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「二宮さん大丈夫?具合でも悪い?」
進藤部長の心配そうな口調に、思わずはっとする。
「…あ、いえ、失礼しました」
自分ではきちんと相槌を打っているつもりだったが、進藤部長には様子がおかしいと思われてしまったようだ。
「無理しないでね、大した用件じゃないし」
私は改めて謝罪し、会議用の資料準備の依頼を受ける。
役員向けのものだから、数はそれほど必要ないが誤字などの簡単なチェックも合わせて依頼された。
「じゃ、4時までにお願いします」
「かしこまりました」
進藤部長の傍から下がり、一人きりになると、無意識的に溜め息が出てしまう。
…昨日と言い今日と言い、すぐには処理しきれないような類の情報量が多すぎて、疲れてしまっているのがはっきり自覚できた。
昨夜忘れ物を取りに秘書課のロッカールームに戻ってみれば、あられもない姿の梢さんが真帆さんに弄ばれている所を目撃した。
美咲さんの部屋に帰れば、美咲さんの裸やら自慰やらを見せつけられた。
その上今朝は真帆さんに呼び出され、「本当に付き合ってるのは課長代理なの」と打ち明けられた。
正に三重苦である。
いや二番目は「苦」ではないのかもしれないが、私にとって美咲さんの自慰は「苦」に等しいほどの悲しい行為なのだ。
二人で高め合う過程でのそれならともかくとして、美咲さんが文字通り自分を慰めるように行う自慰は、はっきり言って私の存在意義に関わる重大事項であるから、いいよね、とかそうですか、とかそういう距離感で受け止める事はできない。
本日新たに入った情報として、真帆さんの本命の相手である「課長代理」と言うのは、秘書課の実務トップ的立場でありリーダーの、小早川亜里沙(ありさ)さんという人だ。
某歌劇団の男役トップスターのような佇まいの亜里沙さんは、年齢的には美咲さんと同じくらいだろうか。
身長はおそらく170センチ近くあり、とにかくスタイルの良い人だ。
エアリーな感じにセットしたショートヘアが印象的で、それなのに顔立ちは女性らしく美しい。
いつも小ぶりのピアスを付けていて、それがとても良く似合うと思う。
私のような立場からすれば、亜里沙さんは正直恐れ多い存在なのだけれど、いや…美咲さんだって本来そうなのだけど、颯爽と歩く亜里沙さんの姿は、その脚の長さも相まって実に凛々しくもある。
てきぱきと自分の仕事もこなしつつ、秘書課員の動きも把握しマネジメントも行っている亜里沙さんは正に秘書課のリーダーだ。
私にとっては挨拶以外で話をする事はあまりなく、ますます恐れ多い印象をこちらが勝手に抱いてしまっているのだろうと思う。
今朝出勤した時は、更衣室に誰かいないだろうかとびくびくしている有様の私だったけど、誰もおらずほっとして、着替えて、デスクに座り、やはり挙動不審な感じでびくついているというおかしな調子だった。
そこへいきなり真帆さんが「ちょっと」と声をかけてきて、ミーティングルームに呼び出され、昨夜の出来事についての謝罪と、おまけとして本当は亜里沙さんと付き合っているという事を打ち明けられた。
なんで今、それも私にそれを言うのかといぶかしく思ったけど、真帆さんはきっと、自分が女性と付き合っている事を話すかどうか、相手を見極めてから決めているのかもしれない、と後で思った。
昨夜のあの行為を目撃し、私は最終的には逃げるように立ち去ってしまったものの、行為を見て欲しいという要求には応えたし、実際それを目の当りにして心底興奮もした。
話を聞いているうちに、真帆さんがそんな大事な事を打ち明けてくれたのだから、私も美咲さんとの関係について話そうと思ったが、言いかけた所で真帆さんに止められてしまった。
「いいから」という感じで。
あれは多分、「わかっているから」いいという意味合いのように思える。
そんな真帆さんの様子を見て、私はようやく自覚した。
多分美咲さんは、真帆さんに対して私の事を隠していないのだ、と。
そう思い至った瞬間強烈に恥ずかしくなったけど、「時間もないから」と真帆さんはさっさと席を立ってしまった。
でもそれは真帆さんなりの気遣いなのだと思う。
*-*-*-*-*-
朝からそんな打ち明け話をされてしまうと、それ以来亜里沙さんの見え方までおかしくなるし、挙句油断すると亜里沙さんと真帆さんがいちゃつくイメージなどが頭に浮かび、それだけで私は身体が熱くなってしまいそうだった。
話をされたのが、本日の進藤部長のスケジュールチェックの後で良かったと思いつつも、仕事にちっとも集中できず、進藤部長にまで心配されてしまったという訳だ。
…だって、付き合ってるなんて言われたら。
自分も同じくらいかそれ以上に、人に驚かれるような人と付き合っているのに言うのも変だが、やはり色々考えてしまう。
きっかけは何だったのかなとか、二人きりだとどんな風なのかとか、あるいは…分別のある人たちだからしてないとは思いつつも、社内でこっそり睦み合っているんじゃないかとか、そんな、単純だけど誰でも気になってしまうような事を。
美咲さんとの事があるから、余計な詮索はお互いナシ、という暗黙の了解を求められたのだろうが、私の頭ではそうすんなりと収まる所に収まってくれるような情報ではない。
なぜなら、真帆さんも亜里沙さんもめちゃくちゃ美しく有能な人たちだからだ。
現に昨日、私が断れなかったように、真帆さんのそういう誘いに抗う事ができる人は多くないと思う。
「……」
いっそ、弄ばれていたのが梢さんの方で良かったではないか、などとわけのわからない事まで考えてしまう。
梢さんの裸の姿もそれはそれで素晴らしいものがあったけど、衝撃の度合いで言えば亜里沙さんの方がはるかに上だろうから。
そのイメージと入れ違いに、昨日目撃したその状況を上書きしたくて美咲さんにしつこく迫ったから、そちらはそちらで記憶として不規則に蘇ってくるし、時折やはり真帆さんと梢さんの戯れの様子も思い出される。
…真帆さんは、亜里沙さんには「される」側なのだろうか。それとも梢さんにしたのと同じように「する」側なのか。
まずい。
こういう事を考えているから、さっきも進藤部長に変に思われてしまったのだ。
「…っ」
