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第三章 心の音色、彩る季節
365日、ずっと一緒にいたかった
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「おはようございます!」
日が昇れば、蝉の合唱が聞こえ、突き刺すような日差しがすぐに追いかけてくる。遠くの青空にはソフトクリームような雲が並び、スプーンで掬えるなら、食べてしまいたいくらい。そんな夏の昼前にカラオケにやってきた。と言っても、カラオケをするためではなく、文化祭に向けて、何をするのか話し合いをするために、二年生六人、一年生一〇人が集まった。
「誠に勝手ながら進行を努めさせていただくのは、福居と」
「新座です」
「はい、夏休みも終盤ですが、みなさま夏休みの宿題はお済みでしょうか? まだやり残しているのであれば早急に頑張っていただきたい次第でございます」
「誰だよ!」
福居昇流のふざけた司会に笹井絽薫が早速ツッコんだ。
「誰だよ? 私はこの私がわからぬと……」
「はいはいはい、茶番はいいから!」
新座明歩が被せてツッコミを入れる。
「え~、失礼いたしました。さあ! 改めまして、今日は何をしに来たかというと、もちろんカラオケはやりましょう! とその前に、文化祭をどうするか決めようと思います!」
「既成にするのか、創作にするのか、どういうものをやりたいかなど、案があれば挙手してください」
…………。
誰も手を上げずに二分がたった。
「誰もいないなら、うちが脚本書いてもいい?」
横目で周りを見ながら、意を結したように明歩が言った。
「新座しかいないかな? ほかに書きたいってやつはいない? 決定しちゃうよ?」
「はい」
絽薫くんがいつもの少し砕けた雰囲気ではなく、冷静でとても落ち着いていた。私は見たことないけれど、これがサッカー部でキャプテンをしていたときの表情に近いのかなと思った。
「どーしたロカ男」
「いや、俺が脚本書きたいとかじゃないんだけど、ただ、一年はそーゆー話ししてないの? って」
「まあ、そーだな」
「ゆきちは書きたいんじゃなかったの? 前言ってたよね?」
「ぼくはやりたいですけど、まだ自信なくて、どーしよっかなって」
県大会のとき、明歩とわたしは脚本講座を受講していた。そこに一緒にいたのがゆきちこと布久澤柚木弥だった。
「自信なくてもとりあえず書いてみなよ。まあ、俺が偉そうに言える立場じゃないんだけどさ」
「ゆきちどーする?」
「うーん……」
「とりあえず使うか使わないかはどーでもいいじゃん。書いてみることが大事なんだから」
「ゆきっちゃん、うちもそー思うよ」
「……じゃあ、はい。書いてみます」
「よし! わかんないことあれば新座や福居、それに先輩に聞けばいいよ。完璧なんて人それぞれなんだから、初めは思った通り、ねっ?」
「はい」
「ロカ男さすがエースだけはあるな」
「はっ? のせんなよ。照れるし」
頬がほんのり赤くなり、誤魔化すように髪をいじっている。いつもの絽薫くんらしくて自然と笑顔になってしまう。
どんなストーリーにするのか、いくつか案を出し合った。初めから白紙の状態は難しいと言うことで、季節はいつにするのか、登場人物の設定など、パズルを埋めるかのように繋ぎ合わせていった。やっていて楽しかった。連想ゲームのように想像が膨らんでいき、そこでピックアップされた出来事にゆきちくんが色をつけていく。
わたしもやれたらよかったのにな、そんな風に思ってしまう。
「あっ、そうだ百彩ちゃんはいいの? いつか書きたいって」
心を読まれてしまったよう。勘がいいというか、察するというのか、わたしのことを気にかけてくれいているんだと思う。ものすごく嬉しいし、ありがたい、でも——。
「えっ? わたしは……」
「姫もお書きになると言うなら賛成しますよ」
「もっちゃん、うちと講習にも行ったし、書いてみてもいいと思うよ」
「うん、でも今回はゆきちくんのを見てみたいな。わたしはその後の、合発に応募しようかな?」
「葵先輩がどんなの書くのか楽しみっすね」
「葵先輩ならラブストーリーとか、メルヘンなのとか見てみたいかもです」
「うん、考えてみるね」
そうは言ったものの、わたしにはもうそんな時間はない。絽薫くんはたまに、貧血みたいな症状はあるけれど、それ以外は問題なさそうだし、そろそろさよならをしなきゃいけないときだから。
☆ ☆ ☆
この人は……笹井絽薫。あの日わたしを救ってくれた人、どうしてあなたが事故に遭わなきゃいけないの?
