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宵闇 2(司)
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いつまでも隠しておけると思っていたわけではない。
まさか悪意ある第三者が暴露するとは思っていなかったが、誰の口から話すにしても、どう話せば傷が少なくて済むのか、今まで何度も考えた。
でも結局答えは見つからなかった。
「う゛ぅぅ…おとう…」
数子は不明瞭な声を漏らしながら嗚咽し始めた。
「数子」
唇と体が同時に反応し、次の瞬間には壊れそうな温もりを抱き寄せていた。
嘘をついていた事、最悪の形で知らせた事、先生の病気に対して何もできない事、色々な思いが綯い交ぜになり、ただ「ごめん」と何度も繰り返しながら、心が散らばってしまわないように抱きしめた。
ひとしきり泣いた後、数子は少し落ち着きを取り戻し、俺の胸にそっと手をついて二人の間に間隔をとった。
宵闇よりも暗い瞳で俺を見つめ、「お父さんはどうなるの?」と。
「それは……」
一瞬言葉に詰まった俺に、それは? と不安そうに催促する。
「肝臓に転移を伴っているから、何もしなければ三ケ月から半年…だと思う」
一人では受け止めきれないほど残酷な言葉だったに違いない。
数子は小さく息を呑み表情を歪めた。
「手術すれば助かるの?」
「ほとんどの医者は、手術は出来ないと、抗癌剤治療を勧めると思う」
話しながら、胸がギリギリと締め付けられるように痛む。
「……ただ抗癌剤が上手くいったとしても、命を数か月延ばせるだけだと思う」
刹那、数子の瞳に欠片ほど残っていた光は消えた。
彼女が「そんな」と悲しげに呟いた時、ひときわ強い風が通り抜け、風に運ばれた雲が、冴え冴えとした歪な月を覆い隠した。
まるで二人の心を映し出すかのように、周りの景色は一層深い闇にのみ込まれた。
湿った闇は濃度を増しながら、今この瞬間も数子の心を浸食し続けている。
俺は、涙の膜に覆われた洞穴のような瞳を見つめ、「でもね」と静かに口にした。
「話が矛盾するようだけど、手術ができないわけじゃないんだ」
「え?」
「ごくごく稀ではあるけれど、手術をして命を繋いだ人がいる」
その瞬間、目の前の瞳に微かな息吹が宿った。
ほっとする半面、期待を抱かせてしまった事に、チリっと胸が痛んだ。
「でもそれは、同じような病状の人が数え切れないくらいいる中で、わずかに一人、二人の話なんだ。手術で死ぬ人もいるくらいの大手術になる。寝たきりになる人や、命を縮める人も少なくない。その僅かな可能性にかけるかどうかは、先生次第なんだ」
数秒間の重苦しい沈黙が流れた。
「お父さんは、どうしたいって言ってるの?」
「うん……、実は、数子のキスやプロポーズの現場を見たのは先生なんだ」
やっぱり、と口にしながらも、目を見開いて驚きを隠せない数子に、思わず微笑した。
「それで先生は数子の幸せを願って、何食わぬ顔でロンドンに送り出したいからって、何もしないことを選ぼうとされてた」
「そんな……」
「でもロンドンの話は白紙に戻ったし、今の先生の気持ちは分からない。正式な返事は、守が明後日の外来で聞くことになってる」
また暫し沈黙が流れた。そして
「殆ど見込みのない手術なんて、やって欲しくない。でも僅かな希望も諦め切れない……。抗癌剤も何もしないって選択肢も、どれ選ぶにしても私が決める事じゃない、お父さんが決める事って分かってるけど…お父さんが死ぬなんていや……」
混乱を滲ませながら、精一杯の思いを口にする数子の瞼から、水晶のような涙がぽとりぽとりと零れ落ちる。
「家族なら当然の感情だよ。特に数子の場合は父一人娘一人だから尚更だと思う」