悪態をつきたいが声に出さずこらえる。
どうにか資料準備を終えて進藤部長にそれを手渡すと、「ありがとう」という笑顔と共に「本当に大丈夫?具合悪かったら帰ってもいいよ、俺からお願いしたい事は今日はもうないから」と言う進藤部長。
そんな親切な声掛けにお礼を述べて私は秘書課へ戻る事にした。
すると今度は廊下で、真帆さんを伴った美咲さんと遭遇してしまう。
…今かよ、と苦々しく思うが、それに気付いているのかいないのか、美咲さんが「あ!」などと声を上げて私に接近してきた。
一度歩を進めてから、思い出したように振り返って真帆さんに「これ、お願い」と資料の束を渡している。
真帆さんは「かしこまりました」と静かに応じて、資料を受け取りどこかへ立ち去ってしまった。
…い、いなくならないで欲しい。
真帆さんの、そういう過剰な察しの良さは恨めしいくらいだ。
美咲さんはほっとした様子で改めて私に近づき「ちょっと」と言いながら腕を引っ張って給湯室へと連行していく。
忘れていたが、進藤部長の開発部と、美咲さんの企画部は同じ階にあるのだから、こういう遭遇は普通にあり得る事なのだけど、こうも無防備に美咲さんが距離を詰めてくる事はなかった。
誰か見ていたらどうするのか、と尋ねようとしたが、先回りされて「誰もいないわよ」と美咲さんの声が飛んでくる。
給湯室に押し込められて、私は身の縮む思いがした。
今日は明らかに仕事に集中できていないのが自分でもわかる。
進藤部長のあの指摘だって、かなり控え目な表現をしてくれたに違いないと思えた。
「何かあった?」
壁にもたれている私の顔を美咲さんは覗き込んでくる。
「…そりゃ色々ありましたよ」
言葉にせずともどうせわかっているだろう、という思いを込めてそう答えると、美咲さんは「困ったわね」と呟く。
更に私から視線を外して「あの様子だと夏川さんは知ってるっぽいわね」とまで言う。
「……」
私が黙って美咲さんの顔を見つめていると、美咲さんはほっと溜め息を吐きながらこう切り出した。
「何かあるんじゃないかと思って、極力冴子が一人でいられるように削ったつもりだけど、ダメだったみたいね」
朝のあの慌ただしい、そのわりに重大な話をした後から真帆さんはほとんどデスクに居なかった。
今日一日、美咲さんがわざと連れ回していたという事か。
こういう事だけでも、多分察しのいい真帆さんは気が付くのだろう。
「わざと…?」
「って訳でもないけど、実際たくさん打合せはあったしね、色々頼んで助かった事は助かった」
「私、やっぱりおかしく見えますか」
「……」
おかしいに決まっているのに、美咲さんはなかなか言葉にしない。
言葉にすれば私が更に落ち込むかもしれないとでも思っているのだろうか。
今は仕事の場なのだから、変に遠慮などせずしっかり指摘してもらいたいのに。
「進藤部長に、具合悪そうだとまで言われました」
「あら」
美咲さんは意外そうな顔をする。
「冴子の事、気にかけてくれてるのね」
と言葉は続き、まるで『進藤さんの割にやるじゃないか』とでも言いたげな勢いだったが、言葉としては発せられる事なく終わってしまった。
美咲さんが少し考えてから発した言葉は、私の予想とは全く逆のものだった。
「大丈夫よ」
「…そんなはず、ないです」
「大丈夫」
念押しするように言われてしまうとこちらも何とも言えなくなり黙ってしまう。
「…ね?」
更に念押しされてほんの少し、気持ちが浮上した感じがして再び美咲さんの顔を見ようと思ったが、そうする前に美咲さんの顔が近づいてきて唇を奪われた。
ごく短い時間だったけど。
「っ……」
どういう風なやり方をしているのかわからないが、唇の表面は強く擦る事なく、それなのに舌はどんどん口内に侵入してきて、唇の内側や歯、こちらの舌まで絡め取られるような、そんなキスをされる。
抵抗こそしなかったが、廊下から扉もなく続いている給湯室での行為に、私は焦った。
「…あふ…ん」
口内を舌でかき回される水音が、頭の奥まで響くようだった。
壊れ物を扱うような手つきで、美咲さんの指が私のうなじを撫でたり耳を軽く弄ってくる。
「…大丈夫じゃ、なくなります」
その前から大丈夫ではないのだが、キスが途切れて私は思わずそう口にしてしまう。
「ふふ」
…美咲さんは笑っている。余裕たっぷりといった風情で。
今朝の真帆さんの話を聞いた後と同じような心境がまた、蘇った気がした。
「ま、仕方ないわね、こんな事しちゃったんだから」
「はぁ……」
「だから冴子が大丈夫じゃないのは、仕方ないって事で」
意味を取るのに時間を要したが、おそらく美咲さんとしては、私が「大丈夫ではない」原因は、今した行為によるものだという事にしたいようだ。
他の要因なら納得できないが、これならまあ良しという事なのだろうか。
美咲さんが一際近づいてきて、耳のすぐ近くにまで唇を寄せ「やっぱり、この制服姿はそそるわね」と囁いてきて、私は両足ががくっと震えるぐらいに興奮した。
「ほら、戻らないと」
「…どこへですか」
「秘書課でしょ」
私は本当におかしくなってしまったかもしれない。
美咲さんのツッコミが強めだったのでその時自覚したが、私は本当は、美咲さんと暮らすあの部屋に戻りたくて、そう尋ねてしまったのだ。
「…失礼しました」
私はやっとそれだけ言って給湯室を後にする。
だが廊下へ出てから、口紅がはがれたりしていないか、まだ確認していない事に気付いて慌ててトイレに向かった。
「…」
鏡で自分の顔を確認してみると、驚くほどメイクは崩れていなかった。
さっき美咲さんとのキスで相当に舌を動かしていたように思うのだが、こんな事が実際にできてしまう美咲さんのテクニックと気使いが、私の気持ちを複雑なものにさせる。
…今日は早く帰りたい。心からそう思う。
それに、そんなものは存在しないと思い込んでいたが、最近の美咲さんは独占欲を隠さない感じだし、それだけならまだしも、実際秘書課へ異動して少しずつ仕事に慣れてきたと思ったら、私は次々と大変な目にあってしまっている。
美咲さんが危惧していた事は強ち外れていないという事がようやくわかってきた。
とは言え毎日毎日、何日もそういう事が続くわけでもない。
とにかく、今の私は時間が欲しかった。
