」
「え?」
「お姉さまが、そんな事、しなくたっていい」
私は美咲さんの方に身体を向けて、今しかないと思いながらしっかりと伝えた。
「その、私ではない人となら、仕方ないと思いますが…そうじゃないのなら、夜中でも明け方でも日曜日でも、いつだって私はお姉さまの身体に触れたいんです」
「冴子…?」
「でもその、一人でするのは別腹という事もあるので、あれですけど…そんな場面が見られないのも勿体ないと思うんですが、わざわざ自分でしなくても、私の身体を使って気持ちよくなって欲しいんです」
到底、伝わりやすい表現とは言えないけれど、私なりに精いっぱいアピールした。
本来私は、美咲さんの性の対象物として関わり始めた人間だ。だからむしろ、シンプルに性的欲求をぶつけたい時に私を使って欲しい。
美咲さんは優しい人だから、人の心の部分まで考えているのかもしれないが、私は、美咲さんの性のはけ口として消費されたいのだと、正直に思っている。格差を気にしての事だけではなく、そもそも私たちはそういう目的で関係性をスタートさせているからだ。
「…ねえ、冴子」
美咲さんが、あの声色で呼びかけてくる。その先にどんな言葉が控えているのか、なんとなく予想ができた。
「…はい」
私は、あえて真面目に受け止める。
「なんでそんなにいやらしい事ばっかり言うのかしらね」
半分は叱っているように、もう半分は期待を込めたように美咲さんが言った。
「…お姉さまに、そんな風にいやらしく叱って欲しいからです」
「…冴子」
どちらからともなく再び唇を重ねる。さっき玄関でしたのとは違う、これは前戯のキスだ。お互いにその続きを意識させるような、期待と緊張感に満ちたものだ。
「はぁ…ん…」
美咲さんの手が、私の背中や腰をさすってきて、私は思わず声を漏らす。
「…さっき簡単に返事してたけど、冴子はこれから一人でオナニーするのよ?」
「は、はい」
今となってはあの安請け合いを後悔するほど、美咲さんに触って欲しくて仕方ないが、自分から約束した事だしそれはそれでやるつもりだ。
でも、もう少しだけ美咲さんにもその気になって欲しい。このまま、私を咎める気持ちだけで私の自慰を見られたくない。そう思って私はもう一度だけ美咲さんにしがみついて自分から唇を重ねた。
「ん…っ……」
美咲さんも自慰をしていると知った今、それを黙ってスルーできるはずもない。私は、いつも美咲さんの秘部にするような動きで唇と舌を使って美咲さんの口内を愛撫した。美咲さんの舌先を甘噛みして、何時間後になるかわからないが、美咲さんの萌芽にも必ずこれと同じ刺激を与える事を予告する。
「んぁ…ふ…」
たまらないといった様子で美咲さんの吐息が漏れる。
こういう声を、誰にも聞かせず発するなんて、本当に勿体ない。誰も聞いていないのなら、せめて私に聞かせて欲しい。
私は美咲さんのスーツの上着のボタンを外して、インナーのブラウスの上から大きく美咲さんの胸をまさぐるように掴んだ。同時に顔を動かして、美咲さんの唇から頬や耳たぶ、首筋や鎖骨の辺りにもキスの雨を降らせる。
「冴子…っ…」
「オナニーはします、だから少しだけ」
「もうっ、…ん……」
美咲さんの表情から余裕が消えていく感じと、体温が上がっていく感じがあって、私はその様子にそこそこ満足した。
「お姉さま、ここ…」
スカートごしに美咲さんの恥丘をさする。美咲さんは軽く頬を上気させつつ少し息を切らせていた。
「…ここ、濡れてきたら、いつでも私が舐めるんです」
「うん…」
「お姉さまが気持ちよくなって、イっちゃっても、ずーっと舐めますから」
「冴子…」
「お姉さま、私のオナニー見てください」
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