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代償行為(袴田SIDE)

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自分にだけははっきりとわかる事がある。
それは、松浦部長に新しい恋人ができたのがいつだったのかという事だ。

おそらく夏の終わりか秋口の事に違いないと思っている。
あの辺りから、はっきりと松浦部長の様子は変わったように思うのだ。

企画部へ異動するまでの、営業部で一営業マンとして勤務していた頃は自分が専務の身内だという事は伏せていた。
だが異動をきっかけに、それをひた隠しにするのは止めた。ちょうど28歳になるかどうか、という頃合いで、大学卒業後5年が経過したタイミングに重なると思う。

周囲は、俺が将来どんなポストに収まるのかという事や、誰が花嫁候補になるのかといった事に気を取られているようだが、自分を指導してくれた松浦部長は、分け隔てなく自分に接してくれたし、時に厳しく突き放されもした。
それは、彼女なりの優しさなのだとも思う。

松浦部長はとにかく、優しい人だ。
俺はそんな松浦部長に、ある意味で甘えながらこの二年を過ごしてきたのかもしれない。仕事をする環境という意味ではとても快適だったから。

彼女がどうやって今のポストに就く事になったのか、詳しい事は知らないけれど、おそらく一筋縄ではいかなかったのは経験の浅い自分にでもわかる。
とは言え彼女は俺より8つも年上だし、なんとなくではあるけれども恐れ多い存在として彼女を見ている部分が、自分の中にはあった。

それがどうだ。これまでだって十分に女性として魅力的だったはずの彼女に、男の陰がちらついてからようやく、俺は自分の本心に気付いたのだ。
そしてそれに気づかないでいた自分自身にも、彼女に手を出した誰かにも、苛立つ気持ちが抑えられないでいる。

挙句勢い余って、うっかり自分の本心を、言うべきでない人たちの前で吐露し、噂は一気に広がって彼女に迷惑をかけてしまった。

ことごとく、後手に回ってばかり、情けない。

彼女から相手にされないのは致し方ない事として、彼女に手を出した奴が誰なのか、どういう男なのか、その事だけはいつまでも気になってしまっている。

幸い、業務時間中は彼女の傍にいる割合は高いし、そういう時にはできる限り彼女を観察しているけれど、ちょっとした時にスマホをチェックしてわずかに笑顔を浮かべている表情だったり、その相手に返信するためになのか離席する時など、あからさまにではないが楽しそうにしている素振りが伺える度に、自分の中に嫉妬心が芽生えるのを自覚せざるを得なかった。

それで我慢できなくなり、いっそ噂も十分に広まっているし、社内においては堂々と彼女につきまとう事にしたのだ。
はっきりと迷惑そうにされても、多少は気づかないふりで通している。
実際はけっこうこたえるのだけど。

自分の思い通りにならない事にこうも我慢がきかないのか、と知った時に、いかに自分が恵まれた育ちをしてきたのかという事実に、打ちのめされそうになる。

多分、彼女の事は諦めるしかないのだろうけれど、多少は抵抗したいのだ。そうしながら少しずつ、納得する過程を踏みたいと思う自分がいる。

何かとつきまとう俺に、松浦部長はうんざりしたという表情を隠さなくなった頃、しつこいついでに二人で食事をしたいと持ちかけた。
食事だけなら、と、彼女は承諾してくれた。やはり彼女は優しいのだ。

あまり重々しくならないよう、気軽だけど品のある旨い地鶏の店を選び、現地集合で彼女と食事をした。

なんだか、ここへこぎつけるまでに割と燃え尽きてしまったようで、あまりあれこれと話を振る気になれずにいると、彼女は「あんまり聞かないのね」と呟いた。

「せっかくですから無粋な真似はアレかなあと思って」

などとごまかしたけれど、絶対に拍子抜け感が伝わっているに違いない。
だがそれによって彼女が若干警戒心を緩めているようにも思われたし、それはそれで良かった気もする。

「核心に触れる方向に行くと、結局また謝罪の言葉しか出なくなりそうで」

女性にも人気のある塩味のコラーゲンスープの器を傾けながら、無理やりそんな事を言うしかない。
…やっぱり、精神的に疲れたのかもしれない。温かいスープが身体に染みわたるようで、その感覚に浸っていたくなる。
俺は臆病なのだ。

「噂話の的になるっていうのは、疲れるよね」

彼女のそんな言葉に、俺とは関係のない、別の事や昔の事が重なっているような気がして、それさえも妬ましく思えた。

「俺としては、特に誤った内容でもないので何とも思いませんが」
「…」

彼女が、責めるような目でこちらを見る。
俺は、噂は事実だと認めながらも、やはり直接的に彼女を口説く気にはなれなくて、そのずるさを責められているのは仕方ないと思ったから、そんな視線から逃げはしなかった。