…唯一冷静でいられるのは、それこそ進藤部長の指示を受けたり話をしている時ぐらいではなかろうか。
他の事で緊張し過ぎて、進藤部長に対する緊張は大したものに感じなくなってきた気がする。
そうか、私がもっと進藤部長に張り付いていれば良いのかもしれない、なんて事も頭に浮かんだ。
秘書課に戻ってから、私は進藤部長が共有サーバーに置いている、様々な案件のデータをそっと確認した。
ここに置いているデータは、部下などと共用したり、あるいは編集させるためにあるものだから、私が見ても問題はないと事前に聞いている。
わからない専門用語があれば検索し、社内用語らしきものはさかのぼってその内容に関連しそうなデータにアクセスする。
それでもわからない所がなくなるわけじゃないけど、知りたい所や気になる所はメモに残しておいた。
迷惑にならない程度の量とタイミングであれば、きっと進藤部長は教えてくれるだろうと思ったから。
…どうせ、私はまだまだ経験も浅く一人前ではないのだし、みんなそれを理解してくれているだろう。
ならば教えてくれそうな感じのする進藤部長本人に、開発部の事を教わっても別に構わないだろうと思った。
私が開発部の詳しい業務内容を理解する事は、直接的には秘書業務にとって必要不可欠というわけではないけど、知っていて困るものでもない。
はじめのうちは紛らわし程度にデータの類を眺めていたが、気が付くと手元のノートにはそこそこの量を書き残していた。
定時まで残りわずかとなり、念の為真帆さんや進藤部長の明日のスケジュールを軽くチェックして、上がる事にする。
…メモを残したノートは、もしかしたら美咲さんにこの内容を質問するかもしれないと思ったので持ち帰る事にした。
*-*-*-*-*-
それからほんの数日の間に、私は進藤部長とかなり打ち解ける事ができた。
共有のデータにあった用語やプロジェクトについて教えてもらったり、そのヒントになる資料やwebサイトを教えてもらったりした。
美咲さんに教えてもらった事は、誰からとは言わずに「社内の人に教わった」としつつ、それ以外の所を進藤部長に質問した。
思いついて、今の社の流れとは逆行してしまう行為ではあるだろうけど、経験として進藤部長のスケジュール管理やアポイント周りを全部私に任せてもらえないかと相談し、「いいよ」と了承を得られたので、私は社内外問わず、進藤部長に関わる全ての人と接するようになった。
それを申し出るきっかけとなったのが、あの紛らわしに読んだ共有サーバーの資料から始まり、開発部の業務に理解を深められた事があったからだと思う。
動機としては現実逃避のような形だったけど、それはそれで仕事に対する自信もつきそうな予感があり、間違った事はしていないという実感を得ている。
「ところで、二宮さん部長会議のランチはどうするの?」
「…どうする、とは…」
進藤部長に頼まれた資料のコピーを、オーダーされた時間よりだいぶ早く渡した時に、そう尋ねられた。
部長会議自体は隔週で行われているのだが、四半期に一度、ランチミーティングを兼ねて役員と部長全員がビュッフェランチに出かけるというものがあった。
亜里沙さんとか、それこそ一部の秘書は同行する事があるらしいと聞いているが、私はそこに同席するつもりなど全くない中で「どうする」と聞かれたので、一瞬何の事だかわからなかった。
ほんの少し考えて、行くのか行かないのかという意味合いなのだろうと理解するが、場が場なだけに気が引けてしまう。
かと言って進藤部長がもし望むのであれば、変に誇示するのもおかしい。
進藤部長の、「楽をする」方向においての適応力は恐ろしく、大した日数もかけずに私のスケジュール管理にすっかり慣れてしまったようだ。
「経験のためっていう話だったはずなのに、俺もう二宮さんがいないと仕事できないもん」などとまで言ってくる有様である。
「それだけ頑張ってくれてるし、せっかくだから部長会のランチぐらい、行ったっていいんじゃないの?」
「…そうでしょうか、そういう事であればご一緒しますが」
「そうしてよ~」
私が下がろうとすると、もう顔なじみになった開発部の男性社員の一人が「単に二宮さんをはべらかしたいだけでしょ」と突っ込みを入れてくる。
「うん、それもある」と進藤部長は否定せず、島から笑いが起きた。
「それにさ~、アレじゃん、飲みとか夜の飯とかに誘うのはより一層まずいだろうし、こういう形でしか二宮さんを飯に連れて行けそうにないしね」
「それだって会社の金じゃないですか」と更に突っ込みが入ってまた笑いが起き、進藤部長も「そうね」と笑った。
「いいんだよ、とにかくお願いね、二宮さん」
業務命令とでも言わんばかりに、進藤部長は無理やりまとめてしまった。
進藤部長の人柄として、部下に喜んでもらう事をしたり、望めばたまに美味しい店に連れて行ったりしたがるタイプなのだというのは知っている。
だから、こんな風に誘われたのは仲間として認めてもらえたような気がして、内心嬉しかった。
「かしこまりました」
部かから「良かったですね、断られなくって」と言葉をかけられまた笑いが起きている中、私は会話の邪魔にならないよう静かに下がった。
*-*-*-*-*-
その夜、嬉しかったのもあったし、美咲さんともそこで顔を合わせる事になるだろうと思ったから、私は部長会ランチに同席する旨を美咲さんに報告した。
「え!…ついに進藤さんがそんな事を」
「はい」
遅く帰ってきた美咲さんはさくさくと食事をしながら、私は入浴も食事も済ませて寛ぎつつの時間である。
夏は昼間が長いから、明るいうちに帰宅してシャワーを浴びるのはとても贅沢な気分になれる、今はまだそういう季節だ。
美咲さんにはそうめんを用意したけど、きっと一瞬で食べ追えてしまうだろうと思いながら何気なく美咲さんの食べる様子を眺めていた。
「…進藤さん、飲み食いさせるのは好きだけど、そうなると身内気分になってこき使われるわよ」
「…そう、なんでしょうね、なんとなくそう思います」
「でしょ」
進藤部長は部下を喜ばせるのが上手いと思う。そして何気なく要求も高いのだ。
うまく転がされてしまうのだけど、親しみのあるキャラクターのため、硬い態度で接する事がなくなると、実はけっこう無茶な話ではないかと思うような事も知らずに引き受けてしまう、という形で部下は振り回されているのではないかと思えた。
