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2020年06月
アニメ・サイコパスのセリフのための読書感想文 後半
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前半を書き終わって。
改めて、感想を書き始めたというか、サイコパスの作品とマックス・ウエーバーの社会学についての感想が、実は壮大なテーマだったかもということで、心が折れかけている。
まず、サイコパスにおいてマックス・ウエーバーが登場したシーンについて復習する。
「シビュラシステム」という監視社会は、犯罪を犯す前に犯罪を犯す者を捕まえ、矯正する。ところが槙島はシビュラが監視できない「免罪体質」という特性を持っていた。いくら犯罪を犯しても、それをシビュラが認識しない。
シビュラが認識しなくても、人間は槙島が犯罪者であることは理解できる。しかし、シビュラに監視の全ての権限を渡してしまった捜査員たちは槙島の犯罪を止めることができないでいた。
業を煮やした狡嚙はシビュラの監視社会から外れることを決意し、槙島を始末する決心を固める。それは狡嚙自身が犯罪者になることを意味していた。
それでも狡嚙は決心し、シビュラの監視社会から脱出する。
脱出直後、狡嚙は恩師の雑賀教授の元を訪れ、敷島について、二人が会話を始める。この時の会話に出てくるのがマックス・ウエーバーである。
雑賀教授がシビュラシステムを「理想的な官僚政治」と定義して、狡嚙に投げかけると狡嚙は
「槙島は、マックス・ウエーバーを引き合いにだすと、フーコーやジェレミー・ベンサムで反論してくる奴だ」
と考察するセリフがあるのだ。
意味がわからかった。この二人、何を語っちゃってるの? この二人の会話の意味を知りたくて、マックス・ウエーバーをまず読んでみよう、それが始まりだったわけだ。
で、野口雅弘さん著の「マックス・ウエーバー」をなんとか読んでみたらば、世界を宗教で分類する論文が出てきたり、音楽社会学というのが出てきて、理解がオーバーフローしたというのが、前半の感想文なのだ。
さて、理解できないけれど、読み進めた結果、マックス・ウエーバーが政治学についても論文やらなにやら発表しているところで、ようやく雑賀教授の言葉とリンクした。
マックス・ウエーバーは「仕事としての政治」を語っている。政治思想ではなく、行政手法としての政治を語っているなかで、官僚の仕事は感情的であってはならないということを論じている。
うん、そうなのだ、行政が感情論に走ったら困るよ、役所で例えば離婚手続きをしに行ったら、役所の人が号泣されても困るわけだし。それより、ここまで悩んで結論つけてきたんだから、号泣してないで淡々と受理すべきでね?というのがマックス・ウエーバーの「お仕事としての政治」論と私は理解したわけである。
ここに至って、ようやく雑賀教授のセリフとつながるのだが、それを受けて狡嚙が、フーコーとジェレミー・ベンサムを持ち出したセリフにつながる。
さて、マックス・ウエーバーの本の後半にきてようやく雑賀教授のセリフにたどりついた。なのに狡嚙がフーコーとジェレミー・ベンサムとやらを引っ張り出したため結局、セリフの理解が出来ないことを再確認した。私は正直いえば、理解することを断念した。
さすがに、フーコーの入門書とジュレ三―・ベンサムの入門書を各一冊づつ読む意欲は今はない。マックス・ウエーバーの本で力尽きた。
なお、野口雅弘さんの「マックス・ウエーバー」を読んでいる最中、雑賀教授の前半の「官僚は感情的であってはならない」というマックス・ウエーバーを引用部分を完全に失念していた。
したがって、読書しながら雑賀教授と狡嚙が「マックス・ウエーバー」のどの部分の論議を話し合っているのさ? とずーっと疑問に思っていた。
読書の途中でその旨の不満をツイートに感想としてあげた。この不満については、雑賀教授がちゃんと「仕事としての政治」論についてだと断りを入れていたので私の間違いを認めばならない。私の不満は的を射ないものであった。間違ってごめんね、雑賀教授。
ただし、その後の狡嚙の出したフーコーとジェレミー・ベンサムは、何を語ったのかを端折っている時点で、やはり、不満を持つ。視聴者にもうちょっとヒントくれよ。せめて、マックス・ウエーバーについての雑賀教授の説明ぐらいは必要だと思う。
雑賀教授の言葉でさえ、入門書読んでようやく「仕事としての政治」のところかなとたどりつけるぐらいには、不親切なのだしね。
とりあえず、雑賀教授のセリフにある「マックス・ウエーバー」は、ぼんやり理解できた。しかしだ、野口雅弘さん著「マックス・ウエーバー」は、まだ残り三分の一ほど読み残している段階なのだ。
ここら辺から、読むスピードが上がっていった。マックス・ウエーバーが、晩年、選挙に立候補したからだ。政治家として立候補したあたりで、彼の論文や考え方は政治思想に傾いていたと私は感じる。
政治を学問として論じることに興味があった私にとって、マックス・ウエーバーの政治思想論については、さほど興味はなかったからだ。
と言いつつ。本書後半に興味深い論点があった。「議事録」についてである。
マックス・ウエーバーは、議事録は、マニュアルとして必要と説いていた。そのうえで、公開することに反対の意思を持っていた。後世の混乱の元になるからということなのか?
