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土下座する練習台(友紀SIDE)

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時刻は21時を回っているというのに、私は妹である晴香が一人暮らしする部屋の玄関扉の前に立っていた。

晴香に何を聞くのだろう、それすらわからないまま、一応知っている住所を頼りにここまで来てしまったけれど、何がどうという事も全くないままだ。

なんとなくだが部屋の明かりは灯っているように見える。
それから気の所為か、うっすらと女性の泣き声のような声も、この部屋付近から聞こえる気がしないでもない。

一度インターホンを鳴らしてみるが反応なし。
アポなしだしそれもそうか、と思って電話をかけてみると、だいぶしつこく鳴らした所でやっと晴香が電話に出た。

「晴香、貴女今どこにいるの?」
「…え?なんでそんな事聞くのよ」

挨拶もなしにいきなり本題に入るがその事を晴香は咎めてこなかった。
それよりも何か慌てているような感じがする。

「今貴女の家の前なんだけど、開けてくれる?」
「……はぁ?!何なのよいきなり」

晴香本人はまだ、どこに居るとは答えていないが直観で部屋に居るのだろうと踏んでそうたたみかけてみる。

「いやちょっと相談があって…」
「ほんと信じらんない、お姉ちゃん酔ってるんじゃないの?」
「ゴメン、でもちょっと話聞いて欲しいのよ」
「……じゃ待っててよ、開けるから」

乱暴かつ一方的に通話は切られてしまう。晴香はいつもそうだ。
私は出遅れた感いっぱいのまま耳からスマホを離して、意味もなく画面を見つめてリセットの操作をする。
それからぼんやりと玄関扉を見つめていると、ほどなくしてうっすらとだが、ばたばたと廊下を歩く足音に続きカチャリと玄関の施錠が解かれる音がした。

扉を開けてみると、とりあえず着たといった風情のだぼっとしたルームワンピースに身を包んだ晴香が立っている。
髪は乱れているし、眠っていたのだろうかと思うがそれにしては何か疲れたような表情だった。

それと同時に感じたのは、この部屋に漂う濃密な空気。
見下ろせば晴香がおよそ履かないようなデザインのパンプスがある。

「…誰か来てる?」

視線をその靴に固定したままごく小さな声で尋ねるけれど、晴香は憮然として溜め息を吐くのみで返答はなかった。

「いや、なんか、ゴメン」
「…何?」

自分でも混乱しているのだが、どうしても明日の、真下課長とのディナーにてどう振舞えばいいのかわからず、それなのにこの事について話をする相手として晴香が適任かどうかもわからず、ただなんとなくここまで来たけれど自分の行動が正しいかどうかは全くわからない。

強引に上がり込もうとしておいて、今になり萎縮するのも一貫性がないとわかっていながら、動揺してしまう。
それにいつもなら気付くはずがないほどの些細な事だけれど、この部屋に入った瞬間に感じた、言いようのない淫靡な空気を、自慰に溺れる事を覚えた私は敏感に察知する事ができた。

「その…まずくなかった?」
「そう思うならいきなり来ないでよ、まずいかまずくないかで言うならものすごくまずいから」
「……」

その時部屋のどこかから明らかに人の立てた物音がして、私は驚愕する。
誰かがいるのかいないのか確かめる問答をしておいてこれも変なリアクションだが、致し方ない。

ぬっと顔を出したその「誰か」を、私は知っている。顔は間違いなく、そして名前も知っているのだがぱっと思い出せなかった。

Tシャツに短パン姿のその女性が晴香の背後に現れた瞬間、私は驚きのあまり身体がぐらりと傾いてしまい、思わず横の壁に拳をついて身体を支えたのだけれど、それが晴香に対する制裁の前兆とでも勘違いされたのか、その彼女が晴香の前に立ちふさがるように割り込んで来た。

晴香は「ちょっと」と煩わしそうに彼女をどけようとするが彼女は動かない。
無理に割り込んだ所為で私と彼女の距離は妙に近かった。
彼女もまた、髪は乱れているしおそらくブラは着けていない。胸の揺れ方でそれがわかった。