「ご経験済みという事ですよね」
「昔の方がましだったと思うけどね、部長じゃなかった時代だし」
「…なるほど」
「今は実務やんないクセにあれしたいこれしたい、とかそんな事だけ言ってるんじゃないの?」
「まあ…それに近いです」
「それを言ったら私だってあまり変わらないかもだけど」
お店で買ったものだが、そこそこ立派な大きさのかき揚げを美咲さんに勧めると、美咲さんはどんどんそれを崩しにかかった。
私は躊躇するレベルの大きさなのだけど、美咲さんは気にならないらしい。
消費エネルギーの量が違うのだろうな、と私はぼんやり考えた。
「あ、そうだ」
美咲さんが思い出したように話題を変える。
「どうしましたか」
「その、部長会ランチの日ね…あれだよ、私と冴子が初めて会った日の、ちょうど一年後なんじゃないかな」
私は即座に反応できなかったが、改めてその日付を考えて、確かにそうかもしれないと思った。
日付としての記憶は前に出てなかったけど、美咲さんに会う直前の事は、今でも記憶に残っているし、忘れられない。
「…よく覚えてますね」
思わずそんな言葉が口から出てしまったが、美咲さんは「なんとなく忘れないんだよね」と、何でもない事のように言う。
確かに美咲さんは、いわゆる記念日的なものを大切にする人だ。
それは誕生日なんかもそうだし、どこかへ旅行したとか、そんな事も含めて人並み以上に記憶していて、そこにきちんと触れてくれる。
本人は「そういう家に育ったからかなあ」などと言っているけど、私と初めて会った日なんてまさか記憶していると思わなかったから、嬉しくもあり驚いた。
「けどその日のランチが部長会だなんて、不満だわ」
「……」
言う内容の割にそれほど本気で不満という事でもなさそうだが、それでも美咲さんとしては違う過ごし方をしたかったのだろう。
「しかも進藤さんに付き添う感じでしょ?」
「はい」
「そこが特に不満だわ」
まだ、秘書課の誰がそこに同席するのか私は詳細を知らないけど、真帆さんはそういう所には積極的に行かない主義のように思うし、美咲さんもわざわざ声をかけてはいないだろう。
「無理しなくていいからね」
「…はい」
お偉い方々とのビュッフェランチという場を想像しただけでも、萎縮しきりの要素しか思い浮かばない。
でも、進藤部長と、美咲さんもそこにいるのだからと思えば多少持ち直した。
そして改めてこの部屋の内装を眺めて、一年前のあの日の事を思い出す。
…一年の間に、確かに色々な事はあったけど、私は美咲さんに見合うような人物になれている気はちっともしない。
ちょうどそう思った所で、美咲さんが言った。
「私はなんにも変わってないけど、この一年で冴子は色んな事があって成長したんじゃないの」
「……」
今まさに「ちっとも変った気がしない」と私が思っていたのだ。
美咲さんが元々どんな人だったのかはよくわからないし、そもそも変わる必要なんてないと思うからそれは良いのだが、私は変わりたいとずっと思っている。
「一切自覚なし、ってご様子ね」
「…はい」
う~ん、とうなってから美咲さんは豪快に残りのそうめんを食べ終えて、ティッシュで口元を押さえながら私に向き直った。
私はすかさずコップに注いだ麦茶を、美咲さんに差し出すように手元に置く。
美咲さんは「あー、うん」と言いつつ麦茶を一口だけ飲んで話を再開する。
「冴子は一年前より着実に、大人になってるよ、いい意味で」
「そ、そうでしょうか」
「うん、だって宣言通り秘書課へも異動したし、もうじき私の担当もしてくれるんでしょ?」
「それは…わかりませんが」
「進藤さんにランチ会へ連れて行かれるぐらいに気に入られてるんだから、じきにそうなるわよ」
「……」
「あと、身体の方もね…こなれた感じで大人になったよね」
かなり恥ずかしい事を言われて私は返答に困ってしまう。
「だってそれは、お姉さまが…」
「うん?」
「いえ、いいです」
「…何よもう」
美咲さんが席を立つ。これからシャワーを浴びるのだろう。
「か、片付けておきますから」
「どっちでもいいよ」
言うだけ言って美咲さんは浴室へと向かってしまった。
食器を下げて流しで洗いながら、私は一年前の記憶を掘り起こす。
何度も何度も思い出している事だから、それは今でもすぐに鮮明に思い出す事ができる。
…あの日だって、私はものすごい驚愕を味わったものだ。
美咲さんは私が何者か知っていたが、私は美咲さんが誰なのか知らずに会った。
ただのエロいお姉さんの一人として、接していた人だったのに。
きっと誰だってそうだろうけど、私は自ら望んで美咲さんに囚われたくて、他の人とは違う特別な関係を築きたくて、「お姉さま」と呼ばせて欲しいと頼んだのだ。
美咲さんとの関係を深めようとした、という意味では私はそこに飛び込む決意をしたという点で変わったと言えるかもしれない。
逆に美咲さんはどうだろうか。
…出会った当初、私は美咲さんの底が知れないと思っていたが、何度も交わるうちに、美咲さんの中で限界まで官能が膨れ上がる瞬間を、何度か見たように思う。
その、限界を迎えた時の表情や仕草だけは、きっと他の誰も見ていないものだろうと確信できるから、そうなった時の美咲さんに出会うと私の中で悦びが爆発して、いつも感動するのだ。
あれが見たいから、いつも執拗に迫ってしまう。
それに美咲さんも言っていたが、私の身体も、感じ方というか反応の出方が変わったのは確かだ。
かつては最初の刺激でスイッチが入ったように官能が高まってしまって長続きはせず、回数で稼ぐように反応していた私の身体は、小さな刺激にも勿論しっかりと反応するが、それが更に先の展開を期待する呼び水のように、長く持続するようになった。
じわじわと、途切れる事なく刺激に反応して漏れなく官能を拾える身体に変わったと思う。
美咲さんが「大人」と表現したのはきっとそういう事なのだろう。
美咲さんは、その時々で私が一番悦ぶような刺激を与えているようであっても、それと同時に私の身体を作り替えるように、新たな官能のスイッチを見つけて育てていく。
だから、以前よりも長く深く、あるいは広い範囲で私は官能を拾う事ができるようになった。
