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インディア~親蜜の香り~その二章 8

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「君の給料は君の物だ、全部君が好きなように使えばいい」
  これらが違法でないか弁護士の知人に頼んで書面に記し、必然的に新婚夫婦はニューデリー空港の近く、高級住宅地のグルガーオンにマンションを借りた。質素な二部屋の一室だが、ベッドだけは天蓋の付いた豪勢な物を買って設置し、ささやかな贅沢で愛の巣を彩る。
  リンゼイはフライトの大部分をインド行きに変更、インドに住むアーシャを訪れた。アーシャも然り、可能な限りニューデリーから英国のフライトを選択する。リンゼイの家とマンションを二人して交互に訪れ、逢引する生活が半年も続く。部屋でアーシャは買って来た料理を並べて待っていてくれた。そしてリンゼイが早く着いた場合はその逆を準備したが、結局食べもせず彼が妻を抱き上げてベッドに直行するのが常だった。
  新夫の歓びようと熱愛振りは、まるで数ヶ月離れていた彼女の飼い犬の如きものだった。鍵がないといってはドアの前で大騒ぎをし、入って来てぶつかるように彼女を抱き、何度も何度もキスをする。そしてアーシャを陶然と見つめ、いうのだ。
 「先にベッドに行こう」
 「でも食事が」
 「僕も買って来た、でも後にしよう」
 「待って下さい、サー……私、今来たばっかりで……」
 「ダメだよ、我慢できない」
  抱き上げられ、ベッドの上に投げ下ろされる。アーシャの体は寝台の上で弾み、眩暈を覚えてしまう。引き裂かれんばかりに衣擦れの音をさせて、夫の手が彼女を裸に剥いていく。新婚なのにいつも一ヶ月に四回妻の裸体を見られれば良い方の生活である、禁欲生活に圧されてリンゼイはいつも剥ぎ取る時は情熱を見せる。胸に手を置き、人差し指と親指で胸の蕾を何度も摘んで、高めようと圧力を掛けた。
 「アアッ」
  アーシャの顎が上向き、甘い声が漏れると、彼女の頬にリンゼイの荒い息が掛かる。男の肉体が押し付けられ、奪われる予感に女の身が総毛立った。
 「ヤァ……」
  今度はリンゼイが、緊張する。
 「ごめん、痛かった? 気を付けるから」
 「ア……」
  男の指先から力が抜けてしまった。焦らされているかのよう。嫌などではない、恥じらうのはアジア女の愛される為の作法なのだ。しかし西欧流のマナーしか知らない夫には通じない、彼が求めるものは寧ろ反対なのだと、アーシャは気付かないようにする。健気にひしと抱きついて、自分から何度もリンゼイに接吻した。
 「いいえ、いいえ、お慕いしております」
 「本当に? 僕も君が欲しくて……いつもこの肌のことを考えていたよ」
  その健康的な色に彼は羨望すら抱くのだ。焦燥、執着、それらが綯い交ぜになって吸い込まれていく。
  回数の少なさに、彼女の非常に遠慮深いヴァギナは馴染みもせず、今に至っても痛みを感じているから、夫は神経質に気にしている。だが、初めての時からずっとリンゼイは労わって抱いてくれた。処女に価値を置かない白人男が相手でも、こんな効用もあるらしい。例外はリンゼイの家で二回目に抱かれた、あの時だけである。
  その後、アーシャが少しでも身構えると、自分の暴挙を羞じるようにもっと気遣ってそうっと愛してくれた。硬い男のそれを挿し込まれて、揺り籠のようにその身を揺らし上げられれば、最早痛みは快さを熟む一つの契機でしかない。完全に熱く濡れ、披いたヴァギナに彼が入ると、ぴったり合わさる気がする。彼は寄せる波のように甘く、アーシャを満たしていく。
  弱るのは、シャワーを浴びることすら知らなかった処女の頃とは違い、身奇麗にせずに抱かれることである。リンゼイが汗臭いのは気にならないのだが。男の体臭は普段卒のない紳士の彼を野獣に変身させ、彼女は翡翠の眼を持つ白い獣への生贄となるのだ。もしや夫もそう感じているのか?