梅雨の晴れ間、肌に触れる風が柔らかくて気持ちがいい。何もしなくても日差しを浴びれば、足取りが軽くなりそう。そんな誰もが笑顔になるような日に、起きてしまった。
周りには子どもの泣き声と、道端で子どもを抱きしめている母親が、呆然と立ち尽くしていた。事故を起こしてしまったトラック運転手は、笹井絽薫に大丈夫かと声をかけている。
「ちくしょー、携帯が壊れちまった。姉ちゃん、携帯貸してくれないか? 救急車呼ぶから」
「えっ?」
「持ってないのか?」
焦りと怒りだけじゃない、怖くて怯えている。悔しさや虚しさがこの人のしわくちゃな顔から伝わってくる。
「持ってます、はい」
救急車を呼んだところで、意味があるのだろうか? もう息も絶えそうで、心臓のかなり弱々しくてほとんど伝わってこない。耳を澄ましても笹井絽薫の生きる音は周りにかき消されそうだった。
野次馬が集まり始めてきた。これ以上このままにしておくわけにはいかない。わたしの力だけでは制御が効かなくなる。
幼い頃を思い出した。笹井絽薫に助けてもらい、初めて生きていることが嬉しくなった。ほんの少しの時間だったけれど、それがわたしに取ってはとても幸せだった。
あの日ゴミ置き場で見つけてもらわなければ、きっとすぐに死んでしまっていた。最後の願いが叶ったと思った。青い網のシートを取り払われ、優しく温かい腕で抱きしめられ、不安で迷いしかなかった心に、眩しい光が射したようだった。
-- -- --
「モアちゃん、ここでちょっと待っててね」
シャワーを終えて、食べ物をあげようとキッチンにきた。ダイニングテーブルの上にちょこんと置かれたモア、初めて見るものばかりでキョロキョロと顔を動かしていた。絽薫はキッチンに行き冷蔵庫から牛乳を取り出した。
「ろか何やっての?」
「モアちゃんに牛乳あげようと思って」
「ネコってそのまま牛乳ダメじゃない?」
「そーなの? じゃあどーしよー?」
「お湯でちょっと薄めたら? 冷たいのよりいいでしょ?」
バタンッとダイニングのドアが開く音がした。
「おかはーん、おちゃのみたい」
目を擦りながら入ってきたのは絽薫の弟、磨都だ。まだ幼稚園の年長でお兄ちゃん子なところがかわいい。さっきまで部屋で遊んでいたはずが、いつのまにか寝てしまっていたようだ。
母親からお茶の入ったコップを受け取り、ダイニングテーブルに置いた。磨都専用の高さのある椅子によじ登り座ってコップを手に取ろうとした瞬間、何かの異変に気づいた。
「あっ! ねこちゃん!」
目の前にまん丸な瞳を輝かせ、ふかふかな毛並みの愛らしい子猫がいた。あまりの大きい声にびっくりしてしまったのか、モアがテーブルから飛び降り逃げ回った。
「あっ、待って、ねこちゃん。こっちおいで~」
テーブルの下をくぐり抜けながら、小さい体で子猫に飛びついた。
「わっ、くすぐったい」
見ると、磨都の顔をモアがぺろぺろと舐めていた。絽薫は安堵した。このまま逃げてどこかへ行ってしまうかもと不安だったからだ。
ミルクをあげて、母親が油と塩気を抜くために、湯掻いてくれたツナ缶を食べさせた。よっぽどお腹が空いていたのかぺろっと平らげてしまった。
絽薫も磨都もモアにメロメロだ。絽薫はもちろん、磨都もこの子猫を飼うものだと思っていた。それがピンポーンと鳴らされた玄関チャイムの音で、呆気なく現実に引き戻された。
「おばあちゃん帰ってきちゃった。はい絽薫」
母親にタオルの敷かれたバスケットを手渡された。
「何?」
「ちゃんといい飼い主さん見つけてくるんだよ。うちじゃ買えないからね」
「えっ? うちで買うんじゃないの?」
「おばあちゃんがアレルギーだって言ってるでしょ?」
「ねこちゃんいなくなっちゃうの?」
「そうだよ。ねこちゃんはいらないんだって」
「ぼく、ねこちゃんともっと遊びたかった」
そう言うと、磨都は涙を頬からポロポロと垂らしながら泣き出した。
「ちょっとろか変なこと言わないの!」