進藤部長の心配そうな口調に、思わずはっとする。
「…あ、いえ、失礼しました」
自分ではきちんと相槌を打っているつもりだったが、進藤部長には様子がおかしいと思われてしまったようだ。
「無理しないでね、大した用件じゃないし」
私は改めて謝罪し、会議用の資料準備の依頼を受ける。
役員向けのものだから、数はそれほど必要ないが誤字などの簡単なチェックも合わせて依頼された。
「じゃ、4時までにお願いします」
「かしこまりました」
進藤部長の傍から下がり、一人きりになると、無意識的に溜め息が出てしまう。
…昨日と言い今日と言い、すぐには処理しきれないような類の情報量が多すぎて、疲れてしまっているのがはっきり自覚できた。
昨夜忘れ物を取りに秘書課のロッカールームに戻ってみれば、あられもない姿の梢さんが真帆さんに弄ばれている所を目撃した。
美咲さんの部屋に帰れば、美咲さんの裸やら自慰やらを見せつけられた。
その上今朝は真帆さんに呼び出され、「本当に付き合ってるのは課長代理なの」と打ち明けられた。
正に三重苦である。
いや二番目は「苦」ではないのかもしれないが、私にとって美咲さんの自慰は「苦」に等しいほどの悲しい行為なのだ。
二人で高め合う過程でのそれならともかくとして、美咲さんが文字通り自分を慰めるように行う自慰は、はっきり言って私の存在意義に関わる重大事項であるから、いいよね、とかそうですか、とかそういう距離感で受け止める事はできない。
本日新たに入った情報として、真帆さんの本命の相手である「課長代理」と言うのは、秘書課の実務トップ的立場でありリーダーの、小早川亜里沙(ありさ)さんという人だ。
某歌劇団の男役トップスターのような佇まいの亜里沙さんは、年齢的には美咲さんと同じくらいだろうか。
身長はおそらく170センチ近くあり、とにかくスタイルの良い人だ。
エアリーな感じにセットしたショートヘアが印象的で、それなのに顔立ちは女性らしく美しい。
いつも小ぶりのピアスを付けていて、それがとても良く似合うと思う。
私のような立場からすれば、亜里沙さんは正直恐れ多い存在なのだけれど、いや…美咲さんだって本来そうなのだけど、颯爽と歩く亜里沙さんの姿は、その脚の長さも相まって実に凛々しくもある。
てきぱきと自分の仕事もこなしつつ、秘書課員の動きも把握しマネジメントも行っている亜里沙さんは正に秘書課のリーダーだ。
私にとっては挨拶以外で話をする事はあまりなく、ますます恐れ多い印象をこちらが勝手に抱いてしまっているのだろうと思う。
今朝出勤した時は、更衣室に誰かいないだろうかとびくびくしている有様の私だったけど、誰もおらずほっとして、着替えて、デスクに座り、やはり挙動不審な感じでびくついているというおかしな調子だった。
そこへいきなり真帆さんが「ちょっと」と声をかけてきて、ミーティングルームに呼び出され、昨夜の出来事についての謝罪と、おまけとして本当は亜里沙さんと付き合っているという事を打ち明けられた。
なんで今、それも私にそれを言うのかといぶかしく思ったけど、真帆さんはきっと、自分が女性と付き合っている事を話すかどうか、相手を見極めてから決めているのかもしれない、と後で思った。
昨夜のあの行為を目撃し、私は最終的には逃げるように立ち去ってしまったものの、行為を見て欲しいという要求には応えたし、実際それを目の当りにして心底興奮もした。
話を聞いているうちに、真帆さんがそんな大事な事を打ち明けてくれたのだから、私も美咲さんとの関係について話そうと思ったが、言いかけた所で真帆さんに止められてしまった。
「いいから」という感じで。
あれは多分、「わかっているから」いいという意味合いのように思える。
そんな真帆さんの様子を見て、私はようやく自覚した。
多分美咲さんは、真帆さんに対して私の事を隠していないのだ、と。
そう思い至った瞬間強烈に恥ずかしくなったけど、「時間もないから」と真帆さんはさっさと席を立ってしまった。
でもそれは真帆さんなりの気遣いなのだと思う。
*-*-*-*-*-
朝からそんな打ち明け話をされてしまうと、それ以来亜里沙さんの見え方までおかしくなるし、挙句油断すると亜里沙さんと真帆さんがいちゃつくイメージなどが頭に浮かび、それだけで私は身体が熱くなってしまいそうだった。
話をされたのが、本日の進藤部長のスケジュールチェックの後で良かったと思いつつも、仕事にちっとも集中できず、進藤部長にまで心配されてしまったという訳だ。
…だって、付き合ってるなんて言われたら。
自分も同じくらいかそれ以上に、人に驚かれるような人と付き合っているのに言うのも変だが、やはり色々考えてしまう。
きっかけは何だったのかなとか、二人きりだとどんな風なのかとか、あるいは…分別のある人たちだからしてないとは思いつつも、社内でこっそり睦み合っているんじゃないかとか、そんな、単純だけど誰でも気になってしまうような事を。
美咲さんとの事があるから、余計な詮索はお互いナシ、という暗黙の了解を求められたのだろうが、私の頭ではそうすんなりと収まる所に収まってくれるような情報ではない。
なぜなら、真帆さんも亜里沙さんもめちゃくちゃ美しく有能な人たちだからだ。
現に昨日、私が断れなかったように、真帆さんのそういう誘いに抗う事ができる人は多くないと思う。
「……」
いっそ、弄ばれていたのが梢さんの方で良かったではないか、などとわけのわからない事まで考えてしまう。
梢さんの裸の姿もそれはそれで素晴らしいものがあったけど、衝撃の度合いで言えば亜里沙さんの方がはるかに上だろうから。
そのイメージと入れ違いに、昨日目撃したその状況を上書きしたくて美咲さんにしつこく迫ったから、そちらはそちらで記憶として不規則に蘇ってくるし、時折やはり真帆さんと梢さんの戯れの様子も思い出される。
…真帆さんは、亜里沙さんには「される」側なのだろうか。それとも梢さんにしたのと同じように「する」側なのか。
まずい。
こういう事を考えているから、さっきも進藤部長に変に思われてしまったのだ。
「…っ」
悪態をつきたいが声に出さずこらえる。
