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深淵
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半休を取った私は、メールに記載された住所に向かっている。
何度も、私服で構わないのかと質問してしまったけれど、今回の面談は面接とは違うからと先方もその度答えてくれた。
今日は、美咲さんをビジネスパートナーとして誘った張本人である所の、件の女性社長と面談する事になっている。
美咲さんと一緒に勤務先を変える事について、私はほぼ即決していたけれど、それでも何日間かは自分の今後についてあれこれと考えたりはした。
単純な話、恋人について行く形で勤務先を変える事は人生の決断として軽薄かもしれないと、何度も考えたけど、袴田氏や美咲さんが考えたように、もっと防御壁の薄い組織で力を発揮しようとする考えそのものは決して悪い事ではないようにも思われた。
勿論今回の転職はいわゆる一般的な採用募集とは違う、いわば縁故のような形になるのだろうけれど、それも一つの後押しになっていたかもしれない。
美咲さんから聞かされていた話としては、今回の面談は「面通し」のような物だという事だったけれど、それでもどんな娘でもいいという事ではないだろうし、それなりかどうかを確かめる為にわざわざ私だけが呼ばれて話をする事になるのだから、失礼があってはいけないし期待を大きく下回るような言動も、今後に影響するだろうと思った。
中規模ビジネスビルの、やはり中層階にその会社は入っていた。
受付は簡素で、内線電話が置かれているテーブルがあるだけ。
しかし先方の指示ではこの内線電話は使用せず、直接携帯を呼び出して欲しいという内容だったから、私は時間の1分前になった所でその番号をコールする。
「二宮冴子さんね、ちょっと待ってて」
聞こえたのは朗らかだけれど穏やかな声だった。
…それに、思っていたよりずっと声色が若々しい。
「受付に到着した」という事を伝えて通話を切ると、ほとんど間髪入れずにセキュリティロックのかかった扉が内側から開かれ、件の社長本人が単独で姿を現した。
「2時にお約束しております、二宮冴子と申します」
無意識的に仕事用の挨拶とおじぎで彼女に相対する。
頭を上げた瞬間に思ったのは、容姿に関して言えば、恐ろしく整っているという事に尽きる。
美咲さんよりは暗い栗色の真っすぐな髪はセミロングで、顔立ちはいかにも育ちの良いお嬢様がそのまま大人になったような印象。
細面の顔に大きな、でもきりっとした感じもある瞳が特徴的で、鼻や口は控え目な造りである。
そして何と言ってもスタイルがものすごく良いのが際立っていると思った。
美咲さんと同じか少し背が高いだろうか。全体に腕も足も体幹もかなり細いが、胸だけはまあまあのサイズでしかも形が良いから目立って見えてしまう。
それを自覚しているのかいないのか、いやしているが故の狙いはあるのだろうけれど、タイト目なラインの黒のロングワンピースは彼女の綺麗なボディラインを上品かつ色っぽく演出していた。
七分袖にほんの少しハイネック気味な首元、それにサイドスリットが深めに入っているので、ややもするとチャイナドレスと似たデザインに見えてしまうが、それとは違い生地の質感はニットのようなマットさがあっていやらしく見えない。
「こちらへどうぞ」
私の前に立って歩く彼女の、これまた綺麗な細い脚がスリットの隙間からチラチラ見えてどうしても目が行ってしまうけど、私は極力平静を装い「失礼いたします」と会議室へ入った。
「今日はご挨拶みたいな気分で、気楽にね」
「…はい」
それを体現するように、彼女は多分わざと、着席した後で机越しに自分の名刺を差し出して来た。
「はじめまして、社長の山元容子です」
こちらも頭を下げ差し出された名刺を受け取る。
私は名刺を持っていないから、受け取るだけになってしまうのだけれど。
本当に何も用意する必要はないと言われたので、どうすれば良いかわからず微妙に焦りを覚える。
「一応それっぽいお話もしますけど…あまり構えないでね」
言いながら彼女は今時リアルにやるのかというような仕草で片目を閉じて見せた。
動作自体には驚いたけれど、ちっとも違和感はないしむしろ可愛らしいとさえ思ってしまったのは不覚である。
あまりにも何もなしに話をするのはこちらに悪いと思っての事か、彼女は手元に資料を並べながら話を切り出してきた。
「事前に履歴書のデータはいただいていたでしょ、目を通してあるから持ち込む必要もないのだけれど、まあ…一応、ね」
それから彼女に色々と質問をされ、特に現在の秘書業務に関する内容や、そんな状況の中でもっとしてみたい事や興味のある事については深掘りされた気がする。
けれども口調としてはほとんどタメ口で言われるものだから、何だか親戚の人とでも話しているような気分で私は受け答えしていた。
私の返答に彼女はフンフンと頷くのだけれど、顔を動かす度にいかにも手入れの行き届いた感じがわかるような綺麗な髪が揺れて艶を放っている。
彼女の顔を見なければと思うのだけれど、視線がその揺れるセミロングの髪やら、黒いニット風ワンピースに突き出している胸やらに目を奪われそうになるので実に緊張した。
「まだまだこれからって時に、変なタイミングで転職させちゃう事になっちゃったかしら?…大丈夫?」
「大丈夫です」
「そうね…一応何とか3年継続しているし、今回の転職によって貴女の経歴が大きく傷付くという事はないと思うから、そこは私もほっとしてる」
