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1巻
1-2
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☆
冒険者協同組合、通称冒険者ギルド。そこは、入会した冒険者への任務の斡旋や素材の取引を行う相互扶助組織だ。
そんな冒険者ギルドの二階に位置するギルド長専用の書斎にて。
浮かない表情をするギルド長の女、ラーネシア・ラウネは大きな溜息を吐く。
その様子を見て、側にいる男が冷や汗を浮かべながら手もみする。
「まあまあ、そう落ち込まないでください。へへっ。今回はたまたま上手くいかなかっただけのこと」
「へえ。そうなんですね」
ラウネが男に送る視線は冷たい。
グルーデン一番の、いやこの国一番の解呪師だというからこの男に依頼したのに、とある呪いの前に手も足も出なかった。にもかかわらず、料金はこうして徴収しに来るのだ。
思わずラウネは言う。
「本当にあなた、解呪師なんですか?」
「な、な、なにを馬鹿なことを! 天下一の解呪師こと、このロールマンを、愚弄するのですか!?」
(誰よ。知らないわよ)
ラウネは心中で見切りをつけながらも、にっこり笑みを浮かべる。
彼女にとっては完全な愛想笑いだが、周りから見ると天使の微笑みのように見えるらしい。
「し、しかしアレは相手が悪かったですな。王宮騎士であるラウネ様の妹君――ラウラ様が呪いを受けてしまわれるだなんて」
「あら、知っていたのですか?」
ラウネは得体の知れない男にむざむざ妹の素性を話すなんて迂闊な真似はしていない。
だがそこを見抜いている辺り、彼が一流の解呪師であることは確かだった。
「もちろんですとも。あの鞘に付いていた鷲と麦の紋章、アレはこの国のトップ、王宮に仕える者しか付けることを許されないものですからな」
王宮騎士――王族の剣。この国が誇る最強の精鋭部隊。
そんな王宮騎士でありながら簡単に呪いを受け、しかも呪いを受けたことにすら気付いていない妹を思い、ラウネは心配を通り越して、もはや呆れすら感じていた。
「呪いは相手の実力が高ければ高いほど、かけるのが難しいのです。解呪するのもまた然りですな」
「つまり今回はそのせいで難度が格段に高かったから失敗しただけだ、と」
「ええ、それこそ魔術師のエリートこと王宮魔術師が数名集まって数日連続で解呪を施して、やっと成功するレベルかと。なんせこの私が失敗したのですからな!」
何故誇らしげなんだと思いつつも、ラウネはスルーする。
それよりも、結局振り出しに戻ったことに彼女は頭を悩ませていた。
「誰か解呪できる人間はいないのでしょうか」
「グルーデンにはまずいないでしょうな」
数秒の沈黙の後、ラウネはあることを思い出し、呟く。
「そういえば昨日、魔術師について報告がありましたね……」
それは高級馬車の護衛任務に当たっていたBランク冒険者パーティ『銀翼の旅人』から受けた報告だった。
曰く『通りすがりの凄腕魔術師に何度も助けられた』と。
『銀翼の旅人』といえば、ここら一帯でもかなり名前の知れたベテランチームだ。そんな彼らがここまで評価するということは、そこらのはぐれ魔術師ではないのだろう。
その魔術師は十体ものゴーレムを召喚し、高価な治癒スクロールを分け与えたらしい。
ゴーレム召喚は比較的簡単な魔術だが、十体同時に召喚するなんて聞いたことがない。
それに治癒スクロールは、大変高価。治癒魔術を使い熟すためにはかなりの練度を必要とするし、ポーションは嵩張る上に一度に使える量に上限があるからだ。
ラウネは懐から『銀翼の旅人』に譲ってもらったスクロールを取り出す。
そこには治癒魔術が簡略化された高度な術式が描かれている。一般人が見れば落書きだと断じてしまうだろう。しかし見る者が見れば、それは実に合理的で芸術的な美しささえ感じられる代物である。
それを安易に与えるとは、とても只者だとは思えない。
ラウネはそんな姿も知らぬ彼の話をロールマンにする。その上で試しに提案してみる。
「その通りすがりの魔術師なら、解呪法を知っていませんかね?」
すると、ロールマンはフッと鼻で笑った。
「まさかそんな話を信じておられるので? 通りすがりの魔術師がゴーレム? スクロール? ははは、それが本当だったら裸で街を一周してやりますよ!」
「普通に考えればそうですよね」
普通に考えれば。Bランクパーティが話を盛っている、あるいはデタラメを話しているとしか思えないだろう。
だがラウネは、それがただの噂には思えなかった。
確かにそんな芸当は生半可な魔術師では行えない。
しかし、この世には奇跡をいとも容易く起こす化け物もいる。
大杖を背負った男。そして信じられないような魔術。
『銀翼の旅人』から聞いた魔術師の特徴は、ラウネにとある人物を思い起こさせる。
それはラウネの魔術師としてのプライドをへし折った、魔術学園時代に出会った化け物――
