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クリスマスプレゼント
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袴田氏には変に思われなかっただろうか。
…割と、いちもくさんに逃げてしまったので、かえって目立ったのではないかと後から不安になる。
でももう仕方ない。
一方でエステ帰りの身体は軽く、「美咲さんもいろんな人に狙われて大変だなあ」などと、他人事のように考えてしまう自分もいる。
一緒にいる時はあまりそう思わないのだけれど、例えば仕事中なんて、美咲さんとの間に感じる距離感は半端なものではない。
私が本当にこの人に存在を知られていて、二人だけの時間を過ごす相手として選ばれている事自体、信じられないという気にさえなるのだ。
私は美咲さんの身体の隅々まで見知っているにも関わらず、「それを知っているのは自分だけ」という優越感も、その最中を除いては驚くほど、感じないでいる。
どちらかと言うと、私が知っているあの人が、本当にその人と同一人物なのだろうか、と怪しんでしまう気持ちの方が強いと言って良い。
…結局、遠慮ばかりして私は美咲さんの何も知らずに、やたらと一緒の時間を過ごしているだけのようにも思える。
それに比べて袴田氏はきっと、私の知らない美咲さんの顔をたくさん見知っているだろう。
実物の袴田氏を見た時には、何とも表現し難い気持ちになった。
どういうわけか、「絵になるだろう」とは思ったけれど、あの袴田氏の前で、美咲さんが私に対して見せるような艶めかしい姿を晒すという事が、うまくイメージできない、そんな感じがした。
袴田氏が美咲さんのどこに惹かれているのか知らないから、何とも言えないけれど。
そして悩みに悩んでいた美咲さんへのクリスマスプレゼントについては、八割方衝動買いとも言えるような勢いで選んだ雪だるまのぬいぐるみに決定した。
大したものではない。ヒットしたアニメ映画に登場した、雪だるまのキャラクターのぬいぐるみだ。あまり大きいと子供っぽいし邪魔になるだろうから、ベッドサイドに置いても困らない程度のサイズで、なんとなく手触りが良いのが気に入って、それを選んだのだ。
「…」
購入後も「これでいいのか」という気持ちは全く消えないが、かと言って他に思い浮かぶものもなく、結局これがこのままプレゼントとして美咲さんに渡る事になるのだろうと思いつつ、ひとまず包装ごと自分の部屋で保管した。
…そう言えば、まだ美咲さんをこの部屋に招いた事はなかったな、と思い出す。
実は少し前から、美咲さんがその気になればいつでもこの部屋へ来られるようにと思って、部屋の整頓や掃除はまめに行うようになっていた。
美咲さんの部屋みたいに広くも立派でもないけれど、それでも私にできる事はしておきたかった。
格差があるのは元からわかっている事だし、美咲さんはそういう所だけで人を見たりはしない。けれども「どうせ」と諦めるのは、多分美咲さんにも失礼だ、と思うようになっている。
そこで、「あ」と思う。
袴田氏を見てもう一つ思う事があったなと。
それは、自分が女であり袴田氏が男だから、という性差によるものがあるかもしれないけれど、袴田氏はきっと、美咲さんにもっと好かれる自分になるために何をすれば良いかを思考していない、その思考の量において私は彼より勝っているという確証があった。
好きな人のために変わるというのは、装いや好みについてと思われがちかもしれないけれど、本当に大切なのはそういう事ではないように思えてきている。
自分自身が嫌いな自分の一面も、それを肯定し受け止めてくれる人によって、自分の価値観そのものが緩やかにでも変わる事がある。
私であれば、変に大きな胸だったり、性に旺盛だったり、そういう自分を嫌いだったけれど、美咲さんと関わる中でそれは不必要な感情なのだと知った。
だから完全にではないにせよ、それもまた自分の一部として認める事はできるようになっている。
美咲さんがいいと言ってくれるから、自分を認める事ができた、と私は思う。
袴田氏にはそもそもコンプレックスなんてないのかもしれないけれど、美咲さんがいいと言ってくれている事を彼はどの程度きちんと理解できているだろうか。
わずかな時間だったけれど、彼から感じたのは、自分自身が男として受け入れられていない事への憤りやそれに類する感情だった気がする。
どうしても私には、美咲さんという人が、真面目に心を開いてきた相手を完全シャットアウトできるようには思えない。
だから、原因は袴田氏にあるのではないか、と私は感じずにいられなかった。
あの日私は、秘書課への異動を目指すと美咲さんに宣言したけれど、おそらく異動ができるかどうかそれ自体は重要な事ではない。
美咲さんに飼われるただのペットのままでいるのも決して悪い事じゃないはずで、そうする事もできるのに、私はそうではなくもっといろんな形で美咲さんと関わりたいと思ったから、あんな事を考えて宣言してしまった。
後から思えば、叶わないかもしれない薄い可能性を含んだ決意なのだから、あんな所で表明するのも変な話なのだけれど。
美咲さんは、少し期待もしてくれたろうし、反面「口添えはしないで欲しいんだよね」というニュートラルな感情も、なんとなく伝えてくれたような気がする。
*-*-*-*-*-
袴田氏の事はその日以来考えないようにして、ほどなくクリスマス・イヴの当日を迎えた。12月なのにそれほど寒さも感じない、穏やかな天気だった。
いつも通りに勤務を終えて定時で一旦帰宅する。
「車で迎えに行こうか」という美咲さんの申し出を、今日は素直に受ける事にした。
前日から用意しておいた今日のための私服に着替えて、荷物をまとめアパートを出ると、例の目立つポルシェがすぐ目に入った。待たせてしまっただろうか、と思いながら小走りに車に近づいていくと、助手席側の窓が開いて「走ると危ないよ」という美咲さんの声が聞こえた。
その声にかえってつまずきそうになりながらも私は転ぶ事なく車の助手席ドアを開けた。美咲さんが窓を開けて叫んだから、この車の助手席が右側だと改めて気付いたけれど、うっかりすると左側のドアに近づく所だった。そういう気使いも含めての声掛けだったのかな、と思うとさりげない優しさに感服する。
「荷物多くない?」
「だ、大丈夫です」
私は助手席の足元に荷物を置きながらシートベルトを締めた。
美咲さんは黙ったままアクセルを踏んで車を発進させた。
普段電車からは見られない景色を車窓から眺めるのは不思議な気分になる。私が窓の外ばかり見ているので、美咲さんが「初めてバスに乗った子供みたい」と笑った。