「あんまり長引くようなら、あなたを異動させるわよ」
「そんな事、できるんですか?」

言い合いをするつもりはなかったのに、反射的にそんな事を言ってしまった。どちらが上に顔が利くのか、を競うようなけんかのふっかけ方をしてしまう。

「…できればそれについて確かめるような事はしたくないけど」
「嘘ですよ」
「…」

次の皿は地鶏のたたきだった。彼女が箸をつけるのを見届けてから、こう付け加える。

「そういう手段を使う気になっていたらここまでドジを踏む前に外堀から固めますって」
「それもそうだね」

「松浦部長は俺の事、嫌いですか」
「…そういう聞き方するのが、ちょっとね」
「なるほど」

自分はことごとく、彼女に対してずるくて卑怯だ。そんな男が彼女を笑顔にできるのか、と考えれば答えはNoである。

「俺がどうしても知りたいのは、どんな奴があなたを落としたのかって事です」
「あー、そうなんだ…」

その時彼女は変に大きな笑顔を見せた。

「秋口ぐらいからですよね、確か」
「そんな事もわかるのね」
「ずっと観察してたんで」
「そういう言い方が、なんかね」

「無粋」と揶揄された気がして落ち込む。
それに気付いての事かどうか、「これはおいしい」と、彼女が料理を褒めた。

「…じゃ、どんな人かもだいたい想像つくんじゃないの」
「そこはわかりません」

あまり言葉にはしたくないけれど、自分は男としてそう悪くないはずなのに、俺は全く相手にされていないわけで、もっと凄いのとなると、かなり年上とかそんなイメージしか像を結ばない。

「じゃ思った通り言いますけど、かなり年上とか、そんなんじゃないですか、多分」
「なるほどね」

彼女は肯定も否定もしない。だから俺の予想が近いのか遠いのかもわからない。

「その反応だと、多分外してるんでしょうね」
「まあそうね」

こんな、「誰が好きなの」みたいな、中学生のようなやり取りをしたいわけじゃない。
俺は誰に負けたのか、ただそれを知りたいだけだ。

「まあ、あなたの入り込む余地が全くないってわけでもない」
「…何言ってんだか全然わかりませんよ」

俺はやけになって日本酒の入ったおちょこをあおった。

「そう?頭が固いのね」

今のがヒントだとして、どういう意味なのか良くわからない。
遊んでやるぐらいならアリって事?違うのか。

「なんか、面白くなってきちゃった」

また彼女が大きな笑顔になる。取り残された気分になってなんだか居心地が悪い。

「その人は、あなたみたいに器用でもないし、婉曲な言い回しもしないわよ、言うなればどストレート」
「……」
「そういう意味ではあなたははっきり負けてる」

彼女は俺を煽っているのだろうか。でもそういう気配ではない。
では俺がストレートに口説いたとしてあなたは取り合うんですか、と言いそうになってギリギリの所でこらえる。

「本人があなたを見たら、あなた以上に『負けた』って思うだろうなあ」

さっきからこの人の思考にのみ存在する人物を、俺は全くイメージする事ができない。
でも、そいつはスペック的には俺よりはるかに下なのだろう。それはわかる。

「慌てなくても、もしその人と終わってなければ、あなたも知る機会が来るはずだから、大丈夫よ」
「…何が大丈夫なんですか」

いよいよ彼女は声を立てて笑った。
「あー、おっかしい」と涙まで流す勢いである。だが、ふいに真面目な顔でこう言った。

「あなたがしてる事は、こういう事なのよ」

「無粋」に続いて「婉曲」と揶揄された。

「…別に教えたくないってわけでもなくなってきてるんだけど、多分あなたは受け止められないわよ」
「そうですか」
「正直、恋愛関係にあると言えるかどうかも、よくわからないしね」
「…?」
「そういう、複雑な関係性というのもあるものなのよ、世の中にはね」
「わからなくはないつもりですけど」
「うん」

だんだんと、自分が気に病んでいた事がばかばかしく思えてきて、彼女が幸せそうならそれでいいやという気分になってきた。

「じゃ一応こちらとしてのアピールをしときますけど、俺の場合複雑ではなくシンプルな関係性を構築できると思いますので」
「そうだね」
「そういうのは、面白くないですか?」
「…正直言ってあなたの場合、後ろにあるものが多すぎて、重く見えるんじゃないのかな、あなたが思うほど、シンプルな恋愛はさせてもらえない立場でしょうからね」
「…」

件の噂が広まってからというもの、父親としっかり話をしたわけじゃないけれど、いざ俺が真剣に付き合う人について切り出した時、父親はどういう反応をするのだろうか。
基本的には自由なはずだが、俺自身よりもステータスの高い女性相手となれば、話は違うのかもしれない。