「ドーマ先輩……」
しかし、ラウネは「そんなまさか」と自分の考えを笑うのだった。
2
護衛付きの馬車は大体馬車ギルドにて借りられるが、ごく稀に冒険者ギルドでも依頼人を募集している。
だから、その一縷の望みにかけてギルドまで足を運んだ。
ちなみに俺、ドーマも昔に一度冒険者登録をしたことがあった。結局、魔術師としての勉強が忙しくてDランク程度で辞めてしまったけど。
冒険者ギルドのグルーデン支部に着くと、既にそこは多くの冒険者たちで賑わっていた。
北にある定刻には獣人が多く住む。この街は帝国に近いので国民の中で獣人が占める割合が高く、辺境の地で魔物と戦う機会もそこそこあり、王都よりは冒険者のレベルも高い。
中に入ると俺は値踏みするような好奇の目に晒された。
冒険者の中には剣士などのジョブが存在する。
その中でも基本的に、冒険者の魔術師ジョブに対する評価は低い。
冒険者が使うようなレベルの魔術だったら、走って殴った方が強くて早いからである。
ちなみに、世間一般の評価もそれと大差ない。
そんなことを気にしても仕方ないので、俺は素知らぬ顔で受付へ向かう。
治安の悪い街なら足でも引っ掛けられるところだが、グルーデンは穏やかな街なので受付へストレートインだ。
「すみません、ローデシナ行きの護衛依頼を探しているんですが」
俺の言葉に、受付嬢の猫耳がぴょこんと反応した。
獣人のギルド職員は他の街にはあまりいないから、これもグルーデンならではと言える。
受付嬢は俺の大杖を見て少し眉を顰めるが、それをすぐに引っ込めて応対してくれる。
「にゃ? ローデシナ行きですかにゃ? はてさて、そんなもの……」
ペラペラと手元の紙束を捲り、少しして手を止めた。
「ありましたにゃ。ちょうど今日募集を始めたばかり! あなた運がいいですにゃ!」
「本当ですか!?」
辺境行きの依頼なんて滅多にないはずだが、偶然、商人の護衛依頼が今日出されたらしい。
不人気なのでしばらくは余っていただろうが、ラッキーであることは確かだ。
受付嬢は言う。
「では冒険者プレートを見せて頂いてもよろしいですかにゃ?」
「ええどうぞ」
冒険者プレート。身分証として使う人も多いそれは、冒険者にとってまさに必須のものだ。
でも、俺が最後に冒険者として活動したのって何年前だっけ。
確か八歳の頃とかだし……プレートは随分と傷んでいるな。
「にゃにゃ、これは……」
プレートを受け取ると受付嬢は目を見開いた。
なんだ? 普通の冒険者プレートだと思うんだが。
「……期限が切れてるにゃ」
「へ?」
何だそれは。確かに十年前のものではあるが、プレートに期限切れとかあるの?
「これは二世代前のプレートにゃ。プレートとギルド規則は五年に一度、更新があるにゃ。更新しないと……もれなく失効だにゃ」
な、なんだって?
「つまり俺は依頼を受けられないってことですか?」
「そうにゃ。身元保証人がいれば更新できるにゃ……」
身元保証人? つまりは知り合いってことか。知らない言葉ですね。
今まで俺は魔術師生活にどっぷりだったので、当然冒険者の知り合いなどいない。なんなら冒険者でない知り合いだっていない……零れ落ちる涙。
「いませんね」
「じゃあめでたく初めのFランクからにゃ」
なんて融通が利かないんだ! と思いたくなるが、俺も公務員だったので規則がどうにもならないことは知っている。こうなってしまえば仕方ない。
受付嬢はにゃんにゃん言って受付テーブルに貼ってある紙を指し示す。
『登録料:金貨一枚』
意外と高い。あの『木漏れ亭』でも十泊ぐらいできる価格だ。
冒険者ギルド、意外とあくどいぜ。
とはいえ、ここで文句を言っても仕方ないので、必要事項を記入して金貨を渡す。
「元Dランクとはいえ、新人はもれなく講習を受ける必要があるのにゃ。それが終われば晴れて、依頼を受けられるにゃ。面倒だけど頑張るにゃ!」
「ありがとうございます」
受付嬢は親指を立ててウインクする。
講習は数分で終わる程度のものらしい。どうせなら、頑張るとしよう。
それから俺は、ギルドの奥まった部屋へ案内される。
扉の上には「冒険者ギルド 魔術部」の文字。何故だか昔通っていた魔術学園を思い出した。
「すみません、講習を受けるよう言われたんですが」
そう口にしながら扉を開けると、そこはこぢんまりとした部屋だった。
中では男が一人、黙って机の方へ向かっている。
机の上は散らかり放題で髪はボサボサ、身だしなみなんて気にしない、というまさに魔術師のテンプレートみたいな男だ。
「一体何故この魔法陣は成り立っているんだ?」
そんなことを呟きながら彼は机の上にある紙を眺めている。
俺に気が付いていないようなので、こっそり後ろから覗くと、それは一枚のスクロールだった……っていうか俺が昨日、冒険者にあげた治癒スクロールじゃねぇか。何故彼が持っているんだ。転売とかだったら嫌だなあ。
俺は声をかける。
「あのー」
「うわっ! なんだね君は!」