「そ、そうですか」
彼女は私の緊張をほぐそうとする為か、自分の話もしてくれた。
とにかく驚いたのはその年齢で、なんと41歳なのだと言うけれど、見た目年齢はまずそれより若く見える気がする。
と言うか今の平均的な41歳がどういう感じなのか、もはやだんだんわからない時代にはなっていると思うのだけれど。
落ち着いた所作や気使いにはそれ相応の経験値を感じさせるけれども、何より彼女のあらゆる言動には高い品格がにじみ出ていた。
この人が美咲さんに目をつけるのはどこか理解できるような気もする。
勿論彼女自身がバリバリ仕事もこなしつつ女性として美しくある事にこだわっているのがよくわかるし、美咲さんもタイプとしては同じだからだ。
「それで…この現住所についてお伺いするけれど、聞いている話とは違うような気がするのだけど、ここ…教えてくれる?」
それはつまり、美咲さんから聞いている話という事なのだろうけれど。
私が提出した書類に書いた現住所は、現在の勤務先に届けているのと同じ、中野の方である。
「それは…」
「恵比寿にお住まいなんじゃないの?貴女も」
「あ…はい、でもそちらも引き払ってはいないんです」
「そうなの?」
「はい」
「…いいのよ、私は別に気にしない方だから」
「…はい」
にっこりと微笑む顔を眺めていると、根拠もなく気持ちが和んでしまう。
「貴女は役員秘書としてお招きする方だから、秘密も話してしまうけど…私も実は以前に、どうしてもっていう社内の娘と一時期そういう仲になった事があったのよ」
過去形。つまり終わった話という事なのだろう。
それにこれだけの美貌と品格の持ち主であれば男女問わずファンも恋人志願者も絶えない事だろう。
彼女は何か思い出したように「うふふ」と微笑む。
…上品なのにこの愛嬌のある笑顔は反則だなあと思いつつ私もつられて笑ってしまった。
「貴女も、モテそうね、すごく」
「そんな事、ありません…」
「あら?そうは言ってなかったわよ、彼女は」
「……」
美咲さんがこの人に何を話しているのか私は知らないから、美咲さんの話題をされるといちいちぎくりとしてしまう。
「その、どのような話を、お聞きになってるんでしょうか…」
言いながらはっとした。
ここに来る前に、例の指輪は外しておこうと思っていたのにそれを忘れて、着けたままでいる。
テーブルの下にある手に一瞬視線を走らせかけたが我慢して手探りで指輪を外した。
「あら、したままでいいのに、素敵な指輪じゃない?それ」
「……」
ほんのわずかな肩と腕の動きでそれを悟られたのか、彼女はそう咎めてきた。
「いえでも、あの…」
「それの話も、聞いてるわ」
「…え」
どれだけ個人的な話をしてるんだろう、美咲さん。
だんだんと二人の関係性について心配になってきた。
「冗談、デザインが同じだったからきっと一緒に買ったんだろうなって思ってカマかけちゃった」
また「うふふ」と微笑む山元社長。
私が明らかに狼狽したのも見逃していないだろうけど、案外と、いや当然なのだろうけど食えない人だ。
「それだけ素直だと、何だか得より損してそうね、二宮さん」
「…はぁ」
「そうだ、ここのオフィスでは皆私の事を『容子社長』って呼んでるの、だから貴女もそうしてね」
「はい、かしこまりました」
「私は『冴子ちゃん』って呼ばせてもらうから」
「ど、どうぞ」
秘書課で呼ばれ慣れているからその事自体に抵抗はない。
…でも、美咲さんはどう呼ばれる事になるのだろうか、気になった。
「それでね」
徐に容子社長が席を立つ。
またあのチラ見栄する脚を見せつけられるのかと複雑な気分になったけど、これにも慣れなければと思いつつ後を追って移動した。
「わ…っ、すみません」
連れて来られたのはおそらく美咲さんが使う予定であろう役員の単独執務室だった。
一人で使うにはあまりにも広いスペースに私は声が出てしまいそうになり、慌てて口を押える。
そんな私を見てまた容子社長は「うふふ」と笑った。
「そこのデスクなのだけれど」
「はい」
広大な執務室の入り口近くには、一人用のデスクと椅子のみが置かれており、「ここが貴女の定位置になる予定」と説明を受けた。
「…まだ、もう少し物を入れ替えたりする予定はあるのだけれど、一応こんな感じって事で」
にこりと笑う容子社長に私は問いかけた。
「あの、その…社長の定位置は別のお部屋という事でしょうか」
「社長、じゃなくて『容子』社長、ね」
「…失礼しました」
「私の定位置はね、こことはちょっと違う感じなんだけど…」
「?」
一旦執務室を出てから移動した先は、どうやら休憩スペースのようである。自販機やウォーターサーバーの類、そして丸いテーブルに椅子の並んだスペースのすぐ隣に、先ほど見た執務室に比べれば半分くらいの広さの個室があった。しかも休憩スペースとの間は壁ではなくガラス窓がはめ込まれている。
…私は驚いて容子社長の顔を見つめた。
どこの会社に、社長よりだいぶ広い執務室を与えられる役員がいるだろうか、と思ったからだ。
「うふふ、いいの。これで」
「…でも」
見れば見るほど、こちらの方が後付けの役員用スペースにしか見えない。
机や書棚こそある程度のサイズのものが入っているが、応接セットなんかはさっきの執務室のものが6人くらい余裕で使えるものなのに対してこちらは4人がせいぜいといった所だろう。
美咲さんと使う部屋が逆だろう、としか思えないが、容子社長は「形より、実利が大事なの」と言ってきた。