ごまかすような苦笑いを浮かべつつ、彼女が口火を切る。

「…あ、どうも、秘書課の小田梢です」
「……!」

やっとの事で立て直した身体がまたぐらりと揺れる気がしたけれど、今度はそれを小田さんに支えられてしまった。

「いいから早く上がってよ」と面倒そうな晴香の声がして、私は複雑な気持ちのまま小田さんに支えられつつ玄関に上がった。

「あ、あの…こんな状況で非常に申し訳ないんですけど」

晴香と向き合うより先に、小田さんがそう言いつつ床に正座し頭を下げてきた。

「晴香さんとその、お付き合いをさせていただいております」

これは私にとって朗報なのだろうか。
冷静に考えればそういう事になるが、思考が追い付かずただ私は「はぁ…」と曖昧に返事する事しかできない。

「何やってんのよ梢ちゃん」

晴香が彼女の隣に跪きその身体を起こさせようとしている。

「…ここに、住んでるんですか」

感情とは全く別に、私の口からはそんな質問が出てきてしまった。

「まあ、なんとなくそういう感じには…なってますけど」

顔を上げて頬を掻きながら言う小田さんの横で、晴香はまだ憮然としたまま私を睨んでいた。

「あーあの、お話があるんですよね?妹さんと」
「いやあの」
「…ちょっと、私は外しますんで」

勢い良く立ち上がったかと思うと、彼女は広めのリビングダイニングから出て行きフィールドコートか何かを羽織って玄関から外へ出て行ってしまった。

「……」

取り残された私は言葉もなくただ椅子に座っている。
そもそも自分が何をしにここへ来たのかという理由さえ判然としない中だったのに、来てみたらなんと晴香が女性と、しかも冴子の先輩と半ば同棲している事実に直面してしまったのだ。

「…とりあえず、家の人には黙っておくから」
「そんなの当たり前でしょ」

小田さんが居なくなった事でますます晴香の毒吐きオーラは色濃くなり、いよいよ隠さず舌打ちまで繰り出してくるようになった。

「でも、良かった」
「は?」

無礼な姉を咎めると言うより、突然の私の奇行や妄言に警戒している様子が強く感じられる。
それもそうだ。自分でもこの所はおかしいのだから。

「手土産でも持って来れば良かったね」
「いいから、何の話だか早く言ってよ」
「…うん」

気を利かせて出ていった小田さんの事もある。時間を無駄にはできないとも思い私は整理もできぬままに自分の事情を説明した。

晴香は当初、その話を何故自分が聞かなければならないのかという表情を見せていたが、途中からは半ば空虚な面持ちで私の話を聞いているようだった。

「私、貴女がどこでどんな仕事しているかは知らないけど、その…性的なアイテムとかそんな物を取り扱っているような所のような気がして」
「どうしてそう思ったのよ」
「その、ちょっと…貴女の部屋を見た時にそれらしき物があって」
「勝手に入ったの?…」

一瞬鋭い視線を向けられたけど、もう晴香としては何が来てもおかしくないとでも思ったのか、特にそれ以上何も言いはしなかった。

「性的なものも扱ってない訳じゃないけど、それが本業って事じゃないよ」
「…やっぱり」
「んで?」
「だからその、そういう事は私より詳しいのかなと思って」
「……処女じゃあるまいし今更何言い出すんだか」

きっと晴香としても調子が狂うと思っているだろう。
いきなり小田さんが出て来ても、私は正直怒る気持ちは芽生えなかった。
よく考えれば晴香がどうやって小田さんと知り合ったのか、全く見当もつかないし、そもそも晴香が女性に恋愛感情を抱く事すら知らなかった。

ましてや社会人の小田さんがこの部屋に半ば住み着いてしまうぐらいに晴香と親密であるというのも、冷静に考えてみれば何だか非常に宜しくない状況なのかもしれないけれど、私にとっては晴香が唯一の光明のように思えてしまったから、それら全てはどうでも良くなっている。

真下課長が女性愛者であろうという事やそんな真下課長を好きになったかもしれない事、けれども真下課長の方はどうやら松浦部長と冴子の二人に興味津々な様子で私はおそらくほとんど眼中にないであろうという事。
挙句トイレに真下課長を呼び込むような挑発に加えて冴子に気があるのではないかと匂わせたりした事、そして明日はそんな真下課長とサシで夕食なのだという事。

