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第三章 心の音色、彩る季節
モアと百彩、サヨナラと涙
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少しだけこのベッドで横になろう、名残惜しさでいっぱいだった。ほんのり木の温もりと匂いを感じられるこの部屋に、戻ることはもうないのかと思うと、心に吹き込む隙間風のように、ため息が出てしまう。
初めは研修という名目だったけれど、今の思いは違う。わたしは葵百彩だった。葵家の一人娘で女子高生で、演劇部の部員で、笹井絽薫の彼女だ。
急に頬が生暖かくなった。触れてみると溢れるほどに涙が流れていた。
どうして? きっとここに来る前ならわからなかった。でも、今ならわかる、この気持ちが。見ているだけでは気づけないことがたくさんあるんだと知った。
『わたしは、またみんなとこうして集まれたらいいな』
叶わないとわかっているのに、どうしても言いたかった。何の意味もないけれど、葵百彩ならそう願ってもいいはずだから。
今日が終わるまでは……。
みんな本当にありがとう。
わたしのことは忘れても——。
☆ ☆ ☆
今日は潤いの雨が降っている。ここのところずっと晴ればかりで、焼けた大地がごくごくと喉を鳴らす音が聞こえてきそう。
今日は特に予定はないけれど、絽薫くんから、花陽公園の先にあるコンビニに行くとROWがきたので、合わせて行くことにした。先日、私の誕生日に告白をして彼氏になったばかり。だから、今は少しの時間でも大切にしたい。
花陽公園の前を通り過ぎる。思えば二ヶ月前、ここで絽薫くんと再会をした。もっと違う形で出会えていたら、少しは変わっていたのかな? こういうことを考えるのは止めようと思っているのに、どうしても頭の中に浮かんでしまう。人間は弱いのかもしれない。でも、そこがステキなところだと思う。後悔をして、そこから立ち上がり、考えて、学び、手に触れられるものができる。
今ならきっと、いい愛のキューピットになっていたと思う。ふたりの赤い糸を着実に結べるように、お互いの呼吸や匂い、触れ合った瞬間の鼓動、恋する要素はもっともっと複雑だから、時間をかけて見てあげられる。
……どちらに対してもまだやり足りない。でも、決められたことだから、新しい道に進まなくちゃいけない。新しい道に今の後悔を活かせたら、きっとそれが最善に繋がる。
そのとき、わたしは覚えていない、今というこの人生を。それでいい、恋する香りのように、ほんの少しでも心と身体のどこかに感じられたのなら、わたしが今を歩いてきた足跡になる。
雨が地面に跳ねる音、傘を叩く音を聞いていると、癒しのハーモニーのようで鼻歌を口ずさみそうになる。
コンビニに一歩近づくたび、足音の旋律に合わせ音符が身体中から溢れ出し、空気中を漂う楽譜に貼り付けられていく。そんなことを空想しながら、ステップを踏むように歩いている。
コンビニまであと数メートルというところで、前を歩く絽薫くんが見えた。声をかけようと思ったけれど、やめた。気づかれないように足早に歩きギリギリのところまで近づく。注意しなくちゃと思うと力が入ってしまい、小石に躓いてしまった。思わずキャッと小さな声を上げ、口を片手で塞いだ。
一瞬振り返られたような気がして、確認しなくちゃとそっと絽薫くんを見た。何もなく前を歩いている。ふーっと息を吐き、気を取り直し、彼氏に向かって大声を出した。
「わっ!」
「あーーーっ!」
背筋が棒のように伸び、直立しているのは間違いなく絽薫くんだ。ドッキリ大成功!