車窓からの景色に気持ちを取られてしまったのは、それが右側の座席からのものだったから、というのもある。だから「バス」の指摘は強ち間違いではないけれど、それにしては視点が低すぎる、とツッコミたくもなった。言葉にはしなかったけれど。
恵比寿付近に入ると、イルミネーションが目立つようになる。歩きながら見るイルミネーションも綺麗だけど、こうして車で流しながら眺めるのはまた違った贅沢感だ。
私のよく知っているマンションの、よく知らない方角から車は地下駐車場に入り、ほどなくしてエンジンが止まった。
「車だと早い感じがしますね」
「道路がそんなに混んでなくて良かったわ」
中野から恵比寿まで、電車でもそれほど長いというわけじゃないけれど、階段やエスカレーターでの移動やホームでの待ち時間、人の多さからくる気疲れなどを思えば、やっぱり車移動はとても贅沢だ。都内にあってはなおのこと。
「あ、でも…」
「ん?」
私よりも先に車を降りて助手席側に回り込んでドアを開けてくれた美咲さんを見上げてようやく気付く。
「今日は車でご出勤されたんですか」
「うん、そう」
あえてそれは黙っていた美咲さんを思うと、直前まで迎えは断る事も考えていた自分が恥ずかしくなる。
「…」
「何、自力で降りられない?」
低いシートから抜け出せなくなったのかと考えたらしく、美咲さんが手を引いてくれた。私は立ち上がり荷物を抱えて美咲さんの手を握ったままついていく。
「手が冷たい」
「…すみません」
「ううん、そういう意味じゃない」
手をつないだままエレベーターに乗り込んで、私たちはそんな言葉を交わした。
改めて美咲さんの全身を眺めると、今日は車通勤だったからか、薄めのハーフコートを羽織って、その下にスーツという出で立ちである。今日はたまたま受付から美咲さんの姿を見ていなかったから、一瞬の間にその装いをチェックしつつ、やっぱりこの人があの人と同一人物なんだよな、などとよくわからない感慨にふけっていた。
「何、じろじろ見ちゃって」
エレベーターを降りながらそんな声をかけられた。
「いえその、今日もすごく素敵だなと思って」
「…そう?」
「はい、その…特に仕事モードのお姉さまを見ていると、なんだかものすごく偉大な人の近くにいるんだなあって思えてきて」
「なるほどね」
言いながら美咲さんは、私の手を握ったまま片手で自宅マンションの鍵を開ける。
普段、一人で帰宅する時もこういう感じなのかなあ、などと考えながら私はその表情を観察してしまう。
美咲さんは黙ってドアを開けて、私を中に促した。
私は毎週しているように、リビングルームの一角に荷物を下ろしてコートを脱ぎハンガーにかける。
「8時には、頼んだものが来る予定だから」
一通り空調を入れて着替えをしながら、美咲さんのそんな声が飛んできた。
「その他で何か手伝った方が良い事はありますか」
「…じゃあ、ちょっとだけお願いしてもいい?」
「もちろんです」
事前に用意していると言うスパークリングワインとグラス、食器類を並べるよう頼まれて私がそれをしていると、着替えを済ませてこちらに近づいて来た美咲さんがあっと声をあげた。
「…ごめん、そういう感じだったわけね、申し訳ない」
「大丈夫です、動ける服ですし」
めかし込んで来い、と言われていたので私はドレス、とまではいかないがニットのワンピースドレスに着替えて部屋を出ていた。コートを脱がないまま車に乗ってしまったので、美咲さんが私の服装に気がつかず、今ようやくそんな、ニットドレス姿の自分が皿を並べている所に恐縮してしまったようだ。
そのニットドレスは身頃の一部と袖が異素材になっていて、五分くらいの長さの袖がひらひらしているので、美咲さんが面白そうにその辺りを触ってきた。
「危ないですよ」
割れ物を触っている状態なので、あまり触られると手元が狂ってしまう。
「いけないいけない、8時まではダメなんだった」
8時のケータリング到着直後から触るつもりなのか、と複雑な気分になりながらも、あらかた準備を終えたので、残りは待つだけとなった。
「ワインはまだ冷蔵庫に入れたままにしてます」
「ありがとう、まあ座ってよ」
勧められるままテーブルに就く。
正直、ワインボトルに触るのは怖かった。温度が変わらないよう気を使ったふりをしていたが、私はワインには詳しくない。扱いを間違えたらどうしようと思って、手を出せなかっただけの事だ。
頭の中の記憶を手繰り寄せて思い出す。確かスパークリングワインの類は比較的温度を低くして飲むので良かった気がする。フルボディの赤ワインなんかは、あまり冷やさずに飲むのが正しかったか。
酒の種類は、秘書検定の試験問題には出ないものの、アッパー層ならワイン通の人も多く、接待や会食ではそれなりの店を予約したりするのは秘書の業務の一部でもある。
特にワインは、銘柄や産地、その価格や味の傾向も知っているに越した事はないのだが、いかんせん学ぶ機会もあまりないし、それ以前の状況だから、まだそんな知識を肥やす余裕はなかった。
時刻はまだ19時40分くらいである。普通に仕事をして家に帰って、それからここへ来て色々準備をしたのにまだこんな時間なのか、と奇妙な気分になる。
「…あの、お姉さま」
「何?」
「少し時間もありますし、先に持ってきたプレゼントを渡してもいいでしょうか、順番的には変かもしれないんですけど」
「…そんなに、早く渡したいようなものなのかな?」
美咲さんは楽しそうに私の顔を覗いてくる。
「いえ、早く渡して『しまいたい』と言いますか」
「何?それ」
「…」
「じゃ、冴子の言う通り、先にプレゼント交換しようか」
「私の分もあるんですか」
「…あるに決まってるでしょ」
…絶対に、プレゼントの品物としての格差はあるに決まっているのだが、それならそれでさっさと落ち込んでから、美咲さんの手配したケータリングにありついて気分を盛り上げる方が良いと判断して、「じゃあ、そうしましょう」と応じた。
大きな荷物の中からガサゴソと、件のぬいぐるみを包んだ包装を取り出す。包装のせいで妙に大きく見えるのが余計に空しい。
美咲さんも、どこか別室へものを取りに行ったようだった。
「私のを先に開けてください」
「…なんでそんなに焦ってるの?」
ものを渡す前から私がそんな事を口走るので、美咲さんは明らかに不審がっている。
「大したものじゃないからです」
「あはは、そんな事気にしてるの?」
「…はい」
気にするな、と言われても普通無理だと思う。私は、実物より幾分大げさなサイズになった包装を美咲さんに渡す。入れ替わりに美咲さんも、それなりのサイズの四角い箱のプレゼントを渡してくれた。
「ありがとうございます」
「…私が先に開けるんだっけ?」
「はい、お願いします」
