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地下書庫にて(優一郎)
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朝から情けないくらい仕事が手につかない。
AM十一時近く、壁に掛けてあるホワイトボードの数子の欄には『地下書庫』と書いてある。
そう言えばさっき営業パートナーの伊藤君に、古い受注資料が欲しいって言われてたっけ。
「ちょっと法務に行って来ます」
そう言って向かったのは勿論2階の法務部ではなく、地下二階にある書庫だ。
金属製の厚くて重い扉を開け、そっと中に入る。数子は全く気付いていない。
彼女は操作ボタンを押しながら、数個がぴったりくっついている可動式の大型書類棚を動かし、欲しい資料が収納してある書棚の正面にスペースを作っている。
カチャリ
内鍵が閉まる金属音に、ピンクのブラウスに包まれた肩がビクリと跳ねる。彼女はこちらに視線を移し息を飲んで固まった。
微笑しながら「資料を探しに来たんだよ」と言うと、
「それはアシスタントの仕事ですよね?」といぶかし気な表情を見せる。
「まあね……、けどそんなに警戒しなくても良いだろう? 少し話そうよ」
平静を装って肩をすくめると、
「中沢さん、やってる事が色々おかしいですよ」
と冷ややかな言葉が返って来る。
自分でもそう思うよ、でも仕方がない。
「それに今仕事中ですよ。仕事とプライベートはきっちり分けたいからって、付き合ってる時は社内メールも私用で使わなかった人が、どうしちゃったんですか?」
「こうでもしなきゃ、数子と話せないから」
「もう呼び捨てするような間柄では無い筈ですけど」
数子は、いっそう声と視線を尖らせた。
「でも呼びたいんだから仕方ないだろう? それに謝りた……」
「謝って欲しいなんて一ミクロンたりとも思ってませんから、勝手に感情押し付けてくるの止めて下さい」
数子が呆れたような声で、俺の言葉を遮った。
「最近の中沢さん、はっきり言って怖いです」
つい一ケ月前まで、優しい眼差しで俺を見つめてくれた瞳が、可愛らしい言葉を紡いでいた唇が、とげとげしく俺を責め立てる。
分かってる、全て身から出た錆だ。
それにしても随分はっきり言うんだね。
そういうの嫌いじゃないよ。付き合ってる時も、そんな面を見せてくれたら良かったのに。
「ごめん……」
「いえ、あの私も強く言い過ぎました。でももう戻って下さい」
彼女は気遣うような、でも困ったような表情をした。
「もう少しだけ良いだろう?」
俺ともう一度やり直そう、と言いたいけれど直ぐに撃沈だろうし、ならば
「ねぇ数子、たまに俺の話し相手になってよ」
彼女は『何を馬鹿な事を』とでも言うかのように無言で苦笑し、頭を小さく横に振った。
「数子オレの事良く知ってるし、色んなこと数子になら話せそうな気がするから」
「中沢さん、私、貴方の事よく知らないですよ。だって私の友達と浮気するような人だなんて、夢にも思ってなかったもの」
嘲るような声に一瞬言葉が出なかった。
「本当に悪かったと思ってる。けど自分が犯した罪の報いなら、今この瞬間も受けてるよ。数子がどれだけ大切な存在だったか、失って初めて……いや、失ったからこそ気付けた。大馬鹿だ」
「……」
「ねぇ、間違いを犯さない人間なんていないだろう? 過ちを正すチャンスが欲しいんだ。それとも数子は、犯罪者の更生は認めないタイプなの?」
「一つハッキリ言えるのは、中沢さんの事をもう信用出来ないって事。覆水盆に返らずって言うでしょう?」
ズキリと胸が痛んだ。
「俺を許せないままでも良いし、やり直そうなんて我が儘は言わないから、たまに電話したりLINEしたり、あと……一緒に食事もしたい。手も繋がないしキスもしないから、数子お願いだから」
数秒間の沈黙が流れた後、数子は頭を横に振った。
「ごめんなさい、本当にあなたとはプライベートで繋がりたくないの」