数子は少し気持ちが落ち着いたようで、ありがとう、と小さく言って視線を下げた。
彼女は時おりこんな風に、楚々と儚げな姿を見せる。
無自覚なのだろうが、俺はそのたびにあっけないくらい簡単に心を揺さぶられ、今も思わず抱き締めてしまいそうになった。
「数子、明日の夜までに出来るだけ気持ちを整理しておいて」
数子は、え? っと少し驚いたように顔を上げ、俺と視線を合わせた。
「明日家に伺った時に、先生の病気のことが数子に漏れて、結局俺から全部話したって言うよ。数子は素直な気持ちを先生に伝えれば良い」
彼女は何とも微妙な表情をした。
「どうした?」
数子は周りの景色と同調するかのように、どことなく寂しげにこう言った。
「私ね、最近不思議に思ってたの。なんでこの人私と付き合ってるんだろうって」
「え?」
「梨々花さんが言ってた。先生は、お父さんに恩を感じてるから私と付き合ってるんだって」
あいつ……
「ああそういう事かって、すごくストンと腑に落ちたの。寧ろ何で今まで気付かなかったんだろうって。だって先生どう見ても、お父さんのこと好きだもの」
待って、と言ったけれど数子はそれを手で制し、俺が弁解する隙すら与えてくれない。
「あのタイミングでプロポーズしてくれた訳も、お父さんが、あなたは私を愛していないって言った意味も漸く分かった。鈴田先生……色々ありがとうございました。もう私、大丈夫だから」
「それってどういうことだ?」
聞きたくないが、聞かずにはいられなかった。
「あなたとは別れるってこと」
背中に冷たいものが走り、一瞬で心臓が凍りついた。
「優しい気持ちには心から感謝してます。でもお父さんも、あなたを巻き込むのなんて嫌だろうし、私も誰かに守って貰わなきゃダメなほど弱くないから。佐藤先生や鈴田先生に迷惑がかからないように言い方を考えて、お父さんとは話し合うから。それじゃ」
最後の方は早口で、言い終わると同時に、数子は逃げるように駆けだした。
そんなのあるか!!
「数子待てよ」
まさか悪意ある第三者が暴露するとは思っていなかったが、誰の口から話すにしても、どう話せば傷が少なくて済むのか、今まで何度も考えた。
でも結局答えは見つからなかった。
「う゛ぅぅ…おとう…」
数子は不明瞭な声を漏らしながら嗚咽し始めた。
「数子」
唇と体が同時に反応し、次の瞬間には壊れそうな温もりを抱き寄せていた。
嘘をついていた事、最悪の形で知らせた事、先生の病気に対して何もできない事、色々な思いが綯い交ぜになり、ただ「ごめん」と何度も繰り返しながら、心が散らばってしまわないように抱きしめた。
ひとしきり泣いた後、数子は少し落ち着きを取り戻し、俺の胸にそっと手をついて二人の間に間隔をとった。
宵闇よりも暗い瞳で俺を見つめ、「お父さんはどうなるの?」と。
「それは……」
一瞬言葉に詰まった俺に、それは? と不安そうに催促する。
「肝臓に転移を伴っているから、何もしなければ三ケ月から半年…だと思う」
一人では受け止めきれないほど残酷な言葉だったに違いない。
数子は小さく息を呑み表情を歪めた。
「手術すれば助かるの?」
「ほとんどの医者は、手術は出来ないと、抗癌剤治療を勧めると思う」
話しながら、胸がギリギリと締め付けられるように痛む。
「……ただ抗癌剤が上手くいったとしても、命を数か月延ばせるだけだと思う」
刹那、数子の瞳に欠片ほど残っていた光は消えた。
彼女が「そんな」と悲しげに呟いた時、ひときわ強い風が通り抜け、風に運ばれた雲が、冴え冴えとした歪な月を覆い隠した。
まるで二人の心を映し出すかのように、周りの景色は一層深い闇にのみ込まれた。
湿った闇は濃度を増しながら、今この瞬間も数子の心を浸食し続けている。
俺は、涙の膜に覆われた洞穴のような瞳を見つめ、「でもね」と静かに口にした。