「……なんでいっつもいっつもおばあちゃんがって、おばあちゃんに何でも許してもらわないといけないの? お父さんとお母さんはもう大人でしょ? だったら関係ないじゃん!」
「聞き分けのないこと言わないの!」
…………。
「もういい!」
そういうと、絽薫はモアを連れて勢いよくリビングを飛び出し、裏口から出ていってしまった。
「ろか……」
母親の呼び止める声も、空気に溶けていくようだった。
-- -- --
あなたはずっとわたしが死んだことを自分のせいだと思い、後悔している。お墓を作り、毎年お線香をあげて、わたしのことを思ってくれている。でも、あの日死んでしまったのはあなたのせいじゃない。バケツが雨で滑り落ちて溺れることはなかったし、体が冷えて衰弱したわけでもない。言うならばそれが運命だったってことだけ。
ろくに食べるものも見つけられず、水すらも口にできていなかった。命の灯火はすでに消えかかっていた。
シャワーをして綺麗になり、ミルクを飲んでツナを食べさせてもらい、本当に満足だった。今まで感じたことのない、幸福感がわたしを満たしていた。それで充分だった。少しの間灯火の輝きが強くなったけれど、それを維持できる体力は残っていなかった。
わたしも後悔していた。
わたしのせいであなたは心に傷を負ってしまった。
だから今度は……今は、わたしがあなたを助ける番。
あの日わたしは天国に旅立った。そこでわたしはお願いした。生まれ変わりの順番を待つよりも感謝の気持ちを伝えたい、天使になって人の役に立ちたい。それがせめてもの笹井絽薫への恩返しになるのなら。
神様は天使たちにわたしのことを話してくれた、色々教えてもらいなさいと。わたしは愛のキューピットとして恋人たちを、赤い糸で結ぶ役目を任された。
七年が経ち、わたしは人のことをもっと深く理解するための研修として、三ヶ月間、人として地上で暮らすこととなった。人間のように出世するためや、地位を得るためではない。先輩の天使たちも通ってきた道で、経験するべきことだからだ。
神の導き出した夫婦の下で、そのふたりの子どもとして生活を共にする。猫だったわたしが、人として暮らすなんて考えられなかった。でも、この七年間ずっと人のことを見てきた。だから、嬉しかった。何もなかったわたしが、天使として受け入れられているんだと。
あなたを見つけたのは、ちょうど初日の夕方だった。
わたしはあなたを助けたかった。
わたしは今のわたしにできることをしようと思った。
神様や天使に着いていろいろ学んできた。きっと今がその力を示すときなんだ。
笹井絽薫、わたしの灯火をあなたに渡します。天使の灯火は人よりも強いからきっとちゃんと根付くから。
ふたりを中心に白い光に包まれていく。この空間だけが瞬時に巻き戻されていくように、事故がなくなっていく。そして、少し手を加えられて再び動き出した。
わたしは笹井絽薫の手を握り、花陽公園の向かいのT字路に立っていた。
「大丈夫だよ」
そう一言伝えてその場を去った。
☆ ☆ ☆
「ああ、もう喉潰れるわ」
「ふくすけマイク離さなかったね」
「俺もだけど、新座だってほとんど歌ってたよな?」
「うちはハモリ担当だからね」
「ふたりとも歌うますぎだから」
「ロカ男は爽やかボイス狙いだろ?」
「何も狙ってないから」
「もっちゃんはすっごい美声で聞き惚れちゃった」
話し合いが終わった後、カラオケを楽しんだ。
開店と同時に入店して、話し合いは三時間ほどで終わった。食事を頼んでそのあと一七時までずっと歌っていた。
エアコンを効かせていたせいか、日が少し暮れ掛けた夕方でも、暑さが張り付くように感じる。夕焼けのオレンジ色が、空に街に浸透していく。この時間にしかない景色、汗ばんでいても見逃したくない。
「明後日寝坊しないでね~」
地下鉄の中、方向が違う絽薫くんとわたしは乗り換えのために途中下車した。冷房が強くて少し寒いくらいだった。反射的に二の腕をさすった。
「大丈夫?」
「うん」