そんなこと言うなよ。本当に後悔してるんだから。
「百歩譲って私が良くても彼が良い顔しないと思うし、黙ってなんて後ろめたくて嫌だし。中沢さんだって花音には何て言うの? あの子が納得なんてする筈ないでしょう?」
「言うつもりはないよ」
「やっぱりね……。私の前では笑顔を見せていた彼氏が、陰で別の女の子に会ってたって痛みを、私は良ぉく知ってるの。隠しおおせたとしても、そんなのマナー違反だし失礼だし、絶対ダメに決まってるでしょう!」
凛として言い放つ数子は、何処までも綺麗だ。
花音は俺を奪うために、ルールなんて無視してあらゆる手段を使っていた。
俺はどうしてこの子を捨てて、花音を選んだんだろう……。
「花音とは別れるつもりだよ」
数子は俺に冷たい視線を投げながら、
「花音の気持ちは? 私が気にすることじゃないけど……中沢さん勝手すぎます。私忙しいのでもうこれで」
「ねぇ数子も俺を裏切ってたんじゃないの? 俺と別れてすぐに昨日のあの男と付き合うなんて、タイミングが早すぎるよね?」
数子は俺を睨み付け、
「彼とはあなたと別れてから知り合ったし、裏切ってなんかない! それに別れた後、私がいつから誰と付き合おうと、とやかく言われる筋合いなんて無い!」
一瞬たりとも視線を逸らさず言い切る数子を、俺は衝動的に抱き締めた。
「いやっ、止めてっ!!」
「ほんの少しだけで良いからこうさせて、やっぱり諦めきれないんだ」
もがき続ける数子を力ずくで腕に閉じ込めたまま、困惑が滲む黒真珠のような瞳を覗き込む。
いっそこのまま唇を奪ってしまおうか……いや、今はダメだ。
「俺への気持ちは綺麗さっぱりなくなっちゃったの?」
「当たり前でしょ、少しも残ってないから放してっ!」
思わず笑みが零れた俺を、数子はもがくのを止めいぶかしげに見つめてくる。
「数子知ってる? 人って嘘を吐く時、無意識にちらっと右斜め上を見るんだよ。今の数子みたいにね」
「私、嘘なんて言ってないっ!」
俺は数子の額に長めのキスをして、書庫を後にした。
AM十一時近く、壁に掛けてあるホワイトボードの数子の欄には『地下書庫』と書いてある。
そう言えばさっき営業パートナーの伊藤君に、古い受注資料が欲しいって言われてたっけ。
「ちょっと法務に行って来ます」
そう言って向かったのは勿論2階の法務部ではなく、地下二階にある書庫だ。
金属製の厚くて重い扉を開け、そっと中に入る。数子は全く気付いていない。
彼女は操作ボタンを押しながら、数個がぴったりくっついている可動式の大型書類棚を動かし、欲しい資料が収納してある書棚の正面にスペースを作っている。
カチャリ
内鍵が閉まる金属音に、ピンクのブラウスに包まれた肩がビクリと跳ねる。彼女はこちらに視線を移し息を飲んで固まった。
微笑しながら「資料を探しに来たんだよ」と言うと、
「それはアシスタントの仕事ですよね?」といぶかし気な表情を見せる。
「まあね……、けどそんなに警戒しなくても良いだろう? 少し話そうよ」
平静を装って肩をすくめると、
「中沢さん、やってる事が色々おかしいですよ」
と冷ややかな言葉が返って来る。
自分でもそう思うよ、でも仕方がない。
「それに今仕事中ですよ。仕事とプライベートはきっちり分けたいからって、付き合ってる時は社内メールも私用で使わなかった人が、どうしちゃったんですか?」
「こうでもしなきゃ、数子と話せないから」
「もう呼び捨てするような間柄では無い筈ですけど」
数子は、いっそう声と視線を尖らせた。
「でも呼びたいんだから仕方ないだろう? それに謝りた……」
「謝って欲しいなんて一ミクロンたりとも思ってませんから、勝手に感情押し付けてくるの止めて下さい」
数子が呆れたような声で、俺の言葉を遮った。
「最近の中沢さん、はっきり言って怖いです」
つい一ケ月前まで、優しい眼差しで俺を見つめてくれた瞳が、可愛らしい言葉を紡いでいた唇が、とげとげしく俺を責め立てる。