私が渡したプレゼントの包装紙をはがして、美咲さんは「かわいいね」と笑ってくれた。
「これ、あの映画のキャラだよね」
「はい」
いつも不思議に思うのだが、こういう時の美咲さんのリアクションは、極めて普通の女性のものなのだ。拍子抜けするぐらい普通に喜んでくれる。
「あ、これは触り心地がいい」
「良かったです、そこもいいかなと思って選んだので」
「なるほど」
私がほっとしていると、美咲さんはぬいぐるみを抱えたまま、「それも開けてみてよ」と言ってきた。私は慌てて手元の箱に意識を戻し、慎重に包みを開けた。
包みの柄でだいたい想像はついていたが、これは有名ブランドのクリスマスコフレの一つであろう。
「これ、いいんですか」
「…実はすっごく迷っちゃった」
「え?」
「冴子の好みが、実はよくわかってなかったなと、買う段階になって気付いたけど、どうにもならないしね」
化粧品ではなくボディケアアイテムのクリスマスコフレを選んだのはそれが理由だ、との事。
実際私は使ったことのないブランドだったけれど、ソープやボディローションの容器から漂う香りだけでも、良さそうな感じだった。
「どうせ冴子の事だから、この手のものは決めて使っているのがあるはずだ、という事には買った後から気づいたりして、ちょっと後悔してもいるけど」
「そんなの、気にしないでください、プレゼントなんだからそういうもんじゃありませんか」
「…意外に気の利いたコメント」
「あ、ありがとうございます」
「じゃ今日早速使おうね」
「は、はい…」
一気に、二人でシャワーを浴びる事を想像させられて恥ずかしくなった。固まっていると、ふいに美咲さんのスマホが鳴り美咲さんが「はいはい」と言いつつ通話ボタンをタップしたようだった。おそらくはケータリングの配達員からの電話だろう。
「…じゃ冴子が若干いやらしい気分になった所で申し訳ないけど、御馳走が届くから、まずはそっちから食べましょう」
「…はい」
どれくらいの量が届くのか計り知れないため、私も美咲さんを手伝って届けられた食事を運ぶ事にする。
食事は案外と庶民的なものだったが、一つ一つの料理には手間がかかっているような様子や、材料へのこだわりを感じる事ができる。「ケータリングはごみが出るのがちょっとね」とぼやきながら、美咲さんはそれらをうまくテーブルに並べていった。
定番の大き目ローストチキンに始まり、グラタンやホットビスケット、サラダ、具だくさんのスープやパンなどもセットされている。
「ケーキは後でね」
美咲さんは、その箱だけは冷蔵庫に収めて、それと入れ替わりにスパークリングワインのボトルを手に戻ってきた。
「そう言えば、セラーはお持ちではないんですね」
「そんなの使うほどワイン好きってわけじゃないし…変な恋愛小説だとアッパー層の部屋には当たり前のようにワインセラーがあるとか、あれ嘘だから」
「そうなんですか」
「と言うか私は別にそこまでアッパーってわけでもないし」
「……」
返す言葉がない。こんな、地価の高い場所にある立派なマンション住まいでポルシェを乗り回し、気楽にケータリングなんて取っちゃうような、キャリア女性がアッパー層でなくて何なのだ。
「その、アッパー層の明確な定義というものがあるんでしょうか」
「ない」
「じゃあ…」
「とにかく、冷めないうちに食べないとね、冴子の気にするそこんところは食べながら説明してあげる」
「はい」
「だから、びびらないの」
ハーフサイズのスパークリングワインの栓を抜いて、美咲さんがボトルを傾けてきた。されるがままに私はグラスを差し出し、液体が注がれると今度は私がボトルを受け取って美咲さんのグラスに注ぐ。
「前日だけど、メリークリスマス」
「いただきます」
グラスに注がれたスパークリングワインは綺麗なロゼ色で、いかにもクリスマスにふさわしい華やかさを感じた。
「…おいしい」
「うん、おいしい」
「あの、どんな味か知らないで買ったんですか?」
「うん」
美咲さんの説明によると、これはスペイン産の手頃なものでカヴァと言うらしい。近年非常に流行している飲みやすい辛口として、レストランにも多く常備されているそうだ。
「同じ量で20倍の値段のものもあるんだから、ワインは正直よくわかんないわ」
「…」
「冴子はさっき、セラーの話をしてたけど」
「はい」
「今時のセレブは、そういうステレオタイプに何でもこだわって高いものばっかり好むという時代ではないような気がするし、仮に私がそういう人たちの仲間だと思われたとしても、昔気質のバブルっぽいセレブ像ってのはださいと思っちゃうのよね」
そう言って、美咲さんは今日用意したケータリングの品々の価格をわざわざ私に教えてきた。値段を聞いて、確かに私の暮らしで毎週頼めるわけではないけれど、友達同士でお金を出し合えば、決して支払えないような額ではなく、パーティー料理の選択肢として、庶民にも十分使い勝手も質も良いものだと思う。
私は、話を聞きながらもテーブルの上の料理に次々と手をつけていった。いつも通りに仕事もしたし、それなりに空腹だったのだ。
あるいは最初に口当たりのいいお酒を飲んで、かえって空腹感が増したかもしれない。
「…ところで、冴子って、普段食事制限とかしているの?」
「食べ過ぎた日の前後は抜いたりしますけど、基本的にはあまりしていないです」
「そうなんだ、じゃ今日はケーキも食べるよね」
「もちろんです」
「…で明日の朝とか昼とかを抜くってわけ?」
「それは…状況によりけりです」
美咲さんは料理の全貌を眺めつつ、「残りそうだよね、この量だと」などと呟いている。
「残ったら、少し持ち帰っても構わないですか?」
「もちろん」
「良かった」
今までよりも、一歩本音を出して、聞いてみて良かった。
そして、美咲さんも意識して自分の事を話したり、私の事を知ろうとしてくれている気がする。今夜はそんな感じだった。
きっと、美咲さんも自分の暮らしや考えを話す事で、私が思う「セレブ像」というものと、実際の美咲さんのあり方との違いをもっとわかって欲しいと思っているのではないだろうか。だからわざとあんな風に、買ったものの値段を口にしたのだと思う。
「結局、入ってきたお金をどこにどう使うか、その選択肢をより多く持っているのが、アッパー層とかセレブとかいうお金持ちの特権であって、だからこそ、考え方やお金の使い方はその分個人差が大きくなるのよ」
「…だとしたら、セレブ同士でも考えは合わないという事も大いにあるという事ですか」
「あるある、非常に多々あるわよ」
美咲さんは、うんざりという顔で過去の知り合いについて話をしてくれた。
「例えば今日のこの内容みたいなものを、ダメだと言ったりね、そういう価値観の人もいるわけで」
「そうなんですか」