「あ、講習を受けに来た新人です」
「ああ新人講習ね。私は魔術部長のロダーだ」
眼鏡をかけた三十代ぐらいの男、ロダーさんはズレた眼鏡を直しながら俺を見ると、人の好さそうな笑みを浮かべた。俺は彼と握手を交わして名乗る。
「ふむ、ドーマ君か。いい名前だ。昨今は魔術師希望が少ないから嬉しいね」
隣の『剣士部』はこの部屋の倍ぐらいありそうだったし、魔術師は相当過疎っているのだろう。『部』という名を冠しているのに、部屋に一人しかいないし。
「ところで講習って何をするんですか?」
俺が聞くと、ロダーさんは苦笑いを浮かべる。
「実は講習と名前が付いているものの、やることは少し話をして、それから適性を見るだけなんだ」
そう言ってロダーさんは戸棚から一冊の本を出して、俺に手渡してくる。
本の名前は『魔術基礎』。本当に基礎中の基礎の魔術教本だ。
一歳ぐらいの時に読んだなあ。
「お、読んだことあるといった顔だね。最近は基礎を飛ばす魔術師も多いから……」
「基礎を飛ばすとロクなことにならないですからね」
「そうなんだよ」
「わかってるね」と呟きながら、ロダーさんは「じゃあこれはどうだい?」と他の本を俺に手渡してくる。
そちらは『召喚魔術入門』。さっきのとあまり変わらない、基礎の基礎について書かれた本だ。これは三歳ぐらいで読んだ。
「む、これも読んだのかい。やるね! じゃあ待てよ……流石にこれは読んでないだろう!」
次は『複層式連立魔法陣による混合魔術解析』。
どこかで聞いたことがあると思ったら、俺が六年前に書いた論文だった。
あまり反響がなかったのだが、まさかこんなところで目にするとは。
思わず呆けてしまった俺に、ロダーさんは言う。
「少し意地悪すぎたかな。これは私が好きな王宮魔術師の方が書いたものでね。私は最新の研究をいつも追っているからこうして薦めたが、世間では複雑すぎてあまり理解されていないんだ。きっとこれを書いたのは、思慮深く、魔術に精通した渋い老紳士に違いないね」
……まさかロダーさんも、後に上司に頭突きをぶちかます十二の若造がこれを書いたとは夢にも思わないだろう。知らない方が幸せなことってあるよね。
「ああ、すまない。また自分の世界に入ってしまったようだ」
「い、いえいえ。きっとその魔術師の人も嬉しいですよ」
目の前でストレートに言われると照れるな。
「そうだね。ああ、こんな話をしていたら私も研究がしたくなった。君の知識なら講習はいらないだろう。そうだな……あとは、まあ得意な魔法陣でも描いてもらおうかな」
そう言うとロダーさんは俺に紙とペンを手渡し、「できたら置いておいてくれ。また後日呼ぶよ」と残してまた机に向かってしまった。
講習とは……って感じだったが、愉快な人だったので有意義な時間ではあったな。
さて、得意な魔法陣か。そんなものはない。
しかし白紙で出すのも悪いので、適当にさっと治癒魔法陣を描いておいた。
ロダーさんがずっと向き合っていたのが俺の描いた治癒魔法陣だったのを思い出したのだ。
きっと彼は治癒魔法陣が好きなのだろう。好きなものを提出されて嫌がる魔術師はそういない。
魔術師は魔法陣に関してフェチを持っていることが多く、そこに刺さるような提出物にしたわけだ。媚びって大事だ。
ちなみに俺は、魔法陣にミスが生じていた際に、魔術爆発が起こる寸前の発光フェチである……どうでもいいな。
魔術部を出て受付嬢の方へ戻ると、彼女はすでに依頼を確保してくれていた。
「お疲れ様だにゃ」
そう言いながら受付嬢は依頼書と一緒に、一杯の白湯を出してくれた。
「……美味しい」
俺は思わず呟く。
そういえば、今までは頑張っても「お疲れ様」なんて言ってくれる人なんていなかった。
殺伐とした魔術師生活を思い出して、ついほろりと涙が出てきそうになる。
どうやら思っていたより心が消耗していたらしい。
「出発は三日後なので、それまでに準備を済ませておくにゃ」
受付嬢はそう言って奥に引っ込んでいった。
俺はギルドを後にする。
それから適当にグルーデンの街をぶらついていたのだが、割と疲れていたことに気付く。
疲れを癒しに木漏れ亭へ戻ってくると、宿に入るなり女将に呼び止められる。
「ちょいとアンタ」
「ん? 何ですか?」
「何ですかじゃないよ。ほらあの子、今日ずっとここにいるんだよ」
「え?」
見てみると、大食漢ことラウラが食堂でひっそり座っている。
まさか今日、ずっとあそこに座っているのか?
女将さんは俺の心を読んだかのように頷く。
「寝ているのかと思って近付くと、ぼーっとどこかを見てんだよ。気味が悪いからどうにかしておくれ」
そんなことを言われても……と思いながらも俺はラウラに近付く。
「ラウラさん?」
「ん、なに……です?」
寝ているかと思ったがやはり起きていたようだ。
「何をしていたんですか?」
「木目」
「え?」
「木目を数えてたました」
俺は絶句する。
怖いわ! 食堂の壁にある木目をひたすら数えるってなんの拷問?