「絽薫くん?」
前に行き顔を覗いてみると、顔まで硬直しているように見える。
「もあひゃん」
緊張がほぐれたかのように、脱力感いっぱいの声だった。
「大丈夫?」
「うん……大丈夫。ごめん、情けない」
肩を落とし、若干、凹んでいるように見えなくはない。
「ううん、わたしこそごめんね。急に驚かしちゃったから」
ハァ~とため息を吐き、明らかにカーブを描く背中が見える。その情けなさいっぱいの後ろ姿から顔をこちらに覗かせた。
「どーしたの?」
「うん、俺、ちゃんとかっこいいパパになれるかな? って。こんなことですぐに震えてたら子どもになんて思われるか」
急すぎる話で頭がついていかない。ボーッと絽薫くんの顔を見ていた。頬が赤くなり、あたふたと足元がおぼつかない。
「あっ、ごめん。その、なんて言うか、将来はふたりの赤ちゃんができてってあれっ? あの、なんて言うか……」
自分で言ったことに動揺して、テンパっているのがよくわかる。こういう素直なところが純粋で可愛いくて魅力のひとつだと思う。
「赤ちゃん?」
なんだか笑えてきた。
「えっ? そ、そうだよ。ほら大人になったら結婚して、そしたら子どももできるし、子どもできるってことはその子作りしないと、いやその……」
口調が速くなり、ますます慌てているがわかる。
「……そっか、普通ならそーだもんね。ふふふっ、そんなに慌てなくていいのに」
普通なら——自分で言ったものの、叶えられない普通という遠くて近い明日。わたしとの時間を大切に考えてくれている絽薫くんに、申し訳なさでいっぱいになる。地面を流れていく雨のように、誰にも気にされずに流れていけたらいいのに、そんな風に思ってしまう。
「なんか、ごめん。気が早すぎるよね? まだ高校すら卒業してないのに……あれっ? 雨が止んでる」
ハニカんだ笑顔を見せられると、ギュッとしたくなる。この笑顔をずっと隣で見ていたい。普通ならそれが当然のことなのに、やっぱり、絽薫くんを目の前にすると、感情が溢れてくる。
「ホントだ」
傘を下ろして畳んだ。空を見上げると、雲間に広がる青色にうっすらと七色の虹が見えた。
「あっ、虹」
「ホントだ」
虹を指差して下ろすと、絽薫くんの手に触れた。五秒ほど目が合う、気まずい訳ではないけれど、もどかしさが目を晒してしまう。
「行こう!」
そう言うと手を引っ張られた。わたしの手をしっかりと包んでしまう大きな手、大きな存在だなと感じた。
コンビニでおやつやら飲み物やらを買い、帰り道を歩いていた。雨上がりは汚れた空気が洗い流され、少しの雨の匂いと、手付かずの空気が全身を包んでいく。思いきり深呼吸をすると清々しい。
喋りながら歩いていると、ちょうど花陽公園の前に来た。「寄ってく?」と絽薫くんが親指を立てて入り口の方を指した。うん、と手を掴み寄り添った。入り口まで来ると急に絽薫くんが立ち止まった。どうしたの? と顔を覗き込んだ。
「えっ? どういうこと? 俺は……もあ」
繋いだ手が解け、前に倒れ込んだ。
「絽薫くん、絽薫!」
わたしとここにいると……、わたしがちゃん認めなくちゃいけないこと。わたしとここにいるとじゃなくて、わたしがいると、絽薫くんはあの日の記憶がフラッシュバックしてしまう。やっぱりそれが事実なんだ。
神様、わたしはもうこれ以上ここにはいられないんですよね? このままわたしがいたら、きっと絽薫くんの記憶が混乱を起こして、頭がパンクしてしまうかも。わたしのことなんてどうでもいい、どうか絽薫を助けて。
「絽薫くん、大丈夫?」
公園のベンチに座った。
「えっ? あれっ? もあちゃん?」
キョロキョロと辺りを見渡す。
「大丈夫?」
「えっ? うん。俺どーしたんだっけ?」
「絽薫くん、歩道の段差に躓いてこけたんだよ」
「あっ、そーだった。躓いたとこまでは覚えてるんだけど……」
「そのあとベンチに座ってちょっと休むって言って、少し寝ちゃったんだよ」