何でも容子社長はコーヒーが大好きで、元はあの大きな執務室で仕事をしていたものの、度々自分でコーヒーサーバーのあるこの休憩室を利用するのにもっと近い場所にデスクをもっていきたいと考えて、ある時こんな形でオフィスをリフォームしたのだと言う事だった。
いや、普通社長室にコーヒーサーバー置くでしょという心の中での突っ込みを先回りするように「ここへ取りに来たいのよ、みんなの顔を見たいのもあるから」と容子社長は付け加えた。
「一応この窓にもブラインドはかかってるけど、この方がみんなと一緒に仕事してる実感も得られるし、休憩ついでに気軽に話しかけられるような立場の方が、私は気楽だから」
まあ確かにガラス越しにとは言えこの笑顔で迎えてもらえるなら従業員も休憩が楽しい事だろうと思う。
「…ではあの執務室はほとんどお使いになっていらっしゃらないのですか」
「そうね、せっかく設えてもらったのに、あまり使わずに出てしまったわ」
「……」
「会議室に改装しようかとも思ったのだけど、どうもそういう訳にはいかなくて、結局あのまま残していてね」
「……」
ひょっとして美咲さんはあの持て余すほど広い執務室の穴埋め要員なのではないかと若干不安になる。
「それに、今は私じっくりとオフィスにこもる時間も多くなくて、あちこち移動していたりするから、こんなもんで十分なのよ」
また「うふふ」と笑うこの笑顔はだいぶ見慣れてきた。
「私は持て余してしまったけれど、まあ彼女なら…あれぐらいで丁度いいのかもしれない、そういうバイタリティを感じるし」
美咲さんは確かに広い執務室に魅力を感じているらしい事は言っていた。
…余計な想像だろうけど、プライバシーを保つためなのかあの部屋は独立性が高く、容子社長が「持て余す」と言う理由にはもっと根深いものがありそうにも思われる。
「貴女だから話しちゃうけど…あの部屋にいると、それこそいろんな娘が押しかけて来て困っちゃったりして」
…やっぱり。
敷居の高い執務室の存在は、軽々しくそこを訪れてはならないという欲視力も働く事とは思うが、あれだけ孤立した作りだと、やっぱりやましい目的で頭をいっぱいにした人や、抑止力など無意味なぐらい勢いのついた困った人が押しかけて来た場合に追い払うのには難儀する事だろう。
「…容子社長にはずっと、秘書もアシスタントもいなかったという事ですよね」
「そうね、何だかややこしくなっちゃって」
「……」
容子社長は多くを語らなかったけど、社内から登用しようにも外部から採用しようにも、肉親やらその他の身内からクレームがついたか何かしたのかもしれない。
「基本的には自分の事は自分でするというスタンスなのだけれど、たまには冴子ちゃんの手をお借りする事はあるかもしれないわ」
「勿論です、本来の順番としては…そうあるべきですし」
「うんうん、そうよね」
せっかくだから、とその後は容子社長の本来の執務スペースで話をした。
実際に入社する日取りや美咲さんと容子社長の分担の予定、引継ぎについてなども少し教えてもらう事ができた。
「…冴子ちゃんがいい娘で良かった、一緒にお仕事できるのが本当に楽しみ」
「…こ、こちらこそ」
「じゃ、またもう少し時期が近づいたら細かいご案内をする事になると思うけれど、私としては少しでも早く、私たちの一因となって欲しいと思っているから」
机上に差し出されたのは、雇用条件の書面と入社の承諾書だった。
その場でサインすべきかと思っていたら、「後でよく読んで、サインしたものを郵送してくれたら良いから」と封筒も渡された。
私はそれらを受け取りそのオフィスを後にする。
*-*-*-*-*-
「…どうだった?容子社長は」
美咲さんと暮らす部屋へ帰宅すると、美咲さんはまた珍しく定時上がりしたのか何なのか、私の帰りを待ち構えていた。
「…これを渡されて、後で郵送する予定です」
「…うん」
美咲さんの返事が曖昧になるので、そういう話じゃないとでも言いたいのか、と察して私は美咲さんを見た。
「…容子社長そのものが、どうだったかという話でしょうか」
「そうそう」
「どう、と言われても…あまりに綺麗な人でびっくりしたとしか言えないです」
「…そうだよね、手とか出されそうにならなかった?」
「それは、全然」
「あらそうなんだ」
容子社長からしたら私など幼く見えてしまうのではなかろうか。現に態度としては姪っ子にでも接する時のような感じだったと言って良い気がする。
きちんと観察していればそんな風に彼女としては相手と距離を取っているつもりなのだろうけれど、相手によってはあの謎の魅力と備忘に吸い寄せられて距離感など意識の外へと飛んで行く人もいることだろう。
内心、確実に彼女からすれば私は守備範囲外という雰囲気を感じていた。
でも逆に私の方は美咲さんとの実年齢の差はあまり意識する事なくここまで深い付き合いができている事もあって、私からすれば全然どころかもろにと言っていいほど容子社長は「アリ」である。
仮に何の前触れもなく彼女の気まぐれで身体を触られたとしても、多分私は全く抵抗しないのではなかろうか、そんな奇妙な自信はある。
ただ、どうも容子社長には、話をせずして他人の思考や何かがわかる力があるのではないか、と私は直観的に理解していた。
そうでなければいくら美咲さんのコネがあるとは言え初対面の私に「いろんな娘が来ちゃって」云々などという際どい話題などわざわざ振って来ないだろうから。
正直私が容子社長に対して「アリ」と思っていた事もおそらく見透かされていたと思うし、それもどこか仕方ないような気がしていた。