「落ち着くです」
「そ、そうですか。ところで今からイイトコに行こうと思うんですが、ラウラさんもどうです?」
「……どこ?」
「ふふふ、それは――」
☆
「ラ、ラウネさん! これを見てください!」
ギルドの仕事を終わらせたラウネが帰宅の準備をしていると、ボサボサの髪をした男――ロダーが眼鏡をずり下ろしながら、バタバタと書斎に駆け込んできた。
ロダーは、ギルド長のラウネがまだ帰っていないことに胸を撫で下ろす。
「ああ、良かった。ギルド長の反応が明日まで待ち切れませんでしたからね」
「あら、それはどういうことですか?」
そう問うラウネは、ロダーのことを割と信用している。
魔術にしか興味がないため裏表がなく、持ってくる情報も有益なものが多いためだ。
それもそのはずで、ロダーの胸元には国家魔術師だということを表すバッジが光っている。
国家魔術師は、三つある魔術師資格の一つだ。
魔術師資格は、取得が難しい順に並べると王宮魔術師、国家魔術師、そしてただの魔術師資格となる。一番下の魔術師資格を持っている人間は少なくないが、それより一つ上の国家魔術師になると難度がぐんと跳ね上がるのだ。
ロダーはグルーデンで唯一の国家魔術師。魔術学園で首席になれるほどの才能を持っている。
そんな彼が持ち出してきたのは、一枚の紙だった。
「これを見てください。とある新人の描いた魔法陣なんですが」
「へえ、魔術師を志す者が現れるだなんて珍しいですね」
(魔法陣が描けるということは、大方学園出身者か金持ち、または貴族家出身でしょう……)
ラウネはそう推理する。
エリート志向の強い魔術師が冒険者になることはそうない。そんな中でも魔術師を志すような人間は落ちこぼれていることが多いので、ラウネは期待値を下げる。
ロダーが差し出してきた、一見すると荒っぽく完成度の低い魔法陣。
それを少し眺めて、ラウネは言う。
「どうやら治癒魔法陣のようですね?」
「ええ、構成もグチャグチャで線も雑、一見すると最低レベルの魔法陣です」
一見すると――という言葉は、本質はそうではないということとイコールである。
ラウネは再度真剣にじーっと魔法陣を見つめ、ハッと顔を上げた。
「これはあのスクロールの魔法陣と――」
「ええ、そうです。かなり似ている」
そう言ってロダーは胸ポケットから、かのスクロールを取り出し、魔法陣に重ねた。
すると二つの魔法陣はお互いを補完するように、綺麗に結びつく。
「粗雑な魔法陣に見えたのは片方だったから。このスクロールを見ることで先ほどの魔法陣の意図が分かるようになっているんですよ」
ラウネは生唾を呑み込み、口を開く。
「これを描いたのは誰です?」
「新人の……名前はなんだっけな。背中に大杖を背負っていたことは覚えているんですが……」
「大杖ですか」
大杖。「通りすがりの魔術師」の特徴とも一致する。もちろん大杖を持っている魔術師は他にもいるが、二つの魔法陣が、十中八九同一人物だと告げていた。
そこで、唸っていたロダーが顔を上げる。
「ああ、思い出しました! 確かドーマ君と言ったかな」
「ほ、本当ですか!?」
思わずラウネはガタッと身を乗り出し、ロダーはその勢いに若干体を引く。
「え、ええ」
しかし今のラウネにとってロダーの反応など、些末なこと。
ラウネは記憶の中のドーマの顔を思い浮かべる。
(彼が圧倒的な太陽のような存在だとすれば、私は月どころか井戸の中の蛙でしかなかった。『天才』とはコレを言うのかと思い知らされ、私の中の全てが砕かれた。数多の生徒を退学に追いやった彼と魔術学園で会ってから六年。まだ私のことを覚えているのだろうか……)
ラウネは無意識のうちに畏れと希望を抱かずにはいられなかった。
☆
さて、俺、ドーマがラウラとやってきたのは、グルーデンで最高の浴場施設と名高い『白天の湯』だ。街の北部、やや小高い丘の上にあるそこは、『白天』の名の通り、やや霧がかっていて幻想的な雰囲気を醸し出している。
白い大理石の建物に入ると、広いロビーが待ち受ける。
広いのはロビーだけではない。大浴場の他に家族風呂なんてのもあるので、中はかなり広くなっている。王都のどの風呂場よりも豪華なのだ。
今回利用するのはもちろん個人風呂。どうせなら人気のない方がいい。
ああ、金と時間に余裕があるってのは良いことだ……
「ようこそ『白天の湯』へ! 家族風呂のご利用ですか?」
そう尋ねてきた受付のお姉さんに対して、俺は人差し指と中指を立ててみせる。
「ええ、二部屋お願いします」
「二部屋、ですか? 失礼ですが彼女様は……」
「いえ、ただの知り合いなので」
眼力で訴えると、受付のお姉さんは何かを察したようだった。
ラウラはちんまりしているが、一見クールな美少女だ。俺としては妹とかで通すつもりだったが、似ていないので恋人のように思われたのだろう。
ラウラに『心外だ』とか思われていたら俺が死ぬので、そういう勘違いはやめてほしい。
そんなことを考えていると、ラウラがとんでもないことを言い出す。
「一緒がいい」
「は?」
奇天烈な一言に思わず振り向くと、きょとーんとした顔のラウラと目が合う。
澄んだ純なる瞳。眩しい。
……だからと言って、全てが許されるわけではない。
俺は溜息を吐く。
「あのですね。ラウラさん。あなたは立派な女性です。軽々しくそんな発言をしてはいけません。いいですか? 俺は違いますが、世の中の男は狼なんですよ。隙を見せてはいけません」