こんな些細なことでも気にしてくれている。そう思うと嬉しくなる。
明後日、わたしの誕生日会を開いてくれるということで、明歩が絽薫くんに注意をしていた。そのとき、絽薫くんの耳元で何かを言っていた。何を言っているんだろうと少し気になった。冷えていた身体が一瞬、火が灯ったかのように熱くなった。もしかして、これがヤキモチなのかと考えてしまう。絽薫くんを独占したいわけではないけれど、胸の中を何かが締め付けてくるようで苦しい。
「またね~」
何も悟られまいと、笑顔で見送った。それはよかったのに、絽薫くんを見れない。わたしって面倒くさいのかな? と迷う心があった。
「どーしたの? 下に何か落ちてる?」
「えっ? 何も……ないよ」
下を向いていた。そのことすら意識していなかった。
「キャッ」
「危ない!」
腕を引っ張られた。抱き寄せられるように身体が重なり、目が合うと見つめてしまった。たった五秒ほどのことでも、胸が苦しくて溺れてしまうくらいの感覚があった。
「あっ、ごめん」
絽薫くんは、照れくささをごまかすかのように、頭をかいていた。
「こっちこそ、ありがと」
ちょうどわたしの立っていた場所に中年男性が勢いよく歩いてきた。周りを見ていなかったのか、次々と前にいる人たちを押し除けていた。ボーッとしていたわたしも悪いのかもしれないけれど、すぐに気づくことができなかった。絽薫くんが一秒でも遅かったら、きっと床に倒れていたかもしれない。
隣で寄り添うって、こういうことなのかな? と思った。相手のことを気にかけて、気遣って、優しさで溢れている。
あと一週間ほどしか過ごせる時間がない。長かったようであっという間だった。
もっと、もっと一緒にいたかった。
三六五日、ずっと一緒にいたかった。
日が昇れば、蝉の合唱が聞こえ、突き刺すような日差しがすぐに追いかけてくる。遠くの青空にはソフトクリームような雲が並び、スプーンで掬えるなら、食べてしまいたいくらい。そんな夏の昼前にカラオケにやってきた。と言っても、カラオケをするためではなく、文化祭に向けて、何をするのか話し合いをするために、二年生六人、一年生一〇人が集まった。
「誠に勝手ながら進行を努めさせていただくのは、福居と」
「新座です」
「はい、夏休みも終盤ですが、みなさま夏休みの宿題はお済みでしょうか? まだやり残しているのであれば早急に頑張っていただきたい次第でございます」
「誰だよ!」
福居昇流のふざけた司会に笹井絽薫が早速ツッコんだ。
「誰だよ? 私はこの私がわからぬと……」
「はいはいはい、茶番はいいから!」
新座明歩が被せてツッコミを入れる。
「え~、失礼いたしました。さあ! 改めまして、今日は何をしに来たかというと、もちろんカラオケはやりましょう! とその前に、文化祭をどうするか決めようと思います!」
「既成にするのか、創作にするのか、どういうものをやりたいかなど、案があれば挙手してください」
…………。
誰も手を上げずに二分がたった。
「誰もいないなら、うちが脚本書いてもいい?」
横目で周りを見ながら、意を結したように明歩が言った。
「新座しかいないかな? ほかに書きたいってやつはいない? 決定しちゃうよ?」
「はい」
絽薫くんがいつもの少し砕けた雰囲気ではなく、冷静でとても落ち着いていた。私は見たことないけれど、これがサッカー部でキャプテンをしていたときの表情に近いのかなと思った。
「どーしたロカ男」
「いや、俺が脚本書きたいとかじゃないんだけど、ただ、一年はそーゆー話ししてないの? って」
「まあ、そーだな」
「ゆきちは書きたいんじゃなかったの? 前言ってたよね?」
「ぼくはやりたいですけど、まだ自信なくて、どーしよっかなって」
県大会のとき、明歩とわたしは脚本講座を受講していた。そこに一緒にいたのがゆきちこと布久澤柚木弥だった。
「自信なくてもとりあえず書いてみなよ。まあ、俺が偉そうに言える立場じゃないんだけどさ」
