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催眠術と不文律
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春が近い。そんな感覚を誘うようなある土曜日の午後。
私は久しぶりに同期入社の友人である佐藤友紀と遊びに出かけていた。
遊びと言ってもそのうちほとんどはカフェでのおしゃべりに時間を使う事になるだろう。
せっかくだからと都心ターミナル駅隣接のデパートで待ち合わせをして、春物の洋服や小物なんかをチェックして回る事にした。
入社して2年くらいは私も友紀も受付で一緒に仕事をしていたけれど、その後私が秘書課へ、友紀が営業部へ異動となってからは、そう頻繁にランチや外出には行けていない。
それに以前は友紀の実妹でもある晴香ちゃんとの事もあって、職場以外で友紀に会おうとは考えにくかったが、今となっては梢さんというパートナーを得て晴香ちゃんもそちらに夢中なので、私自身としてもプライベートで友紀に会う事についてかなり後ろめたさは薄れている。
一応、友紀には地味にだけど美咲さんとの事も話しているし、なんとなくその辺の事については友紀本人が感じる所もあるだろうから、こちらからはあまり近況を話そうとは思っていない。
「営業へ異動したらとにかく服と化粧にやたらお金がかかる」とこぼしつつ、友紀は割と本気でブランドショップの新作や、型落ちのセール品まで素早くチェックしまくっている。
私服を選ぶというより仕事服に困っているのが切実に伝わってきた。
「いいなあ、秘書課は制服だから」
「確かに考えなくて良いという意味では楽だけど、なんか秘書同士で並んでたりすると、体形がもろに比較されてそうで微妙だよ」
「何、それって自慢?」
「違う、違う」
冗談だよ、と友紀は笑う。
私が自分の大きすぎる胸をコンプレックスに思っている事を、友紀はわかってくれているのだ。
「…すっごくスタイルの良い先輩がいるし、困るよ」
私はそう言いながら、例えば梢さんや亜里沙さんのスタイルの良さを頭に思い浮かべる。
自分自身が、太っているとは言わないまでも胸やお尻にたくさん肉が付いているのが鈍重なような気がするから、梢さんのように筋肉質な身体や亜里沙さんのように長身の人には無条件に憧れてしまう。
…営業部の女性はどんな感じなのだろうか。
おそらく友紀はずば抜けてルックスは良い方だろうけど、他にも華やかそうな女性社員がたくさん在籍しているイメージがある。
表情にこそ出さないようにと意識しながらも、言ってみれば社の営業女子の筆頭は、正にあの真下みすず女史だ。
私はいつからか、彼女を社の営業女子の象徴のようにとらえているふしがあるなと気付いており、少なからず友紀もその影響を受けているのだろう、と感じていた。
「そっちは?」と友紀に水を向けると、友紀は「確かにみんな派手は派手かもね」と呟いた。
「ただね、一課には私と真下課長しか、女性が居ないのよ」
「え…他はみんな男の人なの?」
「そう、バランスが悪いのよね…一課は極端に女が少なくて、二課や三課はむしろ過半数が女なんだもん」
友紀本人が噂を知っているかどうかはわからないが、秘書課界隈では当然の如く、営業部一課=エース集団という認知である。
逆に、友紀が二課や三課に配属された場合、そのずば抜けて優れた容姿や知性、それに間違いなく物覚えや成績に関しても、他の女性社員とは比較にならないぐらいに差を付けてしまうだろう。
今でこそ、私は幹部の傍で仕事をしているから、人員配置に対して組織の意図が必ず介在している事はなんとなく想像がつくし、友紀のような娘はむしろ、自分しか女が居ないような環境の方がのびのびと仕事できるのではなかろうか、と思うのだ。
私自身は友人として、純粋に友紀の成功を応援しているけれど、営業のような部署で成績を競う相手に友紀が登場してきたら、私なら間違いなく腐ると思う。
「あ」と友紀がディスプレイされている真っ白なパンツスーツに近づいていった。
すごく目立つし着る人を選びまくる尖った服だけど、友紀にならきっと似合うと思う。
「なんか…いいけどお水っぽくならないかな」
「…大丈夫じゃない?着てみたら」
「うん」
安物ならいざ知らず、さすがに世界に名前の知れ渡っているブランド物だ。仕立てや素材、デザインは上品だし友紀は元々派手だけど知的な美人だから、変な事にはならないと思うけれど。
この日友紀は、黒のシンプルなカットソーの上から若草色のマキシ丈キャミワンピを着てその上にコートを羽織っていたのだけれど、とりあえずインナーのみそのまま残して試着した白スーツは、本当にニュース番組のキャスターかと思ってしまうほどよく似合っているし、いわゆるキャリアウーマン的な戦闘力がかなりアップして見えた。
晴香ちゃんが極端にそうであるように、友紀も髪や瞳、肌の色素は薄い。地毛なのに髪色は柔らかなブラウンカラーで、元々毛室も柔らかいのだろうけれど、それを生かして肩甲骨くらいまでの長さの髪をゆるく巻いてスタイリングしているから、なんだかすごく触り心地が良さそうに見える。
更に色白の肌にはっきりとした茶色の大きな瞳があって、顔の造りを派手に見せているのだけれど、耳と口は比較的小さい方なので顔立ちそのものは上品だ。
実際アナウンサー志望もしていた友紀だから、この恰好で仕事モードのフルメイクなどを決めてしまえば、それはかえって近寄り難いオーラまで出てしまうだろうか。わからないけど。
…そうか、有名な女性アナウンサーで確か親のどちらかが外国人で、やはり語学も堪能な人に、友紀は似ている。
さすがにミス・キャンパスクラスの美人は素材が違うなと、改めて感心してしまった。
親族に外国の人は、とりあえず近親者には居ないという事だったけど、遠縁にはもしかしたらいるかもしれないしいないかもしれない、とは友紀本人の談である。
「さすが、誂えたみたいに似合ってるね」
言いながら私は友紀に近づき、さりげなくジャケットの袖にぶら下がるタグを指でめくってみた。
「……」
桁が、いくつだ…10万の位まで数字あるよね?これ。
私が引き気味に固まっていると、友紀は不思議そうに私を見下ろしてくる。
「お稼ぎ、なんでしたっけ…」
営業部では、エース級だと感嘆に、普通の一般社員3年目の年収と同じぐらいの額を月収で稼ぐ人もいるとかいないとか聞くけれど。
私は、友紀の月収については詳しく聞いていない。
「え?…あー」
友紀は私の指に挟まれたタグを、事もなげに一瞥して「着る前に見た」と言った。
「…上だけだよね、ここに書いてあるのって」
「そうだね」
下はまあほぼ同じ値段と考えても、合計すれば私の月収はすっからかんになる値段である。
しかしブランド物ともなればそれぐらいは当然なのだろう。
「買おうかな」
「うんうん」
あまり金額について言及するのは宜しくないと思い、私は友紀の会計を近場の椅子に座って待った。
「冴子ったらなんでそんな焦った顔してるのよ」
ショッパーを片手に、店員の見送りを断った友紀が私に近づいてくる。
「あ、焦ってはいないですよ」
「嘘、顔は焦ってるようにしか見えないし」
「まあ…そういうの軽く買えてしまう友紀との格差とでも言うか、それがちょっとね」
「…何バカな事言ってんだか」
「え?」
友紀は私の隣にどかりと腰を下ろして私をじっと見てくる。
「冴子、気付かなかったの?…」
「何が」
友紀が声をひそめて「今のお見せの店員さん、冴子のその指輪めっちゃガン見してたのよ?」と教えてくれた。
「…え」
「それ、先月どっかのファッション誌で取り上げられてたから、値段含めてモロバレだったんじゃないのかしら」
「……」
友紀にお稼ぎかどうか聞いている場合ではなかったという事のようだ。
確かに私のような年頃の者が着けているからには、自力で買ったとはまず思われないだろう。実際自力では買えないし、ブランドショップの店員さんがガン見していたという事はきっと、私の後ろにいる財布的存在のパートナー、さながら婚約者か何かを勝手に想像して、玉の輿女風に私を見ていたのかもしれない。
「そういうの、何気なく普段使いしちゃう冴子の方がよほどセレブっぽくて、別世界だわ」
「そ、そんな事ないよ…大事にしたいから毎日してるだけで」