目を見つめて喋った。絽薫くんの現実を修正するために。
「そーだ。俺頭打って少し痛くて、休憩しようと思ったんだ」
「なんともない?」
「んー、大丈夫かな? 打ったとこも痛くないし」
「そか、よかった」
また、記憶を上書きした。何も覚えていないようで安心した。申し訳ない気持ちはあるけれど、こうするしか他にない。この夏の間、もう少しだけ一緒にいさせて。その後は跡も残らない、雨のように消えるから。
「ねえ、グミ食べる?」
「うん、ありがと」
「あっ、そーだ! 面白い話っていうか、偶然なんだけどさ。俺、子どもの頃、猫買おうとしたことあって」
楽しい思い出を呼び起こすように、興奮した表情をしていた。
「ねこ?」
「うん、子猫。俺のせいで死んじゃったんだけどさ」
「そーなんだ、残念だったね」
「うん、めっちゃ後悔してる」
思わず背中をさすった。少しでも励ましになればと思った。
落ち込んでいるかと思いきや、こちらに笑顔を向けた。
「ホントにそれは後悔しかないんだけど、名前がさ、モアって言うんだ」
「もあ?」
心拍数が上がっていくのを感じる。
「そう、百彩ちゃんと一緒の名前なんだよね。偶然ってホントあるもんなんだなって」
「……そーだね。なんだかびっくりだね」
言葉に詰まった。なんて返せばいいのか、全くわからなかった。まさか、わたしのことを聞くなんて、思ってもみなかったから。絽薫くんの目を見つめることしかできない。
「モア……」
まるで今のわたしの中にモアを見ているようだった。
「えっ?」
「あっ、ごめん。モアのこと話してたら百彩ちゃんがモアに見えてきちゃって」
胸が締めつけられる。
「……いやだ、何言ってるの? わたし、猫じゃないよ」
笑ってみせた。気づかれるわけがないとわかっていても、心臓を掴まれたような苦しさと、ハニーラテを飲んだときのような、甘い心地よさが混じり合った複雑な気持ちだった。
「そーだよね? モアと百彩、名前が一緒なだけだよね?」
「うん、そーだよ」
絽薫くん、わたしがモアだよ。
そう言いたかった。でも、何も伝えられない。下唇を噛み、見つめるしかなかった。
わたしがいなくなった後、みんなはこれまでと変わらずに生きていく。わたしは少しでもみんなの心に何か残せたのだろうか? わたしの心には焼きついている。ほんの数ヶ月だったけれど、ここで生きた毎日を、最高の人生だったと思う。
もし、みんなのように赤ちゃんとして生まれて、幼稚園、小学生、中学生、そして、高校生だったらこんなこと思わなかったのかもしれない。でも、絽薫くんと共に歩むことも、みんなとこれから起こるさまざまなできごとを、一緒に笑って泣いて、励まし合ったり、抱きしめたり、友達として関係を築いていけた。
わたしは生まれ変わりたい。この場所では無理だとしても、人として生きてみたい。
笹井絽薫が好き、三咲凛花、新座明歩、福居昇流、坂戸輝紀、山吹原高校、この街、そしてパパ、ママが好き。
忘れたくない。
離れたくない。
ここにいたい。
絡まったあやとりの毛糸のように、心がうまく解けない。引っ張れば引っ張るほど、硬く結ばれていくように感じた。
「そろそろ帰る?」
「うん」
「行こ」
立ち上がった絽薫くんが手を差し伸べてくれた。
「うん」
笑顔で手を掴んだつもりだった。
「えっ? どーしたの?」
「んっ?」
何を言っているのかわからなかった。驚いた表情だったものが、心配する表情へと変わった。絽薫くんは手を握ったまま座り直した。
「俺、なんか変なこと言った?」
「言ってないよ。どー……?」
聞かなくてもすぐにその理由がわかった。頬を伝う温かさがゆっくりと腕に落ちた。目尻を触れると涙だった。
「なんでかな? フフッ、ごめんね。何でもないんだよ。何でもないのに……」
言い訳をするように『何でもない』と言おうとすると涙が止まらなくなった。
「百彩ちゃん」
優しく抱きしめてくれた。大きくて温かくて、絡まった心が解けていくようだった。余計に涙が溢れてきた。