「ゆきちどーする?」
「うーん……」
「とりあえず使うか使わないかはどーでもいいじゃん。書いてみることが大事なんだから」
「ゆきっちゃん、うちもそー思うよ」
「……じゃあ、はい。書いてみます」
「よし! わかんないことあれば新座や福居、それに先輩に聞けばいいよ。完璧なんて人それぞれなんだから、初めは思った通り、ねっ?」
「はい」
「ロカ男さすがエースだけはあるな」
「はっ? のせんなよ。照れるし」
頬がほんのり赤くなり、誤魔化すように髪をいじっている。いつもの絽薫くんらしくて自然と笑顔になってしまう。
どんなストーリーにするのか、いくつか案を出し合った。初めから白紙の状態は難しいと言うことで、季節はいつにするのか、登場人物の設定など、パズルを埋めるかのように繋ぎ合わせていった。やっていて楽しかった。連想ゲームのように想像が膨らんでいき、そこでピックアップされた出来事にゆきちくんが色をつけていく。
わたしもやれたらよかったのにな、そんな風に思ってしまう。
「あっ、そうだ百彩ちゃんはいいの? いつか書きたいって」
心を読まれてしまったよう。勘がいいというか、察するというのか、わたしのことを気にかけてくれいているんだと思う。ものすごく嬉しいし、ありがたい、でも——。
「えっ? わたしは……」
「姫もお書きになると言うなら賛成しますよ」
「もっちゃん、うちと講習にも行ったし、書いてみてもいいと思うよ」
「うん、でも今回はゆきちくんのを見てみたいな。わたしはその後の、合発に応募しようかな?」
「葵先輩がどんなの書くのか楽しみっすね」
「葵先輩ならラブストーリーとか、メルヘンなのとか見てみたいかもです」
「うん、考えてみるね」
そうは言ったものの、わたしにはもうそんな時間はない。絽薫くんはたまに、貧血みたいな症状はあるけれど、それ以外は問題なさそうだし、そろそろさよならをしなきゃいけないときだから。
☆ ☆ ☆
この人は……笹井絽薫。あの日わたしを救ってくれた人、どうしてあなたが事故に遭わなきゃいけないの?
梅雨の晴れ間、肌に触れる風が柔らかくて気持ちがいい。何もしなくても日差しを浴びれば、足取りが軽くなりそう。そんな誰もが笑顔になるような日に、起きてしまった。
周りには子どもの泣き声と、道端で子どもを抱きしめている母親が、呆然と立ち尽くしていた。事故を起こしてしまったトラック運転手は、笹井絽薫に大丈夫かと声をかけている。
「ちくしょー、携帯が壊れちまった。姉ちゃん、携帯貸してくれないか? 救急車呼ぶから」
「えっ?」
「持ってないのか?」
焦りと怒りだけじゃない、怖くて怯えている。悔しさや虚しさがこの人のしわくちゃな顔から伝わってくる。
「持ってます、はい」
救急車を呼んだところで、意味があるのだろうか? もう息も絶えそうで、心臓のかなり弱々しくてほとんど伝わってこない。耳を澄ましても笹井絽薫の生きる音は周りにかき消されそうだった。
野次馬が集まり始めてきた。これ以上このままにしておくわけにはいかない。わたしの力だけでは制御が効かなくなる。
幼い頃を思い出した。笹井絽薫に助けてもらい、初めて生きていることが嬉しくなった。ほんの少しの時間だったけれど、それがわたしに取ってはとても幸せだった。
あの日ゴミ置き場で見つけてもらわなければ、きっとすぐに死んでしまっていた。最後の願いが叶ったと思った。青い網のシートを取り払われ、優しく温かい腕で抱きしめられ、不安で迷いしかなかった心に、眩しい光が射したようだった。
-- -- --
「モアちゃん、ここでちょっと待っててね」
シャワーを終えて、食べ物をあげようとキッチンにきた。ダイニングテーブルの上にちょこんと置かれたモア、初めて見るものばかりでキョロキョロと顔を動かしていた。絽薫はキッチンに行き冷蔵庫から牛乳を取り出した。
「ろか何やっての?」
「モアちゃんに牛乳あげようと思って」
「ネコってそのまま牛乳ダメじゃない?」