「わかってる」
うろたえる私を面白がるように、また友紀が笑った。
「それに、冴子って今はもう服もそれ以外も、松浦部長の趣味とか雰囲気に釣り合うようにって意識してるんでしょ」
「…まあ、多少は」
「だから指輪が浮いて見えないんだよ、きっと」
「……」
私は恥ずかしくなって、冗談っぽく、でも内容としては一応真面目に友紀を称賛した。こういう事はきちんと言葉で伝える事に意味があると思うから。
「あの…お見せの中だったから言えなかったけど、その服友紀にすっごく似合ってた、綺麗でびっくりしちゃった」
百合ジョーク、という訳ではないが私は友紀の腕に自分の腕を重ねるようにして、ぐっと顔を近づけつつ友紀の顔を覗き込む。
友紀は女性愛者の要素はほとんどないはずだけど、私と美咲さんの関係を理解してくれているし、多少そういう事に興味がない訳でもなさそうな気配もあるから、ついついこうしてからかってしまうようになった。
「ちょ、あんまり近づかないでよっ」
「女の子同士これぐらい何も変じゃないよ?」
そう言いながら、友紀は絶対に恥ずかしがって逃げるの前提で、チキンレース宜しくぐっと顔を近づけてみた。
距離にして約10センチぐらいだろうか、そこで静止し改めて友紀の相貌を視界いっぱいに収めてみると、やっぱり抜群に整っているし肌もすべすべしていそうでちっとも幻滅しない。
今日はプライベートだからか化粧もほどほどにしているし、そこもなんだか友紀の素に近い顔を見ているようで攻め甲斐がある。
まあ、同時に私の脳裏には晴香ちゃんの顔や身体が浮かんでしまっているのだけれど。やはり姉妹だからよく似ていると思う。
「キスとかしないよね?」
「しないしない」
割と本気で警戒する友紀が面白くて、でもそんな趣味の悪い悪戯はそこそこに、私は友紀から離れた。
これが友紀でなく晴香ちゃんだったなら、至近距離の10センチまで私が顔を近づけようものならむしろあちらに食われてしまいかねない。
…いや、何なら唇の感触は晴香ちゃんと似ているのか、確かめてみたいという興味もないわけじゃないけれど。
だが万一にも私が友紀とキスしたなんて、まかり間違って晴香ちゃんにでも漏れようものなら、晴香ちゃんには激怒されそうな気がする。
…ここで美咲さんの心配をしないのは自分でもどうかと思うけれど、妬かれはしても怒られたりはしないという、なんとなくの安直な予測が成り立っているからかもしれない。
「行くわよ」
「あ、うん」
なんとなく晴香ちゃんとのキスの感触を思い出してみたり、嫉妬した美咲さんが私の唇に噛みつくように激しくキスしてくれるような、自分に都合のいい妄想ばかりしてしまっていた。
友紀と遊んでいる最中にここまで卑猥な妄想に囚われるのは珍しい気がする。
それもこれも、あの日本人離れした友紀のスーツスタイルが妙に恰好良かったからかもしれない。
*-*-*-*-*-
「それでね、冴子に折り入って相談したい事があるの」
「…どうしたの?」
友紀が外回りでよく使う穴場カフェに落ち着いた私たちは、それぞれカフェラテを注文し話を始めた。
友紀が悩み事なんて、ものすごく珍しい。しかも随分と深刻そうな感じがする。
「その…言いにくいんだけど」
「…うん」
だいぶ間があって、私から「無理そうなら言わなくていいよ」と切り出そうとした瞬間、友紀が「私ね」と言葉を発した。
「…うん」
「自分でもはっきりとはわからないんだけど、真下課長の事、…」
次の言葉はない。でもわかる。「好きかもしれない」と言いたいのだ。
だから私はそこで一旦頷いて、続きを言う必要はないと表情で答える。
「それ、私なんかに相談しちゃっていいの?…」
「だって他に言える人なんて居ないから」
「そっか」
運ばれたカフェラテに、友紀は珍しく砂糖をたっぷり入れてかき混ぜてからカップを口に運んでいる。
「…なんか、私が影響させちゃってるのかな、だとしたら」
「いいんだ、そういうのは…関係あるかもしれないけど、冴子の所為じゃないし」
「うん」
気になる事は他にもある。おそらく友紀は真下課長が美咲さんを思っているという事実に気が付いているはずなのだ。
「あのさ、その…前に私が真下課長の事聞いたけど」
「うん、それもわかってる」
「そっか」
「…真下課長とは毎日、ほぼずっと一緒に仕事してるから、誰の事が好きかとか、何かあったんじゃないかとか、そういう感じの事は見てればなんとなくだけど、わかるよ」
「…うん」
「当然全く相手にされなかったみたいだし、真下課長隠してたけどけっこう落ち込んでたから」
「……」
なるほど真下課長が美咲さんに突撃告白した件も、友紀は気づいているようだ。
「でね、それから少し後になって真下課長から、冴子の事を聞かれたの」
「……」
私が待ち伏せされた件に繋がるのだろうか。友紀はさすがにそこまでは知らないだろうと想定しているけれど。
「私ね、課長が冴子の事を聞いてきた時にどういう訳か、ざわざわしたような気分になったんだ…冴子の事が心配なような気持ちもあったけど、それだけじゃなくて」
「…その時気が付いたって事?」
「…多分、なんとなく」
友紀はまだ、自分の気持ちをはっきりと整理できている訳ではないらしい。
言うべきか迷ったけど、私は事実を伝える事にする。
「多分真下課長が凹んでた時期になるんだと思うけど、私真下課長にいきなり声かけられて『顔だけ』しか取柄がないみたいに言われたよ」
「……知ってる」
「…え」
「私、それも相談されたんだ…課長から」
これには驚いた。
「冴子に酷い事言っちゃったから、って…貴女の友達なのに傷つけてしまって申し訳ないって、私もいきなり言われた」
「嘘…私は謝られてない」
「うん…そういう人なんだよ、多分」
「……」
今度は私の方が困惑する。
真下みすずという人物の、いわゆる人柄と言うか核となる部分が見えて来ないのだ。
「臆病な人なんだと思う、それにものすごく孤独な人でもあると私は思ってる」
「……」
社内では将来の営業部長の呼び声高い彼女がまさか、と私は思う。
「私は課長の部下だし、多分これからもずっと、何年かかっても課長を超える事はないから割り切れるのかもしれないけど、本質的に営業は、部下だろうが何だろうがライバルはライバルだもの、なかなか深い部分で心を許せる人は作りにくいのかなと思う」
友紀は真下課長の根っこの部分を見ようとしているし、多分それにかなり迫った洞察ができているのではなかろうか。
だんだんと、友紀の話を聞いていると私はそこまで美咲さんを理解できているか、怪しい気持ちになってきた。
私が真下課長に実際に会ったのはあの待ち伏せの時だけだったけど、事前の情報なしにあの時の事だけで判断すれば、とてもじゃないけど未来の営業部長、社における女性部長第二号と噂されるような威厳も自信も感じ取る事はできなかった。
真下課長が小柄な体格というのもあったけど、とにかく目が泳いでいたし挙動不審っぷりが半端なかったのだ。
でもあれはきっと、真下課長のものすごくレアな一面でしかないのだろう。でなければあんな人が営業部のエース格だなんて到底思えない。
「……」
なるほどしっかりして頭の良い友紀であれば、ああいう弱さのある危ういような人を支えてやりたい気持が刺激されるかもしれない。
しかも友紀は、彼女が取り乱し無謀かつ無計画な振る舞いによって傷つき落ち込み、後悔する場面に多少は触れているのだ。
部下として上司の仕事ぶりを尊敬し憧れ、そして一方で人間関係に悩み苦しむ彼女の片鱗を見て、友紀の心が何かしら動くのはあり得る話かもしれないと思った。
「…あの、何も冴子や松浦部長の邪魔をさせないように真下課長を止めるとか、そういう役割的な話とは違うからね…」
「それはわかってる」
「でも真下課長は多分、私は女の人に興味ないって思ってるはずだし、自分でもそんな話しちゃったから…ダメかも」
「そんな事ないよ!」
…いけない、つい大声が出てしまった。
「友紀のできる事、してあげたいって思う事を地道に続けていれば、きっと伝わるよ」
「…」
「それにそうしているうちに、友紀自身の気持ちも見えてくるんじゃないのかなと思うけど」
「うん」
「私はさ…そういうのとは全然違うから、本当は友紀にもっともらしい事なんて何一つ言えないけど」