「あ、そうだ…それから」

付け加えたのは、冴子の談では真下課長がむっつりドスケベだろうと踏んでいる事も、一応伝えてみる。

好きかもしれない人をドスケベ呼ばわりされている事にその時ようやく気付いたけれども、現に冴子に対して真下課長はセクハラまがいの行為をしているのだからこれも致し方ない。

「お姉ちゃん、なんで私なんかにそんな事べらべら正直に喋るんだか」
「…わからない」
「冴子さんにも話してるんでしょ?この事」
「まあ…そうだけど」

晴香はわざとらしくハーッと溜め息を吐く。

「じゃ私が梢ちゃんと付き合ってて、良かったみたいな事思ったワケなのか」
「…そういう訳じゃないけど」

晴香はほんの少し考える素振りを見せてから、「じゃ私も正直に話すよ、今のお姉ちゃんならおとなしく聞いてくれそうだし」と切り出し、小田さんと知り合った経緯と、それより前には偶然に仕事の関係で冴子と出会っていて冴子に思いを寄せていた事を打ち明けてきた。

「…初めて聞いた、それ」
「でしょうね」
「でも…冴子には振られたって事?」
「既に冴子さんにはあの人がいたし…それでも私は一方的に冴子さんを追いかけていたんだよ」

なるほど記憶をたどれば晴香がある時変な理屈で社内報の受付女子の写真を見たがっていた事があった。
あれがその時期の事なのかもしれない、などと考える。

「そもそもどうしてお姉ちゃんはその人の眼中にないと思ってるのよ」
「だって、私は冴子とはタイプが違うもの」
「……」

今度の晴香の溜め息は、呆れたという風情である。

「なんかさ、そういう風だからその人から相手にされないんじゃない?」
「へ?」
「お姉ちゃんは根がドスケベじゃないから、その人の事怖いとか思ってるんじゃないの」
「…どうなんだろう、わからないよ」
「だいたい本当に好きだったら、何もわからなくても我慢できなくなるんじゃないの」
「そうだね…そうかもしれない」
「私は何もわからないまま冴子さんを必死で口説きまくったけど、結局遊ばれた感じで終わっちゃった、けどそれでも相手にしてくれて私は嬉しかったし、今でも冴子さんが好き」
「…え?」

小田さんとどうやらとても親密であるのに、晴香はそんな事を言う。
その事に、むしろこちらが「いいのか」と思ってしまう。

「梢ちゃんだって冴子さんの事好きだし、その課長さんだってそういう感じの事なんじゃないのかな」
「……」
「そういう好きを向けられる事は冴子さんには日常なんだもん、それとは違うってアピールしないと全然響きもしないんだよ」
「…だから?」
「冴子さんにとってはその課長さん?程度は風景と一緒って事、まあ縁があれば身体ぐらい触らせるかもしれないけど、まともに相手にはしないでしょ」

具体的にそこまで聞いて、私は身体がかっと熱くなるのを感じた。
遊びであっても、真下課長と冴子が触れ合う場面を想像しただけで、自分が嫉妬している事に気付いたのだ。

「お姉ちゃんは本気で誰かを誘惑した事なんてないんでしょ、どうせ」
「…ないよ、そんなの」
「どうもその課長さんもむっつりな上自己肯定感が低そうだし、ガンガン押せばあっさり落ちるような気配しか、しないけどな」
「そうなのかな……」

「今お姉ちゃんに教えるのは諸刃の剣のような気もしないでもないけど、とりあえず見てみたら?女が女を誘惑するというのがどういう事か、わかるだろうしそれは普通に行われているんだってわかると思うよ」

晴香が差し出したスマホ画面の二次元コードを、私は自分のスマホに読み込んだ。

「…これが、貴女の仕事なの?」
「うん、と言うかそこの広告写真はメインじゃないから、デザインとかコーディングが本業だからね」
「……」

晴香は私よりもずっと、いわば極端な容姿の持ち主だ。
黙っていればものすごく可愛くも美しくもあるが、その事を本人は変に自慢するでもなく、それが為にからかわれたりいじられたりする事がよくあった。