私が「アリ」を隠していなかったからこそ、多分彼女はあえて何もしてこなかったように思う。
…きっと、そういう娘にはうんざりしているはずだから。
「私としては、容子社長とはうまくやれると思います」
「お、頼もしい」
「はい」
…でも、心配なのは美咲さんの方だ。
美咲さんだって、年齢が近いとは言えあの美魔女に何も思わないはずはないと思えるけれど、あるいは本当に何も感じていないのだろうか。
それとも実業家にはあの程度の女性はごろごろしているとでも言うのだろうか。
「…お姉さまの方こそ、容子社長とその、いやらしい事してたりしないんですか」
「ないない」
本来私からこんな質問はしないようにしているし、仮に他の人と美咲さんが繋がっていたとしても、私としてはそれを露骨にわかるようにされなければ気にしないという事にしている。
でも今の「ないない」は本当にないような感じで、むしろ違和感があった。
これは私の、あくまでも直観なのだけど、あの口ぶりからして容子社長は単に用紙が並外れて優れているだけではない。
いろんな意味で、と言うか男女問わず上から下まで、多分そういう意味での経験人数はめちゃくちゃ多いと思えた。
思い返せば容子社長と直接会った瞬間、そうとわからない程度にだけど彼女は私の全身を眺めて、相手にはそうと悟られないほどの一瞬で私を品定めしている事に私は気づいていた。
実際に視線を上下に動かす事はしないけど、それでも舐めるように見る事はできるし、私はそういう技術を持つ人が実在するのを知っている。
真下課長にされたような、あからさまなものとは全く種類が違う。
でも、それなのに容子社長が得たはずの情報量は真下課長の得たそれとおそらく桁違いに多いはずなのだ。
だから私は本能的に、この人の前で自分を偽っても意味がないと思い彼女のあけすけな色っぽい話題にもいちいち抵抗せず黙って話を聞いたし、カマトトぶっても何の意味もないぐらい見透かされているような気になったのだ。
…美咲さんはもしかすると、容子社長のそんな、人間の欲の表も裏も見透かすまでに至る経験値の差というものが、見えていないのだろうか。
見えているはず、と断言はできない。なぜなら私のそれを美咲さんは一瞬で見破れなかった可能性があるからだ。
何の証拠もないが、私は容子社長の手がいかに多くの女性を抱いたのか、本能的に理解できたしその経験値をもってすればおそらくはそういう場で発揮するテクニックも桁違いのモンスター級だろう。
ある意味、自分もそちら側に片足を突っ込んでいる自覚があるからこそ、同類の、しかも自分をはるかに上回った上でなおかつ品格を放っている容子社長の異常性に目を奪われたのだ。
手を出す、出されるというよりも、どちらかと言うと親近感に近いようなものを感じながら、私は容子社長と言葉を交わしたという後味が強い。
「冴子よりずっと長い、と言ってもまだ半年ぐらいの付き合いだけど…まあ女の子もアリ程度と言うか、寛容な感じだとは思うんだけどね」
「まあ、そうですよね」
美咲さんが、経緯はともかく容子社長には私との同棲を打ち明けているのだから、美咲さんとしてはそういう話もできる相手として容子社長を信頼しているのだろう。
でも、もし容子社長の持つ特別な素養に気付いていないのだとしたら、多分手を出されるのは私でなく美咲さんの方になるような気がした。
理由は簡単、その方がリアクションが面白いからだ。
一瞬で相手の全てを見通す事のできるタイプの人は、わかりきった相手になど心底興味を持たないだろう。
それよりも、無邪気に私のような娘と同棲しちゃうような精神性の持ち主である美咲さんの方が、ある意味危ういし遊び甲斐があるはずだ。
「……」
「冴子、どうしたの?」
私が考え込んでいるのを、美咲さんは雇用条件か何かで不満があるのかと勘違いしたらしい。
…美咲さんも、ある意味人の心を見通す事ができる人のはずなのに、この空気感と言うか、容子社長の底知れない感じにはなぜ無頓着なのか。
悪いようにはされないだろうが、仮にそれこそ、気まぐれに容子社長が美咲さんに手を出した場合はおそらく、美咲さんは逃げきれないだろうなとも思った。
多分美咲さんはその深淵に立ってはいない。
しかも容子社長は、美咲さんの恋人が私である事を知って好都合と考えた事だろう。
彼女が美咲さんに軽く手を出したとして、美咲さんが本気にならない限り私は何も騒がない類の娘である事も、おそらく見抜いたからだ。
…そうか、幸せな事ばかりではないという事だろう。トレードオフとでも言うべきか。
現実的に考えれば、あの会社に移れば基本的に私は美咲さんに張り付きで仕事をする立場になる訳で、容子社長が美咲さんに、という事など本来考慮すべき内容ではないかもしれない。
でも、遠からず、そして割といい確率で美咲さんは容子社長にちょっと悪戯ぐらいはされるんだろうな、と心のどこかで確信できた。
それがおそらく、あの執務室を好きに使わせる条件とでも理由をつけて。
「…雇用条件に不満はありません、すぐにサインして郵送します」
「そっか、じゃなんでそんな暗い顔してるのよ?」
「それは…うーん…説明しづらいです」
「何それ」
ここで何を言っても、きっと美咲さんには妄言にしか聞こえないだろうし、今警鐘を鳴らした所で何の防止策にもならない。
願わくば、ただ美咲さんがガチで堕ちるほどの悪戯はしないでいただきたいと容子社長に祈るばかりである。