「何言ってるの?冴子と付き合うようになって明らかに松浦部長も変わったよ」
「みんなはそんな事望んでないかもしれないし」
「ちょっとどうしたの?冴子が自信喪失しないでよ」
「…だって、そんな風に一生懸命真下課長の事を思う気持ちって、すごく純粋でいいなと思って」
純粋という言葉を使ってしまった事を後悔した。
まるで自分が不純だと断定してしまった気がするから。
美咲さんは不純と思ってないかもしれないけど、私としては十分過ぎるほど不純のみと言っていいほどのやましい気持ちだけで関わり始めた負い目がある。
そこをいつも美咲さんにも指摘されているけど、例え150万の指輪を買ってもらっていても、私は真下課長が言う通り顔だけ、身体だけの価値しかない女だという意識は消え去っていかない。
自分で認めているのだから、他人がそう思うのは当たり前で、ずばり言葉でそう言われた所で事実なのだから仕方ないのだ。
先ほどは形式上「酷い事」と表現されても黙っていたけど、内容自体は別に間違っていない。だから実際真下課長にそう言われた瞬間も、何一つ傷つきも落ち込みもしなかった。
そしてもう一つだけ思う事としては。
真下課長本人も、モデル級とは言わないまでも顔や身体は整っている方な訳で、それなのにああいう事をコンプレックス混じりに言う辺りから想像するに、彼女も相当好き者の素養ありと私は思っている。
顔がどうの、身体がどうのと言う者に限って、そこにこだわっている事を自ら暴露している訳で、実は顔や身体の良い者に強烈に憧れているし、そういう奴がいたら性のえじきにする気満々だというのは経験上ほぼ間違いない。
…そうか。
だからやっぱり、友紀にはチャンスがある。
なぜなら友紀には、私のように直接的にエロいとか何とかいう基準で言うとそうでもないかもしれないが、それでもずば抜けた容姿と知性がある。
思い返せばあの時、真下課長はばれてもいい前提でわざと私をいやらしい目で見てきたではないか。それも二回ほど舐めるように見つめられた。
よくやられる事なので記憶から抜け落ちていたが、間違いなく真下課長はむっつりスケベの類である。
友紀のビジュアルをもってして、多少タイプや好みというものはあろうとも、友紀が本気で迫ってしまえばおそらく彼女は抵抗できないし、友紀の身体を貪るに違いないという推測が成り立った。
「…冴子?」
考え込む私を、友紀が心配そうに見つめてくる。
「これもヒントになるだろうから一応言っておくけど、多分真下課長は超がつくほどエッチだよ」
「それって…」
「うん」
友紀はよく知っている事だ。
食事会、飲み会、あらゆる集まりを私が拒否していた理由がそれだからである。
たまに誘われてしぶしぶ私が参加すれば、友紀の方がむしろキレそうになるぐらい、私は男性陣のいやらしい視線に晒されるのだ。
みんなきっと、友紀の事だってそういう目で見る事はあるのだろうが、本人にわかるようにはしないだろう。後からひっそりと、そういう事を思ったりする程度が普通だ。
だが私の場合は違う。現に一瞬で私の素養は見抜かれ、かつ相手も選ばないタイプだと過剰に都合良く解釈され、むしろその方が悦ぶのだろうという前提で、皆が私にいやらしい視線を注ぐのだ。
私は、真下課長にもそれをされた事を暗に匂わせた。
更に言えばそれこそ友紀には話せないが、役員フロアのトイレで美咲さんと隠れてキスしている所を、真下課長には立ち聞きされている。
あれだって、どう考えても後から気配を消して隣の個室に陣取り息を潜めて私たちの行為に耳をすましていたのだから、これがむっつりでなくて何だと言うのだ。
…まあ、会社であのような行為に及んでいる私が憤慨するのはおかしいんだけど。
「真面目な話、友紀の気持ち次第だけど…エッチな誘いならほぼ真下課長は乗ってくるよ」
「相手が冴子じゃなくても、って事?」
「うん、多分」
「…でも具体的にどういう風に誘うものなのか、私知らないし」
「…そうだよね」
そんなの私だって自分から行く機会は多くない。
でもここは期待されている感じだしなんとかひねり出してみる。
「…例えばオナニー見せてくださいとか手伝いますとか?」
「絶対適当に言ってるでしょ」
「…割と真面目なつもりだけど」
「そうやって期待役割的にビッチぶるの、良くないよ…もう冴子は一人じゃないんだからね」
「……」
小言を言われてしまった。
そしてやはり、友紀はしっかりしている。
こういうジョークを控える事もまた、美咲さんへの気遣いなのだと教えられてしまった。
「でも、あのさ…」
「うん?」
しかし友紀は突然に顔を赤くしてもじもじとし始めてしまう。
何か具合でも悪いのだろうかと心配になると、友紀は蚊の鳴くような声で尋ねてきた。
「その、そういうの…練習したくなったら、冴子付き合ってくれる?」
「…は?」
デパートのベンチで顔を近づけるだけでも大騒ぎする人が何を言うのやらと私は呆れてしまった。
と言うかそんなものに練習など必要ないではないか。
私は百合エッチの先輩風を吹かせつつ、含みのある笑顔をもって友紀に答える。
「そんなの…真下課長がぜ~~んぶ、教えてくれるから、大・丈・夫♪」
「……」
「…教えて欲しくなっちゃった?友紀」
出会った頃の美咲さんの心境はこんなだったかもしれない。
恥ずかしがりつつも興味津々の女の子を前にして、余裕ぶってからかってはいるけれども、言っているこちらまで、友紀の緊張と興奮がうつりそうで複雑である。
何とか流れでどうにかできないだろうかと思いながら、どこまで言いなりになるか試してしまいたくなる。
「…じゃスマホ出して?真下課長にメッセージでも送ってみたら」
「……」
危ない。熱に浮かされたように友紀はそのまま私の言葉に従っている。
「んで…『私、真下課長の事が好きすぎてたまりません』なんて送ってみるのよ」
友紀は画面に文字を入力しているようだ。
送信させるのは危険すぎるので「続けて」と言いつつ文言を考える。
「…『真下課長のあそこ、舐めたくて仕方ないです』と」
「……」
本当にその通り文字を入力しているのだろうか。
友紀の手が止まりかけた所で強引にスマホを奪ってみると、なんと催眠術にでもかかったかのように、私の言った言葉がそのままテキスト欄に入力されている。
「……んもう、しっかりしてよ」
「…?」
呆けているのか友紀は状況がわかっていないらしい。
あれだけしっかりしているはずの友紀がここまでおかしくなるなんて、恋の力は偉大で恐ろしい。
…と言うよりこの文言は到底、佐藤友紀の言葉として認知されないのではなかろうか。さながらアカウント乗っ取りやなりすましの被害にでも合っているようにしか見えない。
これが私の送るメッセージなら「あそこ」なんてまわりくどい言い回しがカマトトぶっていてダメだなどと怒られてしまいそうだと思うだけに、人のイメージというのもまた恐ろしいものだと思うばかりだ。
「あ!そうだ」
友紀のスマホを握ったままで私は声を上げる。
友紀が「ちょっと静かにしてよ」と人差し指を立てるけど、しかしそれを話せばおおよその事が友紀にばれてしまうし悩ましい。
「んー…まあいいか」
「ちょっと、何なのよ」
「…あのね、とにかく友紀は黙って真下課長を10階の女子トイレに連行してみて」
「え、なんで?」
「…それをすると自動的に真下課長のスイッチが入るはずなんだけどな」
「だから、どうしてよ」
「…言えない」
「何?もしかしてトイレで一人エッチでもしてる所聞かれたの?それとも…」
またしても友紀の顔が赤く染まる。
おそらく想像したのは、つまり逆パターンだから、真下課長のトイレオナニーを私が目撃したのかと聞きたいのだ。
「まあ、そんな感じ」
「どっちの事言ってるのよ、もうっ」
良くも悪くも友紀は真面目だ。
多分、一般的な「普通」の娘よりもずっと真面目な方ではないかと思う。
私は教えてあげたくて仕方ない。
晴香ちゃんはもう、貝合わせも偽竿での超絶ピストンもお手の物ですよと。
…梢さんがフリーの身ならばいくらでも、友紀の練習台になってくれる事だろうが、残念ながら今はそういう訳にもいかない。
「…とにかく、なんとなくの話題としてでもいいから、真下課長とそういう話、してみたら?…別に女同士でそういう話をするのはおかしい事じゃないでしょ」
