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横浜デート 3(数子)

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イルカの水槽前は、大人が五人くらい座れる鑑賞用の横長ベンチが三つ置かれた広い空間だ。

展示スペースの入り口からぱっと見た感じでは、その場には二十人くらいの人がいて、倒れている男性らしき人の周りを心配そうに取り囲んでいる。
私は吸い寄せられるように男性の足元に駆け寄ったが、倒れていたのはさっきの双子ちゃんのお父さんだった。

床にうずくまり、胸を押さえて苦しんでいて、額には脂汗が浮かび、目を開ける事も、鈴田先生の問い掛けに答える事も出来ない様子に愕然とした。

奥さんはしゃがんで『ひろ君ひろ君』と必死に呼びかけている。

傍にいる子供達はショックで声が出ないのか、子供のものとは思えないほど硬い表情をして、今にも泣き出しそうな目で様子を見守っている。

さっきまで皆あんなに楽しそうにしていたのに、どうして……。

「ご主人、どうされたんですか?」

先生の質問に、奥さんは震える声で答えた。

「ふざけてこの子(息子)を抱っこしようとして、バランスを崩して転んだんです」

子供たち同様、奥さんも真っ青な顔色で泣きそうな表情をしている。
不安で不安で堪らないのだろう。

「分かりました。診察させて頂きますね」

先生は早口に言いながら旦那さんの頭を何度か触ったあと、シャツを捲り上げた。

次の瞬間、一気に表情が険しくなる。
右の脇腹が広い範囲で紫色になって腫れ上がっているのが、足元からでも容易に見て取れ、一部はへこんでいるようだ。
先生は両手で何かを探るように、脇の下からお腹まで旦那さんの体を触っていった。

「ご主人、右の脇腹から転びましたか?」

「あ……、ええと……」

奥さんは極度に緊張しているようで上手く記憶が辿れない様子だけれど、二十歳くらいの女の子が、あの……と声を上げた。

「ちらっとしか見てないんですけど、子供さんをかばって、抱きかかえたまま右側から転んだ感じに見えました」

先生は声を聞きながら、手首で脈をとったり首に指をあてたりしている。

先生の指が触れている首筋には、まるで蛇のような太い血管がくっきり浮かび上がっていて、良くない事がおこっている気がしてならなかった。

「…………だ」
ブツブツと言った病名は聞き取れなかったけれど、
その後の「一刻も早く処置をしないとまずい」という微かな呟きは、空気の中に沁み込んで、恐らくここにいる誰もが聞き取ったのでは無いだろうか。

どうか助かって欲しい……
そんな切実な願いが、この空間に溢れている。 

「ご主人はおそらく胸を強く打った為に肋骨と肺が傷ついて、緊張性気胸きんちょうせいききょうという状態を起こしていると思います」

「あの、それは?」

「肺から漏れ出した空気が胸の中に溜まって、肺を圧迫しています。心臓にも負担をかけているので、脈もやや弱くなっています」

先生の声や表情には気遣いが滲んでいるけれど、奥さんにとっては、にわかには受け入れがたい内容に違いない。
話が進むにつれその表情は、一層硬く不安そうに歪んでいった。

「空気を一刻も早く抜かないと、命に関わる可能性があります」

その瞬間、強い衝撃を受けたように、奥さんの目が見開かれる。

「そん…な」

たった一言零れ落ちた言葉には、不安や心痛、動揺が綯い交ぜになって滲んでいた。

ちょうどその時、双子の一人が堰を切ったように泣き始めた。
おそらくお父さんが転んだ時に、抱かれていた方の子だ。

「お…父さん……お父さん……」

切れ切れにそう口にしながら、肩を震わせしゃくり上げる姿に心が揺さぶられた。

二週間前に私自身が味わった叫び出したい程の不安がありありと蘇えり、胸が締め付けられる思いだ。
何とかしてあげたい……

「救急車はどれくらいで来れそうですか!?」

先生は空中に向けた視線を右から左へ走らせながら、早口に言った。
一刻も早い救急車の到着を願う声が、あちらこちらからも漏れている。

「すみません、あの……時間までは」

張り詰めた空気の中、先生の傍に立っていた四十代半ばの職員らしき男性が、申し訳なさそうに言った。
皆の視線が一斉に、その男性に集中する。

「電話で『急いで下さい』とは言いましたが、順番に対応するからと言われて……、いつになるかは分かりません」

いたし方無い事とは分かりながらも、あちこちから落胆のため息が漏れる。

まずいな、と先生の唇が動いた。

そのまま俯いて何かを考える素振りをし、そんな先生の事をお母さんは縋るような目で見つめている。

数秒後、怜悧な顔がおもむろに上がった。
その顔つきは先程よりも、緊張感が増しているように見える。

先生は何かを決意したように真っすぐに奥さんを見つめた。

「ご主人の様子を見るかぎり、救急隊が到着して病院に着くのを待っていたら手遅れになる可能性があります。医療用の器具はありませんが、ここにあるものを寄せ集めて応急処置をしたいのですが、宜しいですか……」

少し早口な言葉を聞きながら、奥さんの瞳に僅かな光が宿ったように見えた。

「あの……どんな事をするんですかっ!?」

「胸を刃物で少し切って管を刺し、溜まった空気の逃げ道を作ります。重複しますが、道具はあるもので代用します」

ここで手術!? 

説明が始まった直後、奥さんは目を見開いて息を呑み、その場には静かな騒めきが広がった。

しかし直ぐに、
「それをしなければ、主人は助からないんですよね?」

縋るような問い掛けには『処置をすれば助かる』という希望も滲んでいる。
何でも良いから安心できる言葉が欲しいのだろう。
私もあの夜はそうだった。

「混乱させるようで申し訳ないのですが、検査をした訳ではないので、確実な診断ではありません。ですので助からないと言い切る事は出来ませんし、ここで処置したからといって必ず助かるとも言えません。でもやはり……、助かる可能性は格段に上がると思います」

奥さんは、真摯な眼差しで告げられる言葉に、そうですか、とぎりぎり聞き取れる声で答え、涙の膜で覆われた瞳をご主人へ向けた。

先程よりもうめき声がせず、呼吸音も小さくなっている。
それに顔は紫色に腫れ上がっている。
目を開ける事も明確な言葉を発する事もなく、ただただ床に横たわっているといった感じで、状態が悪くなっているのは明らかだ。

ひろ君、震える声で小さく呼びかけながら、涙がつうぅと頬を伝う。

覚悟を決めたように顔を上げ、
「……先生どうか……どうか主人を……お願いします」

涙に濡れた声を喉に引っ掛からせながら、叫ぶように言った。

「分かりました」

先生は思いを汲み取ったように二度頷き、処置に必要な物を口にし始めた。








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