さすがに故意に、そしてのっけから私を追い込むほどの行為には及ばないはずと信じて、私は入社承諾書にサインをした。
何度も、私服で構わないのかと質問してしまったけれど、今回の面談は面接とは違うからと先方もその度答えてくれた。
今日は、美咲さんをビジネスパートナーとして誘った張本人である所の、件の女性社長と面談する事になっている。
美咲さんと一緒に勤務先を変える事について、私はほぼ即決していたけれど、それでも何日間かは自分の今後についてあれこれと考えたりはした。
単純な話、恋人について行く形で勤務先を変える事は人生の決断として軽薄かもしれないと、何度も考えたけど、袴田氏や美咲さんが考えたように、もっと防御壁の薄い組織で力を発揮しようとする考えそのものは決して悪い事ではないようにも思われた。
勿論今回の転職はいわゆる一般的な採用募集とは違う、いわば縁故のような形になるのだろうけれど、それも一つの後押しになっていたかもしれない。
美咲さんから聞かされていた話としては、今回の面談は「面通し」のような物だという事だったけれど、それでもどんな娘でもいいという事ではないだろうし、それなりかどうかを確かめる為にわざわざ私だけが呼ばれて話をする事になるのだから、失礼があってはいけないし期待を大きく下回るような言動も、今後に影響するだろうと思った。
中規模ビジネスビルの、やはり中層階にその会社は入っていた。
受付は簡素で、内線電話が置かれているテーブルがあるだけ。
しかし先方の指示ではこの内線電話は使用せず、直接携帯を呼び出して欲しいという内容だったから、私は時間の1分前になった所でその番号をコールする。
「二宮冴子さんね、ちょっと待ってて」
聞こえたのは朗らかだけれど穏やかな声だった。
…それに、思っていたよりずっと声色が若々しい。
「受付に到着した」という事を伝えて通話を切ると、ほとんど間髪入れずにセキュリティロックのかかった扉が内側から開かれ、件の社長本人が単独で姿を現した。
「2時にお約束しております、二宮冴子と申します」
無意識的に仕事用の挨拶とおじぎで彼女に相対する。
頭を上げた瞬間に思ったのは、容姿に関して言えば、恐ろしく整っているという事に尽きる。
美咲さんよりは暗い栗色の真っすぐな髪はセミロングで、顔立ちはいかにも育ちの良いお嬢様がそのまま大人になったような印象。
細面の顔に大きな、でもきりっとした感じもある瞳が特徴的で、鼻や口は控え目な造りである。
そして何と言ってもスタイルがものすごく良いのが際立っていると思った。
美咲さんと同じか少し背が高いだろうか。全体に腕も足も体幹もかなり細いが、胸だけはまあまあのサイズでしかも形が良いから目立って見えてしまう。
それを自覚しているのかいないのか、いやしているが故の狙いはあるのだろうけれど、タイト目なラインの黒のロングワンピースは彼女の綺麗なボディラインを上品かつ色っぽく演出していた。
七分袖にほんの少しハイネック気味な首元、それにサイドスリットが深めに入っているので、ややもするとチャイナドレスと似たデザインに見えてしまうが、それとは違い生地の質感はニットのようなマットさがあっていやらしく見えない。
「こちらへどうぞ」
私の前に立って歩く彼女の、これまた綺麗な細い脚がスリットの隙間からチラチラ見えてどうしても目が行ってしまうけど、私は極力平静を装い「失礼いたします」と会議室へ入った。
「今日はご挨拶みたいな気分で、気楽にね」
「…はい」
それを体現するように、彼女は多分わざと、着席した後で机越しに自分の名刺を差し出して来た。
「はじめまして、社長の山元容子です」
こちらも頭を下げ差し出された名刺を受け取る。
私は名刺を持っていないから、受け取るだけになってしまうのだけれど。
本当に何も用意する必要はないと言われたので、どうすれば良いかわからず微妙に焦りを覚える。
「一応それっぽいお話もしますけど…あまり構えないでね」
言いながら彼女は今時リアルにやるのかというような仕草で片目を閉じて見せた。
動作自体には驚いたけれど、ちっとも違和感はないしむしろ可愛らしいとさえ思ってしまったのは不覚である。
あまりにも何もなしに話をするのはこちらに悪いと思っての事か、彼女は手元に資料を並べながら話を切り出してきた。
「事前に履歴書のデータはいただいていたでしょ、目を通してあるから持ち込む必要もないのだけれど、まあ…一応、ね」
それから彼女に色々と質問をされ、特に現在の秘書業務に関する内容や、そんな状況の中でもっとしてみたい事や興味のある事については深掘りされた気がする。
けれども口調としてはほとんどタメ口で言われるものだから、何だか親戚の人とでも話しているような気分で私は受け答えしていた。
私の返答に彼女はフンフンと頷くのだけれど、顔を動かす度にいかにも手入れの行き届いた感じがわかるような綺麗な髪が揺れて艶を放っている。
彼女の顔を見なければと思うのだけれど、視線がその揺れるセミロングの髪やら、黒いニット風ワンピースに突き出している胸やらに目を奪われそうになるので実に緊張した。
「まだまだこれからって時に、変なタイミングで転職させちゃう事になっちゃったかしら?…大丈夫?」
「大丈夫です」
「そうね…一応何とか3年継続しているし、今回の転職によって貴女の経歴が大きく傷付くという事はないと思うから、そこは私もほっとしてる」
「そ、そうですか」
彼女は私の緊張をほぐそうとする為か、自分の話もしてくれた。