  だが彼女自身は毎回、恐縮して身の縮む思いを味わう。嫌なのだと告白しようとするが、いつも持ち堪えてきた。秘所を嘗め回すリンゼイの下品な口が、行為に関しては無口だから――こんなところまで犬の様だ。
  天候で彼が遣って来るのが五時間も遅れた夜のこと、一度抱き合って、リンゼイが二人掛けのテーブルに移動して食事をする。それを彼是世話を焼く新妻の腹が、空腹から鳴るのを聞いて、彼は仰天した。
 「まさか、君、夕食を食べていないのか? ダイエット?」
  アーシャは頬を染め、恥ずかしがって俯いてしまった。
 「いいえ、貴方の食事が終わったらしようと思って」
 「今、一緒に食べればいいじゃないか、テーブルには二つ椅子がある」
  彼女にはリンゼイの声が低くなって、こめかみが赤くなり、剣呑な口調の訳が分からない。
 「ですが、ヒンドゥーでは……」
 「主婦の位が下だから? 妻と一緒に食事をしちゃいけないなんてことを信じてるのか? 馬鹿らしい、君が腹を空かしているのに自分だけ食べても美味しくないね!」
  思った以上に怒って、フォークをテーブルに投げ出した夫に、アーシャは呆然とする。
 「でも母がそういったから……お許しを、サー」
  見る影もなくシュンしたアーシャに、悪気など欠片もないのは分かっている。リンゼイもそれを見て、彼女に当たってしまった自分の軽率さに意気消沈した。
  自分はただ、疲れて帰って来て共に幸福に酔いたいのに、腹も満たせていないなんて――自国が大好きな英国人が離れて暮らし、意に沿わない生活をしている唯一の慰めは、妻が充実していると思えばこそ。ずっと愛する女が食事をしていないことにも気づかなかったとは、鈍感な自分に腹が立った。彼女はあんなに食べるのが好きなのに。
  リンゼイは給仕の為に立ったままでいたアーシャを、膝の上に抱き寄せ、片膝に座らせた。指でドライ・カレーの中のジャガイモを摘まみ、彼女の口に持っていく。アーシャは同じ食器を使って善いものか逡巡して、口を開けない。リンゼイが優しく命じる。
 「食べて」
  彼女は男をじっと見つめ、口を開いて受け容れ、噛み砕いて嚥下した。動く唇の何と男心を擽ることか。その可愛らしい一種の女陰のような口に何かを押し込むのは、それが自分の身体の他の部分でなくとも、指であれば淫靡である。
 「美味しい?」
  アーシャの目が伏せられ頷かれて、リンゼイは今度はライスを口に運んでやった。同じように指で何度かカレーと米を食べさせて、彼女が行為に慣れ、指からカレーの滓や米粒を舐めてきて、彼は心臓が鷲掴まれた気がする。唇の離れるチュッという小さな音が、切ないほど彼の情欲を滾らせる。彼女は何も気づいていないが、男にとっては軽い拷問みたいだ。程無く、アーシャは自らスプーンを取って食べ始めた。
  指についた汚れを自分で舐め取りながら、リンゼイが密やかに嘆息する。
  彼女はいつまでも懐かない野生動物みたいな所がある。もっと一足飛びに、仲良くなりたい。可能ならばテーブルの上の食材を床に払い、その上に押し倒して抱いてしまいたい。だが、隙を突いてその口に接吻しても、それが深くなるまでにアーシャがやめたので、リンゼイはその瞳を見る。
 「君が悪魔教に改宗しても僕は支持するけど、食事は先に食べて欲しい、いいね?」
 「はい」
  結婚して初めての揉め事が、食事の仕方だとは思わなかったが、アーシャはいつも何より先にシャワーを浴び、食事を摘まんでから待っているようになった。
  結婚したら夫婦は一緒に住むものだという英国の倫理観から、新婚当初から別居状態のリンゼイはからかわれたり、懸念されたりと、高いプライドが傷付くような嫌なこともあった。金髪碧眼やブルネットの白い肌をした同族の女友達は、リンゼイがアジアの女を選んだことに少々屈辱を感じており、彼女たちとの付き合いは暫らくの間冷え冷えとしていたし、打って変わって同性の友人や同僚は「お前も男だったのか!」と、強い仲間意識を抱いて下世話になった。欧米の男が一度は抱く夢を叶えた彼に対して、羨望あるいは非難を込めて賞賛してくるのだが、心外だ。
  今までも彼を惹き付けた女たちは皆女らしくて、意志が強くて、我が儘な感じのする女ばかりだった。アーシャはそうではない、と思うのは間違っている。こんな生活をさせる女を、従順であるとはいい難い。
  しかしそれは、ただ単に感情を押し通す類の我が儘ではなく、彼女の人生の一部なのだ。リンゼイはそれを良く理解していたし、何より彼女は彼を大事にしてくれている。会える喜びに様々な不満は掻き消されるほどに。
  一生懸命仕事をして、夫に愚痴を聞かせないアーシャを見る度に愛惜の念に襲われ、言動と行動に移さずにはいられなくなってしまう。男の棹差す思いの表現として、独りでいる時にすることは一つではあるが。
  初めて寝たときよりも鮮明に思い出すのは、結婚した初夜のことだ。処女ではなかったが、まだ挿入すら五回目だったアーシャを気遣わねばならないのは同じでも、しっかりと溢れさせればもう入れた時の衝撃を慮る必要はなかった。
  「永遠に君を愛するよ」「貴方に一生仕えます」……これから成就されるであろう貞節の誓いを述べ、お互いの愛を確認する。特に女には分からない、男だけが負う結婚の重責は夫婦関係への高揚に置き換えられた。初めて寝た夜よりも激しく結ばれ、蹂躙することが許された夜だ。いつも恋しかった。
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