晴香本人は容姿に誇りを持っているだろうけど、人との関わりの中でバイアスになるぐらいならそんな物は別に欲しくなかった程度の事だろう。
それでいて性格的には非常に棘があるし気も強い。

やれば当然評判にはなるだろうが、晴香がまさかこういう公の場で身体を晒すようなモデルの仕事をするなんて、意外だなと思った。
しかもけっこうこなれているから、一度や二度手伝った程度という事ではないのだろう。

「……」
「ここまでやっても冴子さんは落とせなかったんだから、その課長さん程度は恐れるに足らずとしか、私には思えないけど」
「…そうだね」

妹の事ながらつい納得してしまう。
小さなサムネイルのまま、タップせずに見つめていたので詳細までは不明だが、それでもやはり晴香の容姿は異彩を放っているのだ。

「そんな事よりもお姉ちゃん自身がどうしてその課長さんを好きなのか、その人とどうなりたいのかが大事でしょ」
「…そうだね」

口からは同じ言葉しか出ない。

深く考えもせず、その『WS』というアプリ内に表示された晴香の写真をタップしてみると、サムネイルの画像よりももっと挑発的にランジェリー姿を晒す晴香の写真が何枚も大写しになったのでやけに焦ってしまった。

身に着けている女性自身が楽しみ気分を上げる事をコンセプトとしているとコメントアウトされたランジェリーの数々を魅力的に着こなす晴香の姿に、自分の妹ながらどこか存在を遠くに感じてしまう。

清楚かつセクシーに透けるホワイトのキャミソールと、コーディネートされたブラショーツ、ガーターにストッキングという出で立ちで腰に手を添えて立っている写真には芯の強さを感じさせるし、ナイティとしても活用できそうな薄手カップ入りのパープルのロングドレスを着ている写真では、サイドスリットから真っ白な太腿以下を露わにしつつ切なげな表情で、身体を斜めに傾け振り返るようにこちらを見ている顔が強烈に色っぽい。

単にいやらしいという訳ではなく、上品で質も良さそうでありながら、同時に遠慮なしのセクシャルな雰囲気を爆発させている。
そんなコンセプトのランジェリーデザインと晴香の元々持っているスレンダーな身体やイノセントな佇まいがうまく融合しているのだろう。
異性に見られる事があろうとなかろうと、自分の楽しみとしてこういったものを身に着けていたいと願う女性はたくさんいるだろうなと想像できた。

晴香の口にした「どうなりたいの」という言葉が反芻され、ロングドレス姿の晴香の写真の顔が自分のものに変わる錯覚と同時に、そんな恰好で真下課長を誘惑する自分の像が何故かイメージされて私はまた顔が熱くなった。

「お姉ちゃんは何が不安なの?」
「…それは」

食い入るように見つめていた画面からはっと顔を上げて私は晴香を見る。
何がってそんなの、決まっているではないか。
文字通り女性との経験値がないという一点に尽きる。

「何、そのむっつりドスケベな課長さんのご要望に応えられるか自信ないとか?…だとしたらお姉ちゃんも相当むっつりだと思うけど」
「そ、あの、でも…そういう事だと思う」
「ふーん」

晴香がまるで全て超越しているかのような存在に思えてならない。
本質的にはこんな恰好でフラッシュを浴びる事に快感を覚えはしないタイプの晴香が、いつの間にかそれを楽しむ余裕すら獲得し、その上私よりも年上の小田さんを、本人の様子からするとメロメロにしてしまっているのだから、もはや晴香は容姿という自分の武器を理解し使いこなしているのだなという事を知って、やっぱり取り残された気分になった。

だって、それをきちんと自己理解し使いこなしているレベルでは、私の方がずっと上回っていると自負していたから。

「だからって私と梢ちゃんがそういう事してる場面を見たいとか、言わないよね?」
「……」

いくら何でも、実の妹と親友の先輩でしかも同じ会社の人が交わる場面に立ち会って、まともでいられるかどうかは自分でもわからない。

「梢ちゃんは喜んで見せたがるし混ぜようとすると思うけど」
「え…そういう人なの?」
「そう、そういう人」

思えば冴子がなんとなくそんな愚痴をこぼしていた事があったような気がする。
冴子の場合どこにいても何かしらの標的にされるから、茶飯事と思ってまともに聞いてなかったけど。
社内の女性と付き合っている中でやはり社内の女性にセクハラされる心境を想像するのは難しい。

