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インディア~親蜜の香り~その二章 12

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 彼は正直な英国人らしく税金や必要経費の請求を滞納せず、紳士らしく女性には食事を振る舞い、楽観的にその場その場で快い出費を愉しみ、不動産投資と外食と酒代で多額の給料を浪費してきたらしい。足りなければ、体力の限界までフライトを増やせばいいと思っていたのだろう。独身男の金銭感覚は余りしっかりした物ではない。
  しかし金目当てではなかったので、新妻に不満はなかった。そもそも、ここ最近の夫は何といっても「異国の女」に会うため、その意に沿うために色々と金を注ぎ込んでいたのだ、文句などあろう筈がない。大きな恩恵として、アーシャは主婦業を献じても勉学に支障を来たすことがなかった。
  唯一の欠点があるとすれば、大学時代にバーテンダーを目指したほどの酒好きくらいだった。しかし前後不覚に陥ることもなく、アーシャには酒を一切勧めないし、彼は性格も良く収入も暮らし向きも良いのだから、自分はとんだ果報者ではないか。

 「今日は何をして過ごしますか?」
  インスタント食品を買い込んで、ワイン片手に今日は一日中寝台の上で過ごしたい。愛し合って、風呂に入って、また愛し合うんだ。
 「そうだな、君の勉強を見て、案内がてら君と散歩に行って、夕食はフランス料理店にでも行こうか、僕が野菜パスタを作ってもいい」
 「イエス、サー」
 「サーなんて……」
  彼はそういって笑う。
  「sir」サーという呼びかけは「あなた」、「拝啓」、「卿」といった目上の男、客の男、貴族の男、そして主に軍における上官への対する敬称である。結婚した後も、アーシャはこの呼び掛けを変えようとはしなかった。流石に英国にできた親戚との付き合いの間はいい換えるようになったものの、二人きりの時までそれを払拭するのは難しいと悟る。ヒンドゥーの因習の一つに、夫を名で読んではならないという項目があるのだ。
  リンゼイは甚く真っ当な感性を持つ男であったので、妻に敬意を払われるのは歓迎でも、それは対等から発したものでなければ何の意味もないと考えていたし、妻には自分の名を呼び捨てが妥当と思っていた。妻ではなくお手伝いのように扱われる可能性がある――今でも英国で豪邸のメイドにインド系は多い――ことからも、可愛い新妻に自分の名を呼ぶよう求め続けた。
  当初呼ばれ方に反発すら覚え、「リンゼイ」と呼ばれるまで返事をしない強硬手段すら採っていた新郎が妻の物いいを受け入れ始めたのは、一つには、アーシャが夫を「サー」と呼ぶことによって官能を高めている節を敏感に嗅ぎ取ったからである。階級迎合の意識に染まった女には、自分より格上の男への愛に甘美な感覚を覚えるものなのだろう。
  女から向けられる競合意識にエロスを感じてきた現代の男、リンゼイ・フォックスにも女性への庇護と崇拝をロマンティックな性愛に結び付けてきた英国騎士の血が流れていたようで、馴染んでしまえば快い響きに思える。
  過去騎士道的恋愛は、グィネヴィアとランスロットしかり、トリスタンとイゾルデしかり、ダイアナ妃への思慕しかり、格上の女性に対する恋慕の情であったが、それは立場上高貴でなくとも、崇拝と恋情の交じり合った感情を呼び起こさせる恋人にも適応可能なのだ。
  寝台で「サー」と哀願するアーシャは、この上なく興奮させてくれる。
  リンゼイは彼女がホットサンドを手にするのを見、自分もそれを一つ取って口に運んだ。アーシャの一挙一動に、常に強い興味を持って注がれる視線がやっと外れる。リンゼイの横顔、真面目くさった動物のような咀嚼に、彼女は違う時のそれを重ねた。しかし彼はアーシャを見ても、さっと目を反らしてしまった。無意識なようだが……彼女が心配になって、請う。
 「リンゼイ」
 「うん……?」
  彼は視線をベッドのシーツの皺、昨夜のセックス、そして今朝陽の中で長いスリップに似たナイトドレスに隠されているアーシャの素肌を思い出して、ぼんやり答える。
 「上の空ですね、私に、もう興味がなくなってしまったのですか?」
 「何だって、何をいうんだ」
  彼は休みの朝、必ず自分を求めて来た筈なのに。「僕のアーシャ、眠い?」と、ややもすると母親の乳を求める幼児のように強請ってくるものだった。そんな時の自分がどれだけ可愛らしく、彼女の母性愛を掻き立てて愛情を高め、体の芯から熱くするか知らないのだろう。寂しそうな微笑を浮かべるアーシャに、リンゼイは欲望から我に返る。何杯目のワインだろうか、これじゃあ欲求不満を酒で紛わす他の負け犬と一緒じゃないか!