「そーなの? じゃあどーしよー?」
「お湯でちょっと薄めたら? 冷たいのよりいいでしょ?」
バタンッとダイニングのドアが開く音がした。
「おかはーん、おちゃのみたい」
目を擦りながら入ってきたのは絽薫の弟、磨都だ。まだ幼稚園の年長でお兄ちゃん子なところがかわいい。さっきまで部屋で遊んでいたはずが、いつのまにか寝てしまっていたようだ。
母親からお茶の入ったコップを受け取り、ダイニングテーブルに置いた。磨都専用の高さのある椅子によじ登り座ってコップを手に取ろうとした瞬間、何かの異変に気づいた。
「あっ! ねこちゃん!」
目の前にまん丸な瞳を輝かせ、ふかふかな毛並みの愛らしい子猫がいた。あまりの大きい声にびっくりしてしまったのか、モアがテーブルから飛び降り逃げ回った。
「あっ、待って、ねこちゃん。こっちおいで~」
テーブルの下をくぐり抜けながら、小さい体で子猫に飛びついた。
「わっ、くすぐったい」
見ると、磨都の顔をモアがぺろぺろと舐めていた。絽薫は安堵した。このまま逃げてどこかへ行ってしまうかもと不安だったからだ。
ミルクをあげて、母親が油と塩気を抜くために、湯掻いてくれたツナ缶を食べさせた。よっぽどお腹が空いていたのかぺろっと平らげてしまった。
絽薫も磨都もモアにメロメロだ。絽薫はもちろん、磨都もこの子猫を飼うものだと思っていた。それがピンポーンと鳴らされた玄関チャイムの音で、呆気なく現実に引き戻された。
「おばあちゃん帰ってきちゃった。はい絽薫」
母親にタオルの敷かれたバスケットを手渡された。
「何?」
「ちゃんといい飼い主さん見つけてくるんだよ。うちじゃ買えないからね」
「えっ? うちで買うんじゃないの?」
「おばあちゃんがアレルギーだって言ってるでしょ?」
「ねこちゃんいなくなっちゃうの?」
「そうだよ。ねこちゃんはいらないんだって」
「ぼく、ねこちゃんともっと遊びたかった」
そう言うと、磨都は涙を頬からポロポロと垂らしながら泣き出した。
「ちょっとろか変なこと言わないの!」
「……なんでいっつもいっつもおばあちゃんがって、おばあちゃんに何でも許してもらわないといけないの? お父さんとお母さんはもう大人でしょ? だったら関係ないじゃん!」
「聞き分けのないこと言わないの!」
…………。
「もういい!」
そういうと、絽薫はモアを連れて勢いよくリビングを飛び出し、裏口から出ていってしまった。
「ろか……」
母親の呼び止める声も、空気に溶けていくようだった。
-- -- --
あなたはずっとわたしが死んだことを自分のせいだと思い、後悔している。お墓を作り、毎年お線香をあげて、わたしのことを思ってくれている。でも、あの日死んでしまったのはあなたのせいじゃない。バケツが雨で滑り落ちて溺れることはなかったし、体が冷えて衰弱したわけでもない。言うならばそれが運命だったってことだけ。
ろくに食べるものも見つけられず、水すらも口にできていなかった。命の灯火はすでに消えかかっていた。
シャワーをして綺麗になり、ミルクを飲んでツナを食べさせてもらい、本当に満足だった。今まで感じたことのない、幸福感がわたしを満たしていた。それで充分だった。少しの間灯火の輝きが強くなったけれど、それを維持できる体力は残っていなかった。
わたしも後悔していた。
わたしのせいであなたは心に傷を負ってしまった。
だから今度は……今は、わたしがあなたを助ける番。
あの日わたしは天国に旅立った。そこでわたしはお願いした。生まれ変わりの順番を待つよりも感謝の気持ちを伝えたい、天使になって人の役に立ちたい。それがせめてもの笹井絽薫への恩返しになるのなら。
神様は天使たちにわたしのことを話してくれた、色々教えてもらいなさいと。わたしは愛のキューピットとして恋人たちを、赤い糸で結ぶ役目を任された。
七年が経ち、わたしは人のことをもっと深く理解するための研修として、三ヶ月間、人として地上で暮らすこととなった。人間のように出世するためや、地位を得るためではない。先輩の天使たちも通ってきた道で、経験するべきことだからだ。