「恋愛と結婚がセットにならない最大の理由は、そこにあるんじゃないのかな」

俺ははっとして彼女を見る。
もしかして、過去に彼女はそういう恋愛をして成就しなかったのか、と瞬間的に感じたからだ。

「帰ろうか」

彼女が言うので時計を見ると、21時半を指している。コース料理もデザートとお茶が運ばれて久しい。

「俺としては、そうですねとは言いづらい心境なんですが」
「じゃあ、どうするの?」

…何?この感じ。
多分これは彼女の口癖なんだろうけれど。
俺はそれを初めて聞いて、奇妙な感覚にとらわれる。

ものすごく距離が近い感じ。相手によっては誘っていると勘違いするんじゃないのか、とさえ思うし俺も実際そうかどうか現に判断に迷っている。

「どうするのって、その先を言えって言ってるんですか」
「そういう訳じゃないけど…そう聞こえてたら申し訳ないわね」

あるいは男として試されているのだろうか、それとも強引に求めた所で決定的に拒絶されるのか、そのための罠なのかもしれないし、何が正解なのかわからない。

「…ま、好きって言っても所詮そういう事なわけよね」

俺の邪な願望を見透かしたように彼女は脱力した調子でそう呟いた。

「好きっていうのとそれは普通、セットですよね?」
「ま、そうなんでしょうね」
「逆にやましい気持ちなしに好意を向けられて、部長は女としてそれで納得いくんですか」
「そんな人、いないからわからない」

俺は再びはっとする。
過去に彼女はこうして仕事の関係者たちと食事をして、やましい誘いを何度も受けてきたに違いない。
俺も御多分に漏れず、そんなうっとうしい輩のうちの一人に名を連ねただけの事なのだ、とそこでようやく理解した。
彼女はこういう会食にうんざりしているのかもしれない。いや確実にそうだ。

「また謝罪しなくちゃいけない感じになってきましたかね」
「いや、別に」

さっきの、妙に近い距離感の会話から一転して、いきなり突き放されたように言われる。
この程度の会話の駆け引きにおいて俺は到底、彼女にかなうはずもない。

「もう二度とチャンスがないような気もするので、無粋ついでに言っちゃいますけど、俺とこのまま一晩過ごすっていうのは、ナシですか」

彼女はそれには返事をせず、さりげなく伝票を確認して現金を差し出してきた。

「俺が払いますよ」
「私はあなたの上司なのよ」
「まあ、そうですね」

こういう場合の正しいマナーもわからず、でも彼女はこの会食をデートとしてカウントされたくないのだというのがわかったから、俺は現金を受け取った。

「なんか、一回言葉にしちゃうと割とじゃんじゃん誘えるような気がしてきました」
「それは困ったわね、他でやたらと使わないように気を付けないと」

「じゃ部長には大丈夫ですか?」
「あんまり酷い場合本当に飛ばすわよ」

本気な空気を感じて、下らない誘いは切り上げる事にする。しつこいと本当にやばい男認定されそうだ。

「ただ、羨ましいんですよ、そいつがね」
「…そう?」

タクシーを拾おうとしたが、彼女は電車で帰ると言ってそれを断った。

「じゃまた明日」
「失礼します」

別れ際に「また」とか言うのかよ、と苦々しく思いながら、あえて彼女の背中を見送る事なく俺はタクシーを拾った。

そのまま眠る気にもなれず、かと言って飲み直す気にもなれず、もう何年も世話になっては来なかったデリバリーの風俗店のwebページにアクセスしていた。

代償行為?…別にいい。それを揶揄する人物はもう目の前にはいないのだから。
自宅にそれを呼ぶ気にはなれず、わざと安いカップル用ホテルに入って女の子を呼んだ。

彼女は、俺と「そういう事」になるのを一切考えもしていないのだろうか。
彼女の心に入り込んだのがどんな奴か知りたい、というのは一部であって、彼女がそういう時どんな顔をして、どんな声をあげるのか知りたいというのが残りの大部分であるのは間違いないのだけれど、今日それを本人に直接イメージさせるような事を俺は言っている。

本当に、1ミリも想像しなかったのか?俺とこうなる事を。
想像したとして、何か思わなかったのか?期待はしなかった?