  リンゼイは自分の赤い顔を撫で、酔っていることを自覚した。
 「可笑しなことをいわないでくれ」
  興味がなくなっただって?
  こんなに君に夢中なのに。君のことを色々妄想してしまって、それで。そんなこといえよう筈もない。
  赤くなって小さくなったリンゼイを見て、彼女が機嫌を直し、笑った。
 「顔が真っ赤ですわ、サー……いいのです、今日は勉強はしません……貴方とお酒を飲みます、そしてその後は、家中に掃除機をかけます」
  アーシャは微笑み、ワインを飲んで、「美味しい」と少女の様に笑った。女が朝から酒を飲むなんて、節制と女への厳格さを常とするヒンドゥーでは考えられないし、共存するイスラム教徒は酒を飲まない。親の目を盗んでこっそり逢引したティーンエイジャーの気分なのだろう。彼女がどんどん自由になっている証しだ。
  リンゼイは微笑み、そのぷっくりした唇を見つめる。
 「君、口に何か付いてる……」
 「えっ」
 「サンドイッチの欠片かな」
  アーシャは手で口を隠し、払うが、彼は首を振って自分の手を伸ばす。
 「ほらここ、取ってあげるよ」
  顔を近付けたリンゼイの仕草の意味を悟り、彼女も笑って子供同士のようなキスを受け止めた。接吻の深まりにいつも遅れがちなアーシャに合わせて、受け容れやすいよう角度を変えながら彼は導いていく。
  彼女は本当に自分リンゼイを大切にしてくれる。
  王として扱い、陰日向なく愛を実感させてくれようとする。それで十分ではないか、それ以上を求めるなんて貪欲な男。彼はテーブルを床に置き、ワインもそこに置いた。リンゼイがベッドに上がって来たので、彼女は仰向けに横たわろうとする。アーシャの下肢に馬乗りになりながら、リンゼイはその手を取って引き止めた。
  イスラム教徒のように――彼女たちは髪と顔を隠しているが、決して質素ではない。アイラインを美しく引いて男を目で殺し、僅かに魅せる手足にはマニキュアペディキュアを欠かさない――紫色のマニキュアをした手を取り、姫に対する様に接吻する。
 「ダーリン」
  彼はローブの他に何も着けておらず、帯を解いて前を開き、アーシャの手をゆっくり自分の股間に持って行った。完全に真っ直ぐ勃起したペニスに直に触れさせる。
 「ア……」
  彼女がうろたえ手を引こうとして、困ったようにやめる。
 「嫌かな」
  触るだけではなく、これにキスして、舐めて欲しい。リンゼイの双眸の青い火が、盛んに催促している事柄が分からず、アーシャは戸惑った。手に或るのは硬くて、熱を持った、肉の鋼……。
 「いいえ、でも」
  何だか、いつものリンゼイに思えない。酔っているからだ。酔っている男がアーシャは元々嫌いだった、酒臭いし、嫌な感じがする。彼もそうだ、酔うと獣染みて、それゆえに無防備になってしまう。夫の一部に触りながらも身体を横に向け、眉を寄せる妻に、リンゼイは折れた。
 「いいんだ」
  投げ遣りではなく、いう。前屈みになって頬を撫で、見つめあい、下敷きにした肉体を擁した。唇を奪って、柔らかいシーツの上に手を縫い止める。指を絡ませて、器用に動く舌でアーシャの舌触りを確かめる。何もかも足りなかった。
 「舌をもっと強く吸ってくれ」
  彼女を感じたい。、もっと、もっと欲しい。リンゼイは切なくなって目を瞑り、その肌に額を押し当てる。いつの間にか固く眉を寄せていた。
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