お姉様と呼んでいいですか

那須野 紺

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つかの間の別れ

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朝、いや昼かもしれない。時間がわからない。

私はなるべく動かないようにして書棚の時計を確認した。時刻は9時半だった。

そっと美咲さんの様子を伺うと、まだ眠っているようだった。かろうじて二人を繋ぐ道具を外した、という状態でうつ伏せのような恰好で眠っている。美咲さんの寝顔は、ものすごく美しかった。あまり凝視すると気づかれてしまいそうだけど、それでも見入ってしまう。

少しでも、目に焼き付けておこうと思って間近でその寝顔を観察していると、美咲さんが徐に目を覚ましたようで、「冴子起きてたんだ」と声をかけてきた。

「はい」
「何?見てるのよ」
「いえ、その…」

この至近距離で問い詰められると困ってしまう。私は慌てながらも、それを本人に言っても差し支えない事だと思って正直に伝える。

「その、お姉さまの寝顔がきれいだったので、見てました」
「…え?」
「ご存知なかったですか」
「…うーん」

美咲さんはごろりと仰向けに寝返りをうって、何やら考えているようだった。

「特にそんな事言われた事ないなあ」
「そうでしたか」
「というか、自分の寝顔をあまり人に見せてないかもしれない」
「…」

美咲さんはまたシャワーを勧めてくれた。「また襲っちゃうのも困るだろうから」と言って、今回はバスルームを一人で使うように促される。

その時になんとなく、終わりという雰囲気を感じ取って寂しくなった。勿論、いつまでもこんな事ばかりはしていられない。それはわかるけれど、あまりにも濃密な時間を過ごしてしまっただけに、うまく頭を切り替えられないのも事実だった。

「じゃあ、お借りします」

あえて私はよそよそしくそんな事を言いながら、もう何回も使ったバスルームへと向かい、なぜか自分の痕跡を消しておこうと思って、手近にあったものでお風呂の後始末をしたりした。やってもやらなくてもあまり変わらない気もしたけれど。でも、この部屋に自分の痕跡を残してしまったら、逆に私が昨日からの事を忘れられなくなる気がして、やらずにはいられなかった。

私がバスルームで何かしている事にはきっと美咲さんも気付いていたと思うけれど、あえて何も声をかけてはこなかった。私は辺りをきょろきょろと見回して、これでいいかなと思える程度である事を確認し、バスルームの手入れを終えてそこを出た。

美咲さんは簡単な朝食を用意してくれていて、出されたコーヒーの香りや、トーストの香ばしさが、なんだかこれまでになく値打ちのあるもののような感覚にとらわれた。

「いっぱいエッチしてすっきりすると、ものがおいしく食べられるわよ」

美咲さんが、まるで見透かしているかのようにそう言うので、私は恥ずかしくなった。

「…もう」

照れながらそう言うと、美咲さんは「あはは」と笑いながら自分のトーストをかじる。この人はトーストに何もつけない習慣なんだ、とそこで知った。おそらく私のためだけに、マーガリンやジャムを出してくれていたけれど、美咲さんはそれらを使っていない。

私はとりあえず、借りたワンピースをもう一度着てテーブルに就くと「いただきます」と小さく挨拶して出された朝食を食べた。お腹が空いたふりをしてわざと、美咲さんの真似をしてトーストをそのままかじる。