神の導き出した夫婦の下で、そのふたりの子どもとして生活を共にする。猫だったわたしが、人として暮らすなんて考えられなかった。でも、この七年間ずっと人のことを見てきた。だから、嬉しかった。何もなかったわたしが、天使として受け入れられているんだと。
あなたを見つけたのは、ちょうど初日の夕方だった。
わたしはあなたを助けたかった。
わたしは今のわたしにできることをしようと思った。
神様や天使に着いていろいろ学んできた。きっと今がその力を示すときなんだ。
笹井絽薫、わたしの灯火をあなたに渡します。天使の灯火は人よりも強いからきっとちゃんと根付くから。
ふたりを中心に白い光に包まれていく。この空間だけが瞬時に巻き戻されていくように、事故がなくなっていく。そして、少し手を加えられて再び動き出した。
わたしは笹井絽薫の手を握り、花陽公園の向かいのT字路に立っていた。
「大丈夫だよ」
そう一言伝えてその場を去った。
☆ ☆ ☆
「ああ、もう喉潰れるわ」
「ふくすけマイク離さなかったね」
「俺もだけど、新座だってほとんど歌ってたよな?」
「うちはハモリ担当だからね」
「ふたりとも歌うますぎだから」
「ロカ男は爽やかボイス狙いだろ?」
「何も狙ってないから」
「もっちゃんはすっごい美声で聞き惚れちゃった」
話し合いが終わった後、カラオケを楽しんだ。
開店と同時に入店して、話し合いは三時間ほどで終わった。食事を頼んでそのあと一七時までずっと歌っていた。
エアコンを効かせていたせいか、日が少し暮れ掛けた夕方でも、暑さが張り付くように感じる。夕焼けのオレンジ色が、空に街に浸透していく。この時間にしかない景色、汗ばんでいても見逃したくない。
「明後日寝坊しないでね~」
地下鉄の中、方向が違う絽薫くんとわたしは乗り換えのために途中下車した。冷房が強くて少し寒いくらいだった。反射的に二の腕をさすった。
「大丈夫?」
「うん」
こんな些細なことでも気にしてくれている。そう思うと嬉しくなる。
明後日、わたしの誕生日会を開いてくれるということで、明歩が絽薫くんに注意をしていた。そのとき、絽薫くんの耳元で何かを言っていた。何を言っているんだろうと少し気になった。冷えていた身体が一瞬、火が灯ったかのように熱くなった。もしかして、これがヤキモチなのかと考えてしまう。絽薫くんを独占したいわけではないけれど、胸の中を何かが締め付けてくるようで苦しい。
「またね~」
何も悟られまいと、笑顔で見送った。それはよかったのに、絽薫くんを見れない。わたしって面倒くさいのかな? と迷う心があった。
「どーしたの? 下に何か落ちてる?」
「えっ? 何も……ないよ」
下を向いていた。そのことすら意識していなかった。
「キャッ」
「危ない!」
腕を引っ張られた。抱き寄せられるように身体が重なり、目が合うと見つめてしまった。たった五秒ほどのことでも、胸が苦しくて溺れてしまうくらいの感覚があった。
「あっ、ごめん」
絽薫くんは、照れくささをごまかすかのように、頭をかいていた。
「こっちこそ、ありがと」
ちょうどわたしの立っていた場所に中年男性が勢いよく歩いてきた。周りを見ていなかったのか、次々と前にいる人たちを押し除けていた。ボーッとしていたわたしも悪いのかもしれないけれど、すぐに気づくことができなかった。絽薫くんが一秒でも遅かったら、きっと床に倒れていたかもしれない。
隣で寄り添うって、こういうことなのかな? と思った。相手のことを気にかけて、気遣って、優しさで溢れている。
あと一週間ほどしか過ごせる時間がない。長かったようであっという間だった。
もっと、もっと一緒にいたかった。
三六五日、ずっと一緒にいたかった。
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