「ごめん、俺、何て言ったらわかんなくて。情けなくてホントごめん。でも、気の済むまで泣いていいから。ずっと抱きしめてるから、……嫌じゃなかったらだけど」
「いやじゃない、いやじゃないよ」
言葉なんていらなかった。ただ、抱きしめてくれるだけでいい。絽薫くんを、絽薫くんの温度を、絽薫くんの匂いを、絽薫くんの息遣いを直に感じられる。
一〇分、一五分どれだけこうしていたかわからない。涙が止まり、落ち着いた。絽薫くんの胸から離れ、目を見つめた。
「ありがと」
「うん」
横を向き座り直した。
「ごめんね、急に」
「ううん、俺いつでも側にいるから。辛いとき、寂しいときずっと隣にいるから」
「うん、嬉しい。ずっと側にいて」
また涙が溢れそうになるのを抑えた。深呼吸してピョンっと立ち上がった。笑顔で絽薫くんを見た。
「行こっ」
手を繋ぐために絽薫くんの前に右手を出した。
「うん」
当たり前のようだった。いつも手を繋いでいるかのように自然な雰囲気だった。
歩く横顔がたくましかった。
きっと大丈夫。わたしことを忘れられる。
何でもないこの時間が大切で、必要で、かけがえのないもので、何にも変えることなんてできないんだと、そんな思いが心の奥まで染みてきた。
青、水色、白、オレンジ色、茜、紫、紺、空の見せるアートのようにひとつも同じものなんてない。眩しくて煌めいて、複雑で、ときには厄介で、でも、すべての色、さまざまな形があるからこそ輝いている。
わたしはそんなひとりになれていたのかな?
人として歩いていたのかな?
「送ってくれてありがと」
「うん、また。ROWするね」
「うん、わたしも」
「じゃあね」
「バイバイ」
絽薫くん、まだ早いけど先に言うね。当日は言えそうにないから。
「さよなら」
聞こえていなくても言っておきたかった。自分の中でのケジメとして。
また、頬に涙が伝ってきた。自分はこんなにも泣き虫なんだと今更、知ることもできた。
絽薫くんの後ろ姿を見ていた。本当に大きいなと思った。あのときはまだ小学生だったけれど、何も変わらない絽薫くんなんだと、嬉しかった。
神様こんな経験をさせてくれて、本当にありがとうございます。
夏が終わるまでのあと少し、葵百彩として精一杯生きていきます。
初めは研修という名目だったけれど、今の思いは違う。わたしは葵百彩だった。葵家の一人娘で女子高生で、演劇部の部員で、笹井絽薫の彼女だ。
急に頬が生暖かくなった。触れてみると溢れるほどに涙が流れていた。
どうして? きっとここに来る前ならわからなかった。でも、今ならわかる、この気持ちが。見ているだけでは気づけないことがたくさんあるんだと知った。
『わたしは、またみんなとこうして集まれたらいいな』
叶わないとわかっているのに、どうしても言いたかった。何の意味もないけれど、葵百彩ならそう願ってもいいはずだから。
今日が終わるまでは……。
みんな本当にありがとう。
わたしのことは忘れても——。
☆ ☆ ☆
今日は潤いの雨が降っている。ここのところずっと晴ればかりで、焼けた大地がごくごくと喉を鳴らす音が聞こえてきそう。
今日は特に予定はないけれど、絽薫くんから、花陽公園の先にあるコンビニに行くとROWがきたので、合わせて行くことにした。先日、私の誕生日に告白をして彼氏になったばかり。だから、今は少しの時間でも大切にしたい。
花陽公園の前を通り過ぎる。思えば二ヶ月前、ここで絽薫くんと再会をした。もっと違う形で出会えていたら、少しは変わっていたのかな? こういうことを考えるのは止めようと思っているのに、どうしても頭の中に浮かんでしまう。人間は弱いのかもしれない。でも、そこがステキなところだと思う。後悔をして、そこから立ち上がり、考えて、学び、手に触れられるものができる。
