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そんな顔見せられたら(司)
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ちょうどその時、数メートル先のエレベーターから、見知った老夫婦が降りて来るのが見えた。
「先生ぇ……先生ぇ!」
車いすに乗った七十代後半の奥さんが俺に気付き、嬉しそうに大きな声で呼ぶ。
彼女は中村喜代子さん、二年前俺が下肢静脈瘤の手術をした患者さんだが、三週間前、足を骨折し今は整形外科に入院している。
一年ほど前から顕著な症状が出始めたという認知症は、入院を機に進行しているように見える。
車いすを押しているのは、高名な日本画家である夫の中村栄次郎さんで、彼は数年前脳梗塞を患い、左半身に軽いマヒが残っている。
二人は二年前も仲睦まじく微笑ましかったが、おさなごの様になった奥さんに、中村さんが献身的に尽くす姿には、本当に頭が下がる。
「数子、ちょっと行ってくるから待っててくれ」
そう声をかけ、俺は老夫婦に駆け寄った。
中村さん(夫)は俺と挨拶を交わしながら数子の方を見て、あっと小さく声を出し、嬉しそうに頭を下げた。
あれ、知り合いか?
不思議に思ったのも束の間、小走りして来た数子が俺の隣に並んだ。
「先日は蜜柑を有り難うございました。とっても美味しかったです」
彼女は、礼儀正しく朗らかにそう言って微笑んだ。
「ああそれは良かった。こちらこそ何から何まで有り難う」
「あの、お二人は知り合いだったんですか?」
和やかな雰囲気の二人に交互に視線を向けながら問い掛けると、中村さんは笑顔で答えてくれた。
「ええ、喜代子が蜜柑が食べたいって言うから、沢山持って来たんですが、病院の入り口で紙袋が破けて中身が落ちてしまったんです。私は足が悪いからオロオロしてたんですが、近くにいたこのお嬢さんが、雨に濡れながら蜜柑を全部拾ってくれて、親切に袋までくれて、本当に助かったんですよ」
「そんな、私は何も……。それに私こそ、あんなにおいしい蜜柑を頂いてしまって」
否定の意味で手をパタパタと振り、少し照れながらはにかむ姿が可愛いと思った。
思わず笑みが零れた時、
「あら、あなた蜜柑が好きなの? じゃ、あげるわね」
車いすに座っている中村さんの奥さんは、ニコニコしながらそう言って、ポケットから使用済みの丸めたティッシュを取り出した。
痰のようなものが染みて、黄色味がかって湿っているそれを、「さぁ、どうぞ」と数子に差し出し微笑みかける。
「あ、喜代子……蜜柑は止めておこうね……」
中村さんが少し慌てて言うより早く数子はかがむと、何の躊躇いも無く丸めたティッシュを受け取り、奥さんの視線の高さに目を合わせ
「ありがとうございます。遠慮無く頂きますね」
と、春の木漏れ日のように優しく柔らかく微笑んだ。
身内や医療関係者なら、こういった事は慣れているが彼女は違う。
思ってもみなかった彼女の行動に、俺も中村さんも言葉が出なかった。
「良いの良いの、遠慮なんていらないから、さぁ、お上がり……、あら」
奥さんは数子の手に触れ、憧れに満ちた眼差しで食い入るように爪を見ながら、
「……可愛い……私も欲しい」
夢見るように呟いた。
短く切りそろえられた数子の爪には、品の良いピンクのマニュキュアが塗られ、ところどころに花や星が描かれている。
「喜代子、いけないよ……」
「良いんですよ」
中村さんの諭すような声に、優しい声が重なる。
「あの…もし宜しければ、明日同じように爪を塗って差し上げましょうか?」
数子は中村さん夫妻に交互に視線を送りながら、穏やかな声で問い掛けた。
「塗って、塗って……」
奥さんは、ぱあっと表情を明るくし目をキラキラ輝かせ、御主人は「良いのかい?」と。
「ええ、もちろん。明日は午後から予定があるので、少し早いですが、朝九時では如何ですか?」
どうやらこの子は先生のDNAを受け継いで、そうとうお節介らしい。
俺は胸の奥がじぃんと暖かくなるのを感じていた。
「ああ是非、お嬢さん本当に有り難う。……喜代子、良かったねぇ、明日爪を綺麗に染めて貰えるねぇ」
中村さん御夫婦は、心底嬉しそうな表情をしている。
数子はそんな二人に微笑みかけながら、明日の事を打ち合わせているが、風に揺れるスズランのように何故だかとても可愛く見えた。
俺自身気付いていなかったが、思えばこの時、俺は恋に落ちたのかも知れない。
「先生ぇ……先生ぇ!」
車いすに乗った七十代後半の奥さんが俺に気付き、嬉しそうに大きな声で呼ぶ。
彼女は中村喜代子さん、二年前俺が下肢静脈瘤の手術をした患者さんだが、三週間前、足を骨折し今は整形外科に入院している。
一年ほど前から顕著な症状が出始めたという認知症は、入院を機に進行しているように見える。
車いすを押しているのは、高名な日本画家である夫の中村栄次郎さんで、彼は数年前脳梗塞を患い、左半身に軽いマヒが残っている。
二人は二年前も仲睦まじく微笑ましかったが、おさなごの様になった奥さんに、中村さんが献身的に尽くす姿には、本当に頭が下がる。
「数子、ちょっと行ってくるから待っててくれ」
そう声をかけ、俺は老夫婦に駆け寄った。
中村さん(夫)は俺と挨拶を交わしながら数子の方を見て、あっと小さく声を出し、嬉しそうに頭を下げた。
あれ、知り合いか?
