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インディア~親蜜の香り~その二章 6

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 その後――アーシャが英国に滞在する二週間の休暇、帰国の二日前に二人は結婚した。役所が認可した海辺のレストランで、結婚登記官二人の前での申請式である。結婚登記所レジスターオフィスには費用は払っておいた。今でも英国は、カトリックとプロテスタントを融合させた英国国教会が支配している、との見方も強いが、実はどんどん無信仰の人間が増えており、知識階級にも多い。フォックス家もそうであるが、この日は趣を変えた。
  これからどうするのか、どちらの国に住むのか、すべて決まっていない中での挙式である。彼女が二の腕を出すドレスを拒んだので、ウェディングドレスはジュリエットドレスになってしまった。長袖で裾も長く、二の腕が絞ってあって長いパフスリーブの様になっており、袖は大きく開いている。それにスパンコールが沢山ついた白い靴に、レースの被り物。良くいえば古風、悪くいえば時代遅れのナイトドレスは、売れない演劇を思わせる。致し方なかろう、インドでは女性が二の腕や髪を見せることが禁じられている。
  しかしセンスを差し引いても、白いレースのウェディングドレスは、茶色い肌と黒い髪を信じ難いほど引き立てていた。襟足で編み込んで纏めた髪に、レースの下の顔は悦びに輝いている。
  リンゼイは彼女に合わせて、やはり古風な詰襟の黒いタキシードにした。急ぎの挙式であり、正装も挙式会場も借り物である。本当なら彼は家にあるタキシードと、恋人の一番似合うワンピースに白い被り物だけで挙げるのが夢だったのだが。リンゼイが抱いていた結婚式の夢で叶ったのは、場所だけだった。海が見える小さいレストランを貸切にして、簡素な板張りの小さな舞台を誂え、木製の椅子を家族や親しい友人分だけを並べる。
  寛容な牧師に結婚の誓いを立てて、花婿は花嫁の手の甲に軽い接吻を落とす。衆目の面前でのキスなど、この新婦には荷が重過ぎるのだ。また兄と親友がが結婚の証人としてサインをしてくれれば終了である。リンゼイの説得により、彼女は義兄となる男にも挨拶してくれた。ヒンドゥーの因習では、両親、兄弟、兄弟それぞれの妻が同居することがある。その時、弟の妻は自分の義兄の前に姿を現してはいけないことになっていた。馬鹿げた話だが、年下の弟嫁が義兄を誘惑しないようにという戒めである。
  お互いに飛行機で海外へ行くのは慣れっこなので、蜜月旅行はたった一夜、リンゼイのベッドに限られた。
  しかし、彼はもっと大きな衝撃を受けることになるのだ。新妻についてニューデリーのバルデーオン旧市街に同行し、結婚の事実をインドの両親に話し、義父と義弟という証人を得る。
  そしてヒンドゥー寺院でバラモン僧の前で宣誓の署名し、僧侶の副署によって正式に登録され、一週間後の婚姻証明書を待つばかりとなった、その日の午後、実家に戻ったアーシャが、家に軟禁されてしまったのだ!
  つまりリンゼイが彼女の家の前で別れた次の日、彼が小さな花束を持って訪れても新妻に会うことはできなかった。その次の日も、そのまた次の日も、そういうことが続いたのである。
  彼はホテルに部屋を取って彼女を待つことになっているのに、誰だか分からない象の如く肥った女が何人も出入りし、リンゼイを品定めする。家の中にアーシャがいるはずなのに、彼女はおろか義母にも義姉にも会えない。リンゼイがいい知れぬ恐れと苛立ちから扉から押し入ろうとする度、義父と義弟に止められた。
  準備中なんだから邪魔してはいけない、彼女たちは私や妻の伯母たちです、これが儀式なんです。
  どうやら、ヒンドゥーたちから外部者として引き離されているわけではない様だ。リンゼイは「男」として、花嫁の儀式から排除されているに過ぎない。ここでは男女の結合に、密なる女だけの儀式が必須なのだという。
  こういった男子禁制の儀式においては、女たちは専制君主の様に振る舞うものらしい。これも英国と違う。