今ならきっと、いい愛のキューピットになっていたと思う。ふたりの赤い糸を着実に結べるように、お互いの呼吸や匂い、触れ合った瞬間の鼓動、恋する要素はもっともっと複雑だから、時間をかけて見てあげられる。
……どちらに対してもまだやり足りない。でも、決められたことだから、新しい道に進まなくちゃいけない。新しい道に今の後悔を活かせたら、きっとそれが最善に繋がる。
そのとき、わたしは覚えていない、今というこの人生を。それでいい、恋する香りのように、ほんの少しでも心と身体のどこかに感じられたのなら、わたしが今を歩いてきた足跡になる。
雨が地面に跳ねる音、傘を叩く音を聞いていると、癒しのハーモニーのようで鼻歌を口ずさみそうになる。
コンビニに一歩近づくたび、足音の旋律に合わせ音符が身体中から溢れ出し、空気中を漂う楽譜に貼り付けられていく。そんなことを空想しながら、ステップを踏むように歩いている。
コンビニまであと数メートルというところで、前を歩く絽薫くんが見えた。声をかけようと思ったけれど、やめた。気づかれないように足早に歩きギリギリのところまで近づく。注意しなくちゃと思うと力が入ってしまい、小石に躓いてしまった。思わずキャッと小さな声を上げ、口を片手で塞いだ。
一瞬振り返られたような気がして、確認しなくちゃとそっと絽薫くんを見た。何もなく前を歩いている。ふーっと息を吐き、気を取り直し、彼氏に向かって大声を出した。
「わっ!」
「あーーーっ!」
背筋が棒のように伸び、直立しているのは間違いなく絽薫くんだ。ドッキリ大成功!
「絽薫くん?」
前に行き顔を覗いてみると、顔まで硬直しているように見える。
「もあひゃん」
緊張がほぐれたかのように、脱力感いっぱいの声だった。
「大丈夫?」
「うん……大丈夫。ごめん、情けない」
肩を落とし、若干、凹んでいるように見えなくはない。
「ううん、わたしこそごめんね。急に驚かしちゃったから」
ハァ~とため息を吐き、明らかにカーブを描く背中が見える。その情けなさいっぱいの後ろ姿から顔をこちらに覗かせた。
「どーしたの?」
「うん、俺、ちゃんとかっこいいパパになれるかな? って。こんなことですぐに震えてたら子どもになんて思われるか」
急すぎる話で頭がついていかない。ボーッと絽薫くんの顔を見ていた。頬が赤くなり、あたふたと足元がおぼつかない。
「あっ、ごめん。その、なんて言うか、将来はふたりの赤ちゃんができてってあれっ? あの、なんて言うか……」
自分で言ったことに動揺して、テンパっているのがよくわかる。こういう素直なところが純粋で可愛いくて魅力のひとつだと思う。
「赤ちゃん?」
なんだか笑えてきた。
「えっ? そ、そうだよ。ほら大人になったら結婚して、そしたら子どももできるし、子どもできるってことはその子作りしないと、いやその……」
口調が速くなり、ますます慌てているがわかる。
「……そっか、普通ならそーだもんね。ふふふっ、そんなに慌てなくていいのに」
普通なら——自分で言ったものの、叶えられない普通という遠くて近い明日。わたしとの時間を大切に考えてくれている絽薫くんに、申し訳なさでいっぱいになる。地面を流れていく雨のように、誰にも気にされずに流れていけたらいいのに、そんな風に思ってしまう。
「なんか、ごめん。気が早すぎるよね? まだ高校すら卒業してないのに……あれっ? 雨が止んでる」
ハニカんだ笑顔を見せられると、ギュッとしたくなる。この笑顔をずっと隣で見ていたい。普通ならそれが当然のことなのに、やっぱり、絽薫くんを目の前にすると、感情が溢れてくる。
「ホントだ」
傘を下ろして畳んだ。空を見上げると、雲間に広がる青色にうっすらと七色の虹が見えた。
「あっ、虹」
「ホントだ」
虹を指差して下ろすと、絽薫くんの手に触れた。五秒ほど目が合う、気まずい訳ではないけれど、もどかしさが目を晒してしまう。
「行こう!」
そう言うと手を引っ張られた。わたしの手をしっかりと包んでしまう大きな手、大きな存在だなと感じた。
