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思い (司)

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オペ当日の朝海老沢先生の病室へ行くと、先生は窓に向かって佇んでいた。

「おはようございます。よく眠れましたか?」

先生は直ぐに俺の方を振り向き、「おはよう、お陰様でぐっすり寝れたよ」と。

緊張されているだろうと思っていたが、思いのほか明るい声とほぐれた表情にほっとした。
 
「あれ? あの数子…さんは……」
さほど広くはない部屋を見まわし尋ねると、
「あぁ、いま爪切りを買いに行ってるんだ。今朝起きたらどうしても爪が気になって。こういう時は、くだらないことが気になるもんなんだなぁ、ははは」

手術中に最悪の事が起こるかもしれない、そう思ってのことだろう。何とも言えないもの悲しさが胸をよぎった。

「そうですか」意識して微笑しながら明るめの声を返す。
「九時に手術室に着くように、看護師が迎えに来ます。僕は先に行って手術室で待ってますから」

「ああ分かった。ところで鈴田…先生、数子のことをくれぐれも宜しく頼むな」
いぶし銀の光が宿る瞳は、力強いが縋っているようにも見える。

俺は何度か頷きながら、「ええ、お約束します」
もちろん本心だけれど、とにかく先生に安心してほしかった。

「ありがとう」

先生は安堵したように微笑してから、窓の外へ視線を戻し、高く遠くを眺め始めた。

「何を見てるんですか?」

「雲だよ」

てっきり飛行機か何かだと思っていたので、ちょっと間抜けな声で「え、雲ですか?」と。

「ああ、君に話したことはなかったかも知れないが、私は昔から青い空に浮かぶ雲が好きでねぇ……、小さい頃は、大きくなったら雲の龍にまたがって冒険しようと思ってたんだ」

先生の声は楽し気で、それを聞いている俺は嬉しいはずなのに、なぜこんなにも不安な気持ちになるんだろう。

「しかし小学校に上がるころになると、それは叶わない夢だと分かった。大きくなるってのは、つまらないもんだなぁ」

「まったくですね」
俺が何の気なしに答えると、
「でも今日、幼い頃の夢が叶って、龍が迎えに来てくれるかもしれないな。そしたら子供に戻って何処へ飛んで行こうか……」

夢を見ているような声音が胸に突き刺さった。

「先生へんなこと言わないで下さい。何も起こりません、きっと全て上手くいきますから」

根拠も説得力もない言葉しか出てこない自分が、忌々しかった。

「ああ、そうだな。でも私は何があっても心残りは無いんだ。君があの子の傍に付いていてくれるからね……。あぁ今日は雲がいつになく高く見えるなぁ、いい天気になりそうだ」

先生はいっそう高みを見つめ、俺の方を振り返らなかった。

「心残りがないなんて嘘です。数子さんのことが心配で心配で仕方がないくせに、こんな時まで周りに気を使ってどうするんですか! 先生、数子さんの花嫁姿見るんですよね? 数子さんだって、誰よりも先生に見てもらいたいはずです」

俺は先生の頬をしずくが伝わるのをガラス越しに見つめながら、それ以上言葉を重ねることはできなかった。

トントン
ノックに続いてドアが開き、数子が入ってくる。先生は、さっと涙をぬぐって振り返った。

「あ、司君おはよ、お父さん買ってきた…よ……、どうしたの!?」

最初は明るく、最後はいかにも心配そうな雰囲気だ。先生の顔に、涙のあとを見たのだろう。

「数子の花嫁姿は綺麗だろうなぁと思って、想像しただけで泣けてきたんだよ」

「お父さん……」
間というよりも、束の間の沈黙が流れる。見過ごしてしまいそうなほど薄っすらだが、数子の瞼のふちは赤く、濡れていた。

「想像通り綺麗かどうか楽しみにしててね。二人で腕組んで祭壇まで歩こう? それにいつになるかは分からないけど、孫も抱っこしてあげてね。ちなみに私三人は欲しいから」

「ああ、楽しみだなぁ」

短いけれど深い声には、希望と物悲しさが半分づつ混ざり合っていた。



_________________________________________________________



~ 閑話 司の見た夢 ~ 

(閑話ですので多分大した意味はありません。内容がちょっとグロいので、NGな方は読まない方が良いかも知れません)


海老沢先生のオペ前夜、俺はこんな夢を見た。

俺と守と新庄は肝胆膵外科の休憩室にいる。

五百のペットボトルのコーラを一気飲みした守が、唐突に口を開く。

「ところで新庄、明日の手術失敗しやがったらお前の脳ミソ、匙ですくってデザートにしてやるからな~」

目が危ない感じにキラめいて、笑顔がそこはかとなく気持ち悪い。

「げっ、また訳の分かんないこと言ってるし。食いたいんなら教授の食って下さいよ~!」

新庄は、俺に目配せして援護射撃を求めてくるが、いたずら心が芽生えた俺は、悪ノリしてニヤリと笑った。

「じゃぁ俺は、お前の心臓ムシャムシャ食ってやるからな~」

「くぅぅ悪魔の兄弟め! お前ら『羊たちの沈黙』のレクター博士かよ!」
顔を背けて独り言のように言う新庄。

「お、なんか楽しそうだな~」

軽い足取りで入ってきたのは安西先生だ。
新庄がことの経緯を先生に話すと、ハハハと軽快な笑い声が休憩室に響きわたった。

赤木教授きょうじゅが執刀で新見助教授が麻酔、俺が第一助手まえだちってことで鈴田、大船に乗ったも同然だ!」
とここまでは良いのだが、
「けど大船がこけたら、やっぱ新庄の出番だな」

「え?」

「いいか? 教授は神の手、俺はその後継者、二人とも欠くことのできない存在だ」

安西先生は芝居がかった口調に磨きをかけて言い放ち、生き生きした悪~い笑みを浮かべながら、満足そうに頷いた。

「ひでっ、俺だって欠くことのできない存在ですよ!」

「分かってるって、お前は重要な存在だ! 赤木教授がよく言ってるだろう? 外科医に必要なのは、手と頭とハートだって。手が失敗したら、やっぱ頭とハート差し出すのが筋ってもんだろう? お前のちっこい脳ミソと心臓で片が付くんなら御の字だ」

「ちっこくない! そこそこの量詰まってる! そもそも教授が言ってるのは物理的な意味じゃないし、手が失敗したら他を差し出せって、どんな理屈なんですか~!!」

「往生際が悪いなぁ、白い巨塔に理屈なんて無いんだよ! でも大学も鬼じゃない。新庄総合病院お前んちの面倒はうちの大学うちがちゃぁんと見てやるから安心しろ!」

安西先生は悪代官のようにガハハと笑い、夢は途切れた。
因みに途中から俺と守は、安西先生と新庄のやり取りをゲラゲラ笑いながら見ている感じだった。



手術当日の朝よくあさ、病院の廊下を歩きながら夢のことが気になっていた。

変な夢だった。何かの暗示か? いや違う、たぶん手術の事をずっと気にしてたからだ。失敗なんてあってたまるか。新庄散々な言われようだったな、今度何か奢ってやろう……。とにかく無事に手術が終わってくれますように……。
俺はそんなことを考えながら海老沢先生の病室の前に立ち、中に入った。

「おはようございます。よく眠れましたか?」



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