「使っていいんだよ」

美咲さんが机上のジャムなどを視線で示してくる。真似をしていると悟られるのが嫌で、私は「はい」と素直に勧められたものを使った。

今少しずつ、私たちは会う前の関係性に戻っていく、そんな感覚だったし、今そのための時間を過ごしているんだな、というのもわかった。

「冴子は満足した?」

ふいに尋ねられ、一瞬何の事を言われたのかわからなかった。食事の事かと勘違いしそうになったが多分これは違う意味の質問だ。

「…」

私が考え込んでいると、美咲さんの表情はだんだん不安げなものに変わっていく。

「…あの、いえ、そういう訳ではなくて」
「じゃあどういう訳なのよ」

わざとらしく美咲さんが不満そうな表情を作って見せてくる。

「いえその…私は満足しました」
「そう、なら良かった」
「…でも、その、あまりに濃厚というか、そんな感じだったので、当分忘れられないだろうなと思って」

「…忘れられないと困る事があるの?」

えっと思って美咲さんの顔を真正面から見つめる。

「私は、昨日からの事が冴子にとって忘れられないものであって欲しいと思ってる」
「どういう事ですか」

うーん、と美咲さんは思案している。私は、今回の事は今回きりの事として、以後引きずる事がないようにするべきだと考えている。

「冴子はさ」
「はい」
「私の事本気で好きになったりしたらまずいから、って考えてくれてるんだよね、きっと」
「…はい、そうです」
「そうだよね」

美咲さんは、何かを説明しようとするのだが、なかなか言い出せずためらっているようだった。

「説明が難しいんだけどね」
「はい」
「簡単に言うとね、私は…」

その先を聞いて涙が出たらどうしようと思ったけれど、案外美咲さんの話は感情的な内容ではなかった。

「エッチしちゃう時、その時は相手の事を本気で好きでいる方が絶対にいいと思うし、それはその時だけの事なのかもしれないと、思うんだよね」

私が黙って聞いていると美咲さんは続けた。

「冴子に会えるの本当に楽しみにしてたし、少なくとも昨日あの時からこれまで、私は冴子の事本当にいとおしいと思って、そういう事してたんだよ」
「はい」
「でも、今日このあと二人が別れた後に、私も、冴子もだけど、お互いの事をどう思っているかもわからないでしょ?…極端な話、冴子が明日運命の男に出会うかもしれない」
「…」
「それは勿論、私もだけど、冴子もそう、同じような事だと思うんだ」

だけど、そういう時間が終わっても相手を思う気持ちが続く方がむしろ普通ではないか、と私は思った。

「どうなるかわからない相手を縛ってしまうのは簡単な事なんだけどさ、それはやっぱり、不安とか、孤独とか、嫉妬とか、そういう気持ちから逃げるための事なんだろうなって思う」
「…」

でも、と言いかけて喉が詰まる。美咲さんには、いつでも誰でも、好きな時に人が寄ってくるのではないか。相手に不自由するという状況が想像できない。

「それは、もうこういう事はできないという意味なんでしょうか」

美咲さんの言う意味がわからなくて、混乱してきた私は、未来の約束をしないという事まではわかっても、私たちの関係そのものに未来がないのか、という事はわからなかったから、ストレートに聞いてみた。ないならないで仕方ないと思いながら。

「ううん、そうじゃないよ」
「…じゃあ」
「私は冴子を縛る、いや、精神的にね、縛るつもりはないって事。だから、またこういう事がしたいなと思ったら、私はするつもり」
「ほんとですか?」
「時間は限られちゃうけどね」
「それは勿論、わかってます」
「二人だけの時は、さっきみたいに『お姉さま』って呼びたいなら呼んでいいし」

いやらしい事をしている時の私の声を真似て『お姉さま』と言われたので私はとても恥ずかしくなる。

「そんな風には言ってないです」
「言ってるよ~?」

美咲さんがスマホを取り出して何かを再生する。唐突に私の喘ぎ声らしき声がスピーカーから流れてきて、「ほら」と示してくる。

「言ってるじゃん『お姉さまぁ』って」
「…やめてくださいっ」

んー、と頷いて美咲さんは再生を止めた。

「というかそれ、音だけですか?ムービーですか?」
「さてどっちかな」

私が机越しに美咲さんの手の中にあるスマホを奪おうとすると、「だめだめ」と逃げられてしまう。私はむきになって「肖像権侵害です」などと真面目な態度で追求しながら立ち上がり美咲さんの側に回って本気でスマホを奪いに行った。

「あ」

美咲さんからスマホを奪う事はできなかったけれど、はずみでボタンに触れてしまったのか、再び例の音声が流れだす。私は美咲さんの手の中のスマホを覗き込んだ。映像はない。音だけのデータだった。

「…」
「さすがにカメラ構える余裕はなかったな」

美咲さんが笑って私にスマホを預けた。「止めたければ止めていいよ」と言われたけれど、慣れない画面に戸惑っていると、私の「いっちゃう」という叫び声が流れてきて、私は固まった。