「まあ…そうだよね」
「なんか、友紀ってある瞬間にいきなり爆発しそうだから、むしろ心配だよ」
「でも練習台にはなってくれないんでしょ?冴子は」
「うーん…本当にどうしようもないとか、必要に迫られてという事なら、手伝うけど…友紀だってそんなの、本気でしたい訳じゃないでしょ」
「うん…まあね、松浦部長の事もあるし、きっと頼めないとは思ってる」
まさか友紀とこんな話をする日が来るなんて、全く予想もしていなかった。
そして、真下課長とのいざこざはあったにせよ、個人的な恨みは特にない。
悲しいかもしれないけど、私の知らない所で美咲さんが真下課長と遊んでも、それは受け入れるしかないだけの事だ。
「もう貴女は必要ない」と言われない限り、とりあえず私はあの部屋に居て良いものと思っている。
美咲さんと別れる時、多分私の右手にあるこの指輪は返す事になるだろう。
だからこそ、その時が来るまではできる限り毎日着けていたいと思うのだ。
皆はこれだけ高額のプレゼントをされているのだから安心すれば良いなどと思うかもしれないけれど、私にとって金額の大小など正直言って関係ない。
*-*-*-*-*-
本音を言えば、私は焦っている。
いいかげんに美咲さんの担当秘書になれなければ、それはそのまま私の適性が不十分という事を意味する訳で、秘書課へ異動までしておいて美咲さんを受け持つ事ができないようなら、何かがっかりされても仕方ない気がしているのだ。
先輩の夏川真帆さんには何度か相談しているけれど、「あんまりスムーズに担当させたら、ここぞとばかりにイチャイチャしそうだから」などとはぐらかされるばかりで本当の事情は教えてもらえないままだ。
友紀のように、好きな人が仕事に励む姿を傍で観察したり、仲間としてそれを支えたりできるというのは、とても幸運な事だと思うようになってきている。
美咲さんだって間違いなくその時を待ち望んでくれているはずなのに、まだそうなっていない。
自分に足りない物が何なのか、教えてもらう事もないしいくら考えてもこれという決定的なものがわからない。
ただ「もう少しだけ待って」と真帆さんから申し訳なさそうに言われている限りは、つまり待っていればそのうちに美咲さんを担当させてもらえるのだろうけれど、それがいつなのかはわからないのだ。
「冴子大丈夫?」
だいぶ落ち着きを取り戻した友紀が、私の表情のわずかな陰りを察知してきた。
めざといのも考え物だなと思う。
私は気持ちをなだめるつもりでカフェラテをすすって、ふうっと溜め息を吐いた。
友紀には何度も、この事について話しているし気にかけてもくれている。
「冴子の方はまだ、担当増やしてもらえないんだ…?」
「うん」
「いつ頃になるとかも、教えてもらえてないの?」
「聞いてない」
「えー…どうしてなのかな」
「わからない」
考える時間はもういらないと言うほどあった。
唯一、美咲さんを受け持つ事ができない理由があるとすれば、それは私が秘書課へ異動した時最初に教わった、暗黙の不文律である。
それはつまり、秘書は担当する幹部と恋仲になってはいけない、というもの。
私はこの不文律を侵している。
美咲さんとの関係性を事実上オープンにしなければ、もしかしたらそれは早まったかもしれないが、後でばれた方がややこしい事になるかもしれない。
それならそれで、美咲さん以外の部長全員を持たせてもらっても良いではないかと思うけれど、そういう事にもなっていないのだ。
私と美咲さんが付き合っている事は、秘書課の他の人たちもなんとなく、いや確実に知っているはずだけど、だからと言って不文律を破っているのだから美咲さんと別れなさいとも、言われない。
「待つしかないのかな」
友紀が本当に残念そうに言う。そういう風に言ってくれるだけでも十分にありがたい事だ。
今のように誰からも何も言われない状況が続くのは、むしろ直接何か言われる事よりもずっと精神的にこたえる。
「…やっぱり、別れるか辞めるかしなくちゃいけないのかな」
弱気の虫が顔を出してそんな言葉がぽろっと出てしまった。
辞めなくても、異動でもいい。そうすれば例の不文律は関係なくなるはずだ。
正直、この所本当にしんどくなってきていて、考えたくなくてもそれについて考えてしまう。
美咲さんに激しく情欲を注がれるのは、むしろ気が紛れる思いがして助かるとさえ思っていた。
いっそ仕事なんて辞めてしまっても、美咲さんと一緒に暮らせるならそれでもいいような気さえしてきている。
会社からすれば私は別に、私でなければいけない役割も業務もあるわけではないし、辞めても組織に影響なんてないだろう。
ただこのまま黙って引き下がるのは何かに屈したような気がして後味が悪いと思うから、何とか耐えているだけの事でしかない。
「…でもまだ、どっちもしたい訳じゃないんでしょ、冴子は」
「うん」
「ならもう少し様子を見る方がいいよ」
「…うん」
友紀は月並みな事しか言えない自分に、そしてもう過去に何度も口にしている言葉に自分で辟易しているようだった。
「でもそんなの、ずっとわかってるよね…ゴメン」
「ううん、いいよ」
口ではそう答えていたけれど、意図せず涙がテーブルに落ちてしまった。
この件に関してだけは、さすがに美咲さんにも話せない。
友紀にだけは甘えられると思うとつい増長してしまった。
「…冴子」
「いや、大丈夫」
ここは公共の場だし、この件に関して考えても騒いでも何も変わらない事は十分に理解できている。
だから私の涙はすぐに止まった。これなら帰宅しても泣いた事は美咲さんに気付かれないだろう。
それでも時間をもう少し稼ぐ必要はありそうで、察しのいい友紀はさりげなく「晩ご飯も食べて帰ろっか」と提案してくれた。
「うん、ごめんね」
「大丈夫、松浦部長ほどじゃないけど、高いお見せでも奢ってあげられるよ?」
友紀には冗談めかしてそんな事を言われたけど、「私たち、そんな高いお見せなんて滅多に行かないんだ」と話すと友紀は驚いていた。
「…エッチな事ばっかりしてるから時間が惜しいんだよね」
「だからまた、悪ぶってるよ?冴子」
「ゴメン…じゃあさ、本物の、ミシュランに載るようなお寿司が食べたいなあ」
ノリでそんな事を言ったけど、友紀は本気にした。
「予約なしで行ける所、あるかなあ」と真剣にスマホの画面を見つめている。
「友紀は、真下課長と晩ご飯食べたりするの?」
「うん、割とある方だと思う…月に2回ぐらいはあるかな、遅くなった時とか直帰の時とかにね」
「ふーん」
友紀は「ここなら行けるかも」とめぼしを付けた店に早速電話をかけ始めた。
もう、こういう事は友紀に任せておけばいいやと開き直る。
私自身も、会食の予約の電話なんかは仕事でかける事もあるけれど、そもそもお店リストを持ち歩かなければならないほどの人を担当していないから、さすがに持ち歩くほどの事はしていない。
「行けるよ、冴子」
「うん」
電話を切った友紀が立ち上がる。
相変わらず、結局毎月いくらぐらいお稼ぎなのかは聞けてないけれど、友紀は実家暮らしだし堅実な娘だから、ここぞという時ぐらいにしか派手にお金を使う事はしていないだろう。
「…なんか、すごく楽しみになってきちゃった」
「それは何より」
目的の銀座の店へと向かいながら、私は友紀に手を合わせて御礼を申し上げたい気持ちになる。
実際にそうしてしまうと嫌がられそうだからやらないけれど。
そしていきさつは省いて美咲さんには、友紀にお寿司を奢ってもらう事になったから夕食も外で済ませるとメッセージを送った。
「何それ?ちょっと羨ましいんだけど」と案の定の返信が返ってくる。
「ねえ、友紀さぁ」
「うん?」
「混ざりたいって、来ちゃったんだけど」
「松浦部長も、って事?」
「…うん」
伺うように友紀を見ると、「私は構わないよ」という返答が返ってきた。
「冴子の方こそ大丈夫?合流しちゃって」
「うん、もう大丈夫」
「わかった、でもお店に聞いてみないとね」
「ごめんね、ありがとう」
幸い友紀が再び電話を入れた所、席には余裕があったらしく人数変更には快く応じてくれた。
「なんか急に、色々ごめんね」
「いいよ、むしろ…私たち二人で行くよりああいう人が引率している方が気後れしなさそうで助かる気がするし」
臨機応変にそういう気使いのある言葉が紡ぎ出せるのは友紀のとても良い所だ。