マックス・ウエーバーはスペイン風邪を起因として五十六才の生涯を終えた。彼は、第二次世界大戦のドイツを知らずに逝った。
百年前、女性の地位に理解を示し、金持ちであることに引け目を感じた青年は、社会を学問としてまとめあげようとした。
あまりにも、その研究対象は大きすぎて、私にはとても理解できない。
理解できないながら、人間社会を学問として捉えようとした学者として知る機会を得たことは良かったと思っている。また、百年前と現在、状況は違えど、人間の悩みはあまり変わっていないのだな、と感じる。
百年後の今をマックス・ウエーバーが見たら何を思うのか?
「百年たっても、人間は悩んでいるんだな」
と思うような気がする。
アニメ・サイコパスをきっかけにしてマックス・ウエーバーという人物に興味を持ち、社会学とか政治学という学問をちょっとだけ覗いてみた。
人間を研究する学問なんだなという印象だ。だからこそ、論じた人物の生きざまとともにその考え方や研究を読み解く意味が重要になってくるのだろうな。
それがこの類の本を初めて読んだ感想である。
なお、野口雅弘さん著「マックス・ウエーバー」の関連文献や参考書類は、「ブックガイド」として相当なページを割いて紹介されている。入門書としての位置づけにふさわしい本であることは間違いない。
以上、感想文でしたっ。
こんな長い感想文になるとは思わなかった。全般的に熱意を持たずに読んだ分、冷静になれたのだろうか? 正直、よくわからないし、ほぼ理解していない状態で、読み終えることだけはできた、というのがほんとのところである。
こんどこそ、おしまい!
改めて、感想を書き始めたというか、サイコパスの作品とマックス・ウエーバーの社会学についての感想が、実は壮大なテーマだったかもということで、心が折れかけている。
まず、サイコパスにおいてマックス・ウエーバーが登場したシーンについて復習する。
「シビュラシステム」という監視社会は、犯罪を犯す前に犯罪を犯す者を捕まえ、矯正する。ところが槙島はシビュラが監視できない「免罪体質」という特性を持っていた。いくら犯罪を犯しても、それをシビュラが認識しない。
シビュラが認識しなくても、人間は槙島が犯罪者であることは理解できる。しかし、シビュラに監視の全ての権限を渡してしまった捜査員たちは槙島の犯罪を止めることができないでいた。
業を煮やした狡嚙はシビュラの監視社会から外れることを決意し、槙島を始末する決心を固める。それは狡嚙自身が犯罪者になることを意味していた。
それでも狡嚙は決心し、シビュラの監視社会から脱出する。
脱出直後、狡嚙は恩師の雑賀教授の元を訪れ、敷島について、二人が会話を始める。この時の会話に出てくるのがマックス・ウエーバーである。
雑賀教授がシビュラシステムを「理想的な官僚政治」と定義して、狡嚙に投げかけると狡嚙は
「槙島は、マックス・ウエーバーを引き合いにだすと、フーコーやジェレミー・ベンサムで反論してくる奴だ」
と考察するセリフがあるのだ。
意味がわからかった。この二人、何を語っちゃってるの? この二人の会話の意味を知りたくて、マックス・ウエーバーをまず読んでみよう、それが始まりだったわけだ。
で、野口雅弘さん著の「マックス・ウエーバー」をなんとか読んでみたらば、世界を宗教で分類する論文が出てきたり、音楽社会学というのが出てきて、理解がオーバーフローしたというのが、前半の感想文なのだ。
さて、理解できないけれど、読み進めた結果、マックス・ウエーバーが政治学についても論文やらなにやら発表しているところで、ようやく雑賀教授の言葉とリンクした。
マックス・ウエーバーは「仕事としての政治」を語っている。政治思想ではなく、行政手法としての政治を語っているなかで、官僚の仕事は感情的であってはならないということを論じている。
うん、そうなのだ、行政が感情論に走ったら困るよ、役所で例えば離婚手続きをしに行ったら、役所の人が号泣されても困るわけだし。それより、ここまで悩んで結論つけてきたんだから、号泣してないで淡々と受理すべきでね?というのがマックス・ウエーバーの「お仕事としての政治」論と私は理解したわけである。