どうにかボタンを押して音声を止めほっとしていると、美咲さんが可笑しそうに笑いをこらえて私を見ていた。

「ほんとに恥ずかしいから、やめてください」

私がスマホを突き返すと、美咲さんは形だけ「ごめんごめん」と謝ってスマホを受け取りながら、「でもその時はもっと恥ずかしくして欲しいとか言ってたんだけどなあ、冴子は」などとぶつぶつ呟いている。

「消そうか?こういうの持たれてたら気持ち悪いよね」
「え、いや、その」
「…どっちなの?」
「…」

美咲さんはスマホを置いて朝食の残りに手をつけようとする。

「私が消せって言ったら消すんですか」
「うん、消す」
「…」

美咲さんはスクランブルエッグをつつきながら私の答えを待っていた。

「ずるいです」
「何が?」
「だって」
「じゃあ、消さなくていいんだね」
「…お姉さまが、自分だけで楽しむために残すんだったら、持っていて欲しいです」
「なるほどね」

私の答えは美咲さんの中の正解ではなかったのか。美咲さんはスクランブルエッグを口に運んで、咀嚼しながら言った。

「次に冴子と楽しむために、とっとくね」

私は思わず立ち尽くしてしまう。

「私は、軽い気持ちで冴子に『お姉さま』と呼ばせる許可をしたわけじゃないから」
「それ…どういう…」

美咲さんは自分自身と私を交互に指さしながら、

「あなたのお姉さまだって事よ」

と言い渡した。

その瞬間、私の心は完全にこの人のものになったのだと自覚した。美咲さんは私の主体性を最大限に尊重した上で、私の心を掴んで離さない。精神的に縛る気がなくても、これで勝手に相手は堕ちる、だから縛る必要性がないのだという事に気が付いた。

「わかってないかもしれないけれど、お姉さまなんて呼び方を他の子に許した事なんて一度もないからね」
「私は、特別って事ですか」
「そう、特別よ」

その後美咲さんは言葉を続ける事なくまた食事に手をつけ始めたけれど、そこには有無を言わせない何かがあるような気がした。だから私の耳にはその続きに「だから、冴子は私に絶対従う事」と言われたような気がして、緊張と高揚が入り混じった複雑な気分になった。またここに来る事ができるのかもしれない、という考えがよぎっただけで嬉しさがこみ上げてくるようだった。

でも、私がそんな感慨にとらわれている間に、実際には美咲さんは別の指示を出していた。

「だから、今日はパンツ履かないで帰ってね」
「え…」
「替えがあるって言ってたわね、ここに置いていきなさい」
「…」

そういう事はよく覚えているのだなと感心する。そう言えば、ここへ来た時履いていて汚した方のはどうしたか。急に気になってくる。

「あ、食べてからでいいからね」
「あの、はい…」

なんだかいろんな事が気になってしまって食事どころではなかった。それでも美咲さんの作ってくれた食事はおいしく、トーストもスクランブルエッグもボイルしたソーセージやサラダも、実際空腹だったのであっさりと食べ終えてしまった。

「…あの、私が元々履いていたやつはどこへ」
「あーあれね」

美咲さんが指さした先には洗濯機がある。その洗濯機は既に動いている状態だった。

「あれも預かっておくから」
「…」
「冴子は全部取り上げないと、パンツ履いて帰りそうだったし」
「そんな…」

恨めしげに美咲さんの顔を見る。「帰り道で変な人に遭遇したらどうすればいいんですか」と本気で尋ねてしまった。

「あーあんなエッチな服着てきたから心配になってるの?」
「…」
「じゃ電車でなければノーパンで帰るって事ね」
「…そういう事では」

美咲さんはそれ以上説明はせずに私に帰り支度をさせようとした。いずれにせよ私もかなり疲れていて、細かい言い合いをしている気力もなくなってきたので、下着以外の荷物をまとめて支度をする。