「あと、そうだ…お姉ちゃんは冴子さんから聞いてるかもしれないけど、1月に行った旅行、あれは私たちとのダブルデートだったんだよ」
「え、嘘でしょ…」
「嘘じゃない」

「その旅行の時だけじゃなくて、私は直接冴子さん達がしてる所、見た事も混ざった事もある」
「え……」
「経験上、だから見て勉強って言うのはあんまりお勧めはしないかな、でも梢ちゃんを貸してくれって言うなら私は別に構わないけど」
「は?…だって付き合ってるんでしょ?貴女」
「うん…でも梢ちゃんどMだし、あたしはどSだから、いいんだよ」

何がどういう理屈で「いいんだ」か、私にはわからなかった。
でも、単に経験不足を補う為に、妹が付き合っている女性の身体を借りるなど、私の発想にはない。

「そんなの、いいよ…」
「ふーん」
「……」

何か、この申し出を受けない事がいけない事のようではないか。
そりゃ思い余って冴子に「練習台になってくれるのか」などと聞いてしまったりもしたけれど、異性間で考えれば異常かもしれない話で。

経験のない男性とは手合わせできないという考えの女性も一定数いるだろうけど、だからと言って風俗で働く女性と熱心に交わってみたり、恋愛感情を持てない相手に身体だけ貸してくれなどと言う男がいたら、不誠実に見えてしまうのが私の正直な気持ちだ。

でも私はそれに類する事をしようとしている。
それが真下課長の為かどうかもわからないのに。

「ま、でもそんな事で自信のなさがきれいに解消、なんて無理だろうけど」
「…うん」
「だったらさ、お姉ちゃん」
「?」

晴香が急に意地悪そうな顔を向けてきた。
先を促そうとしたけど、どういう訳かわざとらしく間を取って小田さんに電話をかけ「もう戻って来ていいよ」などと言っている。

…それ、今すべき事なの?と呆然と見ていると、晴香は何でもない事のようにこう呟いた。

「お姉ちゃんが自分をエロく見せたいって言うのなら、いっそその食事会にノーパンででも参加してみれば」
「……?!」
「んで、その課長さんにそっと教えてあげればいいんじゃない?そうすれば手ぐらい出してもらえるかもよ」
「え……」

ちょっと、次元が違う話をされている気がする。
私の方は、例の勝負スーツを着られないという事にちょっと落ち込む程度だったのに、晴香ときたら何て事を思いつくのだろうか。

「冴子さんの話が本当なら、お姉ちゃんがさしたる努力をしなくても、水を向ければのこのこ乗っかってくるんじゃないのかな、その人」
「……」

いやらしい真下課長を想像して都合良く自慰のネタにしておきながら、簡単な誘いで乗ってくる素養ありというのはいただけないと、相反する事を思ってしまう。

仮に真下課長がそんなに飢えていると言うなら、その性欲の矛先は自分のみに向けて欲しい、と素直に思った。

「どーせそこから先は課長さんが教えてくれるでしょ」

晴香は、冴子と同じ事を言っている。それが共通見解と言う事なのだろうか。
でも、私は真下課長にはそんなにリードして欲しいとは思っていない。どちらかと言うと私が真下課長に奉仕し彼女を悦ばせたいのだ。

「あとは?リアルな上司部下でそんな関係になる事を、課長さんがどう思うかだろうけど」
「……」

それについてはわからない。でも真下課長は社内の女性に対して抑えきれないほどの好意を抱いていたのだから、ポジティブに解釈すれば、ナシという事ではないと思いたいけれど。

「……」

私が長いこと黙り込んでいると、静かに玄関ドアが開く気配があり、小田さんが戻って来たのだなとわかった。
晴香から「梢ちゃんを貸してあげてもいい」と言われた事を思い出して背中がぎくりとする。

…あれ?
この部屋に入る前に聞こえていた、あのうっすらとした女性の声って、もしかして…
もしかしなくても、そういう事なんだろう。
玄関に入った時にはっきりと感じたあの淫靡な空気とその事が何故今まで結びつかなかったのか、自分でもわけがわからなくなる。