彼女の身代わり、と俺が思っている女の子は彼女よりも勿論若かった。
自分の表情を見られたくなくて、ろくに明かりもつけないままで女の子を待ち、儀礼的に会話をして儀礼的にシャワーを浴びて、その後はやりたいようにやった。

「あ、あ…凄、激しいっ」

こういう時に、ましてや金をもらうような子が言う事なんて、本音かどうかもわからない。
こちらを盛り上げるためにサービスしてくれているに過ぎないのかもしれない。

当然この子の中には入らないまでも、自分としては特にそれで良かった。入れたい相手はこの子ではないからだ。
だから余計、その喘ぎ声には白々しいものを感じるはずなのだけど、そんな思考は無視する。

「…ねぇ、最後までしてもいいよ?あなたなら」
「…」

女なんてこんなものだ。相手によって態度を変える。
許したい相手にはこんな風に全てを勝手に明け渡すくせに。

「…それって、生でしていいって言ってる?」
「うん」

普段ならそんな危ない事は絶対しないのに、この子は今日は危険日ではないと、自分の中の直観がそう受け取った気がして、その直観に従ってしまった。
見知らぬお店の女の子の中に放つなんて、過去にだって一度も経験してないのに。なんで今夜に限っては、そんな気になったのだろう。

…いや、いちいち考えるまでもない。

「中に出しても平気なんだよね?」
「うん…平気だから」

松浦部長はこんな頭の悪い申し出なんか絶対にしない、と瞬間的に目の前の子に対して嫌悪感が走ったけれど、それも無視して女の子を抱いた。

「あ!…はぁ……いいよぉ…んっ」

特に激しさが伝わるように、女の子を四つん這いにさせて後ろから貫くと、その子は悲鳴のような声をあげた。

「きゃ、あ…いっちゃう…」
「もういくの?これからでしょ」
「え、やだ、……だめ…!」

演技?…よくわからないがどうでもいい。

「俺がいくまで付き合ってくれるよね」
「…っは…あ…」

答えを待たずに行為を続ける。
やればやったで、女の子はしっかり反応を示すのだし、構わない。

自分の中にある確証めいた感覚の中には、おそらく松浦部長は、そいつとのセックスでものすごく満足している、あるいは自分自身も未知の領域まで連れていかれるような、そんな行為を重ねているに違いないというものがあった。

「…また、いっちゃうっ…あぁっ……!」

身体の向きを変え手今度は向き合った状態で女の子を貫きながら思考する。

多分その事は、彼女をしつこく観察しないまでも、わかる人が見ればわかる類のものだ。
おそらくは、彼女がそれまでの頻度や内容とは格段に違うレベルの、量も質も段違いに、セックスしまくっているのに違いない。
そういう、性的に満たされた女性特有の空気みたいなものが、最近の松浦部長には色濃く漂っているのだ。

「…俺に突っ込まれてそんなに気持ちいいんだ?」
「はぁ、あ…あん…気持ち、いいよぉ…」

演技は止めてさっさと本気の反応をしろ、と思いながらしつこく出し入れを繰り返す。
俺だってこんなにやれるのに、と思いながら。

「だめ、また…あっ!」

あまりに品がないからそんな提案はしなかったけど、そいつと俺と一回比べてもらっても良い。それぐらいの自信はあるのに。

勿論松浦部長がそこの相性とか、それだけで相手を選ぶような人じゃないのはわかるけど、男としてそこではっきりと負けだと言い渡されるのは猛烈な屈辱に他ならない。

しかもこういう時に限ってなのか、女の子が値を上げているのに自分自身はちっとも吐き出す気配もなく、延々と繰り返す行為に飽きるでもなく、終わりが見えないぐらい続けられる気さえしてくる。
理由は簡単だ。相手があの人じゃないからだろう。

「ん……もう、だめぇ…」
「ダメなの?」

わざとらしく腰の動きを止めて、女の子から卑猥な言葉を引き出すよう仕向ける。

「やだ、そんな…してくれなきゃ」
「…これを?」

再び腰を激しく打ち付けると、女の子はさらに高い悲鳴をあげて歓喜を露わにする。

期待していた、でも予想通りの反応に、身体の熱とは逆に頭の中が冷えていく感覚になる。
多分、そろそろだ。自分も絶頂が近い。
でも、本当はこの子にじゃない。だから半分くらいは放つ事はしたくないとも考えていた。
結局は、宣言通り最後までしてしまったけれど。

「あ…凄い、いっぱい出てる…」

出してしまえばすっきりはする。
そしてお店の女の子の良い所は、行為が済めばさっさといなくなってくれる所だ。余韻がどうとか、そんな事に気を使う必要もない。

女の子にはお金を多めに渡した。
その子は、なぜか個人の連絡先を書いたメモを渡してきた。形式的に受け取るけれど、こちらから連絡する事はないだろう。

「……」

帰宅する気にもなれず、そのまま眠りに就く。
…彼女は、今誰と何をして過ごしているのだろう。
ほんの少しそんな事を考えたが、眠気に襲われそれに身を任せた。
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