私は美咲さんに店の名前と住所を送信し、友紀と二人で公休寿司店へと向かった。
私は久しぶりに同期入社の友人である佐藤友紀と遊びに出かけていた。
遊びと言ってもそのうちほとんどはカフェでのおしゃべりに時間を使う事になるだろう。
せっかくだからと都心ターミナル駅隣接のデパートで待ち合わせをして、春物の洋服や小物なんかをチェックして回る事にした。
入社して2年くらいは私も友紀も受付で一緒に仕事をしていたけれど、その後私が秘書課へ、友紀が営業部へ異動となってからは、そう頻繁にランチや外出には行けていない。
それに以前は友紀の実妹でもある晴香ちゃんとの事もあって、職場以外で友紀に会おうとは考えにくかったが、今となっては梢さんというパートナーを得て晴香ちゃんもそちらに夢中なので、私自身としてもプライベートで友紀に会う事についてかなり後ろめたさは薄れている。
一応、友紀には地味にだけど美咲さんとの事も話しているし、なんとなくその辺の事については友紀本人が感じる所もあるだろうから、こちらからはあまり近況を話そうとは思っていない。
「営業へ異動したらとにかく服と化粧にやたらお金がかかる」とこぼしつつ、友紀は割と本気でブランドショップの新作や、型落ちのセール品まで素早くチェックしまくっている。
私服を選ぶというより仕事服に困っているのが切実に伝わってきた。
「いいなあ、秘書課は制服だから」
「確かに考えなくて良いという意味では楽だけど、なんか秘書同士で並んでたりすると、体形がもろに比較されてそうで微妙だよ」
「何、それって自慢?」
「違う、違う」
冗談だよ、と友紀は笑う。
私が自分の大きすぎる胸をコンプレックスに思っている事を、友紀はわかってくれているのだ。
「…すっごくスタイルの良い先輩がいるし、困るよ」
私はそう言いながら、例えば梢さんや亜里沙さんのスタイルの良さを頭に思い浮かべる。
自分自身が、太っているとは言わないまでも胸やお尻にたくさん肉が付いているのが鈍重なような気がするから、梢さんのように筋肉質な身体や亜里沙さんのように長身の人には無条件に憧れてしまう。
…営業部の女性はどんな感じなのだろうか。
おそらく友紀はずば抜けてルックスは良い方だろうけど、他にも華やかそうな女性社員がたくさん在籍しているイメージがある。
表情にこそ出さないようにと意識しながらも、言ってみれば社の営業女子の筆頭は、正にあの真下みすず女史だ。
私はいつからか、彼女を社の営業女子の象徴のようにとらえているふしがあるなと気付いており、少なからず友紀もその影響を受けているのだろう、と感じていた。
「そっちは?」と友紀に水を向けると、友紀は「確かにみんな派手は派手かもね」と呟いた。
「ただね、一課には私と真下課長しか、女性が居ないのよ」
「え…他はみんな男の人なの?」
「そう、バランスが悪いのよね…一課は極端に女が少なくて、二課や三課はむしろ過半数が女なんだもん」
友紀本人が噂を知っているかどうかはわからないが、秘書課界隈では当然の如く、営業部一課=エース集団という認知である。
逆に、友紀が二課や三課に配属された場合、そのずば抜けて優れた容姿や知性、それに間違いなく物覚えや成績に関しても、他の女性社員とは比較にならないぐらいに差を付けてしまうだろう。
今でこそ、私は幹部の傍で仕事をしているから、人員配置に対して組織の意図が必ず介在している事はなんとなく想像がつくし、友紀のような娘はむしろ、自分しか女が居ないような環境の方がのびのびと仕事できるのではなかろうか、と思うのだ。
私自身は友人として、純粋に友紀の成功を応援しているけれど、営業のような部署で成績を競う相手に友紀が登場してきたら、私なら間違いなく腐ると思う。
「あ」と友紀がディスプレイされている真っ白なパンツスーツに近づいていった。
すごく目立つし着る人を選びまくる尖った服だけど、友紀にならきっと似合うと思う。
「なんか…いいけどお水っぽくならないかな」
「…大丈夫じゃない?着てみたら」
「うん」
安物ならいざ知らず、さすがに世界に名前の知れ渡っているブランド物だ。仕立てや素材、デザインは上品だし友紀は元々派手だけど知的な美人だから、変な事にはならないと思うけれど。
この日友紀は、黒のシンプルなカットソーの上から若草色のマキシ丈キャミワンピを着てその上にコートを羽織っていたのだけれど、とりあえずインナーのみそのまま残して試着した白スーツは、本当にニュース番組のキャスターかと思ってしまうほどよく似合っているし、いわゆるキャリアウーマン的な戦闘力がかなりアップして見えた。
晴香ちゃんが極端にそうであるように、友紀も髪や瞳、肌の色素は薄い。地毛なのに髪色は柔らかなブラウンカラーで、元々毛室も柔らかいのだろうけれど、それを生かして肩甲骨くらいまでの長さの髪をゆるく巻いてスタイリングしているから、なんだかすごく触り心地が良さそうに見える。
更に色白の肌にはっきりとした茶色の大きな瞳があって、顔の造りを派手に見せているのだけれど、耳と口は比較的小さい方なので顔立ちそのものは上品だ。
実際アナウンサー志望もしていた友紀だから、この恰好で仕事モードのフルメイクなどを決めてしまえば、それはかえって近寄り難いオーラまで出てしまうだろうか。わからないけど。
…そうか、有名な女性アナウンサーで確か親のどちらかが外国人で、やはり語学も堪能な人に、友紀は似ている。
さすがにミス・キャンパスクラスの美人は素材が違うなと、改めて感心してしまった。
親族に外国の人は、とりあえず近親者には居ないという事だったけど、遠縁にはもしかしたらいるかもしれないしいないかもしれない、とは友紀本人の談である。
「さすが、誂えたみたいに似合ってるね」
言いながら私は友紀に近づき、さりげなくジャケットの袖にぶら下がるタグを指でめくってみた。
「……」
桁が、いくつだ…10万の位まで数字あるよね?これ。
私が引き気味に固まっていると、友紀は不思議そうに私を見下ろしてくる。
「お稼ぎ、なんでしたっけ…」
営業部では、エース級だと感嘆に、普通の一般社員3年目の年収と同じぐらいの額を月収で稼ぐ人もいるとかいないとか聞くけれど。
私は、友紀の月収については詳しく聞いていない。
「え?…あー」
友紀は私の指に挟まれたタグを、事もなげに一瞥して「着る前に見た」と言った。
「…上だけだよね、ここに書いてあるのって」
「そうだね」
下はまあほぼ同じ値段と考えても、合計すれば私の月収はすっからかんになる値段である。
しかしブランド物ともなればそれぐらいは当然なのだろう。
「買おうかな」
「うんうん」
あまり金額について言及するのは宜しくないと思い、私は友紀の会計を近場の椅子に座って待った。
「冴子ったらなんでそんな焦った顔してるのよ」
ショッパーを片手に、店員の見送りを断った友紀が私に近づいてくる。
「あ、焦ってはいないですよ」
「嘘、顔は焦ってるようにしか見えないし」
「まあ…そういうの軽く買えてしまう友紀との格差とでも言うか、それがちょっとね」
「…何バカな事言ってんだか」
「え?」
友紀は私の隣にどかりと腰を下ろして私をじっと見てくる。
「冴子、気付かなかったの?…」
「何が」
友紀が声をひそめて「今のお見せの店員さん、冴子のその指輪めっちゃガン見してたのよ?」と教えてくれた。
「…え」
「それ、先月どっかのファッション誌で取り上げられてたから、値段含めてモロバレだったんじゃないのかしら」
「……」
友紀にお稼ぎかどうか聞いている場合ではなかったという事のようだ。
確かに私のような年頃の者が着けているからには、自力で買ったとはまず思われないだろう。実際自力では買えないし、ブランドショップの店員さんがガン見していたという事はきっと、私の後ろにいる財布的存在のパートナー、さながら婚約者か何かを勝手に想像して、玉の輿女風に私を見ていたのかもしれない。
「そういうの、何気なく普段使いしちゃう冴子の方がよほどセレブっぽくて、別世界だわ」
「そ、そんな事ないよ…大事にしたいから毎日してるだけで」
「わかってる」
うろたえる私を面白がるように、また友紀が笑った。
「それに、冴子って今はもう服もそれ以外も、松浦部長の趣味とか雰囲気に釣り合うようにって意識してるんでしょ」