しかしその考えに至ってしまったら、この空間はさっきまで、晴香と小田さん二人だけの、誰にも邪魔されない愛し合う時間が繰り広げられていたわけで、私は招かれざる客である以前に、無防備に二人の織り成す淫靡な空間に迷い込んでしまったという感ばかりが強く感じられてしまって、いたたまれなくなった。

そう思うと、無視できたかもしれないし追い返す事もできたはずなのに、その睦み合いを中断してまで私を部屋に上げた晴香の態度は、振る舞いこそ悪いかもしれないけれど決して冷淡なものとは思えなかった。

小田さんは直接この広い部屋には来ずに、その途中にある寝室らしき部屋へ引っ込んだようだ。

「…私、真下課長にメチャクチャいやらしい事をして悦ばせたいんだと思う」
「……」

テーブルに肘をついてぼんやりとしていた晴香は、視線だけを動かして「そう」と呟いた。
所詮血の繋がった妹と姉だ。いい子ぶっても今は仕方ないような気がする。

「攻める側やりたいんだ?お姉ちゃん」
「……うん、多分」
「だったらやっぱり梢ちゃんはいい練習相手だと思うけどね」
「まだそれ言うの?」
「だって自信ないんでしょ?」

晴香も私の性格をよくわかっているのだ。
勉強も運動も、私は何でも良くできたけど、それらは全て予定調和であったという事。
単純に、人よりたくさん予習復習して、運動ならたくさん練習して、委員長になれば他のクラスの話を聞いたりして、私は何事も人よりたくさん準備をして、情報収集をしてから臨む傾向がある。
結果だけを見ればそれは人より優れて見えるだろうけど、ある意味それは想定の範囲内の出来事でしかないのだ。

失敗を恐れずとにかくやってみるとか、仕組みや枠組みを無視して好き勝手にやりたいとか、そんな事はまず考えないし好まない。
それなのに私がこの年になって未知の感情に出会い感心を持ってしまったから、自分でもびっくりするほど狼狽し、それを明かせば真っ先にバカにしてきそうな人物の筆頭である晴香なんかに打ち明け話をしてしまっている。

お願いしたいなんて言うのは本来異常な事だと思う気持ちと、でもやっぱり練習はさせてもらえるならしたい、という気持ちがせめぎ合う。

「勿論梢ちゃんの身体とその人の身体は形も感じ方も全然違うとは思うけど」

…それでもしたいのか、と念押しするような晴香の言葉。
試されている気しかしないが私がもう気持ちを抑えきれそうにない事をおおよそわかっているのだろう。

「…でも本当にそんな事、していいのかな」
「いいよ、別に」

そもそも小田さん本人の意志を全く確認していないのに、どうして晴香はそんなに簡単にいいと断言するのだろうか。

「…ねえ、梢ちゃん」

急に晴香が大きな声を出すと、別室からちらっと小田さんが顔だけを出した。

「ちょっとお姉ちゃんに付き合ってあげて」
「え?何関係で?」

案の定小田さんは何が何だかわからないという様子で晴香に尋ね返している。

「どーせ途中で辞めちゃったから、うずうずしてるでしょ」
「……」

晴香の言葉で意味を察したのか、小田さんは黙って顔を引っ込めてしまった。
…やはり、嫌がっているのではないだろうか。

「じゃ行って、お姉ちゃん」
「は?今?」
「今以外にいつするの」
「……だって、小田さんが」
「もう準備できてるよ、多分」
「貴女はどうするのよ」
「うーん…梢ちゃんは見て欲しがるだろうけど、お姉ちゃんが嫌だろうし私も微妙だから、別の部屋行ってパソコンでゲームでもしてようかな」
「……」

無理やり背中を押されて小田さんが引っ込んだ部屋に押し込まれる。
小田さんは「あの、ちょっと待っててね、シャワーだけ浴びるから」などと言い私と入れ違いに部屋を出てしまった。

「……」

そうか、と思い何故か私も洗面所を借りて手と口をすすいでいる。
やる気いっぱいじゃないかと思ってしまうけど、どうも流れには逆らえなかった。
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