ここに至って、ようやく雑賀教授のセリフとつながるのだが、それを受けて狡嚙が、フーコーとジェレミー・ベンサムを持ち出したセリフにつながる。
さて、マックス・ウエーバーの本の後半にきてようやく雑賀教授のセリフにたどりついた。なのに狡嚙がフーコーとジェレミー・ベンサムとやらを引っ張り出したため結局、セリフの理解が出来ないことを再確認した。私は正直いえば、理解することを断念した。
さすがに、フーコーの入門書とジュレ三―・ベンサムの入門書を各一冊づつ読む意欲は今はない。マックス・ウエーバーの本で力尽きた。
なお、野口雅弘さんの「マックス・ウエーバー」を読んでいる最中、雑賀教授の前半の「官僚は感情的であってはならない」というマックス・ウエーバーを引用部分を完全に失念していた。
したがって、読書しながら雑賀教授と狡嚙が「マックス・ウエーバー」のどの部分の論議を話し合っているのさ? とずーっと疑問に思っていた。
読書の途中でその旨の不満をツイートに感想としてあげた。この不満については、雑賀教授がちゃんと「仕事としての政治」論についてだと断りを入れていたので私の間違いを認めばならない。私の不満は的を射ないものであった。間違ってごめんね、雑賀教授。
ただし、その後の狡嚙の出したフーコーとジェレミー・ベンサムは、何を語ったのかを端折っている時点で、やはり、不満を持つ。視聴者にもうちょっとヒントくれよ。せめて、マックス・ウエーバーについての雑賀教授の説明ぐらいは必要だと思う。
雑賀教授の言葉でさえ、入門書読んでようやく「仕事としての政治」のところかなとたどりつけるぐらいには、不親切なのだしね。
とりあえず、雑賀教授のセリフにある「マックス・ウエーバー」は、ぼんやり理解できた。しかしだ、野口雅弘さん著「マックス・ウエーバー」は、まだ残り三分の一ほど読み残している段階なのだ。
ここら辺から、読むスピードが上がっていった。マックス・ウエーバーが、晩年、選挙に立候補したからだ。政治家として立候補したあたりで、彼の論文や考え方は政治思想に傾いていたと私は感じる。
政治を学問として論じることに興味があった私にとって、マックス・ウエーバーの政治思想論については、さほど興味はなかったからだ。
と言いつつ。本書後半に興味深い論点があった。「議事録」についてである。
マックス・ウエーバーは、議事録は、マニュアルとして必要と説いていた。そのうえで、公開することに反対の意思を持っていた。後世の混乱の元になるからということなのか?
マックス・ウエーバーはスペイン風邪を起因として五十六才の生涯を終えた。彼は、第二次世界大戦のドイツを知らずに逝った。
百年前、女性の地位に理解を示し、金持ちであることに引け目を感じた青年は、社会を学問としてまとめあげようとした。
あまりにも、その研究対象は大きすぎて、私にはとても理解できない。
理解できないながら、人間社会を学問として捉えようとした学者として知る機会を得たことは良かったと思っている。また、百年前と現在、状況は違えど、人間の悩みはあまり変わっていないのだな、と感じる。
百年後の今をマックス・ウエーバーが見たら何を思うのか?
「百年たっても、人間は悩んでいるんだな」
と思うような気がする。
アニメ・サイコパスをきっかけにしてマックス・ウエーバーという人物に興味を持ち、社会学とか政治学という学問をちょっとだけ覗いてみた。
人間を研究する学問なんだなという印象だ。だからこそ、論じた人物の生きざまとともにその考え方や研究を読み解く意味が重要になってくるのだろうな。
それがこの類の本を初めて読んだ感想である。
なお、野口雅弘さん著「マックス・ウエーバー」の関連文献や参考書類は、「ブックガイド」として相当なページを割いて紹介されている。入門書としての位置づけにふさわしい本であることは間違いない。
以上、感想文でしたっ。
こんな長い感想文になるとは思わなかった。全般的に熱意を持たずに読んだ分、冷静になれたのだろうか? 正直、よくわからないし、ほぼ理解していない状態で、読み終えることだけはできた、というのがほんとのところである。
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