不思議に思ったのも束の間、小走りして来た数子が俺の隣に並んだ。
「先日は蜜柑を有り難うございました。とっても美味しかったです」
彼女は、礼儀正しく朗らかにそう言って微笑んだ。
「ああそれは良かった。こちらこそ何から何まで有り難う」
「あの、お二人は知り合いだったんですか?」
和やかな雰囲気の二人に交互に視線を向けながら問い掛けると、中村さんは笑顔で答えてくれた。
「ええ、喜代子が蜜柑が食べたいって言うから、沢山持って来たんですが、病院の入り口で紙袋が破けて中身が落ちてしまったんです。私は足が悪いからオロオロしてたんですが、近くにいたこのお嬢さんが、雨に濡れながら蜜柑を全部拾ってくれて、親切に袋までくれて、本当に助かったんですよ」
「そんな、私は何も……。それに私こそ、あんなにおいしい蜜柑を頂いてしまって」
否定の意味で手をパタパタと振り、少し照れながらはにかむ姿が可愛いと思った。
思わず笑みが零れた時、
「あら、あなた蜜柑が好きなの? じゃ、あげるわね」
車いすに座っている中村さんの奥さんは、ニコニコしながらそう言って、ポケットから使用済みの丸めたティッシュを取り出した。
痰のようなものが染みて、黄色味がかって湿っているそれを、「さぁ、どうぞ」と数子に差し出し微笑みかける。
「あ、喜代子……蜜柑は止めておこうね……」
中村さんが少し慌てて言うより早く数子はかがむと、何の躊躇いも無く丸めたティッシュを受け取り、奥さんの視線の高さに目を合わせ
「ありがとうございます。遠慮無く頂きますね」
と、春の木漏れ日のように優しく柔らかく微笑んだ。
身内や医療関係者なら、こういった事は慣れているが彼女は違う。
思ってもみなかった彼女の行動に、俺も中村さんも言葉が出なかった。
「良いの良いの、遠慮なんていらないから、さぁ、お上がり……、あら」
奥さんは数子の手に触れ、憧れに満ちた眼差しで食い入るように爪を見ながら、
「……可愛い……私も欲しい」
夢見るように呟いた。
短く切りそろえられた数子の爪には、品の良いピンクのマニュキュアが塗られ、ところどころに花や星が描かれている。
「喜代子、いけないよ……」
「良いんですよ」
中村さんの諭すような声に、優しい声が重なる。
「あの…もし宜しければ、明日同じように爪を塗って差し上げましょうか?」
数子は中村さん夫妻に交互に視線を送りながら、穏やかな声で問い掛けた。
「塗って、塗って……」
奥さんは、ぱあっと表情を明るくし目をキラキラ輝かせ、御主人は「良いのかい?」と。
「ええ、もちろん。明日は午後から予定があるので、少し早いですが、朝九時では如何ですか?」
どうやらこの子は先生のDNAを受け継いで、そうとうお節介らしい。
俺は胸の奥がじぃんと暖かくなるのを感じていた。
「ああ是非、お嬢さん本当に有り難う。……喜代子、良かったねぇ、明日爪を綺麗に染めて貰えるねぇ」
中村さん御夫婦は、心底嬉しそうな表情をしている。
数子はそんな二人に微笑みかけながら、明日の事を打ち合わせているが、風に揺れるスズランのように何故だかとても可愛く見えた。
俺自身気付いていなかったが、思えばこの時、俺は恋に落ちたのかも知れない。
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