とにかく驚いたのはその年齢で、なんと41歳なのだと言うけれど、見た目年齢はまずそれより若く見える気がする。
と言うか今の平均的な41歳がどういう感じなのか、もはやだんだんわからない時代にはなっていると思うのだけれど。
落ち着いた所作や気使いにはそれ相応の経験値を感じさせるけれども、何より彼女のあらゆる言動には高い品格がにじみ出ていた。
この人が美咲さんに目をつけるのはどこか理解できるような気もする。
勿論彼女自身がバリバリ仕事もこなしつつ女性として美しくある事にこだわっているのがよくわかるし、美咲さんもタイプとしては同じだからだ。
「それで…この現住所についてお伺いするけれど、聞いている話とは違うような気がするのだけど、ここ…教えてくれる?」
それはつまり、美咲さんから聞いている話という事なのだろうけれど。
私が提出した書類に書いた現住所は、現在の勤務先に届けているのと同じ、中野の方である。
「それは…」
「恵比寿にお住まいなんじゃないの?貴女も」
「あ…はい、でもそちらも引き払ってはいないんです」
「そうなの?」
「はい」
「…いいのよ、私は別に気にしない方だから」
「…はい」
にっこりと微笑む顔を眺めていると、根拠もなく気持ちが和んでしまう。
「貴女は役員秘書としてお招きする方だから、秘密も話してしまうけど…私も実は以前に、どうしてもっていう社内の娘と一時期そういう仲になった事があったのよ」
過去形。つまり終わった話という事なのだろう。
それにこれだけの美貌と品格の持ち主であれば男女問わずファンも恋人志願者も絶えない事だろう。
彼女は何か思い出したように「うふふ」と微笑む。
…上品なのにこの愛嬌のある笑顔は反則だなあと思いつつ私もつられて笑ってしまった。
「貴女も、モテそうね、すごく」
「そんな事、ありません…」
「あら?そうは言ってなかったわよ、彼女は」
「……」
美咲さんがこの人に何を話しているのか私は知らないから、美咲さんの話題をされるといちいちぎくりとしてしまう。
「その、どのような話を、お聞きになってるんでしょうか…」
言いながらはっとした。
ここに来る前に、例の指輪は外しておこうと思っていたのにそれを忘れて、着けたままでいる。
テーブルの下にある手に一瞬視線を走らせかけたが我慢して手探りで指輪を外した。
「あら、したままでいいのに、素敵な指輪じゃない?それ」
「……」
ほんのわずかな肩と腕の動きでそれを悟られたのか、彼女はそう咎めてきた。
「いえでも、あの…」
「それの話も、聞いてるわ」
「…え」
どれだけ個人的な話をしてるんだろう、美咲さん。
だんだんと二人の関係性について心配になってきた。
「冗談、デザインが同じだったからきっと一緒に買ったんだろうなって思ってカマかけちゃった」
また「うふふ」と微笑む山元社長。
私が明らかに狼狽したのも見逃していないだろうけど、案外と、いや当然なのだろうけど食えない人だ。
「それだけ素直だと、何だか得より損してそうね、二宮さん」
「…はぁ」
「そうだ、ここのオフィスでは皆私の事を『容子社長』って呼んでるの、だから貴女もそうしてね」
「はい、かしこまりました」
「私は『冴子ちゃん』って呼ばせてもらうから」
「ど、どうぞ」
秘書課で呼ばれ慣れているからその事自体に抵抗はない。
…でも、美咲さんはどう呼ばれる事になるのだろうか、気になった。
「それでね」
徐に容子社長が席を立つ。
またあのチラ見栄する脚を見せつけられるのかと複雑な気分になったけど、これにも慣れなければと思いつつ後を追って移動した。
「わ…っ、すみません」
連れて来られたのはおそらく美咲さんが使う予定であろう役員の単独執務室だった。
一人で使うにはあまりにも広いスペースに私は声が出てしまいそうになり、慌てて口を押える。
そんな私を見てまた容子社長は「うふふ」と笑った。
「そこのデスクなのだけれど」
「はい」
広大な執務室の入り口近くには、一人用のデスクと椅子のみが置かれており、「ここが貴女の定位置になる予定」と説明を受けた。
「…まだ、もう少し物を入れ替えたりする予定はあるのだけれど、一応こんな感じって事で」
にこりと笑う容子社長に私は問いかけた。
「あの、その…社長の定位置は別のお部屋という事でしょうか」
「社長、じゃなくて『容子』社長、ね」
「…失礼しました」
「私の定位置はね、こことはちょっと違う感じなんだけど…」
「?」
一旦執務室を出てから移動した先は、どうやら休憩スペースのようである。自販機やウォーターサーバーの類、そして丸いテーブルに椅子の並んだスペースのすぐ隣に、先ほど見た執務室に比べれば半分くらいの広さの個室があった。しかも休憩スペースとの間は壁ではなくガラス窓がはめ込まれている。
…私は驚いて容子社長の顔を見つめた。
どこの会社に、社長よりだいぶ広い執務室を与えられる役員がいるだろうか、と思ったからだ。
「うふふ、いいの。これで」
「…でも」
見れば見るほど、こちらの方が後付けの役員用スペースにしか見えない。
机や書棚こそある程度のサイズのものが入っているが、応接セットなんかはさっきの執務室のものが6人くらい余裕で使えるものなのに対してこちらは4人がせいぜいといった所だろう。
美咲さんと使う部屋が逆だろう、としか思えないが、容子社長は「形より、実利が大事なの」と言ってきた。
何でも容子社長はコーヒーが大好きで、元はあの大きな執務室で仕事をしていたものの、度々自分でコーヒーサーバーのあるこの休憩室を利用するのにもっと近い場所にデスクをもっていきたいと考えて、ある時こんな形でオフィスをリフォームしたのだと言う事だった。