  男は女だけの儀、出産や娘の育児、結婚についても踏み込んで相談に乗ることができる。というよりも、こんな封に男女の性別だけでこんなに差別されることなどない。彼女たちは自分たちが性別だけで虐待されている腹癒せに、こういった女だけの秘儀の権利を行使しているのだ。
  文句があるなら、戦えばいいではないか。気に入らない。英国の女は今でも表向き淑女だが、裁判では一歩も引かない。こんな方法を採るなんて卑怯ではないか。アーシャが聞いたら、無知なのは彼女たちのせいではありません、と涙ながらに嘆き訴えるだろう。インド女性は社会からも、男からも、宗教からも虐待され、文字も教えられずに閉じ込められている、と。中世の英国のようなものだと思えば溜飲も下がる、それは分かるのだが……。
  男たちと近くの茶屋で屯しながら、内部から聞こえてくる妖しげな女たちの呻き声に、リンゼイの苛立ちと不安は掻き立てられ続ける。彼は男として差別されたことはなかった。新郎の頭には、薬草や呪術で自分の大切な新婦が洗脳されないか、寧ろ穢されないかとそればかりがあった。
  一週間後も過ぎてしまい、挫折感の中でリンゼイは空港と両親に電話を入れる。「もう数日休暇を取ろうかと思っています。申し訳ありません、此方で食中りを起こしたのか動くこともできないので」。それからヒンドゥー男の家族に連れられてホテルに戻ったリンゼイの前に、部屋の床に座ったアーシャの姿があった。
  いや、彼にはその豪奢な布の塊が一瞬、何なのか分からないでいたが、薄布の赤に金糸の刺繍がびっしり縫い込まれた被り布の縁を飾る金房が揺れて、それが等身大の人形ではなく生きた人間だとやっと理解する。
 「アーシャ、アーシャ!」
  驚きと喜びで駆け寄って、リンゼイは立ち止まる。赤、緑……対極色の布に色彩様々、華美な刺繍が施され、彼女の全身を隠している。
  彼がそっと頭から尻の方までを覆う被り布を外すと、髪に燻し金の虚飾を編み込まれ、それに連なった額飾りが額を殆ど覆って目深となっていた。首には珊瑚、トルコ石、金銀硝子玉で作られた何連もの首飾り。肌を見ると、首から頬、何個もの腕輪で隠された腕まで、また露わな臍と肋骨、緑色の薄物に覆われた脹脛から足輪が嵌まった爪先までも青い塗料で精密な唐草模様が描かれていた。
  彼女は色の洪水の中でしどけなく横座りし、ゆっくりと彼を見た。一際黒く縁取られた瞳、気怠そうで緩慢な動作は、彼女がまるで古代インド王宮の供物として捧げられた美しい美妓であるかのような錯覚を起こさせる。
  ヒンドゥーでは、女は奴隷として扱われるので、殊更間違っているわけではない。結婚式において、花嫁は夫という生殺与奪の権利を持つ神に手渡されるのだ。
 「アーシャなのか?」
 「はい」
  彼女は男心を淫するような、唇の端だけ上げる微かな笑みを浮かべた。
 「凄く、……その、綺麗だ」
 「母の花嫁衣裳です、また返すつもりだけれど」
  そうか。女たちは彼女にこの恰好をさせ、この紋様を腕と腹と脚に印する為に軟禁していたのだ。インドに伝わる凄絶なまでの花嫁衣裳は、元々インド人女性として美貌に恵まれたアーシャを精妙に作り上げられた典麗典雅な芸術品にまで高めていた。まるでアーシャではない様だ、少女神か生き神――。
  リンゼイがその美に心奪われ、目を見張っていると、生き神が再び身動ぎして飾りがシャラシャラと鳴った。
 「重くて動けないのです、サー」
  彼は思わず苦笑し、ゆっくり一つずつ、装飾品と布を取り去る。驚くべきことに、それらの重さは彼女以上、嵩はこのホテルの床すべてを覆うほどあった。その細い肉体の肌には足の裏から襟足まで、青い唐草が這っている。広い面積を有する背中は特に見物だった、デフォルメされた孔雀が唐草の中で羽ばたいている。
  二人は足の踏み場がない床からベッドに移動して、リンゼイは恐る恐る背に手を触れる。
 「これは、まさか刺青なのか?」
 「いいえ、ヘナです」
 「ヘナか……」
 「花嫁の処女にだけ描かれるものなんです、でももう……私は汚れてしまったのにいい出せなくて……」
 「君が汚れてるだって!?」
  恥じ入ったように首を垂れる花嫁に、リンゼイが憤慨する。
 「馬鹿な、君ほど綺麗な人はいないのに!」
  肉体だけじゃなく、心も、その生き方だって。
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