「…まあ、多少は」
「だから指輪が浮いて見えないんだよ、きっと」
「……」
私は恥ずかしくなって、冗談っぽく、でも内容としては一応真面目に友紀を称賛した。こういう事はきちんと言葉で伝える事に意味があると思うから。
「あの…お見せの中だったから言えなかったけど、その服友紀にすっごく似合ってた、綺麗でびっくりしちゃった」
百合ジョーク、という訳ではないが私は友紀の腕に自分の腕を重ねるようにして、ぐっと顔を近づけつつ友紀の顔を覗き込む。
友紀は女性愛者の要素はほとんどないはずだけど、私と美咲さんの関係を理解してくれているし、多少そういう事に興味がない訳でもなさそうな気配もあるから、ついついこうしてからかってしまうようになった。
「ちょ、あんまり近づかないでよっ」
「女の子同士これぐらい何も変じゃないよ?」
そう言いながら、友紀は絶対に恥ずかしがって逃げるの前提で、チキンレース宜しくぐっと顔を近づけてみた。
距離にして約10センチぐらいだろうか、そこで静止し改めて友紀の相貌を視界いっぱいに収めてみると、やっぱり抜群に整っているし肌もすべすべしていそうでちっとも幻滅しない。
今日はプライベートだからか化粧もほどほどにしているし、そこもなんだか友紀の素に近い顔を見ているようで攻め甲斐がある。
まあ、同時に私の脳裏には晴香ちゃんの顔や身体が浮かんでしまっているのだけれど。やはり姉妹だからよく似ていると思う。
「キスとかしないよね?」
「しないしない」
割と本気で警戒する友紀が面白くて、でもそんな趣味の悪い悪戯はそこそこに、私は友紀から離れた。
これが友紀でなく晴香ちゃんだったなら、至近距離の10センチまで私が顔を近づけようものならむしろあちらに食われてしまいかねない。
…いや、何なら唇の感触は晴香ちゃんと似ているのか、確かめてみたいという興味もないわけじゃないけれど。
だが万一にも私が友紀とキスしたなんて、まかり間違って晴香ちゃんにでも漏れようものなら、晴香ちゃんには激怒されそうな気がする。
…ここで美咲さんの心配をしないのは自分でもどうかと思うけれど、妬かれはしても怒られたりはしないという、なんとなくの安直な予測が成り立っているからかもしれない。
「行くわよ」
「あ、うん」
なんとなく晴香ちゃんとのキスの感触を思い出してみたり、嫉妬した美咲さんが私の唇に噛みつくように激しくキスしてくれるような、自分に都合のいい妄想ばかりしてしまっていた。
友紀と遊んでいる最中にここまで卑猥な妄想に囚われるのは珍しい気がする。
それもこれも、あの日本人離れした友紀のスーツスタイルが妙に恰好良かったからかもしれない。
*-*-*-*-*-
「それでね、冴子に折り入って相談したい事があるの」
「…どうしたの?」
友紀が外回りでよく使う穴場カフェに落ち着いた私たちは、それぞれカフェラテを注文し話を始めた。
友紀が悩み事なんて、ものすごく珍しい。しかも随分と深刻そうな感じがする。
「その…言いにくいんだけど」
「…うん」
だいぶ間があって、私から「無理そうなら言わなくていいよ」と切り出そうとした瞬間、友紀が「私ね」と言葉を発した。
「…うん」
「自分でもはっきりとはわからないんだけど、真下課長の事、…」
次の言葉はない。でもわかる。「好きかもしれない」と言いたいのだ。
だから私はそこで一旦頷いて、続きを言う必要はないと表情で答える。
「それ、私なんかに相談しちゃっていいの?…」
「だって他に言える人なんて居ないから」
「そっか」
運ばれたカフェラテに、友紀は珍しく砂糖をたっぷり入れてかき混ぜてからカップを口に運んでいる。
「…なんか、私が影響させちゃってるのかな、だとしたら」
「いいんだ、そういうのは…関係あるかもしれないけど、冴子の所為じゃないし」
「うん」
気になる事は他にもある。おそらく友紀は真下課長が美咲さんを思っているという事実に気が付いているはずなのだ。
「あのさ、その…前に私が真下課長の事聞いたけど」
「うん、それもわかってる」
「そっか」
「…真下課長とは毎日、ほぼずっと一緒に仕事してるから、誰の事が好きかとか、何かあったんじゃないかとか、そういう感じの事は見てればなんとなくだけど、わかるよ」
「…うん」
「当然全く相手にされなかったみたいだし、真下課長隠してたけどけっこう落ち込んでたから」
「……」
なるほど真下課長が美咲さんに突撃告白した件も、友紀は気づいているようだ。
「でね、それから少し後になって真下課長から、冴子の事を聞かれたの」
「……」
私が待ち伏せされた件に繋がるのだろうか。友紀はさすがにそこまでは知らないだろうと想定しているけれど。
「私ね、課長が冴子の事を聞いてきた時にどういう訳か、ざわざわしたような気分になったんだ…冴子の事が心配なような気持ちもあったけど、それだけじゃなくて」
「…その時気が付いたって事?」
「…多分、なんとなく」
友紀はまだ、自分の気持ちをはっきりと整理できている訳ではないらしい。
言うべきか迷ったけど、私は事実を伝える事にする。
「多分真下課長が凹んでた時期になるんだと思うけど、私真下課長にいきなり声かけられて『顔だけ』しか取柄がないみたいに言われたよ」
「……知ってる」
「…え」
「私、それも相談されたんだ…課長から」
これには驚いた。
「冴子に酷い事言っちゃったから、って…貴女の友達なのに傷つけてしまって申し訳ないって、私もいきなり言われた」
「嘘…私は謝られてない」
「うん…そういう人なんだよ、多分」
「……」
今度は私の方が困惑する。
真下みすずという人物の、いわゆる人柄と言うか核となる部分が見えて来ないのだ。
「臆病な人なんだと思う、それにものすごく孤独な人でもあると私は思ってる」
「……」
社内では将来の営業部長の呼び声高い彼女がまさか、と私は思う。
「私は課長の部下だし、多分これからもずっと、何年かかっても課長を超える事はないから割り切れるのかもしれないけど、本質的に営業は、部下だろうが何だろうがライバルはライバルだもの、なかなか深い部分で心を許せる人は作りにくいのかなと思う」
友紀は真下課長の根っこの部分を見ようとしているし、多分それにかなり迫った洞察ができているのではなかろうか。
だんだんと、友紀の話を聞いていると私はそこまで美咲さんを理解できているか、怪しい気持ちになってきた。
私が真下課長に実際に会ったのはあの待ち伏せの時だけだったけど、事前の情報なしにあの時の事だけで判断すれば、とてもじゃないけど未来の営業部長、社における女性部長第二号と噂されるような威厳も自信も感じ取る事はできなかった。
真下課長が小柄な体格というのもあったけど、とにかく目が泳いでいたし挙動不審っぷりが半端なかったのだ。
でもあれはきっと、真下課長のものすごくレアな一面でしかないのだろう。でなければあんな人が営業部のエース格だなんて到底思えない。
「……」
なるほどしっかりして頭の良い友紀であれば、ああいう弱さのある危ういような人を支えてやりたい気持が刺激されるかもしれない。
しかも友紀は、彼女が取り乱し無謀かつ無計画な振る舞いによって傷つき落ち込み、後悔する場面に多少は触れているのだ。
部下として上司の仕事ぶりを尊敬し憧れ、そして一方で人間関係に悩み苦しむ彼女の片鱗を見て、友紀の心が何かしら動くのはあり得る話かもしれないと思った。
「…あの、何も冴子や松浦部長の邪魔をさせないように真下課長を止めるとか、そういう役割的な話とは違うからね…」
「それはわかってる」
「でも真下課長は多分、私は女の人に興味ないって思ってるはずだし、自分でもそんな話しちゃったから…ダメかも」
「そんな事ないよ!」
…いけない、つい大声が出てしまった。
「友紀のできる事、してあげたいって思う事を地道に続けていれば、きっと伝わるよ」
「…」
「それにそうしているうちに、友紀自身の気持ちも見えてくるんじゃないのかなと思うけど」
「うん」
「私はさ…そういうのとは全然違うから、本当は友紀にもっともらしい事なんて何一つ言えないけど」
「何言ってるの?冴子と付き合うようになって明らかに松浦部長も変わったよ」
「みんなはそんな事望んでないかもしれないし」
「ちょっとどうしたの?冴子が自信喪失しないでよ」