コンビニでおやつやら飲み物やらを買い、帰り道を歩いていた。雨上がりは汚れた空気が洗い流され、少しの雨の匂いと、手付かずの空気が全身を包んでいく。思いきり深呼吸をすると清々しい。
喋りながら歩いていると、ちょうど花陽公園の前に来た。「寄ってく?」と絽薫くんが親指を立てて入り口の方を指した。うん、と手を掴み寄り添った。入り口まで来ると急に絽薫くんが立ち止まった。どうしたの? と顔を覗き込んだ。
「えっ? どういうこと? 俺は……もあ」
繋いだ手が解け、前に倒れ込んだ。
「絽薫くん、絽薫!」
わたしとここにいると……、わたしがちゃん認めなくちゃいけないこと。わたしとここにいるとじゃなくて、わたしがいると、絽薫くんはあの日の記憶がフラッシュバックしてしまう。やっぱりそれが事実なんだ。
神様、わたしはもうこれ以上ここにはいられないんですよね? このままわたしがいたら、きっと絽薫くんの記憶が混乱を起こして、頭がパンクしてしまうかも。わたしのことなんてどうでもいい、どうか絽薫を助けて。
「絽薫くん、大丈夫?」
公園のベンチに座った。
「えっ? あれっ? もあちゃん?」
キョロキョロと辺りを見渡す。
「大丈夫?」
「えっ? うん。俺どーしたんだっけ?」
「絽薫くん、歩道の段差に躓いてこけたんだよ」
「あっ、そーだった。躓いたとこまでは覚えてるんだけど……」
「そのあとベンチに座ってちょっと休むって言って、少し寝ちゃったんだよ」
目を見つめて喋った。絽薫くんの現実を修正するために。
「そーだ。俺頭打って少し痛くて、休憩しようと思ったんだ」
「なんともない?」
「んー、大丈夫かな? 打ったとこも痛くないし」
「そか、よかった」
また、記憶を上書きした。何も覚えていないようで安心した。申し訳ない気持ちはあるけれど、こうするしか他にない。この夏の間、もう少しだけ一緒にいさせて。その後は跡も残らない、雨のように消えるから。
「ねえ、グミ食べる?」
「うん、ありがと」
「あっ、そーだ! 面白い話っていうか、偶然なんだけどさ。俺、子どもの頃、猫買おうとしたことあって」
楽しい思い出を呼び起こすように、興奮した表情をしていた。
「ねこ?」
「うん、子猫。俺のせいで死んじゃったんだけどさ」
「そーなんだ、残念だったね」
「うん、めっちゃ後悔してる」
思わず背中をさすった。少しでも励ましになればと思った。
落ち込んでいるかと思いきや、こちらに笑顔を向けた。
「ホントにそれは後悔しかないんだけど、名前がさ、モアって言うんだ」
「もあ?」
心拍数が上がっていくのを感じる。
「そう、百彩ちゃんと一緒の名前なんだよね。偶然ってホントあるもんなんだなって」
「……そーだね。なんだかびっくりだね」
言葉に詰まった。なんて返せばいいのか、全くわからなかった。まさか、わたしのことを聞くなんて、思ってもみなかったから。絽薫くんの目を見つめることしかできない。
「モア……」
まるで今のわたしの中にモアを見ているようだった。
「えっ?」
「あっ、ごめん。モアのこと話してたら百彩ちゃんがモアに見えてきちゃって」
胸が締めつけられる。
「……いやだ、何言ってるの? わたし、猫じゃないよ」
笑ってみせた。気づかれるわけがないとわかっていても、心臓を掴まれたような苦しさと、ハニーラテを飲んだときのような、甘い心地よさが混じり合った複雑な気持ちだった。
「そーだよね? モアと百彩、名前が一緒なだけだよね?」
「うん、そーだよ」
絽薫くん、わたしがモアだよ。
そう言いたかった。でも、何も伝えられない。下唇を噛み、見つめるしかなかった。
わたしがいなくなった後、みんなはこれまでと変わらずに生きていく。わたしは少しでもみんなの心に何か残せたのだろうか? わたしの心には焼きついている。ほんの数ヶ月だったけれど、ここで生きた毎日を、最高の人生だったと思う。