どうにか資料準備を終えて進藤部長にそれを手渡すと、「ありがとう」という笑顔と共に「本当に大丈夫?具合悪かったら帰ってもいいよ、俺からお願いしたい事は今日はもうないから」と言う進藤部長。
そんな親切な声掛けにお礼を述べて私は秘書課へ戻る事にした。
すると今度は廊下で、真帆さんを伴った美咲さんと遭遇してしまう。
…今かよ、と苦々しく思うが、それに気付いているのかいないのか、美咲さんが「あ!」などと声を上げて私に接近してきた。
一度歩を進めてから、思い出したように振り返って真帆さんに「これ、お願い」と資料の束を渡している。
真帆さんは「かしこまりました」と静かに応じて、資料を受け取りどこかへ立ち去ってしまった。
…い、いなくならないで欲しい。
真帆さんの、そういう過剰な察しの良さは恨めしいくらいだ。
美咲さんはほっとした様子で改めて私に近づき「ちょっと」と言いながら腕を引っ張って給湯室へと連行していく。
忘れていたが、進藤部長の開発部と、美咲さんの企画部は同じ階にあるのだから、こういう遭遇は普通にあり得る事なのだけど、こうも無防備に美咲さんが距離を詰めてくる事はなかった。
誰か見ていたらどうするのか、と尋ねようとしたが、先回りされて「誰もいないわよ」と美咲さんの声が飛んでくる。
給湯室に押し込められて、私は身の縮む思いがした。
今日は明らかに仕事に集中できていないのが自分でもわかる。
進藤部長のあの指摘だって、かなり控え目な表現をしてくれたに違いないと思えた。
「何かあった?」
壁にもたれている私の顔を美咲さんは覗き込んでくる。
「…そりゃ色々ありましたよ」
言葉にせずともどうせわかっているだろう、という思いを込めてそう答えると、美咲さんは「困ったわね」と呟く。
更に私から視線を外して「あの様子だと夏川さんは知ってるっぽいわね」とまで言う。
「……」
私が黙って美咲さんの顔を見つめていると、美咲さんはほっと溜め息を吐きながらこう切り出した。
「何かあるんじゃないかと思って、極力冴子が一人でいられるように削ったつもりだけど、ダメだったみたいね」
朝のあの慌ただしい、そのわりに重大な話をした後から真帆さんはほとんどデスクに居なかった。
今日一日、美咲さんがわざと連れ回していたという事か。
こういう事だけでも、多分察しのいい真帆さんは気が付くのだろう。
「わざと…?」
「って訳でもないけど、実際たくさん打合せはあったしね、色々頼んで助かった事は助かった」
「私、やっぱりおかしく見えますか」
「……」
おかしいに決まっているのに、美咲さんはなかなか言葉にしない。
言葉にすれば私が更に落ち込むかもしれないとでも思っているのだろうか。
今は仕事の場なのだから、変に遠慮などせずしっかり指摘してもらいたいのに。
「進藤部長に、具合悪そうだとまで言われました」
「あら」
美咲さんは意外そうな顔をする。
「冴子の事、気にかけてくれてるのね」
と言葉は続き、まるで『進藤さんの割にやるじゃないか』とでも言いたげな勢いだったが、言葉としては発せられる事なく終わってしまった。
美咲さんが少し考えてから発した言葉は、私の予想とは全く逆のものだった。
「大丈夫よ」
「…そんなはず、ないです」
「大丈夫」
念押しするように言われてしまうとこちらも何とも言えなくなり黙ってしまう。
「…ね?」
更に念押しされてほんの少し、気持ちが浮上した感じがして再び美咲さんの顔を見ようと思ったが、そうする前に美咲さんの顔が近づいてきて唇を奪われた。
ごく短い時間だったけど。
「っ……」
どういう風なやり方をしているのかわからないが、唇の表面は強く擦る事なく、それなのに舌はどんどん口内に侵入してきて、唇の内側や歯、こちらの舌まで絡め取られるような、そんなキスをされる。
抵抗こそしなかったが、廊下から扉もなく続いている給湯室での行為に、私は焦った。
「…あふ…ん」
口内を舌でかき回される水音が、頭の奥まで響くようだった。
壊れ物を扱うような手つきで、美咲さんの指が私のうなじを撫でたり耳を軽く弄ってくる。
「…大丈夫じゃ、なくなります」
その前から大丈夫ではないのだが、キスが途切れて私は思わずそう口にしてしまう。
「ふふ」
…美咲さんは笑っている。余裕たっぷりといった風情で。
今朝の真帆さんの話を聞いた後と同じような心境がまた、蘇った気がした。
「ま、仕方ないわね、こんな事しちゃったんだから」
「はぁ……」
「だから冴子が大丈夫じゃないのは、仕方ないって事で」
意味を取るのに時間を要したが、おそらく美咲さんとしては、私が「大丈夫ではない」原因は、今した行為によるものだという事にしたいようだ。
他の要因なら納得できないが、これならまあ良しという事なのだろうか。
美咲さんが一際近づいてきて、耳のすぐ近くにまで唇を寄せ「やっぱり、この制服姿はそそるわね」と囁いてきて、私は両足ががくっと震えるぐらいに興奮した。
「ほら、戻らないと」
「…どこへですか」
「秘書課でしょ」
私は本当におかしくなってしまったかもしれない。
美咲さんのツッコミが強めだったのでその時自覚したが、私は本当は、美咲さんと暮らすあの部屋に戻りたくて、そう尋ねてしまったのだ。
「…失礼しました」
私はやっとそれだけ言って給湯室を後にする。
だが廊下へ出てから、口紅がはがれたりしていないか、まだ確認していない事に気付いて慌ててトイレに向かった。
「…」
鏡で自分の顔を確認してみると、驚くほどメイクは崩れていなかった。
さっき美咲さんとのキスで相当に舌を動かしていたように思うのだが、こんな事が実際にできてしまう美咲さんのテクニックと気使いが、私の気持ちを複雑なものにさせる。
…今日は早く帰りたい。心からそう思う。
それに、そんなものは存在しないと思い込んでいたが、最近の美咲さんは独占欲を隠さない感じだし、それだけならまだしも、実際秘書課へ異動して少しずつ仕事に慣れてきたと思ったら、私は次々と大変な目にあってしまっている。
美咲さんが危惧していた事は強ち外れていないという事がようやくわかってきた。
とは言え毎日毎日、何日もそういう事が続くわけでもない。
とにかく、今の私は時間が欲しかった。
…唯一冷静でいられるのは、それこそ進藤部長の指示を受けたり話をしている時ぐらいではなかろうか。