「…だって、そんな風に一生懸命真下課長の事を思う気持ちって、すごく純粋でいいなと思って」
純粋という言葉を使ってしまった事を後悔した。
まるで自分が不純だと断定してしまった気がするから。
美咲さんは不純と思ってないかもしれないけど、私としては十分過ぎるほど不純のみと言っていいほどのやましい気持ちだけで関わり始めた負い目がある。
そこをいつも美咲さんにも指摘されているけど、例え150万の指輪を買ってもらっていても、私は真下課長が言う通り顔だけ、身体だけの価値しかない女だという意識は消え去っていかない。
自分で認めているのだから、他人がそう思うのは当たり前で、ずばり言葉でそう言われた所で事実なのだから仕方ないのだ。
先ほどは形式上「酷い事」と表現されても黙っていたけど、内容自体は別に間違っていない。だから実際真下課長にそう言われた瞬間も、何一つ傷つきも落ち込みもしなかった。
そしてもう一つだけ思う事としては。
真下課長本人も、モデル級とは言わないまでも顔や身体は整っている方な訳で、それなのにああいう事をコンプレックス混じりに言う辺りから想像するに、彼女も相当好き者の素養ありと私は思っている。
顔がどうの、身体がどうのと言う者に限って、そこにこだわっている事を自ら暴露している訳で、実は顔や身体の良い者に強烈に憧れているし、そういう奴がいたら性のえじきにする気満々だというのは経験上ほぼ間違いない。
…そうか。
だからやっぱり、友紀にはチャンスがある。
なぜなら友紀には、私のように直接的にエロいとか何とかいう基準で言うとそうでもないかもしれないが、それでもずば抜けた容姿と知性がある。
思い返せばあの時、真下課長はばれてもいい前提でわざと私をいやらしい目で見てきたではないか。それも二回ほど舐めるように見つめられた。
よくやられる事なので記憶から抜け落ちていたが、間違いなく真下課長はむっつりスケベの類である。
友紀のビジュアルをもってして、多少タイプや好みというものはあろうとも、友紀が本気で迫ってしまえばおそらく彼女は抵抗できないし、友紀の身体を貪るに違いないという推測が成り立った。
「…冴子?」
考え込む私を、友紀が心配そうに見つめてくる。
「これもヒントになるだろうから一応言っておくけど、多分真下課長は超がつくほどエッチだよ」
「それって…」
「うん」
友紀はよく知っている事だ。
食事会、飲み会、あらゆる集まりを私が拒否していた理由がそれだからである。
たまに誘われてしぶしぶ私が参加すれば、友紀の方がむしろキレそうになるぐらい、私は男性陣のいやらしい視線に晒されるのだ。
みんなきっと、友紀の事だってそういう目で見る事はあるのだろうが、本人にわかるようにはしないだろう。後からひっそりと、そういう事を思ったりする程度が普通だ。
だが私の場合は違う。現に一瞬で私の素養は見抜かれ、かつ相手も選ばないタイプだと過剰に都合良く解釈され、むしろその方が悦ぶのだろうという前提で、皆が私にいやらしい視線を注ぐのだ。
私は、真下課長にもそれをされた事を暗に匂わせた。
更に言えばそれこそ友紀には話せないが、役員フロアのトイレで美咲さんと隠れてキスしている所を、真下課長には立ち聞きされている。
あれだって、どう考えても後から気配を消して隣の個室に陣取り息を潜めて私たちの行為に耳をすましていたのだから、これがむっつりでなくて何だと言うのだ。
…まあ、会社であのような行為に及んでいる私が憤慨するのはおかしいんだけど。
「真面目な話、友紀の気持ち次第だけど…エッチな誘いならほぼ真下課長は乗ってくるよ」
「相手が冴子じゃなくても、って事?」
「うん、多分」
「…でも具体的にどういう風に誘うものなのか、私知らないし」
「…そうだよね」
そんなの私だって自分から行く機会は多くない。
でもここは期待されている感じだしなんとかひねり出してみる。
「…例えばオナニー見せてくださいとか手伝いますとか?」
「絶対適当に言ってるでしょ」
「…割と真面目なつもりだけど」
「そうやって期待役割的にビッチぶるの、良くないよ…もう冴子は一人じゃないんだからね」
「……」
小言を言われてしまった。
そしてやはり、友紀はしっかりしている。
こういうジョークを控える事もまた、美咲さんへの気遣いなのだと教えられてしまった。
「でも、あのさ…」
「うん?」
しかし友紀は突然に顔を赤くしてもじもじとし始めてしまう。
何か具合でも悪いのだろうかと心配になると、友紀は蚊の鳴くような声で尋ねてきた。
「その、そういうの…練習したくなったら、冴子付き合ってくれる?」
「…は?」
デパートのベンチで顔を近づけるだけでも大騒ぎする人が何を言うのやらと私は呆れてしまった。
と言うかそんなものに練習など必要ないではないか。
私は百合エッチの先輩風を吹かせつつ、含みのある笑顔をもって友紀に答える。
「そんなの…真下課長がぜ~~んぶ、教えてくれるから、大・丈・夫♪」
「……」
「…教えて欲しくなっちゃった?友紀」
出会った頃の美咲さんの心境はこんなだったかもしれない。
恥ずかしがりつつも興味津々の女の子を前にして、余裕ぶってからかってはいるけれども、言っているこちらまで、友紀の緊張と興奮がうつりそうで複雑である。
何とか流れでどうにかできないだろうかと思いながら、どこまで言いなりになるか試してしまいたくなる。
「…じゃスマホ出して?真下課長にメッセージでも送ってみたら」
「……」
危ない。熱に浮かされたように友紀はそのまま私の言葉に従っている。
「んで…『私、真下課長の事が好きすぎてたまりません』なんて送ってみるのよ」
友紀は画面に文字を入力しているようだ。
送信させるのは危険すぎるので「続けて」と言いつつ文言を考える。
「…『真下課長のあそこ、舐めたくて仕方ないです』と」
「……」
本当にその通り文字を入力しているのだろうか。
友紀の手が止まりかけた所で強引にスマホを奪ってみると、なんと催眠術にでもかかったかのように、私の言った言葉がそのままテキスト欄に入力されている。
「……んもう、しっかりしてよ」
「…?」
呆けているのか友紀は状況がわかっていないらしい。
あれだけしっかりしているはずの友紀がここまでおかしくなるなんて、恋の力は偉大で恐ろしい。
…と言うよりこの文言は到底、佐藤友紀の言葉として認知されないのではなかろうか。さながらアカウント乗っ取りやなりすましの被害にでも合っているようにしか見えない。
これが私の送るメッセージなら「あそこ」なんてまわりくどい言い回しがカマトトぶっていてダメだなどと怒られてしまいそうだと思うだけに、人のイメージというのもまた恐ろしいものだと思うばかりだ。
「あ!そうだ」
友紀のスマホを握ったままで私は声を上げる。
友紀が「ちょっと静かにしてよ」と人差し指を立てるけど、しかしそれを話せばおおよその事が友紀にばれてしまうし悩ましい。
「んー…まあいいか」
「ちょっと、何なのよ」
「…あのね、とにかく友紀は黙って真下課長を10階の女子トイレに連行してみて」
「え、なんで?」
「…それをすると自動的に真下課長のスイッチが入るはずなんだけどな」
「だから、どうしてよ」
「…言えない」
「何?もしかしてトイレで一人エッチでもしてる所聞かれたの?それとも…」
またしても友紀の顔が赤く染まる。
おそらく想像したのは、つまり逆パターンだから、真下課長のトイレオナニーを私が目撃したのかと聞きたいのだ。
「まあ、そんな感じ」
「どっちの事言ってるのよ、もうっ」
良くも悪くも友紀は真面目だ。
多分、一般的な「普通」の娘よりもずっと真面目な方ではないかと思う。
私は教えてあげたくて仕方ない。
晴香ちゃんはもう、貝合わせも偽竿での超絶ピストンもお手の物ですよと。
…梢さんがフリーの身ならばいくらでも、友紀の練習台になってくれる事だろうが、残念ながら今はそういう訳にもいかない。
「…とにかく、なんとなくの話題としてでもいいから、真下課長とそういう話、してみたら?…別に女同士でそういう話をするのはおかしい事じゃないでしょ」
「まあ…そうだよね」
「なんか、友紀ってある瞬間にいきなり爆発しそうだから、むしろ心配だよ」
「でも練習台にはなってくれないんでしょ?冴子は」
