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夏は深まらない

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夏、僕は疲れていた。
プロジェクトチームに配属されて支社で仕事をした後、本社に戻されて二か月経っていた。
英司が八月に一週間休む、と言うので、羨ましい、とメッセージを送ると、
——二泊か、無理なら一泊でも、どこか行きませんか?
と返事が来た。
——今から予約とか無理なのでは
——ゴルフ用の家があるので、そこでよければ。
ゴルフ用の家って何だよ、と返信できないうちに電車が停まって、スマホを胸のポケットに入れた。ホームから改札に下るエスカレーターに乗って、僕はため息をついた。右側を歩いて下りていく女性が、ちらっと見かえる素振りを見せた。大きなため息だったのだろう。
新しい部署の仕事に慣れなくて、ますます寝つきが悪くなり、朝は辛かった。
英司は、眠れないなら薬で寝てもいいじゃないかと言うが、薬をやめてもうずいぶん経っていて、気が進まなかった。

昼休みに、コンビニのレジ待ちの間にスマホを見ると、英司からメッセージが入っていた。
——親戚がよく使うゴルフ場の近くに家がある。古くて小さいけど海が見える。ゴルフ場以外特に何もないけど、魚は美味い。ゴルフやる?
——ゴルフやるわけない
——潮干狩りもできる。
コンビニから出たところで、上野さん、と声をかけられた。かなり先輩の岬さんという女性だった。
「今日、よく会いますね!」
彼女とは部署が違うが、隣のシマで、仕事中は背中合わせに座っている。
「えっ、どういうことでしょう」
「やっぱり気づいていらっしゃらなかった?」
名字に「さん」づけで呼ぶのが職場のスタンダードなのに、彼女は何故か、若い人からも偉い人からも、岬さんと下の名前で呼ばれていた。
「今朝、駅のエスカレーターで、私、上野さんを追い越しちゃった」
「あー気づきませんでした。失礼しました」
「いえいえ、こちらこそ。ご挨拶できなくって」
あの振り向こうとしていた女性は、彼女だったのか。

エレベーターホールは、いつも通り混み合っている。岬さんは細いヒールのサンダルで、隣に立つとほぼ同じ身長だった。僕の方に顔を向け、少し声を落として、
「お仕事、もう慣れました?」
と聞いてくれた。
「はあ、慣れないといけないんですが、なかなか」
岬さんは首を何度か小さく横に振り、口元を手で囲ってさらに小声になった。
「難しいでしょ、いろいろ。マイペースの方がいいですよ」
僕が見ると、彼女はきれいに口紅を塗った唇をにっと横に広げて微笑んだ。
「上野さんは真面目だから。無理しちゃだめ」
「ありがとうございます」
エレベーターが到着し、どっと人が下りる。乗る人も多く、岬さんも僕も少しずつ前に進んで、なんとか乗り込んだ。

休憩スペースで、英司に返事を書いた。
——休み合わせるので、時間がある時に詳しい日程教えてください
彼と知らない街で一泊してから、一年ちょっと経っていた。サンドイッチを囓って、スマホでニュースを眺めていると、返事が来た。
——後で送る。潮干狩りする?
——英司がやるなら付き合うけど。できればのんびりしたい
海を見たら、眠れるような気がした。

  


眠っている間に体の動きや物音を記録して、睡眠の状態を分析するアプリがある。
アプリが気になって、かえって眠りが浅くなるのだが、我慢してしばらく使ってみた。物音に反応して自動で録音を始める機能があり、自分が寝ている間に何を言うのか聞きたかったからだ。
使い始めて一か月ちょっと経ったある朝、録音されたデータが残っていた。初めて録音機能が働いたので嬉しくなり、すぐに再生すると、午前二時過ぎに自分が喚いている声だった。正確に言うと、自分の声かどうか、三回聞いてもわからなかった。

何か怖いものを見た人が驚いて叫んで、その後、何事か弁解するような、謝るような調子の言葉(日本語ではない)が短く続いて、急に黙る。数十秒のデータだった。
三回聞いた後、これをいろんな人に聞かれていたと思い至って、ぞっとした。