「しょうがないから車で送ってあげるわよ」
「えっ、そんな」

いよいよ部屋を後にしようとする段階になって美咲さんにそう言われた。「だって電車怖いって言ったでしょ」と美咲さんに反論される。

美咲さんと二人きりで車移動、その方が余計緊張する。電車が怖いと言っても、今は日曜日の昼間だし電車が混んでいる事は可能性として低い。大した距離でもないし、どうしても電車がまずければタクシーを拾ってもいいのだ。

「そんな、そこまでは申し訳ないです」
「だめっ」

美咲さんは私を無視して車のキーを取り「はいこっち来て」と玄関の方に私を連れていく。私は慌てて美咲さんの後を追った。

「はい靴履いて」
「…」

私が頷いて靴を履いているといきなりスカートがまくられて「よしよしちゃんと履いてないわね」と確認された。そんなの、下着を取り上げているんだから当たり前なのに。

「ちょっと、やめ…」
「何を?」

言うやいなや私の敏感な場所がジュッという音と共に吸われた。私は膝から崩れ落ちそうになりながらも、どうにか姿勢を保つ努力をした。

「ごめんごめん」
「…んん…」

もだえている私を放置しながら何事もなかったかのようにスカートを戻して美咲さんが立ち上がる。この人には全く油断できない。一瞬、こんな人と会社で二人きりにでもなったら何をされるかわからないという嫌な緊張が走った。だが、私は受付担当だし、美咲さんと二人きりになるなどというシチュエーションはまず発生しないだろうと考えを改めた。

美咲さんは私の手を引いてエレベーターに乗り、地下2階のボタンを押した。このマンションの地下は駐車場なのだろう。そのまま美咲さんに手を引かれて美咲さんの車のもとへ近づいていくようだった。

「…これって」
「これは私の車」
「…それはわかりますが」
「でも、中古車だから」

そういう問題ではなく、これは私にもわかる、赤のポルシェだった。こんな高級車に同乗した経験など私にはない。

「ほら、乗って」
「はい…」

もう抵抗するのも無駄だと思い、勧められるまま助手席に乗った。なんだか、この車に対して自分がふさわしくない気がして、かなり萎縮してしまう。と言いつつ美咲さんはTシャツにショートパンツという実にラフな装いで、コンビニかスーパーに行くような恰好でポルシェに乗り込んでいるのだが、スタイルもいいし様になっているのだ。

「…で、冴子の家ってどこだっけ」

エンジンをかけながら尋ねられる。独特のエンジン音に、どこか現実感のなさを感じながら、「中野です」と答える。

美咲さんは何の返事もせずアクセルを踏んで車を発進させた。私ももう先の事を考えるのに疲れてきて、美咲さんのやりたいようにしてもらう事にする。

さすがに自宅の近くになってくると私も道を伝えなければと思い、どうにか道順を説明して自宅の近くまで車を付けてもらった。

「上がって、いきませんか」

住宅街の中の路地に車を止めてもらい、私は美咲さんにそう尋ねた。

「だから、送るとそういう事になると思ったのよね…まだ足りないの?」
「あの、そういう訳ではないんですけど」

この提案は遠慮すべきだったかと後悔していると、美咲さんが助手席の私の顔に手を伸ばしながらこう言った。

「ほんとに魅力的な提案だけど、冴子の顔がね、すっごく疲れてるから、休んだ方がいいわよ」
「そ、そうですか?」
「うん」

確かに身体じゅう刺激を受けてへろへろにはなっているけれど、表情に出るレベルだとは思わず、私はきょとんとする。美咲さんの家で鏡を使ってチェックもしたはずだが、視力さえ怪しくなっているのかもしれない。

「一応ね、お別れ、でも今日の事思い出していっぱいオナニーしてね」

とびきりの笑顔で美咲さんにそんな事を言われ、はいともいいえとも答えられずに私はポルシェを降りた。正直この住宅街では目立ちすぎる車なので、早く私が立ち去らねばという気持ちでもあった。

「さよなら、お姉さま」

車のドアを閉めてからそう言葉にして、私は振り返らずアパートの階段を上っていった。振り返らなくても、遠ざかるポルシェのエンジン音に、美咲さんの存在が遠くなるのを感じて、こらえきれなくなった。