「うーん…本当にどうしようもないとか、必要に迫られてという事なら、手伝うけど…友紀だってそんなの、本気でしたい訳じゃないでしょ」
「うん…まあね、松浦部長の事もあるし、きっと頼めないとは思ってる」
まさか友紀とこんな話をする日が来るなんて、全く予想もしていなかった。
そして、真下課長とのいざこざはあったにせよ、個人的な恨みは特にない。
悲しいかもしれないけど、私の知らない所で美咲さんが真下課長と遊んでも、それは受け入れるしかないだけの事だ。
「もう貴女は必要ない」と言われない限り、とりあえず私はあの部屋に居て良いものと思っている。
美咲さんと別れる時、多分私の右手にあるこの指輪は返す事になるだろう。
だからこそ、その時が来るまではできる限り毎日着けていたいと思うのだ。
皆はこれだけ高額のプレゼントをされているのだから安心すれば良いなどと思うかもしれないけれど、私にとって金額の大小など正直言って関係ない。
*-*-*-*-*-
本音を言えば、私は焦っている。
いいかげんに美咲さんの担当秘書になれなければ、それはそのまま私の適性が不十分という事を意味する訳で、秘書課へ異動までしておいて美咲さんを受け持つ事ができないようなら、何かがっかりされても仕方ない気がしているのだ。
先輩の夏川真帆さんには何度か相談しているけれど、「あんまりスムーズに担当させたら、ここぞとばかりにイチャイチャしそうだから」などとはぐらかされるばかりで本当の事情は教えてもらえないままだ。
友紀のように、好きな人が仕事に励む姿を傍で観察したり、仲間としてそれを支えたりできるというのは、とても幸運な事だと思うようになってきている。
美咲さんだって間違いなくその時を待ち望んでくれているはずなのに、まだそうなっていない。
自分に足りない物が何なのか、教えてもらう事もないしいくら考えてもこれという決定的なものがわからない。
ただ「もう少しだけ待って」と真帆さんから申し訳なさそうに言われている限りは、つまり待っていればそのうちに美咲さんを担当させてもらえるのだろうけれど、それがいつなのかはわからないのだ。
「冴子大丈夫?」
だいぶ落ち着きを取り戻した友紀が、私の表情のわずかな陰りを察知してきた。
めざといのも考え物だなと思う。
私は気持ちをなだめるつもりでカフェラテをすすって、ふうっと溜め息を吐いた。
友紀には何度も、この事について話しているし気にかけてもくれている。
「冴子の方はまだ、担当増やしてもらえないんだ…?」
「うん」
「いつ頃になるとかも、教えてもらえてないの?」
「聞いてない」
「えー…どうしてなのかな」
「わからない」
考える時間はもういらないと言うほどあった。
唯一、美咲さんを受け持つ事ができない理由があるとすれば、それは私が秘書課へ異動した時最初に教わった、暗黙の不文律である。
それはつまり、秘書は担当する幹部と恋仲になってはいけない、というもの。
私はこの不文律を侵している。
美咲さんとの関係性を事実上オープンにしなければ、もしかしたらそれは早まったかもしれないが、後でばれた方がややこしい事になるかもしれない。
それならそれで、美咲さん以外の部長全員を持たせてもらっても良いではないかと思うけれど、そういう事にもなっていないのだ。
私と美咲さんが付き合っている事は、秘書課の他の人たちもなんとなく、いや確実に知っているはずだけど、だからと言って不文律を破っているのだから美咲さんと別れなさいとも、言われない。
「待つしかないのかな」
友紀が本当に残念そうに言う。そういう風に言ってくれるだけでも十分にありがたい事だ。
今のように誰からも何も言われない状況が続くのは、むしろ直接何か言われる事よりもずっと精神的にこたえる。
「…やっぱり、別れるか辞めるかしなくちゃいけないのかな」
弱気の虫が顔を出してそんな言葉がぽろっと出てしまった。
辞めなくても、異動でもいい。そうすれば例の不文律は関係なくなるはずだ。
正直、この所本当にしんどくなってきていて、考えたくなくてもそれについて考えてしまう。
美咲さんに激しく情欲を注がれるのは、むしろ気が紛れる思いがして助かるとさえ思っていた。
いっそ仕事なんて辞めてしまっても、美咲さんと一緒に暮らせるならそれでもいいような気さえしてきている。
会社からすれば私は別に、私でなければいけない役割も業務もあるわけではないし、辞めても組織に影響なんてないだろう。
ただこのまま黙って引き下がるのは何かに屈したような気がして後味が悪いと思うから、何とか耐えているだけの事でしかない。
「…でもまだ、どっちもしたい訳じゃないんでしょ、冴子は」
「うん」
「ならもう少し様子を見る方がいいよ」
「…うん」
友紀は月並みな事しか言えない自分に、そしてもう過去に何度も口にしている言葉に自分で辟易しているようだった。
「でもそんなの、ずっとわかってるよね…ゴメン」
「ううん、いいよ」
口ではそう答えていたけれど、意図せず涙がテーブルに落ちてしまった。
この件に関してだけは、さすがに美咲さんにも話せない。
友紀にだけは甘えられると思うとつい増長してしまった。
「…冴子」
「いや、大丈夫」
ここは公共の場だし、この件に関して考えても騒いでも何も変わらない事は十分に理解できている。
だから私の涙はすぐに止まった。これなら帰宅しても泣いた事は美咲さんに気付かれないだろう。
それでも時間をもう少し稼ぐ必要はありそうで、察しのいい友紀はさりげなく「晩ご飯も食べて帰ろっか」と提案してくれた。
「うん、ごめんね」
「大丈夫、松浦部長ほどじゃないけど、高いお見せでも奢ってあげられるよ?」
友紀には冗談めかしてそんな事を言われたけど、「私たち、そんな高いお見せなんて滅多に行かないんだ」と話すと友紀は驚いていた。
「…エッチな事ばっかりしてるから時間が惜しいんだよね」
「だからまた、悪ぶってるよ?冴子」
「ゴメン…じゃあさ、本物の、ミシュランに載るようなお寿司が食べたいなあ」
ノリでそんな事を言ったけど、友紀は本気にした。
「予約なしで行ける所、あるかなあ」と真剣にスマホの画面を見つめている。
「友紀は、真下課長と晩ご飯食べたりするの?」
「うん、割とある方だと思う…月に2回ぐらいはあるかな、遅くなった時とか直帰の時とかにね」
「ふーん」
友紀は「ここなら行けるかも」とめぼしを付けた店に早速電話をかけ始めた。
もう、こういう事は友紀に任せておけばいいやと開き直る。
私自身も、会食の予約の電話なんかは仕事でかける事もあるけれど、そもそもお店リストを持ち歩かなければならないほどの人を担当していないから、さすがに持ち歩くほどの事はしていない。
「行けるよ、冴子」
「うん」
電話を切った友紀が立ち上がる。
相変わらず、結局毎月いくらぐらいお稼ぎなのかは聞けてないけれど、友紀は実家暮らしだし堅実な娘だから、ここぞという時ぐらいにしか派手にお金を使う事はしていないだろう。
「…なんか、すごく楽しみになってきちゃった」
「それは何より」
目的の銀座の店へと向かいながら、私は友紀に手を合わせて御礼を申し上げたい気持ちになる。
実際にそうしてしまうと嫌がられそうだからやらないけれど。
そしていきさつは省いて美咲さんには、友紀にお寿司を奢ってもらう事になったから夕食も外で済ませるとメッセージを送った。
「何それ?ちょっと羨ましいんだけど」と案の定の返信が返ってくる。
「ねえ、友紀さぁ」
「うん?」
「混ざりたいって、来ちゃったんだけど」
「松浦部長も、って事?」
「…うん」
伺うように友紀を見ると、「私は構わないよ」という返答が返ってきた。
「冴子の方こそ大丈夫?合流しちゃって」
「うん、もう大丈夫」
「わかった、でもお店に聞いてみないとね」
「ごめんね、ありがとう」
幸い友紀が再び電話を入れた所、席には余裕があったらしく人数変更には快く応じてくれた。
「なんか急に、色々ごめんね」
「いいよ、むしろ…私たち二人で行くよりああいう人が引率している方が気後れしなさそうで助かる気がするし」
臨機応変にそういう気使いのある言葉が紡ぎ出せるのは友紀のとても良い所だ。
私は美咲さんに店の名前と住所を送信し、友紀と二人で公休寿司店へと向かった。
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