「?」
わ、わかっているのだろうか……? ぽかーんとしてらっしゃる。
彼女は口を開く。
「お風呂、どうやって入ればいいの?」
俺は混乱する思考をどうにかまとめようとする。
なるほど、そういう可能性もあるのか? 風呂に入る方法がわからないという可能性。確かに一人では心細いだろう。って、いやいやそんなわけ――と、ここで、ごく当たり前かのようにお金を持っていなかったラウラを思い出す。そんなわけあったわ。
はあ。こんな時に頼れる知り合いがいないのが恨めしい。
「いいでしょう。ただし良からぬ誤解を生みたくないのでこれを付けてください」
そう言って鞄から一つの指輪を取り出して渡す。
不可視の指輪。
指輪を装備した人を周囲から見えなくする魔導具――と聞くと、凄まじい一品のように聞こえるが、透明化するのではなく、単に体を霧で覆い、物理的に見えなくするだけのゴリ押し魔導具である。
これを使うと、体は見えないが、霧の集合体がてこてこ歩く不思議な絵面が誕生する。
『魔術師たるもの紳士であれ』。
これは俺の尊敬する魔術師が残したありがたい名言だ。まったくその通りである。
「すごい」
ラウラは不可視の指輪を付けたり外したりしてキャッキャと楽しんでいる。
……もう何でもいいな。
冒険者協同組合、通称冒険者ギルド。そこは、入会した冒険者への任務の斡旋や素材の取引を行う相互扶助組織だ。
そんな冒険者ギルドの二階に位置するギルド長専用の書斎にて。
浮かない表情をするギルド長の女、ラーネシア・ラウネは大きな溜息を吐く。
その様子を見て、側にいる男が冷や汗を浮かべながら手もみする。
「まあまあ、そう落ち込まないでください。へへっ。今回はたまたま上手くいかなかっただけのこと」
「へえ。そうなんですね」
ラウネが男に送る視線は冷たい。
グルーデン一番の、いやこの国一番の解呪師だというからこの男に依頼したのに、とある呪いの前に手も足も出なかった。にもかかわらず、料金はこうして徴収しに来るのだ。
思わずラウネは言う。
「本当にあなた、解呪師なんですか?」
「な、な、なにを馬鹿なことを! 天下一の解呪師こと、このロールマンを、愚弄するのですか!?」
(誰よ。知らないわよ)
ラウネは心中で見切りをつけながらも、にっこり笑みを浮かべる。
彼女にとっては完全な愛想笑いだが、周りから見ると天使の微笑みのように見えるらしい。
「し、しかしアレは相手が悪かったですな。王宮騎士であるラウネ様の妹君――ラウラ様が呪いを受けてしまわれるだなんて」
「あら、知っていたのですか?」
ラウネは得体の知れない男にむざむざ妹の素性を話すなんて迂闊な真似はしていない。
だがそこを見抜いている辺り、彼が一流の解呪師であることは確かだった。
「もちろんですとも。あの鞘に付いていた鷲と麦の紋章、アレはこの国のトップ、王宮に仕える者しか付けることを許されないものですからな」
王宮騎士――王族の剣。この国が誇る最強の精鋭部隊。
そんな王宮騎士でありながら簡単に呪いを受け、しかも呪いを受けたことにすら気付いていない妹を思い、ラウネは心配を通り越して、もはや呆れすら感じていた。
「呪いは相手の実力が高ければ高いほど、かけるのが難しいのです。解呪するのもまた然りですな」
「つまり今回はそのせいで難度が格段に高かったから失敗しただけだ、と」
「ええ、それこそ魔術師のエリートこと王宮魔術師が数名集まって数日連続で解呪を施して、やっと成功するレベルかと。なんせこの私が失敗したのですからな!」
何故誇らしげなんだと思いつつも、ラウネはスルーする。
それよりも、結局振り出しに戻ったことに彼女は頭を悩ませていた。
「誰か解呪できる人間はいないのでしょうか」
「グルーデンにはまずいないでしょうな」
数秒の沈黙の後、ラウネはあることを思い出し、呟く。
「そういえば昨日、魔術師について報告がありましたね……」
それは高級馬車の護衛任務に当たっていたBランク冒険者パーティ『銀翼の旅人』から受けた報告だった。
曰く『通りすがりの凄腕魔術師に何度も助けられた』と。
『銀翼の旅人』といえば、ここら一帯でもかなり名前の知れたベテランチームだ。そんな彼らがここまで評価するということは、そこらのはぐれ魔術師ではないのだろう。
その魔術師は十体ものゴーレムを召喚し、高価な治癒スクロールを分け与えたらしい。
ゴーレム召喚は比較的簡単な魔術だが、十体同時に召喚するなんて聞いたことがない。
それに治癒スクロールは、大変高価。治癒魔術を使い熟すためにはかなりの練度を必要とするし、ポーションは嵩張る上に一度に使える量に上限があるからだ。
ラウネは懐から『銀翼の旅人』に譲ってもらったスクロールを取り出す。
そこには治癒魔術が簡略化された高度な術式が描かれている。一般人が見れば落書きだと断じてしまうだろう。しかし見る者が見れば、それは実に合理的で芸術的な美しささえ感じられる代物である。
それを安易に与えるとは、とても只者だとは思えない。
ラウネはそんな姿も知らぬ彼の話をロールマンにする。その上で試しに提案してみる。
「その通りすがりの魔術師なら、解呪法を知っていませんかね?」
すると、ロールマンはフッと鼻で笑った。
「まさかそんな話を信じておられるので? 通りすがりの魔術師がゴーレム? スクロール? ははは、それが本当だったら裸で街を一周してやりますよ!」