「話が矛盾するようだけど、手術ができないわけじゃないんだ」
「え?」
「ごくごく稀ではあるけれど、手術をして命を繋いだ人がいる」
その瞬間、目の前の瞳に微かな息吹が宿った。
ほっとする半面、期待を抱かせてしまった事に、チリっと胸が痛んだ。
「でもそれは、同じような病状の人が数え切れないくらいいる中で、わずかに一人、二人の話なんだ。手術で死ぬ人もいるくらいの大手術になる。寝たきりになる人や、命を縮める人も少なくない。その僅かな可能性にかけるかどうかは、先生次第なんだ」
数秒間の重苦しい沈黙が流れた。
「お父さんは、どうしたいって言ってるの?」
「うん……、実は、数子のキスやプロポーズの現場を見たのは先生なんだ」
やっぱり、と口にしながらも、目を見開いて驚きを隠せない数子に、思わず微笑した。
「それで先生は数子の幸せを願って、何食わぬ顔でロンドンに送り出したいからって、何もしないことを選ぼうとされてた」
「そんな……」
「でもロンドンの話は白紙に戻ったし、今の先生の気持ちは分からない。正式な返事は、守が明後日の外来で聞くことになってる」
また暫し沈黙が流れた。そして
「殆ど見込みのない手術なんて、やって欲しくない。でも僅かな希望も諦め切れない……。抗癌剤も何もしないって選択肢も、どれ選ぶにしても私が決める事じゃない、お父さんが決める事って分かってるけど…お父さんが死ぬなんていや……」
混乱を滲ませながら、精一杯の思いを口にする数子の瞼から、水晶のような涙がぽとりぽとりと零れ落ちる。
「家族なら当然の感情だよ。特に数子の場合は父一人娘一人だから尚更だと思う」
数子は少し気持ちが落ち着いたようで、ありがとう、と小さく言って視線を下げた。
彼女は時おりこんな風に、楚々と儚げな姿を見せる。
無自覚なのだろうが、俺はそのたびにあっけないくらい簡単に心を揺さぶられ、今も思わず抱き締めてしまいそうになった。
「数子、明日の夜までに出来るだけ気持ちを整理しておいて」
数子は、え? っと少し驚いたように顔を上げ、俺と視線を合わせた。
「明日家に伺った時に、先生の病気のことが数子に漏れて、結局俺から全部話したって言うよ。数子は素直な気持ちを先生に伝えれば良い」
彼女は何とも微妙な表情をした。
「どうした?」
数子は周りの景色と同調するかのように、どことなく寂しげにこう言った。
「私ね、最近不思議に思ってたの。なんでこの人私と付き合ってるんだろうって」
「え?」
「梨々花さんが言ってた。先生は、お父さんに恩を感じてるから私と付き合ってるんだって」
あいつ……
「ああそういう事かって、すごくストンと腑に落ちたの。寧ろ何で今まで気付かなかったんだろうって。だって先生どう見ても、お父さんのこと好きだもの」
待って、と言ったけれど数子はそれを手で制し、俺が弁解する隙すら与えてくれない。
「あのタイミングでプロポーズしてくれた訳も、お父さんが、あなたは私を愛していないって言った意味も漸く分かった。鈴田先生……色々ありがとうございました。もう私、大丈夫だから」
「それってどういうことだ?」
聞きたくないが、聞かずにはいられなかった。
「あなたとは別れるってこと」
背中に冷たいものが走り、一瞬で心臓が凍りついた。
「優しい気持ちには心から感謝してます。でもお父さんも、あなたを巻き込むのなんて嫌だろうし、私も誰かに守って貰わなきゃダメなほど弱くないから。佐藤先生や鈴田先生に迷惑がかからないように言い方を考えて、お父さんとは話し合うから。それじゃ」
最後の方は早口で、言い終わると同時に、数子は逃げるように駆けだした。
そんなのあるか!!
「数子待てよ」
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