いや、普通社長室にコーヒーサーバー置くでしょという心の中での突っ込みを先回りするように「ここへ取りに来たいのよ、みんなの顔を見たいのもあるから」と容子社長は付け加えた。
「一応この窓にもブラインドはかかってるけど、この方がみんなと一緒に仕事してる実感も得られるし、休憩ついでに気軽に話しかけられるような立場の方が、私は気楽だから」
まあ確かにガラス越しにとは言えこの笑顔で迎えてもらえるなら従業員も休憩が楽しい事だろうと思う。
「…ではあの執務室はほとんどお使いになっていらっしゃらないのですか」
「そうね、せっかく設えてもらったのに、あまり使わずに出てしまったわ」
「……」
「会議室に改装しようかとも思ったのだけど、どうもそういう訳にはいかなくて、結局あのまま残していてね」
「……」
ひょっとして美咲さんはあの持て余すほど広い執務室の穴埋め要員なのではないかと若干不安になる。
「それに、今は私じっくりとオフィスにこもる時間も多くなくて、あちこち移動していたりするから、こんなもんで十分なのよ」
また「うふふ」と笑うこの笑顔はだいぶ見慣れてきた。
「私は持て余してしまったけれど、まあ彼女なら…あれぐらいで丁度いいのかもしれない、そういうバイタリティを感じるし」
美咲さんは確かに広い執務室に魅力を感じているらしい事は言っていた。
…余計な想像だろうけど、プライバシーを保つためなのかあの部屋は独立性が高く、容子社長が「持て余す」と言う理由にはもっと根深いものがありそうにも思われる。
「貴女だから話しちゃうけど…あの部屋にいると、それこそいろんな娘が押しかけて来て困っちゃったりして」
…やっぱり。
敷居の高い執務室の存在は、軽々しくそこを訪れてはならないという欲視力も働く事とは思うが、あれだけ孤立した作りだと、やっぱりやましい目的で頭をいっぱいにした人や、抑止力など無意味なぐらい勢いのついた困った人が押しかけて来た場合に追い払うのには難儀する事だろう。
「…容子社長にはずっと、秘書もアシスタントもいなかったという事ですよね」
「そうね、何だかややこしくなっちゃって」
「……」
容子社長は多くを語らなかったけど、社内から登用しようにも外部から採用しようにも、肉親やらその他の身内からクレームがついたか何かしたのかもしれない。
「基本的には自分の事は自分でするというスタンスなのだけれど、たまには冴子ちゃんの手をお借りする事はあるかもしれないわ」
「勿論です、本来の順番としては…そうあるべきですし」
「うんうん、そうよね」
せっかくだから、とその後は容子社長の本来の執務スペースで話をした。
実際に入社する日取りや美咲さんと容子社長の分担の予定、引継ぎについてなども少し教えてもらう事ができた。
「…冴子ちゃんがいい娘で良かった、一緒にお仕事できるのが本当に楽しみ」
「…こ、こちらこそ」
「じゃ、またもう少し時期が近づいたら細かいご案内をする事になると思うけれど、私としては少しでも早く、私たちの一因となって欲しいと思っているから」
机上に差し出されたのは、雇用条件の書面と入社の承諾書だった。
その場でサインすべきかと思っていたら、「後でよく読んで、サインしたものを郵送してくれたら良いから」と封筒も渡された。
私はそれらを受け取りそのオフィスを後にする。
*-*-*-*-*-
「…どうだった?容子社長は」
美咲さんと暮らす部屋へ帰宅すると、美咲さんはまた珍しく定時上がりしたのか何なのか、私の帰りを待ち構えていた。
「…これを渡されて、後で郵送する予定です」
「…うん」
美咲さんの返事が曖昧になるので、そういう話じゃないとでも言いたいのか、と察して私は美咲さんを見た。
「…容子社長そのものが、どうだったかという話でしょうか」
「そうそう」
「どう、と言われても…あまりに綺麗な人でびっくりしたとしか言えないです」
「…そうだよね、手とか出されそうにならなかった?」
「それは、全然」
「あらそうなんだ」
容子社長からしたら私など幼く見えてしまうのではなかろうか。現に態度としては姪っ子にでも接する時のような感じだったと言って良い気がする。
きちんと観察していればそんな風に彼女としては相手と距離を取っているつもりなのだろうけれど、相手によってはあの謎の魅力と備忘に吸い寄せられて距離感など意識の外へと飛んで行く人もいることだろう。
内心、確実に彼女からすれば私は守備範囲外という雰囲気を感じていた。
でも逆に私の方は美咲さんとの実年齢の差はあまり意識する事なくここまで深い付き合いができている事もあって、私からすれば全然どころかもろにと言っていいほど容子社長は「アリ」である。
仮に何の前触れもなく彼女の気まぐれで身体を触られたとしても、多分私は全く抵抗しないのではなかろうか、そんな奇妙な自信はある。
ただ、どうも容子社長には、話をせずして他人の思考や何かがわかる力があるのではないか、と私は直観的に理解していた。
そうでなければいくら美咲さんのコネがあるとは言え初対面の私に「いろんな娘が来ちゃって」云々などという際どい話題などわざわざ振って来ないだろうから。
正直私が容子社長に対して「アリ」と思っていた事もおそらく見透かされていたと思うし、それもどこか仕方ないような気がしていた。
私が「アリ」を隠していなかったからこそ、多分彼女はあえて何もしてこなかったように思う。
…きっと、そういう娘にはうんざりしているはずだから。