「普通に考えればそうですよね」
普通に考えれば。Bランクパーティが話を盛っている、あるいはデタラメを話しているとしか思えないだろう。
だがラウネは、それがただの噂には思えなかった。
確かにそんな芸当は生半可な魔術師では行えない。
しかし、この世には奇跡をいとも容易く起こす化け物もいる。
大杖を背負った男。そして信じられないような魔術。
『銀翼の旅人』から聞いた魔術師の特徴は、ラウネにとある人物を思い起こさせる。
それはラウネの魔術師としてのプライドをへし折った、魔術学園時代に出会った化け物――
「ドーマ先輩……」
しかし、ラウネは「そんなまさか」と自分の考えを笑うのだった。
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護衛付きの馬車は大体馬車ギルドにて借りられるが、ごく稀に冒険者ギルドでも依頼人を募集している。
だから、その一縷の望みにかけてギルドまで足を運んだ。
ちなみに俺、ドーマも昔に一度冒険者登録をしたことがあった。結局、魔術師としての勉強が忙しくてDランク程度で辞めてしまったけど。
冒険者ギルドのグルーデン支部に着くと、既にそこは多くの冒険者たちで賑わっていた。
北にある定刻には獣人が多く住む。この街は帝国に近いので国民の中で獣人が占める割合が高く、辺境の地で魔物と戦う機会もそこそこあり、王都よりは冒険者のレベルも高い。
中に入ると俺は値踏みするような好奇の目に晒された。
冒険者の中には剣士などのジョブが存在する。
その中でも基本的に、冒険者の魔術師ジョブに対する評価は低い。
冒険者が使うようなレベルの魔術だったら、走って殴った方が強くて早いからである。
ちなみに、世間一般の評価もそれと大差ない。
そんなことを気にしても仕方ないので、俺は素知らぬ顔で受付へ向かう。
治安の悪い街なら足でも引っ掛けられるところだが、グルーデンは穏やかな街なので受付へストレートインだ。
「すみません、ローデシナ行きの護衛依頼を探しているんですが」
俺の言葉に、受付嬢の猫耳がぴょこんと反応した。
獣人のギルド職員は他の街にはあまりいないから、これもグルーデンならではと言える。
受付嬢は俺の大杖を見て少し眉を顰めるが、それをすぐに引っ込めて応対してくれる。
「にゃ? ローデシナ行きですかにゃ? はてさて、そんなもの……」
ペラペラと手元の紙束を捲り、少しして手を止めた。
「ありましたにゃ。ちょうど今日募集を始めたばかり! あなた運がいいですにゃ!」
「本当ですか!?」
辺境行きの依頼なんて滅多にないはずだが、偶然、商人の護衛依頼が今日出されたらしい。
不人気なのでしばらくは余っていただろうが、ラッキーであることは確かだ。
受付嬢は言う。
「では冒険者プレートを見せて頂いてもよろしいですかにゃ?」
「ええどうぞ」
冒険者プレート。身分証として使う人も多いそれは、冒険者にとってまさに必須のものだ。
でも、俺が最後に冒険者として活動したのって何年前だっけ。
確か八歳の頃とかだし……プレートは随分と傷んでいるな。
「にゃにゃ、これは……」
プレートを受け取ると受付嬢は目を見開いた。
なんだ? 普通の冒険者プレートだと思うんだが。
「……期限が切れてるにゃ」
「へ?」
何だそれは。確かに十年前のものではあるが、プレートに期限切れとかあるの?
「これは二世代前のプレートにゃ。プレートとギルド規則は五年に一度、更新があるにゃ。更新しないと……もれなく失効だにゃ」
な、なんだって?
「つまり俺は依頼を受けられないってことですか?」
「そうにゃ。身元保証人がいれば更新できるにゃ……」
身元保証人? つまりは知り合いってことか。知らない言葉ですね。
今まで俺は魔術師生活にどっぷりだったので、当然冒険者の知り合いなどいない。なんなら冒険者でない知り合いだっていない……零れ落ちる涙。
「いませんね」
「じゃあめでたく初めのFランクからにゃ」
なんて融通が利かないんだ! と思いたくなるが、俺も公務員だったので規則がどうにもならないことは知っている。こうなってしまえば仕方ない。
受付嬢はにゃんにゃん言って受付テーブルに貼ってある紙を指し示す。
『登録料:金貨一枚』
意外と高い。あの『木漏れ亭』でも十泊ぐらいできる価格だ。
冒険者ギルド、意外とあくどいぜ。
とはいえ、ここで文句を言っても仕方ないので、必要事項を記入して金貨を渡す。
「元Dランクとはいえ、新人はもれなく講習を受ける必要があるのにゃ。それが終われば晴れて、依頼を受けられるにゃ。面倒だけど頑張るにゃ!」
「ありがとうございます」
受付嬢は親指を立ててウインクする。
講習は数分で終わる程度のものらしい。どうせなら、頑張るとしよう。
それから俺は、ギルドの奥まった部屋へ案内される。
扉の上には「冒険者ギルド 魔術部」の文字。何故だか昔通っていた魔術学園を思い出した。
「すみません、講習を受けるよう言われたんですが」
そう口にしながら扉を開けると、そこはこぢんまりとした部屋だった。
中では男が一人、黙って机の方へ向かっている。
机の上は散らかり放題で髪はボサボサ、身だしなみなんて気にしない、というまさに魔術師のテンプレートみたいな男だ。
「一体何故この魔法陣は成り立っているんだ?」