他の事で緊張し過ぎて、進藤部長に対する緊張は大したものに感じなくなってきた気がする。
そうか、私がもっと進藤部長に張り付いていれば良いのかもしれない、なんて事も頭に浮かんだ。
秘書課に戻ってから、私は進藤部長が共有サーバーに置いている、様々な案件のデータをそっと確認した。
ここに置いているデータは、部下などと共用したり、あるいは編集させるためにあるものだから、私が見ても問題はないと事前に聞いている。
わからない専門用語があれば検索し、社内用語らしきものはさかのぼってその内容に関連しそうなデータにアクセスする。
それでもわからない所がなくなるわけじゃないけど、知りたい所や気になる所はメモに残しておいた。
迷惑にならない程度の量とタイミングであれば、きっと進藤部長は教えてくれるだろうと思ったから。
…どうせ、私はまだまだ経験も浅く一人前ではないのだし、みんなそれを理解してくれているだろう。
ならば教えてくれそうな感じのする進藤部長本人に、開発部の事を教わっても別に構わないだろうと思った。
私が開発部の詳しい業務内容を理解する事は、直接的には秘書業務にとって必要不可欠というわけではないけど、知っていて困るものでもない。
はじめのうちは紛らわし程度にデータの類を眺めていたが、気が付くと手元のノートにはそこそこの量を書き残していた。
定時まで残りわずかとなり、念の為真帆さんや進藤部長の明日のスケジュールを軽くチェックして、上がる事にする。
…メモを残したノートは、もしかしたら美咲さんにこの内容を質問するかもしれないと思ったので持ち帰る事にした。
*-*-*-*-*-
それからほんの数日の間に、私は進藤部長とかなり打ち解ける事ができた。
共有のデータにあった用語やプロジェクトについて教えてもらったり、そのヒントになる資料やwebサイトを教えてもらったりした。
美咲さんに教えてもらった事は、誰からとは言わずに「社内の人に教わった」としつつ、それ以外の所を進藤部長に質問した。
思いついて、今の社の流れとは逆行してしまう行為ではあるだろうけど、経験として進藤部長のスケジュール管理やアポイント周りを全部私に任せてもらえないかと相談し、「いいよ」と了承を得られたので、私は社内外問わず、進藤部長に関わる全ての人と接するようになった。
それを申し出るきっかけとなったのが、あの紛らわしに読んだ共有サーバーの資料から始まり、開発部の業務に理解を深められた事があったからだと思う。
動機としては現実逃避のような形だったけど、それはそれで仕事に対する自信もつきそうな予感があり、間違った事はしていないという実感を得ている。
「ところで、二宮さん部長会議のランチはどうするの?」
「…どうする、とは…」
進藤部長に頼まれた資料のコピーを、オーダーされた時間よりだいぶ早く渡した時に、そう尋ねられた。
部長会議自体は隔週で行われているのだが、四半期に一度、ランチミーティングを兼ねて役員と部長全員がビュッフェランチに出かけるというものがあった。
亜里沙さんとか、それこそ一部の秘書は同行する事があるらしいと聞いているが、私はそこに同席するつもりなど全くない中で「どうする」と聞かれたので、一瞬何の事だかわからなかった。
ほんの少し考えて、行くのか行かないのかという意味合いなのだろうと理解するが、場が場なだけに気が引けてしまう。
かと言って進藤部長がもし望むのであれば、変に誇示するのもおかしい。
進藤部長の、「楽をする」方向においての適応力は恐ろしく、大した日数もかけずに私のスケジュール管理にすっかり慣れてしまったようだ。
「経験のためっていう話だったはずなのに、俺もう二宮さんがいないと仕事できないもん」などとまで言ってくる有様である。
「それだけ頑張ってくれてるし、せっかくだから部長会のランチぐらい、行ったっていいんじゃないの?」
「…そうでしょうか、そういう事であればご一緒しますが」
「そうしてよ~」
私が下がろうとすると、もう顔なじみになった開発部の男性社員の一人が「単に二宮さんをはべらかしたいだけでしょ」と突っ込みを入れてくる。
「うん、それもある」と進藤部長は否定せず、島から笑いが起きた。
「それにさ~、アレじゃん、飲みとか夜の飯とかに誘うのはより一層まずいだろうし、こういう形でしか二宮さんを飯に連れて行けそうにないしね」
「それだって会社の金じゃないですか」と更に突っ込みが入ってまた笑いが起き、進藤部長も「そうね」と笑った。
「いいんだよ、とにかくお願いね、二宮さん」
業務命令とでも言わんばかりに、進藤部長は無理やりまとめてしまった。
進藤部長の人柄として、部下に喜んでもらう事をしたり、望めばたまに美味しい店に連れて行ったりしたがるタイプなのだというのは知っている。
だから、こんな風に誘われたのは仲間として認めてもらえたような気がして、内心嬉しかった。
「かしこまりました」
部かから「良かったですね、断られなくって」と言葉をかけられまた笑いが起きている中、私は会話の邪魔にならないよう静かに下がった。
*-*-*-*-*-
その夜、嬉しかったのもあったし、美咲さんともそこで顔を合わせる事になるだろうと思ったから、私は部長会ランチに同席する旨を美咲さんに報告した。
「え!…ついに進藤さんがそんな事を」
「はい」
遅く帰ってきた美咲さんはさくさくと食事をしながら、私は入浴も食事も済ませて寛ぎつつの時間である。
夏は昼間が長いから、明るいうちに帰宅してシャワーを浴びるのはとても贅沢な気分になれる、今はまだそういう季節だ。
美咲さんにはそうめんを用意したけど、きっと一瞬で食べ追えてしまうだろうと思いながら何気なく美咲さんの食べる様子を眺めていた。
「…進藤さん、飲み食いさせるのは好きだけど、そうなると身内気分になってこき使われるわよ」
「…そう、なんでしょうね、なんとなくそう思います」
「でしょ」
進藤部長は部下を喜ばせるのが上手いと思う。そして何気なく要求も高いのだ。
うまく転がされてしまうのだけど、親しみのあるキャラクターのため、硬い態度で接する事がなくなると、実はけっこう無茶な話ではないかと思うような事も知らずに引き受けてしまう、という形で部下は振り回されているのではないかと思えた。
「ご経験済みという事ですよね」