「名前にお金を使う事を大事にする人もいるからね、彼らにしたら私は全然仲間じゃないって事よ」
「…」
「マウンティングなんて下らないと思うばかりだけど、ビジネスの場では、そういう事でポジション取りを損するのは勿体ないから、そういう価値観の相手にもバカにされないための武装は必要になっちゃうけどね」
なるほど。
だから、仕事モードの美咲さんには、別人っぽさが漂っていたのか。
「冴子からしたらバカみたいって思うだろうけど、時計がどうとか、まずはそういう見た目でわかる所から、使う店だの持ってるガジェットだの、どこに住んでるだの、そういうね…しょーもない要素だけで勝ち負けを先に決める人が、世の中にはいっぱいいるわけよ」
「何だか、大変そうですね」
「ほんと、下らない事よ」
酔ってきたのか、美咲さんがこんなにもネガティブな話題を吐露するのは珍しいと思った。美咲さんはアルコールにそこまで強いわけではないけれど、まだスパークリングワインを1、2杯くらいしか飲んでいない。
もしかして今日仕事中に何か嫌な事でもあったのだろうか。気にはなるがあえて尋ねる気持ちにもなれなかった。
「…大丈夫ですか?」
私は、スパークリングワインのボトルを構えた状態で尋ねる。無理に飲ませるのもいいのか悪いのか、わからなかった。
「…もういいわ、ちょうど半分くらい飲んでるはずだし、残りは冴子が飲みなさい」
「…はい」
私は残った液体を自分のグラスに注いで、改めて空のボトルに貼られたラベルをしげしげと見つめた。
「これ、写真に撮ってもいいですか」
「いいけど、大した銘柄のものでもないと思うわよ」
「でも、記念に」
「…そうだね」
私は「すみません」と改めて一言断りを入れて、ボトルに貼られたラベルの写真を撮った。
「そうだ、冴子」
「…?」
「こっち来てみて」
美咲さんがベランダへ出るように促してくる。私は後をついて行った。
「ちょっと、寒いかもしれないけど」
言いながら、美咲さんはどこからか持って来ていたふわふわのカーディガンを私の肩にかけてくれた。
私がサンダルを履いてベランダに出てみると、遠くにおそらく六本木の夜景やイルミネーション群が見える。
「すごい、ここからこんなものが見えるんですね」
「そう、でも…いや、だから、セレブマンションに上がるやいなや『素敵な夜景が一面に』みたいな事も、景観厨の人の憧れみたいなもんだから、違うって事よ」
「…はい」
セラーの話を振ってしまった事を後悔する。今日の美咲さんはバブリーセレブへの悪口が、ことあるごとに出てきてしまうようだ。
「大体、夜にお邪魔してるのに、カーテンもせずいきなり窓から外が見えるのもおかしくない?ホテルじゃないんだから、民家なんだから普通何かしらカーテンかかってるでしょ」
「それもそうですね」
珍しく毒づく美咲さんが可笑しくて、思わず吹き出してしまった。
他の部屋は窓を閉め切っているようで、思いのほかベランダは静まり返っている。
「お姉さまは、寒くないですか」
「私は平気」
「でも」
よく見ると美咲さんも比較的薄着だし、心配になって私は美咲さんの傍に近づいた。
「冴子はこういう夜景は好き?」
「はい、綺麗だし、なんだか気持ちも盛り上がりますし」
「うん」
なんとなく私は美咲さんの両手を自分の掌に包むようにして握りしめた。酔っているように見えたけれど、美咲さんの手は冷たかった。さっきとは逆の状況だ、と思う。
「冴子が普通に喜んでくれる娘で良かった」
「どういう事ですか…?」
「…私は、ああいうの何とも思わない方だから」
「そうなんですか」
美咲さんは内緒話をするように私の耳元で囁く。
「そう、だから、これ見よがしに夜景の綺麗な部屋だとか、お見せだとかに連れて行かれるのって、本当は全然好きじゃないのよね」
「…今日はほんとに、毒吐きまくりですね、お姉さま」
「毒素が溜まっているのかしらね、まずいわね、出さないと」
私は、握った両手に少しだけ力を入れる。
酔っているようで、あらゆる事に「冷めている」美咲さんの雰囲気に、なんだか寂しさを覚えた。もしかすると普段はそんな、冷めた自分自身を押し隠して振舞っているのではないか、そんな想像さえしてしまい、少し悲しくもなった。
「お姉さま、あの」
私が美咲さんに向かって顔を上げ背伸びをし、はっきりとわかるようにキスをねだると、美咲さんは「ここで?」と言葉にして問いかけてきた。
「私は普通なので、綺麗な景色を見てときめいてしまいました」
美咲さんは「はは」と乾いた笑い声をあげて、「じゃ、ちょっとだけね」と断ってから優しくキスしてくれた。
寒い季節に屋外でキスすると、身体がいかに火照っているのかがよくわかるようで、かえって羞恥心を刺激されるが、そこにまた興奮するものだ。
「…ん……」
美咲さんの体温を上げるためにと、自分自身も温まりたくて、私は美咲さんにぎゅっとしがみつきながら身体を擦りつける。
「っ…」
別にここでそれ以上の事をしたい訳ではなかったが、期せずして美咲さんの興奮のスイッチも軽く入ってしまったような気がした。
その証拠に、美咲さんの身体が熱くなっているのが伝わってくる。
クチュッとごく小さな音を立てて舌が絡み合う。私は美咲さんの口内からわずかに溢れてきた唾液を逃すまいとして吸った。
「ん……」
美咲さんの手が、カーディガンの内側に侵入してきて優しく私の胸を揉む。私は大きな吐息を漏らしそうになり、必死で息を止めた。
「冴子、大丈夫?」
微かに唇を離して美咲さんが小声で尋ねてくる。私は慎重に呼吸を再開しながら黙って頷いた。
「…もしどこかの窓が開いてたら、って考えちゃった?」
「…はい」
私も極力小さな声で答える。
「可愛い」
「…」
加虐心が刺激されたのか、美咲さんはわざと大きな動きで私の胸元とお尻を同時にまさぐってきた。
「あ、…っ…」
声が漏れそうになり、私は慌てて口元を手で押さえた。美咲さんが視線でその手をどかせと訴えてくるので、私はどうにか息が漏れないようにしつつ手を離す。すると美咲さんがキスで私の口をふさいできた。
「はんっ…んん……」
口をふさいでいると言っても、あんまり騒げばそれは無意味だ。けれども美咲さんの舌の動きやその温かさに、思考が溶けてなくなりそうな予感と、身体の敏感な部分をかすめるように触れてくる手の動きにも、耐えられないと思うものがあった。
「んっ…ふ……」
貸してもらったカーディガンがはだけて、ニットドレスの肩口もずらされて素肌が露わになっていた。そこに冷気が当たり、きわどい部分が露出している事を認識させられると共に、火照ったその部分が冷やされるようで気持ち良くもあった。
身体から力が抜けそうになり、私はかろうじて唇の隙間から「お姉さまぁ」と呼びかけ訴える。