-*-*-*-*-*-

玄関ドアを閉めて私は深いため息を吐いた。昨日この部屋を出る時に私は何を考えていたのか、もう思い出せない。昨日の自分とは何かが変わってしまって、というか私の頭の中に美咲さんの存在がはびこっていて、そうなる前の自分にはもう戻れないと感じていた。

極力普段の生活に戻ろうと思って、着替えをして自室のベッドに潜り込む。自然とさっきまで美咲さんに触られていた皮膚の感触が蘇ってきて、再び自分の身体が火照る感覚を覚えた。

「お姉さまぁ…」

その言葉を小さく繰り返し口にしながら、私は自分の秘部を指でまさぐった。本来自分としては好まないほど激しい動きで、入口をかき回し内側にも指を差し込んで中から圧迫していく。

「んん…もっと…」

あの質量のものが欲しい。どうしようもなく欲しい。どうしてこんなになるまで美咲さんは私の中に入り込んできたんだろう。忘れようにも忘れられないではないか。

私は半分涙を流しながら、あの時の美咲さんの動きを思い出して同じように指を動かした。そして美咲さんがしたように自分の胸を揉んだりさすったりしながら、何度か達するまで、それを繰り返す。

「あぁん…っふ…お姉さまぁ」

そう呼びかければどこからか美咲さんが現れてくれるのではないか、などありもしない事を考えながら、ベッドの中で小さくその呼びかけを続ける。

とにかく、美咲さんによって帰られてしまったこの身体をどうにかして落ち着かせなければ、明日からの仕事にも支障をきたすかもしれない。受付担当としては、顔色が悪かったり、肌が荒れていたりなどという事があってはならないのだ。どうにかしてコンディションをベストな状態にするためには、栄養補給と睡眠に限る。特に今日の場合はそうだ。

それに、明日からもし受付で美咲さんを見かけてしまったら、というかほぼ確実に見かける事にはなるのだけれど、平常心でいられるかどうか自信がない。

身体の火照りをどうにか落ち着かせて、冷蔵庫にある作り置きの食材を選ぶ。具だくさんのスープなら温めるだけで食べられると思い立ち、準備をしてその他の食材も選んでいく。

メイクでごまかせる程度でいい。受付の他の人たちも、日によっては「肌の調子が悪い」などと言いメインの受付を担当する時間を減らして事務処理などにあたる事もある。それなりの年齢のそれなりの容姿の女性たちなのだ。日々色々な事はあるに違いない。

そんな中で私だけはコンディションの安定ぶりが評価されている、つまりプライベートであまりにも何もないという事は受付の中では周知の事実だった。いきなり「寝てません」という顔で出勤すれば、必ずや詮索されるに違いない。のろけ話の一つもできれば良いが、女性相手に、しかも同じ会社のあの松浦部長といたしまくって寝てません、とは口が裂けても話せない事だ。

とりあえず、やれる限りの事をして、さっさと寝てしまおうと思い、実際かなり緊張していたのもあったせいか私は夕方から眠りに就いてしまった。そしてほぼ意識を失うが如くに熟睡して翌朝6時に目が覚めた。

「…」

スマホのアラームが鳴る前の時間に目が覚めた。私ははっとしてスマホの通知を確認するが、例のアプリに関連したものはなかった。つまり、美咲さんからのメッセージは来ていない。

「…あ痛たた」

身体中に筋肉痛のような痛みが走る。

「何これ、…ったく」

実際の理由ははっきりわかっていながらも、あまりの痛みに腹立たしくなり毒づいてしまった。そしてふらつきながら洗面所の鏡を覗き込む。肌は大丈夫そうだった。というかそれに関しては普段以上に良い状態のような気がする。

「嘘でしょ」

また「何これ」と言いそうになった。そう言えば受付で勤務する同僚の中で「彼氏とエッチすると肌がきれいになる」と言っている人がいたような記憶がある。ホルモンバランスの問題で、と言っていたような気がするが。ともかく後ろ指をさされるような状況にはならなかったのでほっとした。二宮冴子の安定のコンディションは今日も維持されたというわけだ。