もし、みんなのように赤ちゃんとして生まれて、幼稚園、小学生、中学生、そして、高校生だったらこんなこと思わなかったのかもしれない。でも、絽薫くんと共に歩むことも、みんなとこれから起こるさまざまなできごとを、一緒に笑って泣いて、励まし合ったり、抱きしめたり、友達として関係を築いていけた。
わたしは生まれ変わりたい。この場所では無理だとしても、人として生きてみたい。
笹井絽薫が好き、三咲凛花、新座明歩、福居昇流、坂戸輝紀、山吹原高校、この街、そしてパパ、ママが好き。
忘れたくない。
離れたくない。
ここにいたい。
絡まったあやとりの毛糸のように、心がうまく解けない。引っ張れば引っ張るほど、硬く結ばれていくように感じた。
「そろそろ帰る?」
「うん」
「行こ」
立ち上がった絽薫くんが手を差し伸べてくれた。
「うん」
笑顔で手を掴んだつもりだった。
「えっ? どーしたの?」
「んっ?」
何を言っているのかわからなかった。驚いた表情だったものが、心配する表情へと変わった。絽薫くんは手を握ったまま座り直した。
「俺、なんか変なこと言った?」
「言ってないよ。どー……?」
聞かなくてもすぐにその理由がわかった。頬を伝う温かさがゆっくりと腕に落ちた。目尻を触れると涙だった。
「なんでかな? フフッ、ごめんね。何でもないんだよ。何でもないのに……」
言い訳をするように『何でもない』と言おうとすると涙が止まらなくなった。
「百彩ちゃん」
優しく抱きしめてくれた。大きくて温かくて、絡まった心が解けていくようだった。余計に涙が溢れてきた。
「ごめん、俺、何て言ったらわかんなくて。情けなくてホントごめん。でも、気の済むまで泣いていいから。ずっと抱きしめてるから、……嫌じゃなかったらだけど」
「いやじゃない、いやじゃないよ」
言葉なんていらなかった。ただ、抱きしめてくれるだけでいい。絽薫くんを、絽薫くんの温度を、絽薫くんの匂いを、絽薫くんの息遣いを直に感じられる。
一〇分、一五分どれだけこうしていたかわからない。涙が止まり、落ち着いた。絽薫くんの胸から離れ、目を見つめた。
「ありがと」
「うん」
横を向き座り直した。
「ごめんね、急に」
「ううん、俺いつでも側にいるから。辛いとき、寂しいときずっと隣にいるから」
「うん、嬉しい。ずっと側にいて」
また涙が溢れそうになるのを抑えた。深呼吸してピョンっと立ち上がった。笑顔で絽薫くんを見た。
「行こっ」
手を繋ぐために絽薫くんの前に右手を出した。
「うん」
当たり前のようだった。いつも手を繋いでいるかのように自然な雰囲気だった。
歩く横顔がたくましかった。
きっと大丈夫。わたしことを忘れられる。
何でもないこの時間が大切で、必要で、かけがえのないもので、何にも変えることなんてできないんだと、そんな思いが心の奥まで染みてきた。
青、水色、白、オレンジ色、茜、紫、紺、空の見せるアートのようにひとつも同じものなんてない。眩しくて煌めいて、複雑で、ときには厄介で、でも、すべての色、さまざまな形があるからこそ輝いている。
わたしはそんなひとりになれていたのかな?
人として歩いていたのかな?
「送ってくれてありがと」
「うん、また。ROWするね」
「うん、わたしも」
「じゃあね」
「バイバイ」
絽薫くん、まだ早いけど先に言うね。当日は言えそうにないから。
「さよなら」
聞こえていなくても言っておきたかった。自分の中でのケジメとして。
また、頬に涙が伝ってきた。自分はこんなにも泣き虫なんだと今更、知ることもできた。
絽薫くんの後ろ姿を見ていた。本当に大きいなと思った。あのときはまだ小学生だったけれど、何も変わらない絽薫くんなんだと、嬉しかった。
神様こんな経験をさせてくれて、本当にありがとうございます。
夏が終わるまでのあと少し、葵百彩として精一杯生きていきます。
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