「あの、もう…我慢できません、全部…見て、触って欲しいです」
「…景色はもういいの?」
「大丈夫です」
…割と、いちもくさんに逃げてしまったので、かえって目立ったのではないかと後から不安になる。
でももう仕方ない。
一方でエステ帰りの身体は軽く、「美咲さんもいろんな人に狙われて大変だなあ」などと、他人事のように考えてしまう自分もいる。
一緒にいる時はあまりそう思わないのだけれど、例えば仕事中なんて、美咲さんとの間に感じる距離感は半端なものではない。
私が本当にこの人に存在を知られていて、二人だけの時間を過ごす相手として選ばれている事自体、信じられないという気にさえなるのだ。
私は美咲さんの身体の隅々まで見知っているにも関わらず、「それを知っているのは自分だけ」という優越感も、その最中を除いては驚くほど、感じないでいる。
どちらかと言うと、私が知っているあの人が、本当にその人と同一人物なのだろうか、と怪しんでしまう気持ちの方が強いと言って良い。
…結局、遠慮ばかりして私は美咲さんの何も知らずに、やたらと一緒の時間を過ごしているだけのようにも思える。
それに比べて袴田氏はきっと、私の知らない美咲さんの顔をたくさん見知っているだろう。
実物の袴田氏を見た時には、何とも表現し難い気持ちになった。
どういうわけか、「絵になるだろう」とは思ったけれど、あの袴田氏の前で、美咲さんが私に対して見せるような艶めかしい姿を晒すという事が、うまくイメージできない、そんな感じがした。
袴田氏が美咲さんのどこに惹かれているのか知らないから、何とも言えないけれど。
そして悩みに悩んでいた美咲さんへのクリスマスプレゼントについては、八割方衝動買いとも言えるような勢いで選んだ雪だるまのぬいぐるみに決定した。
大したものではない。ヒットしたアニメ映画に登場した、雪だるまのキャラクターのぬいぐるみだ。あまり大きいと子供っぽいし邪魔になるだろうから、ベッドサイドに置いても困らない程度のサイズで、なんとなく手触りが良いのが気に入って、それを選んだのだ。
「…」
購入後も「これでいいのか」という気持ちは全く消えないが、かと言って他に思い浮かぶものもなく、結局これがこのままプレゼントとして美咲さんに渡る事になるのだろうと思いつつ、ひとまず包装ごと自分の部屋で保管した。
…そう言えば、まだ美咲さんをこの部屋に招いた事はなかったな、と思い出す。
実は少し前から、美咲さんがその気になればいつでもこの部屋へ来られるようにと思って、部屋の整頓や掃除はまめに行うようになっていた。
美咲さんの部屋みたいに広くも立派でもないけれど、それでも私にできる事はしておきたかった。
格差があるのは元からわかっている事だし、美咲さんはそういう所だけで人を見たりはしない。けれども「どうせ」と諦めるのは、多分美咲さんにも失礼だ、と思うようになっている。
そこで、「あ」と思う。
袴田氏を見てもう一つ思う事があったなと。
それは、自分が女であり袴田氏が男だから、という性差によるものがあるかもしれないけれど、袴田氏はきっと、美咲さんにもっと好かれる自分になるために何をすれば良いかを思考していない、その思考の量において私は彼より勝っているという確証があった。
好きな人のために変わるというのは、装いや好みについてと思われがちかもしれないけれど、本当に大切なのはそういう事ではないように思えてきている。
自分自身が嫌いな自分の一面も、それを肯定し受け止めてくれる人によって、自分の価値観そのものが緩やかにでも変わる事がある。
私であれば、変に大きな胸だったり、性に旺盛だったり、そういう自分を嫌いだったけれど、美咲さんと関わる中でそれは不必要な感情なのだと知った。
だから完全にではないにせよ、それもまた自分の一部として認める事はできるようになっている。
美咲さんがいいと言ってくれるから、自分を認める事ができた、と私は思う。
袴田氏にはそもそもコンプレックスなんてないのかもしれないけれど、美咲さんがいいと言ってくれている事を彼はどの程度きちんと理解できているだろうか。
わずかな時間だったけれど、彼から感じたのは、自分自身が男として受け入れられていない事への憤りやそれに類する感情だった気がする。
どうしても私には、美咲さんという人が、真面目に心を開いてきた相手を完全シャットアウトできるようには思えない。
だから、原因は袴田氏にあるのではないか、と私は感じずにいられなかった。
あの日私は、秘書課への異動を目指すと美咲さんに宣言したけれど、おそらく異動ができるかどうかそれ自体は重要な事ではない。
美咲さんに飼われるただのペットのままでいるのも決して悪い事じゃないはずで、そうする事もできるのに、私はそうではなくもっといろんな形で美咲さんと関わりたいと思ったから、あんな事を考えて宣言してしまった。
後から思えば、叶わないかもしれない薄い可能性を含んだ決意なのだから、あんな所で表明するのも変な話なのだけれど。
美咲さんは、少し期待もしてくれたろうし、反面「口添えはしないで欲しいんだよね」というニュートラルな感情も、なんとなく伝えてくれたような気がする。
*-*-*-*-*-
袴田氏の事はその日以来考えないようにして、ほどなくクリスマス・イヴの当日を迎えた。12月なのにそれほど寒さも感じない、穏やかな天気だった。
いつも通りに勤務を終えて定時で一旦帰宅する。
「車で迎えに行こうか」という美咲さんの申し出を、今日は素直に受ける事にした。
前日から用意しておいた今日のための私服に着替えて、荷物をまとめアパートを出ると、例の目立つポルシェがすぐ目に入った。待たせてしまっただろうか、と思いながら小走りに車に近づいていくと、助手席側の窓が開いて「走ると危ないよ」という美咲さんの声が聞こえた。
その声にかえってつまずきそうになりながらも私は転ぶ事なく車の助手席ドアを開けた。美咲さんが窓を開けて叫んだから、この車の助手席が右側だと改めて気付いたけれど、うっかりすると左側のドアに近づく所だった。そういう気使いも含めての声掛けだったのかな、と思うとさりげない優しさに感服する。
「荷物多くない?」
「だ、大丈夫です」
私は助手席の足元に荷物を置きながらシートベルトを締めた。
美咲さんは黙ったままアクセルを踏んで車を発進させた。
普段電車からは見られない景色を車窓から眺めるのは不思議な気分になる。私が窓の外ばかり見ているので、美咲さんが「初めてバスに乗った子供みたい」と笑った。
車窓からの景色に気持ちを取られてしまったのは、それが右側の座席からのものだったから、というのもある。だから「バス」の指摘は強ち間違いではないけれど、それにしては視点が低すぎる、とツッコミたくもなった。言葉にはしなかったけれど。