そんなことを呟きながら彼は机の上にある紙を眺めている。
俺に気が付いていないようなので、こっそり後ろから覗くと、それは一枚のスクロールだった……っていうか俺が昨日、冒険者にあげた治癒スクロールじゃねぇか。何故彼が持っているんだ。転売とかだったら嫌だなあ。
俺は声をかける。
「あのー」
「うわっ! なんだね君は!」
「あ、講習を受けに来た新人です」
「ああ新人講習ね。私は魔術部長のロダーだ」
眼鏡をかけた三十代ぐらいの男、ロダーさんはズレた眼鏡を直しながら俺を見ると、人の好さそうな笑みを浮かべた。俺は彼と握手を交わして名乗る。
「ふむ、ドーマ君か。いい名前だ。昨今は魔術師希望が少ないから嬉しいね」
隣の『剣士部』はこの部屋の倍ぐらいありそうだったし、魔術師は相当過疎っているのだろう。『部』という名を冠しているのに、部屋に一人しかいないし。
「ところで講習って何をするんですか?」
俺が聞くと、ロダーさんは苦笑いを浮かべる。
「実は講習と名前が付いているものの、やることは少し話をして、それから適性を見るだけなんだ」
そう言ってロダーさんは戸棚から一冊の本を出して、俺に手渡してくる。
本の名前は『魔術基礎』。本当に基礎中の基礎の魔術教本だ。
一歳ぐらいの時に読んだなあ。
「お、読んだことあるといった顔だね。最近は基礎を飛ばす魔術師も多いから……」
「基礎を飛ばすとロクなことにならないですからね」
「そうなんだよ」
「わかってるね」と呟きながら、ロダーさんは「じゃあこれはどうだい?」と他の本を俺に手渡してくる。
そちらは『召喚魔術入門』。さっきのとあまり変わらない、基礎の基礎について書かれた本だ。これは三歳ぐらいで読んだ。
「む、これも読んだのかい。やるね! じゃあ待てよ……流石にこれは読んでないだろう!」
次は『複層式連立魔法陣による混合魔術解析』。
どこかで聞いたことがあると思ったら、俺が六年前に書いた論文だった。
あまり反響がなかったのだが、まさかこんなところで目にするとは。
思わず呆けてしまった俺に、ロダーさんは言う。
「少し意地悪すぎたかな。これは私が好きな王宮魔術師の方が書いたものでね。私は最新の研究をいつも追っているからこうして薦めたが、世間では複雑すぎてあまり理解されていないんだ。きっとこれを書いたのは、思慮深く、魔術に精通した渋い老紳士に違いないね」
……まさかロダーさんも、後に上司に頭突きをぶちかます十二の若造がこれを書いたとは夢にも思わないだろう。知らない方が幸せなことってあるよね。
「ああ、すまない。また自分の世界に入ってしまったようだ」
「い、いえいえ。きっとその魔術師の人も嬉しいですよ」
目の前でストレートに言われると照れるな。
「そうだね。ああ、こんな話をしていたら私も研究がしたくなった。君の知識なら講習はいらないだろう。そうだな……あとは、まあ得意な魔法陣でも描いてもらおうかな」
そう言うとロダーさんは俺に紙とペンを手渡し、「できたら置いておいてくれ。また後日呼ぶよ」と残してまた机に向かってしまった。
講習とは……って感じだったが、愉快な人だったので有意義な時間ではあったな。
さて、得意な魔法陣か。そんなものはない。
しかし白紙で出すのも悪いので、適当にさっと治癒魔法陣を描いておいた。
ロダーさんがずっと向き合っていたのが俺の描いた治癒魔法陣だったのを思い出したのだ。
きっと彼は治癒魔法陣が好きなのだろう。好きなものを提出されて嫌がる魔術師はそういない。
魔術師は魔法陣に関してフェチを持っていることが多く、そこに刺さるような提出物にしたわけだ。媚びって大事だ。
ちなみに俺は、魔法陣にミスが生じていた際に、魔術爆発が起こる寸前の発光フェチである……どうでもいいな。
魔術部を出て受付嬢の方へ戻ると、彼女はすでに依頼を確保してくれていた。
「お疲れ様だにゃ」
そう言いながら受付嬢は依頼書と一緒に、一杯の白湯を出してくれた。
「……美味しい」
俺は思わず呟く。
そういえば、今までは頑張っても「お疲れ様」なんて言ってくれる人なんていなかった。
殺伐とした魔術師生活を思い出して、ついほろりと涙が出てきそうになる。
どうやら思っていたより心が消耗していたらしい。
「出発は三日後なので、それまでに準備を済ませておくにゃ」
受付嬢はそう言って奥に引っ込んでいった。
俺はギルドを後にする。
それから適当にグルーデンの街をぶらついていたのだが、割と疲れていたことに気付く。
疲れを癒しに木漏れ亭へ戻ってくると、宿に入るなり女将に呼び止められる。
「ちょいとアンタ」
「ん? 何ですか?」
「何ですかじゃないよ。ほらあの子、今日ずっとここにいるんだよ」
「え?」
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まさか今日、ずっとあそこに座っているのか?
女将さんは俺の心を読んだかのように頷く。
「寝ているのかと思って近付くと、ぼーっとどこかを見てんだよ。気味が悪いからどうにかしておくれ」
そんなことを言われても……と思いながらも俺はラウラに近付く。
「ラウラさん?」
「ん、なに……です?」
寝ているかと思ったがやはり起きていたようだ。
「何をしていたんですか?」
「木目」
「え?」
「木目を数えてたました」
俺は絶句する。
怖いわ! 食堂の壁にある木目をひたすら数えるってなんの拷問?