分かってる、全て身から出た錆だ。
それにしても随分はっきり言うんだね。
そういうの嫌いじゃないよ。付き合ってる時も、そんな面を見せてくれたら良かったのに。
「ごめん……」
「いえ、あの私も強く言い過ぎました。でももう戻って下さい」
彼女は気遣うような、でも困ったような表情をした。
「もう少しだけ良いだろう?」
俺ともう一度やり直そう、と言いたいけれど直ぐに撃沈だろうし、ならば
「ねぇ数子、たまに俺の話し相手になってよ」
彼女は『何を馬鹿な事を』とでも言うかのように無言で苦笑し、頭を小さく横に振った。
「数子オレの事良く知ってるし、色んなこと数子になら話せそうな気がするから」
「中沢さん、私、貴方の事よく知らないですよ。だって私の友達と浮気するような人だなんて、夢にも思ってなかったもの」
嘲るような声に一瞬言葉が出なかった。
「本当に悪かったと思ってる。けど自分が犯した罪の報いなら、今この瞬間も受けてるよ。数子がどれだけ大切な存在だったか、失って初めて……いや、失ったからこそ気付けた。大馬鹿だ」
「……」
「ねぇ、間違いを犯さない人間なんていないだろう? 過ちを正すチャンスが欲しいんだ。それとも数子は、犯罪者の更生は認めないタイプなの?」
「一つハッキリ言えるのは、中沢さんの事をもう信用出来ないって事。覆水盆に返らずって言うでしょう?」
ズキリと胸が痛んだ。
「俺を許せないままでも良いし、やり直そうなんて我が儘は言わないから、たまに電話したりLINEしたり、あと……一緒に食事もしたい。手も繋がないしキスもしないから、数子お願いだから」
数秒間の沈黙が流れた後、数子は頭を横に振った。
「ごめんなさい、本当にあなたとはプライベートで繋がりたくないの」
そんなこと言うなよ。本当に後悔してるんだから。
「百歩譲って私が良くても彼が良い顔しないと思うし、黙ってなんて後ろめたくて嫌だし。中沢さんだって花音には何て言うの? あの子が納得なんてする筈ないでしょう?」
「言うつもりはないよ」
「やっぱりね……。私の前では笑顔を見せていた彼氏が、陰で別の女の子に会ってたって痛みを、私は良ぉく知ってるの。隠しおおせたとしても、そんなのマナー違反だし失礼だし、絶対ダメに決まってるでしょう!」
凛として言い放つ数子は、何処までも綺麗だ。
花音は俺を奪うために、ルールなんて無視してあらゆる手段を使っていた。
俺はどうしてこの子を捨てて、花音を選んだんだろう……。
「花音とは別れるつもりだよ」
数子は俺に冷たい視線を投げながら、
「花音の気持ちは? 私が気にすることじゃないけど……中沢さん勝手すぎます。私忙しいのでもうこれで」
「ねぇ数子も俺を裏切ってたんじゃないの? 俺と別れてすぐに昨日のあの男と付き合うなんて、タイミングが早すぎるよね?」
数子は俺を睨み付け、
「彼とはあなたと別れてから知り合ったし、裏切ってなんかない! それに別れた後、私がいつから誰と付き合おうと、とやかく言われる筋合いなんて無い!」
一瞬たりとも視線を逸らさず言い切る数子を、俺は衝動的に抱き締めた。
「いやっ、止めてっ!!」
「ほんの少しだけで良いからこうさせて、やっぱり諦めきれないんだ」
もがき続ける数子を力ずくで腕に閉じ込めたまま、困惑が滲む黒真珠のような瞳を覗き込む。
いっそこのまま唇を奪ってしまおうか……いや、今はダメだ。
「俺への気持ちは綺麗さっぱりなくなっちゃったの?」
「当たり前でしょ、少しも残ってないから放してっ!」
思わず笑みが零れた俺を、数子はもがくのを止めいぶかしげに見つめてくる。
「数子知ってる? 人って嘘を吐く時、無意識にちらっと右斜め上を見るんだよ。今の数子みたいにね」
「私、嘘なんて言ってないっ!」
俺は数子の額に長めのキスをして、書庫を後にした。
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