上 下
53 / 77

土曜日の晩餐 3(司)

しおりを挟む
「あ、帰って来たな……。ちょっと行ってくるよ」

穏やかな瞳は、『涙をいておきなさい』と言っているように見える。

先生は静かに立ち上がると、部屋から出て行った。

涙をぬぐい食器を重ねていると、玄関から話し声が聞こえて来る。

「お客様?」

「ああ、鈴田先生だよ」

数子は駐車場に止まっている車を見て、俺が来ている事に気付いていたに違いない。
だからさっき慌てていたのだろう。

「久しぶりに将棋でもしようと思って、電話して夕飯込みで誘ったんだよ」

「そうだったの……」

数子と会ったのは、先週の木曜日が最後だ。

あの時、家に連れて帰るのは断られたけれど、数子を腕に閉じ込め貪るように唇を重ねながら、俺はTシャツ越しに柔らかな膨らみに触れた。

数子は一瞬驚きと恥じらいが混じったような表情を見せたものの、拒みはしなかった。
蜂蜜のような口内と、手に伝わる早い鼓動と優しい温もり、口付けは一層熱を帯び、俺はギリギリのところで理性を保つのに必死だった。

あの夜は気持ちが通じ合った気がして嬉しかったけれど、元カレとのキスとプロポーズの話を聞いた今、単なる俺の自己満足でしかなかったのかと、もやもやするしイライラする。

俺は嘆息して目を閉じ、頭を小さく横に振った。


ふっと懐かしい光景が頭に浮かぶ。

将棋か……、そう言えば昔、先生とよくやったな……。

何の目標も無く惰性で過ごしていた高一のころ、俺は他校生と喧嘩をして生徒指導室に呼び出された。指導主任の海老沢先生にたっぷりと油をしぼられたあと、先生に誘われて将棋を指したのだが、終わってみれば俺は勝っていた。

『リンダ……お前、めちゃくちゃ強いなぁ』
と、驚きの表情を浮かべる先生に、俺は冷めた声と表情で、
『ケッ、エビ先が弱過ぎんだよ』と。

『馬鹿言え、進学校の秀才どもと何度も対戦してきたが、生徒に負けたのなんて初めてだ。お前、頭良いんだなぁ……』

先生は、当時九九もまともに言えなかった俺の顔をまじまじと見詰めながら言った。

『約束だぞ、俺が勝ったんだから、もう俺に関わんなよ!』


俺は小学二年の時、担任だった四十代の女性教師が何名かの教員達と職員室で、当時ホステスをしていた俺の母親の事を、さげすむように話しながら笑っている光景を偶然見てしまい、かなり傷つき小学校には行かなくなった。

学年が変わる毎に新担任は学校へ来るように言ったが、その中には、あの時母を笑っていた教員もいた。
比較的精神年齢が高く大人を信用出来なくなっていた俺は、何があったかは一切話さず、結局殆ど小学校へは行かず卒業した。

不登校中の俺の友達は、様々なパズルにレゴ、ルービックキューブ、そして将棋だった。

新聞に載っている棋譜きふ(プロ棋士の対局手順)を見ながら、家で一人二役になり切って延々遊んでいられる子供だった。

何年もそんな事をやっていたからか、俺は自覚無しに、将棋がかなり強くなっていたらしい。

結局約束は守られる事は無く、その後も先生は俺に関わり続け、将棋も何度も対戦したが大抵俺が勝っていた。

懐かしい思い出に微笑した時、先生が数子を連れて入って来た。

心臓がドキリと跳ねる。

華やかなメイクと緩やかに結い上げた髪、白いうなじ、光沢のあるピンクのワンピース、今日の数子はつい目を奪われてしまうくらい綺麗な上に、品の良い色香が漂っている。

数子と会った男達も皆そう思ったに違いない。
あいつ(元カレ)もいたのだろうか? イライラ

平常心を装って簡単な挨拶を交わし、
「……それ、花嫁さんのブーケですか?」
と微笑みかけた。

「そうなんです。ブーケトスで私の所に飛んできて……ふふふ」

ブルー系の花で作った球状のブーケを持ってはにかむ姿が可憐で可愛い。

「じゃあ次は数子かな。ははは」
先生の陽気な声に、
「あ、違っ、あの鈴田先生、私、そんな事全然思ってませんから、ホントに……」

数子がしどろもどろになった時、突然胸ポケットのスマホが鳴り始めた。

先生が出るようにと促してくれる。
病院からだ。

「はい鈴田です」

『井上です。先生、今よろしいですか?』

「ああ…、どうした?」

『今、救外からなんですけど、上腸間膜動脈閉塞(じょうちょうかんまくどうみゃくへいそく)の患者がいるんです。これからアンギオ(血管造影検査)をしようと思うんですが、未だ自信がなくて……。申し訳ありませんが、先生に来て頂けたらと思って』

カテーテルがちゃんと入れられるか、不安なのか……?

「分かった。発症は何時だ?」

『今日の十四時だと思われます』

時計を見ると十九時十分、五時間か……

「早くしないといけないな。二,三十分でそっちに着けると思うけど、俺の到着は待たずに出来るところまで進めておいてくれ。なるべく急ぐから」

『分かりました。済みませんっ。有り難うございます!』

電話を切り、急いで立ち上がる。

「呼び出しか?」

「ええ」

とたんに目の前の眉尻は下がり、たいへんだなぁ……と気遣いが滲む言葉が返ってくる。

「大学病院の医者なんてこんなもんですよ。先生、将棋はまた後日。数子さん、カレーすごく美味しかったです」

軽く短く言って、唇の端を上向かせた。

「ああ、また遊びに来てくれ」

温かい声で言う先生の隣で、数子は料理を褒められ、心から嬉しそうな表情を見せている。

花が綻ぶような可愛らしい笑顔は一瞬で俺を癒してくれるが、その一方で、よりいっそう不安を掻き立てるからたちが悪い。

無自覚な小悪魔め!

その後、三人で慌ただしく玄関へと向かったが、
「あ、ちょっとだけ待ってなさい」
と、先生は小走りで廊下を戻って行った。

玄関には俺と数子の二人きり。

やっぱり今夜の数子は、困ってしまうくらい綺麗だし色っぽい。
それに堪らなく良い香りがする。
香水ではなく数子自身が持つ甘い香りだ。

「明日、俺の部屋で待ってて。(午後)二時か三時には帰れると思うから」

お菓子のような可愛らしい耳に唇を寄せて囁くと、数子は耳と頬を赤くして、うん、と小さく頷いた。
明日(日曜日)の午後は、場所は決まっていなかったが、もとから会う約束になっていた。

「ちょっと聞きたい事あるし」

付け足しのように言って、目尻と頬にそっと口付け、衝動的に耳朶を口に含んだ。
甘くて柔らかい。
愛おし過ぎて、このまま丸ごと全部食べてしまいたい気分だ。

「お父さん戻ってきちゃう……」

「ああ」

熱っぽい声を出し、愛おしくて憎らしい数子の耳朶を、罰するように少し噛んだ。

独占欲なんて、持ち合わせていはいなかったはずなのに、まったく……。
思わず苦笑が漏れる。

とその時、バタバタと戻って来た先生は、俺に缶コーヒーと栄養ドリンクとチョコレートの入ったレジ袋を渡しながら、「無理するなよ」と心配そうに言った。

俺のことなんてどうでも良いから……。

込み上げて来るものを抑え込み、ええ、と微笑しながら頷いた。







しおりを挟む

処理中です...