恵比寿付近に入ると、イルミネーションが目立つようになる。歩きながら見るイルミネーションも綺麗だけど、こうして車で流しながら眺めるのはまた違った贅沢感だ。
私のよく知っているマンションの、よく知らない方角から車は地下駐車場に入り、ほどなくしてエンジンが止まった。
「車だと早い感じがしますね」
「道路がそんなに混んでなくて良かったわ」
中野から恵比寿まで、電車でもそれほど長いというわけじゃないけれど、階段やエスカレーターでの移動やホームでの待ち時間、人の多さからくる気疲れなどを思えば、やっぱり車移動はとても贅沢だ。都内にあってはなおのこと。
「あ、でも…」
「ん?」
私よりも先に車を降りて助手席側に回り込んでドアを開けてくれた美咲さんを見上げてようやく気付く。
「今日は車でご出勤されたんですか」
「うん、そう」
あえてそれは黙っていた美咲さんを思うと、直前まで迎えは断る事も考えていた自分が恥ずかしくなる。
「…」
「何、自力で降りられない?」
低いシートから抜け出せなくなったのかと考えたらしく、美咲さんが手を引いてくれた。私は立ち上がり荷物を抱えて美咲さんの手を握ったままついていく。
「手が冷たい」
「…すみません」
「ううん、そういう意味じゃない」
手をつないだままエレベーターに乗り込んで、私たちはそんな言葉を交わした。
改めて美咲さんの全身を眺めると、今日は車通勤だったからか、薄めのハーフコートを羽織って、その下にスーツという出で立ちである。今日はたまたま受付から美咲さんの姿を見ていなかったから、一瞬の間にその装いをチェックしつつ、やっぱりこの人があの人と同一人物なんだよな、などとよくわからない感慨にふけっていた。
「何、じろじろ見ちゃって」
エレベーターを降りながらそんな声をかけられた。
「いえその、今日もすごく素敵だなと思って」
「…そう?」
「はい、その…特に仕事モードのお姉さまを見ていると、なんだかものすごく偉大な人の近くにいるんだなあって思えてきて」
「なるほどね」
言いながら美咲さんは、私の手を握ったまま片手で自宅マンションの鍵を開ける。
普段、一人で帰宅する時もこういう感じなのかなあ、などと考えながら私はその表情を観察してしまう。
美咲さんは黙ってドアを開けて、私を中に促した。
私は毎週しているように、リビングルームの一角に荷物を下ろしてコートを脱ぎハンガーにかける。
「8時には、頼んだものが来る予定だから」
一通り空調を入れて着替えをしながら、美咲さんのそんな声が飛んできた。
「その他で何か手伝った方が良い事はありますか」
「…じゃあ、ちょっとだけお願いしてもいい?」
「もちろんです」
事前に用意していると言うスパークリングワインとグラス、食器類を並べるよう頼まれて私がそれをしていると、着替えを済ませてこちらに近づいて来た美咲さんがあっと声をあげた。
「…ごめん、そういう感じだったわけね、申し訳ない」
「大丈夫です、動ける服ですし」
めかし込んで来い、と言われていたので私はドレス、とまではいかないがニットのワンピースドレスに着替えて部屋を出ていた。コートを脱がないまま車に乗ってしまったので、美咲さんが私の服装に気がつかず、今ようやくそんな、ニットドレス姿の自分が皿を並べている所に恐縮してしまったようだ。
そのニットドレスは身頃の一部と袖が異素材になっていて、五分くらいの長さの袖がひらひらしているので、美咲さんが面白そうにその辺りを触ってきた。
「危ないですよ」
割れ物を触っている状態なので、あまり触られると手元が狂ってしまう。
「いけないいけない、8時まではダメなんだった」
8時のケータリング到着直後から触るつもりなのか、と複雑な気分になりながらも、あらかた準備を終えたので、残りは待つだけとなった。
「ワインはまだ冷蔵庫に入れたままにしてます」
「ありがとう、まあ座ってよ」
勧められるままテーブルに就く。
正直、ワインボトルに触るのは怖かった。温度が変わらないよう気を使ったふりをしていたが、私はワインには詳しくない。扱いを間違えたらどうしようと思って、手を出せなかっただけの事だ。
頭の中の記憶を手繰り寄せて思い出す。確かスパークリングワインの類は比較的温度を低くして飲むので良かった気がする。フルボディの赤ワインなんかは、あまり冷やさずに飲むのが正しかったか。
酒の種類は、秘書検定の試験問題には出ないものの、アッパー層ならワイン通の人も多く、接待や会食ではそれなりの店を予約したりするのは秘書の業務の一部でもある。
特にワインは、銘柄や産地、その価格や味の傾向も知っているに越した事はないのだが、いかんせん学ぶ機会もあまりないし、それ以前の状況だから、まだそんな知識を肥やす余裕はなかった。
時刻はまだ19時40分くらいである。普通に仕事をして家に帰って、それからここへ来て色々準備をしたのにまだこんな時間なのか、と奇妙な気分になる。
「…あの、お姉さま」
「何?」
「少し時間もありますし、先に持ってきたプレゼントを渡してもいいでしょうか、順番的には変かもしれないんですけど」
「…そんなに、早く渡したいようなものなのかな?」
美咲さんは楽しそうに私の顔を覗いてくる。
「いえ、早く渡して『しまいたい』と言いますか」
「何?それ」
「…」
「じゃ、冴子の言う通り、先にプレゼント交換しようか」
「私の分もあるんですか」
「…あるに決まってるでしょ」
…絶対に、プレゼントの品物としての格差はあるに決まっているのだが、それならそれでさっさと落ち込んでから、美咲さんの手配したケータリングにありついて気分を盛り上げる方が良いと判断して、「じゃあ、そうしましょう」と応じた。
大きな荷物の中からガサゴソと、件のぬいぐるみを包んだ包装を取り出す。包装のせいで妙に大きく見えるのが余計に空しい。
美咲さんも、どこか別室へものを取りに行ったようだった。
「私のを先に開けてください」
「…なんでそんなに焦ってるの?」
ものを渡す前から私がそんな事を口走るので、美咲さんは明らかに不審がっている。
「大したものじゃないからです」
「あはは、そんな事気にしてるの?」
「…はい」
気にするな、と言われても普通無理だと思う。私は、実物より幾分大げさなサイズになった包装を美咲さんに渡す。入れ替わりに美咲さんも、それなりのサイズの四角い箱のプレゼントを渡してくれた。
「ありがとうございます」
「…私が先に開けるんだっけ?」
「はい、お願いします」
私が渡したプレゼントの包装紙をはがして、美咲さんは「かわいいね」と笑ってくれた。
「これ、あの映画のキャラだよね」
「はい」
いつも不思議に思うのだが、こういう時の美咲さんのリアクションは、極めて普通の女性のものなのだ。拍子抜けするぐらい普通に喜んでくれる。