しかしその件がクリアした事にほっとすると、今度は会社で美咲さんの姿を見るのだという事を想像して焦りを感じた。受付仲間からもとても評判のいい美咲さんなのだ。勿論私も皆と一緒になって「素敵な部長さん」を尊敬するような事も言っていたし、いわゆる憧れのキャリア女性として、注目もしていた。

それがこんな事になって、果たしてこれまで同様に美咲さんへの態度というか、受付の仲間たちに悟られないような振る舞いができるだろうか。美咲さん本人との場合はまだいい。美咲さんは絶対ボロを出さないはずだから。けれども私個人としての振る舞いはどうだろうか。きっちりとぶれずに美咲さんへのコメントや距離感を保つ事ができるのか、はなはだ自信がない。

改めて軽くシャワーを浴びてから出勤のための支度をする。受付担当には制服が支給されているので、出勤時の服装は比較的自由なのがありがたかった。身体のあちこちに痛みが残っているものの、それ自体は我慢できるので、気にせずいつも通りに出勤した。

「おはようございます」

着替えのためにロッカールームへ入ると、先客がいた。「あ、おはよう冴子」と声をかけられる。同期入社の佐藤友紀(ゆき)だった。この会社では、新卒入社のうち女性2名が受付に配属される伝統のようで、長ければ4年ほど受付を担当する。その後は総務などのいわゆる内勤に異動となる人が多いようだが、受付担当の間にスキルを身につけ営業部などに異動して活躍する人もちらほらといるようだった。

「友紀、おはよう」

軽く挨拶を返す。同期という事もあるが、友紀とは仲も良い。実際の所、受付担当に配属される女性は、それだけで他の同期社員から距離を置かれやすいため、必然的に受付同士の連帯感は増してしまうのだろうが、友紀と私とではある意味タイプが異なるという事もあり、かえって意識せずに関わる事ができるのだ。

「…あれ?」

私がロッカーの扉を開いて着替えを始めていると、友紀が近寄ってきて、「なんか様子がいつもと違う?」などと指摘してきた。

「どこが?別に普通だよ」
「…こう、何か漏れているというか」
「漏れてるって、何?」
「いやあの物理的な話じゃなくて」

友紀は「漏れる」という自分の発言に苦笑しながら続ける。

「漏れてるのは、メス感というか、そっち系の幸せオーラみたいなもんかな?当たり?」

朝からややこしい事に気付く友人である。私が答えに悩んでいると、「当たりなんだ?」とはしゃいだように友紀がからかってきた。

「早く着替えなさいよ」

友紀は、私と違ってスレンダーな美人で、全体的に色素が薄くハーフなどと間違えられやすいような見た目をしている。友紀自身も着替えの途中なので、私服を脱いでインナーキャミソールと下着姿のまま私をいじっているのだ。

「冴子ったらつれないなあ、いい事だったんじゃないの?…それとも忘れたいような事だったわけ?」

興味津々という様子ではありながらも、友紀を含め受付担当である私たちは合コンや飲みの誘いなどには慣れているので、こんな話題もドライなノリで話せてしまう傾向がある。一夜限りの過ち程度の事でとやかく言うメンバーは皆無だ。

私は何も答えないまま制服に袖を通す。「どー考えてもいい事がありましたという雰囲気がにじんでるよ」と更に友紀が付け足した。それはそれでありがたいが、そんなに漏れているのかと思うと、徐々に不安になってくる。

「…友紀、この状態で受付に立ったらまずいかな」

着替えが終わったので、友紀の方に向き直り尋ねてみる。見ると友紀はまだブラウスを中途半端に着ている状態だった。

「冴子早すぎ」
「質問に答えてよ」
「うーん…」

私は着替えを見られる事があまり好きではなかったり、自分のボディラインにコンプレックスがあったりするので、知らないうちに仕事での着替えスピードはやたらと早くなっていた。いや、本能の部分では人に見られていやらしい身体だと思われると興奮するふしもあるのだが、こうして友人や同僚といった、オフィシャルな場でそんな欲望を満たすつもりはなく、そうなるとかえって身体を見られる時間を極力減らしたいと思うのだ。