「落ち着くです」
「そ、そうですか。ところで今からイイトコに行こうと思うんですが、ラウラさんもどうです?」
「……どこ?」
「ふふふ、それは――」
☆
「ラ、ラウネさん! これを見てください!」
ギルドの仕事を終わらせたラウネが帰宅の準備をしていると、ボサボサの髪をした男――ロダーが眼鏡をずり下ろしながら、バタバタと書斎に駆け込んできた。
ロダーは、ギルド長のラウネがまだ帰っていないことに胸を撫で下ろす。
「ああ、良かった。ギルド長の反応が明日まで待ち切れませんでしたからね」
「あら、それはどういうことですか?」
そう問うラウネは、ロダーのことを割と信用している。
魔術にしか興味がないため裏表がなく、持ってくる情報も有益なものが多いためだ。
それもそのはずで、ロダーの胸元には国家魔術師だということを表すバッジが光っている。
国家魔術師は、三つある魔術師資格の一つだ。
魔術師資格は、取得が難しい順に並べると王宮魔術師、国家魔術師、そしてただの魔術師資格となる。一番下の魔術師資格を持っている人間は少なくないが、それより一つ上の国家魔術師になると難度がぐんと跳ね上がるのだ。
ロダーはグルーデンで唯一の国家魔術師。魔術学園で首席になれるほどの才能を持っている。
そんな彼が持ち出してきたのは、一枚の紙だった。
「これを見てください。とある新人の描いた魔法陣なんですが」
「へえ、魔術師を志す者が現れるだなんて珍しいですね」
(魔法陣が描けるということは、大方学園出身者か金持ち、または貴族家出身でしょう……)
ラウネはそう推理する。
エリート志向の強い魔術師が冒険者になることはそうない。そんな中でも魔術師を志すような人間は落ちこぼれていることが多いので、ラウネは期待値を下げる。
ロダーが差し出してきた、一見すると荒っぽく完成度の低い魔法陣。
それを少し眺めて、ラウネは言う。
「どうやら治癒魔法陣のようですね?」
「ええ、構成もグチャグチャで線も雑、一見すると最低レベルの魔法陣です」
一見すると――という言葉は、本質はそうではないということとイコールである。
ラウネは再度真剣にじーっと魔法陣を見つめ、ハッと顔を上げた。
「これはあのスクロールの魔法陣と――」
「ええ、そうです。かなり似ている」
そう言ってロダーは胸ポケットから、かのスクロールを取り出し、魔法陣に重ねた。
すると二つの魔法陣はお互いを補完するように、綺麗に結びつく。
「粗雑な魔法陣に見えたのは片方だったから。このスクロールを見ることで先ほどの魔法陣の意図が分かるようになっているんですよ」
ラウネは生唾を呑み込み、口を開く。
「これを描いたのは誰です?」
「新人の……名前はなんだっけな。背中に大杖を背負っていたことは覚えているんですが……」
「大杖ですか」
大杖。「通りすがりの魔術師」の特徴とも一致する。もちろん大杖を持っている魔術師は他にもいるが、二つの魔法陣が、十中八九同一人物だと告げていた。
そこで、唸っていたロダーが顔を上げる。
「ああ、思い出しました! 確かドーマ君と言ったかな」
「ほ、本当ですか!?」
思わずラウネはガタッと身を乗り出し、ロダーはその勢いに若干体を引く。
「え、ええ」
しかし今のラウネにとってロダーの反応など、些末なこと。
ラウネは記憶の中のドーマの顔を思い浮かべる。
(彼が圧倒的な太陽のような存在だとすれば、私は月どころか井戸の中の蛙でしかなかった。『天才』とはコレを言うのかと思い知らされ、私の中の全てが砕かれた。数多の生徒を退学に追いやった彼と魔術学園で会ってから六年。まだ私のことを覚えているのだろうか……)
ラウネは無意識のうちに畏れと希望を抱かずにはいられなかった。
☆
さて、俺、ドーマがラウラとやってきたのは、グルーデンで最高の浴場施設と名高い『白天の湯』だ。街の北部、やや小高い丘の上にあるそこは、『白天』の名の通り、やや霧がかっていて幻想的な雰囲気を醸し出している。
白い大理石の建物に入ると、広いロビーが待ち受ける。
広いのはロビーだけではない。大浴場の他に家族風呂なんてのもあるので、中はかなり広くなっている。王都のどの風呂場よりも豪華なのだ。
今回利用するのはもちろん個人風呂。どうせなら人気のない方がいい。
ああ、金と時間に余裕があるってのは良いことだ……
「ようこそ『白天の湯』へ! 家族風呂のご利用ですか?」
そう尋ねてきた受付のお姉さんに対して、俺は人差し指と中指を立ててみせる。
「ええ、二部屋お願いします」
「二部屋、ですか? 失礼ですが彼女様は……」
「いえ、ただの知り合いなので」
眼力で訴えると、受付のお姉さんは何かを察したようだった。
ラウラはちんまりしているが、一見クールな美少女だ。俺としては妹とかで通すつもりだったが、似ていないので恋人のように思われたのだろう。
ラウラに『心外だ』とか思われていたら俺が死ぬので、そういう勘違いはやめてほしい。
そんなことを考えていると、ラウラがとんでもないことを言い出す。
「一緒がいい」
「は?」
奇天烈な一言に思わず振り向くと、きょとーんとした顔のラウラと目が合う。
澄んだ純なる瞳。眩しい。
……だからと言って、全てが許されるわけではない。
俺は溜息を吐く。
「あのですね。ラウラさん。あなたは立派な女性です。軽々しくそんな発言をしてはいけません。いいですか? 俺は違いますが、世の中の男は狼なんですよ。隙を見せてはいけません」
「?」
わ、わかっているのだろうか……? ぽかーんとしてらっしゃる。
彼女は口を開く。
「お風呂、どうやって入ればいいの?」
俺は混乱する思考をどうにかまとめようとする。
なるほど、そういう可能性もあるのか? 風呂に入る方法がわからないという可能性。確かに一人では心細いだろう。って、いやいやそんなわけ――と、ここで、ごく当たり前かのようにお金を持っていなかったラウラを思い出す。そんなわけあったわ。
はあ。こんな時に頼れる知り合いがいないのが恨めしい。
「いいでしょう。ただし良からぬ誤解を生みたくないのでこれを付けてください」
そう言って鞄から一つの指輪を取り出して渡す。
不可視の指輪。
指輪を装備した人を周囲から見えなくする魔導具――と聞くと、凄まじい一品のように聞こえるが、透明化するのではなく、単に体を霧で覆い、物理的に見えなくするだけのゴリ押し魔導具である。
これを使うと、体は見えないが、霧の集合体がてこてこ歩く不思議な絵面が誕生する。
『魔術師たるもの紳士であれ』。
これは俺の尊敬する魔術師が残したありがたい名言だ。まったくその通りである。
「すごい」
ラウラは不可視の指輪を付けたり外したりしてキャッキャと楽しんでいる。
……もう何でもいいな。
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