「あ、これは触り心地がいい」
「良かったです、そこもいいかなと思って選んだので」
「なるほど」
私がほっとしていると、美咲さんはぬいぐるみを抱えたまま、「それも開けてみてよ」と言ってきた。私は慌てて手元の箱に意識を戻し、慎重に包みを開けた。
包みの柄でだいたい想像はついていたが、これは有名ブランドのクリスマスコフレの一つであろう。
「これ、いいんですか」
「…実はすっごく迷っちゃった」
「え?」
「冴子の好みが、実はよくわかってなかったなと、買う段階になって気付いたけど、どうにもならないしね」
化粧品ではなくボディケアアイテムのクリスマスコフレを選んだのはそれが理由だ、との事。
実際私は使ったことのないブランドだったけれど、ソープやボディローションの容器から漂う香りだけでも、良さそうな感じだった。
「どうせ冴子の事だから、この手のものは決めて使っているのがあるはずだ、という事には買った後から気づいたりして、ちょっと後悔してもいるけど」
「そんなの、気にしないでください、プレゼントなんだからそういうもんじゃありませんか」
「…意外に気の利いたコメント」
「あ、ありがとうございます」
「じゃ今日早速使おうね」
「は、はい…」
一気に、二人でシャワーを浴びる事を想像させられて恥ずかしくなった。固まっていると、ふいに美咲さんのスマホが鳴り美咲さんが「はいはい」と言いつつ通話ボタンをタップしたようだった。おそらくはケータリングの配達員からの電話だろう。
「…じゃ冴子が若干いやらしい気分になった所で申し訳ないけど、御馳走が届くから、まずはそっちから食べましょう」
「…はい」
どれくらいの量が届くのか計り知れないため、私も美咲さんを手伝って届けられた食事を運ぶ事にする。
食事は案外と庶民的なものだったが、一つ一つの料理には手間がかかっているような様子や、材料へのこだわりを感じる事ができる。「ケータリングはごみが出るのがちょっとね」とぼやきながら、美咲さんはそれらをうまくテーブルに並べていった。
定番の大き目ローストチキンに始まり、グラタンやホットビスケット、サラダ、具だくさんのスープやパンなどもセットされている。
「ケーキは後でね」
美咲さんは、その箱だけは冷蔵庫に収めて、それと入れ替わりにスパークリングワインのボトルを手に戻ってきた。
「そう言えば、セラーはお持ちではないんですね」
「そんなの使うほどワイン好きってわけじゃないし…変な恋愛小説だとアッパー層の部屋には当たり前のようにワインセラーがあるとか、あれ嘘だから」
「そうなんですか」
「と言うか私は別にそこまでアッパーってわけでもないし」
「……」
返す言葉がない。こんな、地価の高い場所にある立派なマンション住まいでポルシェを乗り回し、気楽にケータリングなんて取っちゃうような、キャリア女性がアッパー層でなくて何なのだ。
「その、アッパー層の明確な定義というものがあるんでしょうか」
「ない」
「じゃあ…」
「とにかく、冷めないうちに食べないとね、冴子の気にするそこんところは食べながら説明してあげる」
「はい」
「だから、びびらないの」
ハーフサイズのスパークリングワインの栓を抜いて、美咲さんがボトルを傾けてきた。されるがままに私はグラスを差し出し、液体が注がれると今度は私がボトルを受け取って美咲さんのグラスに注ぐ。
「前日だけど、メリークリスマス」
「いただきます」
グラスに注がれたスパークリングワインは綺麗なロゼ色で、いかにもクリスマスにふさわしい華やかさを感じた。
「…おいしい」
「うん、おいしい」
「あの、どんな味か知らないで買ったんですか?」
「うん」
美咲さんの説明によると、これはスペイン産の手頃なものでカヴァと言うらしい。近年非常に流行している飲みやすい辛口として、レストランにも多く常備されているそうだ。
「同じ量で20倍の値段のものもあるんだから、ワインは正直よくわかんないわ」
「…」
「冴子はさっき、セラーの話をしてたけど」
「はい」
「今時のセレブは、そういうステレオタイプに何でもこだわって高いものばっかり好むという時代ではないような気がするし、仮に私がそういう人たちの仲間だと思われたとしても、昔気質のバブルっぽいセレブ像ってのはださいと思っちゃうのよね」
そう言って、美咲さんは今日用意したケータリングの品々の価格をわざわざ私に教えてきた。値段を聞いて、確かに私の暮らしで毎週頼めるわけではないけれど、友達同士でお金を出し合えば、決して支払えないような額ではなく、パーティー料理の選択肢として、庶民にも十分使い勝手も質も良いものだと思う。
私は、話を聞きながらもテーブルの上の料理に次々と手をつけていった。いつも通りに仕事もしたし、それなりに空腹だったのだ。
あるいは最初に口当たりのいいお酒を飲んで、かえって空腹感が増したかもしれない。
「…ところで、冴子って、普段食事制限とかしているの?」
「食べ過ぎた日の前後は抜いたりしますけど、基本的にはあまりしていないです」
「そうなんだ、じゃ今日はケーキも食べるよね」
「もちろんです」
「…で明日の朝とか昼とかを抜くってわけ?」
「それは…状況によりけりです」
美咲さんは料理の全貌を眺めつつ、「残りそうだよね、この量だと」などと呟いている。
「残ったら、少し持ち帰っても構わないですか?」
「もちろん」
「良かった」
今までよりも、一歩本音を出して、聞いてみて良かった。
そして、美咲さんも意識して自分の事を話したり、私の事を知ろうとしてくれている気がする。今夜はそんな感じだった。
きっと、美咲さんも自分の暮らしや考えを話す事で、私が思う「セレブ像」というものと、実際の美咲さんのあり方との違いをもっとわかって欲しいと思っているのではないだろうか。だからわざとあんな風に、買ったものの値段を口にしたのだと思う。
「結局、入ってきたお金をどこにどう使うか、その選択肢をより多く持っているのが、アッパー層とかセレブとかいうお金持ちの特権であって、だからこそ、考え方やお金の使い方はその分個人差が大きくなるのよ」
「…だとしたら、セレブ同士でも考えは合わないという事も大いにあるという事ですか」
「あるある、非常に多々あるわよ」
美咲さんは、うんざりという顔で過去の知り合いについて話をしてくれた。
「例えば今日のこの内容みたいなものを、ダメだと言ったりね、そういう価値観の人もいるわけで」
「そうなんですか」
「名前にお金を使う事を大事にする人もいるからね、彼らにしたら私は全然仲間じゃないって事よ」
「…」
「マウンティングなんて下らないと思うばかりだけど、ビジネスの場では、そういう事でポジション取りを損するのは勿体ないから、そういう価値観の相手にもバカにされないための武装は必要になっちゃうけどね」