友紀や異性からも、魅力的な身体だと褒められる事はあるけれど、それが一体どういう意味を含んでいるのか考えると面倒になるので、軽く受け流すようにしている。でもこういう態度は、受付仲間だからこそスルーしてもらえているようなものの、私の態度に腹を立てる人は、同性にも少なからずいるであろう事はわかっていた。

友紀は少し考える様子を見せたものの、「大丈夫じゃない?」などと曖昧な返事をよこしてきた。信用していいんだろうか。疑わしい。

「じゃ、先に行ってるね」

私はほっと息を吐いてロッカールームを出た。友紀はいつものように「後から行くね」という声だけ発してロッカールームに残っている。

受付担当の勤務時間は他の社員より若干早めだ。朝一番の来客も多いし、その前に一通り来客リストや名簿の準備など、やっておくべき事もある。

友紀と私は入社2年目で、仕事にも慣れてきて、やるべき業務は一番多くなる時期だ。後輩への指導も行いながら、自身の業務もこなさなければならない。立仕事でもあり身体にもなかなかこたえるものなのだ。たまに他の女性社員から嫌味な目で見られる事もあるけれど、受付業務には根性も必要だ。嫌な事があっても笑顔を崩さず会社のイメージを守る役割を、やれるものならやってみろという上から目線も、なんとなく受付担当の共通認識となっている。

だが、それがかえって凝り固まったプライドとなり、受付を外れた後に出遅れ感満載で他の部署へ配属されたはいいものの、チームになじめないという先輩も多いようだった。私も、あと1年か2年後にはどこかへ異動という事になるはずだが、今の所具体的にどこへ行って何がしたいのか、私にはまだ見えてこないというのが実情だった。

受付の仕事を頑張る中で、何か仕事としてやれる事や人より優れている所があれば伸ばしたいとは思うものの、ぴんと来るものはまだ見つかっていない。

フロントのカウンター内側に立って社のエントランス方向に目を見張る。初めてここに配属された時、この位置から会社を見渡す事のできる人物は自分を含めて同期にたった二人しかいないのだという事はとても誇らしく思ったものだ。今もそれ自体は変わらないし、ここに立てばおのずと緊張感から背筋が伸びてくる思いだ。よく知っている顔もそんなに知らない顔も含め、私たちはほぼ毎日全社員の顔を見ているし、逆に全員から見られている事にもなるのだ。

「お待たせ~」

友紀がやっと私の隣に来て、さっと手元のリストに目を通す。これだけで友紀はだいたいの情報が頭に入っているようで、要領の良さに感心するばかりだ。彼女ならきっと、受付以外でもしっかりと仕事についていける能力があるはずだと私は思う。

会社支給の受付制服には2パターンがある。双方並んでも統一感は取れるようになっているのだが、体形や髪色など、より自分に似合うタイプのものを選んで良い事になっているのだ。つまり受付担当と言いつつも、髪色やメイクには絶対のルールがあるわけではなく、許容範囲の中で個性に合わせて服を選ぶ仕組みになっているのが実は斬新だと思う。遠目にはあまり違わないように見える制服なのだが、実際にカウンターで手続きをするぐらいの距離感で見ると、人により制服が微妙に違う事がわかるはずだ。私と友紀が正にそれぞれ異なるデザインの制服を選んでいた。

「おはようございます」

社の始業時間が近づいてくるとにわかにエントランスもにぎわってくる。私と友紀は出勤する社員たちに笑顔で挨拶をした。こうして今日も無事に会社の一日が始まる。社を支える人たち一人ひとりを出迎えるのは、なんだか家庭のお母さんやおばあちゃんにでもなったような心境なのだが、それを友紀に話した時には、笑いながらも「なんとなくわかる」と同調してくれたものだ。

いつもと変わらない一日が始まった。それは間違いないのだが、私はどうしてもそうとはわからないように注意しながらも視線であの人を探してしまっていた。普段何分前に出勤してるんだっけ、と記憶を探ってもあまり思い出せない。早朝の会議もあるだろうから、おそらく出勤時間は毎日規則正しいわけではないような気がする。