「昔の方がましだったと思うけどね、部長じゃなかった時代だし」
「…なるほど」
「今は実務やんないクセにあれしたいこれしたい、とかそんな事だけ言ってるんじゃないの?」
「まあ…それに近いです」
「それを言ったら私だってあまり変わらないかもだけど」
お店で買ったものだが、そこそこ立派な大きさのかき揚げを美咲さんに勧めると、美咲さんはどんどんそれを崩しにかかった。
私は躊躇するレベルの大きさなのだけど、美咲さんは気にならないらしい。
消費エネルギーの量が違うのだろうな、と私はぼんやり考えた。
「あ、そうだ」
美咲さんが思い出したように話題を変える。
「どうしましたか」
「その、部長会ランチの日ね…あれだよ、私と冴子が初めて会った日の、ちょうど一年後なんじゃないかな」
私は即座に反応できなかったが、改めてその日付を考えて、確かにそうかもしれないと思った。
日付としての記憶は前に出てなかったけど、美咲さんに会う直前の事は、今でも記憶に残っているし、忘れられない。
「…よく覚えてますね」
思わずそんな言葉が口から出てしまったが、美咲さんは「なんとなく忘れないんだよね」と、何でもない事のように言う。
確かに美咲さんは、いわゆる記念日的なものを大切にする人だ。
それは誕生日なんかもそうだし、どこかへ旅行したとか、そんな事も含めて人並み以上に記憶していて、そこにきちんと触れてくれる。
本人は「そういう家に育ったからかなあ」などと言っているけど、私と初めて会った日なんてまさか記憶していると思わなかったから、嬉しくもあり驚いた。
「けどその日のランチが部長会だなんて、不満だわ」
「……」
言う内容の割にそれほど本気で不満という事でもなさそうだが、それでも美咲さんとしては違う過ごし方をしたかったのだろう。
「しかも進藤さんに付き添う感じでしょ?」
「はい」
「そこが特に不満だわ」
まだ、秘書課の誰がそこに同席するのか私は詳細を知らないけど、真帆さんはそういう所には積極的に行かない主義のように思うし、美咲さんもわざわざ声をかけてはいないだろう。
「無理しなくていいからね」
「…はい」
お偉い方々とのビュッフェランチという場を想像しただけでも、萎縮しきりの要素しか思い浮かばない。
でも、進藤部長と、美咲さんもそこにいるのだからと思えば多少持ち直した。
そして改めてこの部屋の内装を眺めて、一年前のあの日の事を思い出す。
…一年の間に、確かに色々な事はあったけど、私は美咲さんに見合うような人物になれている気はちっともしない。
ちょうどそう思った所で、美咲さんが言った。
「私はなんにも変わってないけど、この一年で冴子は色んな事があって成長したんじゃないの」
「……」
今まさに「ちっとも変った気がしない」と私が思っていたのだ。
美咲さんが元々どんな人だったのかはよくわからないし、そもそも変わる必要なんてないと思うからそれは良いのだが、私は変わりたいとずっと思っている。
「一切自覚なし、ってご様子ね」
「…はい」
う~ん、とうなってから美咲さんは豪快に残りのそうめんを食べ終えて、ティッシュで口元を押さえながら私に向き直った。
私はすかさずコップに注いだ麦茶を、美咲さんに差し出すように手元に置く。
美咲さんは「あー、うん」と言いつつ麦茶を一口だけ飲んで話を再開する。
「冴子は一年前より着実に、大人になってるよ、いい意味で」
「そ、そうでしょうか」
「うん、だって宣言通り秘書課へも異動したし、もうじき私の担当もしてくれるんでしょ?」
「それは…わかりませんが」
「進藤さんにランチ会へ連れて行かれるぐらいに気に入られてるんだから、じきにそうなるわよ」
「……」
「あと、身体の方もね…こなれた感じで大人になったよね」
かなり恥ずかしい事を言われて私は返答に困ってしまう。
「だってそれは、お姉さまが…」
「うん?」
「いえ、いいです」
「…何よもう」
美咲さんが席を立つ。これからシャワーを浴びるのだろう。
「か、片付けておきますから」
「どっちでもいいよ」
言うだけ言って美咲さんは浴室へと向かってしまった。
食器を下げて流しで洗いながら、私は一年前の記憶を掘り起こす。
何度も何度も思い出している事だから、それは今でもすぐに鮮明に思い出す事ができる。
…あの日だって、私はものすごい驚愕を味わったものだ。
美咲さんは私が何者か知っていたが、私は美咲さんが誰なのか知らずに会った。
ただのエロいお姉さんの一人として、接していた人だったのに。
きっと誰だってそうだろうけど、私は自ら望んで美咲さんに囚われたくて、他の人とは違う特別な関係を築きたくて、「お姉さま」と呼ばせて欲しいと頼んだのだ。
美咲さんとの関係を深めようとした、という意味では私はそこに飛び込む決意をしたという点で変わったと言えるかもしれない。
逆に美咲さんはどうだろうか。
…出会った当初、私は美咲さんの底が知れないと思っていたが、何度も交わるうちに、美咲さんの中で限界まで官能が膨れ上がる瞬間を、何度か見たように思う。
その、限界を迎えた時の表情や仕草だけは、きっと他の誰も見ていないものだろうと確信できるから、そうなった時の美咲さんに出会うと私の中で悦びが爆発して、いつも感動するのだ。
あれが見たいから、いつも執拗に迫ってしまう。
それに美咲さんも言っていたが、私の身体も、感じ方というか反応の出方が変わったのは確かだ。
かつては最初の刺激でスイッチが入ったように官能が高まってしまって長続きはせず、回数で稼ぐように反応していた私の身体は、小さな刺激にも勿論しっかりと反応するが、それが更に先の展開を期待する呼び水のように、長く持続するようになった。
じわじわと、途切れる事なく刺激に反応して漏れなく官能を拾える身体に変わったと思う。
美咲さんが「大人」と表現したのはきっとそういう事なのだろう。
美咲さんは、その時々で私が一番悦ぶような刺激を与えているようであっても、それと同時に私の身体を作り替えるように、新たな官能のスイッチを見つけて育てていく。
だから、以前よりも長く深く、あるいは広い範囲で私は官能を拾う事ができるようになった。
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