なるほど。
だから、仕事モードの美咲さんには、別人っぽさが漂っていたのか。
「冴子からしたらバカみたいって思うだろうけど、時計がどうとか、まずはそういう見た目でわかる所から、使う店だの持ってるガジェットだの、どこに住んでるだの、そういうね…しょーもない要素だけで勝ち負けを先に決める人が、世の中にはいっぱいいるわけよ」
「何だか、大変そうですね」
「ほんと、下らない事よ」
酔ってきたのか、美咲さんがこんなにもネガティブな話題を吐露するのは珍しいと思った。美咲さんはアルコールにそこまで強いわけではないけれど、まだスパークリングワインを1、2杯くらいしか飲んでいない。
もしかして今日仕事中に何か嫌な事でもあったのだろうか。気にはなるがあえて尋ねる気持ちにもなれなかった。
「…大丈夫ですか?」
私は、スパークリングワインのボトルを構えた状態で尋ねる。無理に飲ませるのもいいのか悪いのか、わからなかった。
「…もういいわ、ちょうど半分くらい飲んでるはずだし、残りは冴子が飲みなさい」
「…はい」
私は残った液体を自分のグラスに注いで、改めて空のボトルに貼られたラベルをしげしげと見つめた。
「これ、写真に撮ってもいいですか」
「いいけど、大した銘柄のものでもないと思うわよ」
「でも、記念に」
「…そうだね」
私は「すみません」と改めて一言断りを入れて、ボトルに貼られたラベルの写真を撮った。
「そうだ、冴子」
「…?」
「こっち来てみて」
美咲さんがベランダへ出るように促してくる。私は後をついて行った。
「ちょっと、寒いかもしれないけど」
言いながら、美咲さんはどこからか持って来ていたふわふわのカーディガンを私の肩にかけてくれた。
私がサンダルを履いてベランダに出てみると、遠くにおそらく六本木の夜景やイルミネーション群が見える。
「すごい、ここからこんなものが見えるんですね」
「そう、でも…いや、だから、セレブマンションに上がるやいなや『素敵な夜景が一面に』みたいな事も、景観厨の人の憧れみたいなもんだから、違うって事よ」
「…はい」
セラーの話を振ってしまった事を後悔する。今日の美咲さんはバブリーセレブへの悪口が、ことあるごとに出てきてしまうようだ。
「大体、夜にお邪魔してるのに、カーテンもせずいきなり窓から外が見えるのもおかしくない?ホテルじゃないんだから、民家なんだから普通何かしらカーテンかかってるでしょ」
「それもそうですね」
珍しく毒づく美咲さんが可笑しくて、思わず吹き出してしまった。
他の部屋は窓を閉め切っているようで、思いのほかベランダは静まり返っている。
「お姉さまは、寒くないですか」
「私は平気」
「でも」
よく見ると美咲さんも比較的薄着だし、心配になって私は美咲さんの傍に近づいた。
「冴子はこういう夜景は好き?」
「はい、綺麗だし、なんだか気持ちも盛り上がりますし」
「うん」
なんとなく私は美咲さんの両手を自分の掌に包むようにして握りしめた。酔っているように見えたけれど、美咲さんの手は冷たかった。さっきとは逆の状況だ、と思う。
「冴子が普通に喜んでくれる娘で良かった」
「どういう事ですか…?」
「…私は、ああいうの何とも思わない方だから」
「そうなんですか」
美咲さんは内緒話をするように私の耳元で囁く。
「そう、だから、これ見よがしに夜景の綺麗な部屋だとか、お見せだとかに連れて行かれるのって、本当は全然好きじゃないのよね」
「…今日はほんとに、毒吐きまくりですね、お姉さま」
「毒素が溜まっているのかしらね、まずいわね、出さないと」
私は、握った両手に少しだけ力を入れる。
酔っているようで、あらゆる事に「冷めている」美咲さんの雰囲気に、なんだか寂しさを覚えた。もしかすると普段はそんな、冷めた自分自身を押し隠して振舞っているのではないか、そんな想像さえしてしまい、少し悲しくもなった。
「お姉さま、あの」
私が美咲さんに向かって顔を上げ背伸びをし、はっきりとわかるようにキスをねだると、美咲さんは「ここで?」と言葉にして問いかけてきた。
「私は普通なので、綺麗な景色を見てときめいてしまいました」
美咲さんは「はは」と乾いた笑い声をあげて、「じゃ、ちょっとだけね」と断ってから優しくキスしてくれた。
寒い季節に屋外でキスすると、身体がいかに火照っているのかがよくわかるようで、かえって羞恥心を刺激されるが、そこにまた興奮するものだ。
「…ん……」
美咲さんの体温を上げるためにと、自分自身も温まりたくて、私は美咲さんにぎゅっとしがみつきながら身体を擦りつける。
「っ…」
別にここでそれ以上の事をしたい訳ではなかったが、期せずして美咲さんの興奮のスイッチも軽く入ってしまったような気がした。
その証拠に、美咲さんの身体が熱くなっているのが伝わってくる。
クチュッとごく小さな音を立てて舌が絡み合う。私は美咲さんの口内からわずかに溢れてきた唾液を逃すまいとして吸った。
「ん……」
美咲さんの手が、カーディガンの内側に侵入してきて優しく私の胸を揉む。私は大きな吐息を漏らしそうになり、必死で息を止めた。
「冴子、大丈夫?」
微かに唇を離して美咲さんが小声で尋ねてくる。私は慎重に呼吸を再開しながら黙って頷いた。
「…もしどこかの窓が開いてたら、って考えちゃった?」
「…はい」
私も極力小さな声で答える。
「可愛い」
「…」
加虐心が刺激されたのか、美咲さんはわざと大きな動きで私の胸元とお尻を同時にまさぐってきた。
「あ、…っ…」
声が漏れそうになり、私は慌てて口元を手で押さえた。美咲さんが視線でその手をどかせと訴えてくるので、私はどうにか息が漏れないようにしつつ手を離す。すると美咲さんがキスで私の口をふさいできた。
「はんっ…んん……」
口をふさいでいると言っても、あんまり騒げばそれは無意味だ。けれども美咲さんの舌の動きやその温かさに、思考が溶けてなくなりそうな予感と、身体の敏感な部分をかすめるように触れてくる手の動きにも、耐えられないと思うものがあった。
「んっ…ふ……」
貸してもらったカーディガンがはだけて、ニットドレスの肩口もずらされて素肌が露わになっていた。そこに冷気が当たり、きわどい部分が露出している事を認識させられると共に、火照ったその部分が冷やされるようで気持ち良くもあった。
身体から力が抜けそうになり、私はかろうじて唇の隙間から「お姉さまぁ」と呼びかけ訴える。
「あの、もう…我慢できません、全部…見て、触って欲しいです」
「…景色はもういいの?」
「大丈夫です」
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