だいたい美咲さんは部長職なんだから、必ずしも定時出勤とは限らない。直行直帰もあるだろうし、場合によっては遅い出勤の事もあるはずだ。

「おはようございます」

手元の小型ノートパソコンの画面に「いつもの」という文字が走る。受付仲間でやり取りをしているチャットソフトのメッセージだ。友紀を狙っているのかファンなのか、いつも友紀に個別の挨拶をしてくる男性社員がいるので、その事を言っているのだろう。私は目をこらしてエントランスの人の波からその人物を探すのだが、なかなか見つけられなかった。しかしメッセージがあるという事は、友紀は既にその人物を見つけているのだろう。私はそんな事にさえ感心してしまうのだ。

「おはようございます」

エントランスに一際明るい声が響く。それと同時に美咲さんが受付の前を通り過ぎていった。ちょうど、いつもの男性社員が受付に近寄ろうとするのをさりげなく遮るようなコースで美咲さんは歩いていった。美咲さんは社内でも有名だし、挨拶が元気なのでいつもの男性社員も一瞬けおされて受付に近寄るのを諦めたようだった。

…わざと?それとも偶然?私にはどちらかわからなかったが、友紀は「松浦部長ナイス」などとチャットを飛ばしてくる。すっかり自分の都合で解釈しているようだ。

そんな一瞬の出来事について考えるのに一生懸命だったので、私の中では美咲さんを見かけたらどうしたらいいのかなどという考えがすっかり消え去ってしまっていた。

「あっ」

私は思わずただ美咲さんをスルーしてしまった事に気付いて表情を変えてしまった。友紀が視線で「どうしたの?」と問いかけてくる。私は急いで表情を戻し朝の挨拶を続けた。

…こうしてこの場所から眺めていれば、美咲さんもこれまで同様憧れの松浦部長という事で、何も変わる事はない。そんな感じがした。あれ以来、と言ってもまだ一日しかたってないけれど、美咲さんからも何も言って来ないし、それはつまり日常に戻りなさいというメッセージのようでもあり、私はその「日常に戻る」事に集中している。

美咲さんの様子は特にいつもと変わった所はなかったようだった。私と違い何かが漏れてる感もなさそうだったし、いつも通り元気な感じでまわりをぱっと明るくさせるような空気をまとっている。受付担当の中では社内における有名人のファッションチェックも話題となるのだが、今日の美咲さんのスーツは、受付女子の中でも「一番似合う」という評判のクリーム色のパンツスーツだった。あれは美咲さんの柔和な人柄にとてもマッチしている気がして、受付の中でもあれが一番だよねというのが共通見解となっている。

社の始業時間が過ぎて、朝一の来客の対応が終わると一区切りとなる。友紀が「松浦部長ってさ」といきなり切り出してきたので私はどきりとした。

「どうかした?」
「なんか、今日の松浦部長、髪が濡れてたような感じがする」
「…そういうスタイリング剤使っただけじゃないの」
「うーん」

友紀のめざとい観察眼には驚かされるが、私は正直全く気が付かなかった。

「私、全然気が付かなかった」

素直にそんなコメントを返していると、「なんか、いつもより色気があったと言うか、そんな感じがする、気のせいかもだけど」と友紀が付け加えた。

「そ、そんな風に見えた?…」
「まあ、なんとなくだけどね、いつもよりこっちに接近して歩いてたからたまたま目についただけかもね」
「うん」

あまりその件に関して掘り下げないでくれと思っているのだが、友紀はなぜか今日やたらと美咲さんの話を振ってくる。わざとではないのだろうが、偶然にせよ感も鋭い所があるのは以前からの事だ。

さすがに受付の立ち話で許される話題ではないと判断したのか、「後で」とだけ言い残して友紀は業務スマイルを作った。私は話題を途中で止められてしまったので、友紀が何を言おうとしたのかが気になって仕方ない。今日は昼過ぎまで友紀と二人で受付をやって、途中で後輩コンビに変わる予定だったので、友紀とランチへ出かける事にした。
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「お姉様に夢中なはずなのにその他の誘惑が多すぎます」

本作の続編です。
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