「私としては、容子社長とはうまくやれると思います」
「お、頼もしい」
「はい」
…でも、心配なのは美咲さんの方だ。
美咲さんだって、年齢が近いとは言えあの美魔女に何も思わないはずはないと思えるけれど、あるいは本当に何も感じていないのだろうか。
それとも実業家にはあの程度の女性はごろごろしているとでも言うのだろうか。
「…お姉さまの方こそ、容子社長とその、いやらしい事してたりしないんですか」
「ないない」
本来私からこんな質問はしないようにしているし、仮に他の人と美咲さんが繋がっていたとしても、私としてはそれを露骨にわかるようにされなければ気にしないという事にしている。
でも今の「ないない」は本当にないような感じで、むしろ違和感があった。
これは私の、あくまでも直観なのだけど、あの口ぶりからして容子社長は単に用紙が並外れて優れているだけではない。
いろんな意味で、と言うか男女問わず上から下まで、多分そういう意味での経験人数はめちゃくちゃ多いと思えた。
思い返せば容子社長と直接会った瞬間、そうとわからない程度にだけど彼女は私の全身を眺めて、相手にはそうと悟られないほどの一瞬で私を品定めしている事に私は気づいていた。
実際に視線を上下に動かす事はしないけど、それでも舐めるように見る事はできるし、私はそういう技術を持つ人が実在するのを知っている。
真下課長にされたような、あからさまなものとは全く種類が違う。
でも、それなのに容子社長が得たはずの情報量は真下課長の得たそれとおそらく桁違いに多いはずなのだ。
だから私は本能的に、この人の前で自分を偽っても意味がないと思い彼女のあけすけな色っぽい話題にもいちいち抵抗せず黙って話を聞いたし、カマトトぶっても何の意味もないぐらい見透かされているような気になったのだ。
…美咲さんはもしかすると、容子社長のそんな、人間の欲の表も裏も見透かすまでに至る経験値の差というものが、見えていないのだろうか。
見えているはず、と断言はできない。なぜなら私のそれを美咲さんは一瞬で見破れなかった可能性があるからだ。
何の証拠もないが、私は容子社長の手がいかに多くの女性を抱いたのか、本能的に理解できたしその経験値をもってすればおそらくはそういう場で発揮するテクニックも桁違いのモンスター級だろう。
ある意味、自分もそちら側に片足を突っ込んでいる自覚があるからこそ、同類の、しかも自分をはるかに上回った上でなおかつ品格を放っている容子社長の異常性に目を奪われたのだ。
手を出す、出されるというよりも、どちらかと言うと親近感に近いようなものを感じながら、私は容子社長と言葉を交わしたという後味が強い。
「冴子よりずっと長い、と言ってもまだ半年ぐらいの付き合いだけど…まあ女の子もアリ程度と言うか、寛容な感じだとは思うんだけどね」
「まあ、そうですよね」
美咲さんが、経緯はともかく容子社長には私との同棲を打ち明けているのだから、美咲さんとしてはそういう話もできる相手として容子社長を信頼しているのだろう。
でも、もし容子社長の持つ特別な素養に気付いていないのだとしたら、多分手を出されるのは私でなく美咲さんの方になるような気がした。
理由は簡単、その方がリアクションが面白いからだ。
一瞬で相手の全てを見通す事のできるタイプの人は、わかりきった相手になど心底興味を持たないだろう。
それよりも、無邪気に私のような娘と同棲しちゃうような精神性の持ち主である美咲さんの方が、ある意味危ういし遊び甲斐があるはずだ。
「……」
「冴子、どうしたの?」
私が考え込んでいるのを、美咲さんは雇用条件か何かで不満があるのかと勘違いしたらしい。
…美咲さんも、ある意味人の心を見通す事ができる人のはずなのに、この空気感と言うか、容子社長の底知れない感じにはなぜ無頓着なのか。
悪いようにはされないだろうが、仮にそれこそ、気まぐれに容子社長が美咲さんに手を出した場合はおそらく、美咲さんは逃げきれないだろうなとも思った。
多分美咲さんはその深淵に立ってはいない。
しかも容子社長は、美咲さんの恋人が私である事を知って好都合と考えた事だろう。
彼女が美咲さんに軽く手を出したとして、美咲さんが本気にならない限り私は何も騒がない類の娘である事も、おそらく見抜いたからだ。
…そうか、幸せな事ばかりではないという事だろう。トレードオフとでも言うべきか。
現実的に考えれば、あの会社に移れば基本的に私は美咲さんに張り付きで仕事をする立場になる訳で、容子社長が美咲さんに、という事など本来考慮すべき内容ではないかもしれない。
でも、遠からず、そして割といい確率で美咲さんは容子社長にちょっと悪戯ぐらいはされるんだろうな、と心のどこかで確信できた。
それがおそらく、あの執務室を好きに使わせる条件とでも理由をつけて。
「…雇用条件に不満はありません、すぐにサインして郵送します」
「そっか、じゃなんでそんな暗い顔してるのよ?」
「それは…うーん…説明しづらいです」
「何それ」
ここで何を言っても、きっと美咲さんには妄言にしか聞こえないだろうし、今警鐘を鳴らした所で何の防止策にもならない。
願わくば、ただ美咲さんがガチで堕ちるほどの悪戯はしないでいただきたいと容子社長に祈るばかりである。
さすがに故意に、そしてのっけから私を追い込むほどの行為には及ばないはずと信じて、私は入社承諾書にサインをした。
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