英司にそのことを話すと、
「録音、まだ残ってる?」
と渋い顔で聞かれた。
「速攻消した。残しとけねえよ、あんなの」
「そうか?」
「気味悪くて。あ、でも英司は聞いたことあるんだ。ごめん」
「治療続けた方がいいけどな、本当は」
僕は、その言葉を無視した。英司もそれ以上言わず、代わりに、
「なんていうアプリ?」
と聞いた。
僕は、サイドテーブルに置いたスマホに手を伸ばして、まだ消していなかったアプリのアイコンを見せた。
「どうやって使う?」
英司は携帯をスマホに替えたのがかなり遅くて、僕がいろいろ教えることが多かった。
「寝る前にここをオンにする」
「それだけ?」
「で、枕元に置く」
英司は僕の手からスマホを取り上げ、ボタンに触れてオンにし、仰向けに寝ていた僕にのしかかりながら手を伸ばして、サイドテーブルに置いた。
「なにしてんの」
「録音できるんだろ」
下着の上から触ってきて、押しのけようとすると、もう片方の手でねじ伏せた。
「データは、どっかに自動で送られてんだぜ、アプリの」
「なるほど。まあそうだろうな」
「朝からするの?」
自分の声が甘ったるかった。英司は僕の体をTシャツの上から撫で回した。
「する」
「アプリ」
「後で聞く用に。録音させろ」
「いや、僕のスマホなんだが」
下着を脱がされ、両足を掴んでうつ伏せにひっくり返された。
「声出さなけりゃいい」
僕は枕を噛んで我慢し、英司の手が首にかかると、興奮して結局声を上げた。

  


フロアに残っているのは数名で、通路を歩いてくる同期の安田が、僕に向かって手を上げるのがよく見えた。
週明けの夏休みに備えて、仕掛かりの業務を終わらせようと残業していた。安田はまっすぐ近づいてくる。
「いたいた。上野が今日残ってるって聞いて」
「久しぶり。何か用?」
僕は立ち上がった。
「この会社、階が違うと全然顔見ないよな」
と言いながら、安田は僕の横に立ち、脇に挟んでいたタブレットを手に取った。
「こないだ、岸に会ったんだよ」
何か叩きつけられたような衝撃を、片手で胸を押さえてやり過ごし、
「岸さん?」
と声を出した。
「そう、あの岸さん」

安田はタブレットを操作し、僕の目に、キシの笑顔が飛び込んできた。
街角で、安田と並んで立っている。
「上野ってフェイスブックやってないだろ」
「うん」
「フェイスブックの同期会のグループに、写真流してあるんだけど、お前見られないからと思って」
安田が指を滑らせると、レストランのテーブルに座っているキシ一人の写真になった。
「俺、ピザ屋の懸賞でオーストラリア旅行が当たったのよ」
「へえ、そんなことあんだ」
「シドニー行く日に連絡してみたら、ちょうど空いてるっていうから、メシ食ったの」
僕は息をのんで、それを安田には気づかれないように緊張しながら、写真から目を離せずにいた。
「元気そう」
「元気元気。全然変わんないわ、あの人」
安田は僕にタブレットを渡し、
「まだちょっとあるよ、写真」
と言って、適当に近くの椅子を引き寄せて座った。
僕は立ったまま、息を詰めてキシを見た。
黒縁の眼鏡で(変わらない)、髪が伸びていて(でも昔からいつも少し長めだった)、痩せたように見えるのは、日焼けしているのと、歳をとったせいかもしれない。
スライドして、次の写真も座っているキシだった。白いシャツを着ていた。やっぱりあまり変わらない。
「岸と、連絡取ってない?」
我に返って、安田を見た。多分、僕は食い入るように写真を見ていただろう。タブレットを安田に渡してから、自分の席に座った。
「連絡、取ってない」
「仲良かったよな?」
「そうだな。でもあの人、すぐ辞めたし」
安田はタブレットを受け取って、何か操作していた。
「今は社長さんだってよ。あと二、三年で、日本に帰ってくるかもって」
もう一度、タブレットを渡された。
「これ、岸のフェイスブック」
もう一度、キシの笑顔の写真だった。髪をちゃんとセットしている。眼鏡の奥の目を見るとまた固まるので、ひと呼吸の間だけ見て、安田に返した。
「帰ってくる?」
「貿易の会社やってんだよな。で、こっちに拠点を置いて新しく何かやるかもって」
「そうなんだ」
「上野のこと聞いてたから、メールすれば」
「えっ」
平静を装っていたつもりだが、僕の声に安田が反応したのがわかった。
「あの、気にしてたよ。上野は、まだ会社にいるかなって」

その言葉が、写真を見た時から抑えていた欲望のスイッチをいとも簡単にオンにした。腰の奥で熱いものが弾けるのを感じて、僕は脚を固く閉じた。
体に広がる欲望と連動して、動悸が激しくなり、胸が締めつけられる。その全部が、昔よく感じた痛みだった。
「そうか」
と返事をした。それが自然な受け答えなのかどうか、文脈を見失っていた。

安田は、
「お前、フェイスブックやらないの?」
と言いながら、立ち上がって椅子を元通りにデスクに押し込んだ。
「ああ、まあ。そのうち」
「始めたら、グループ招待するから声かけて」
「うん」
「岸も、まだ独身だってさ」
見上げると、安田は笑顔だった。
「俺らの同期、男はほぼ結婚しねえよな」
「安田は、予定は?」
「ない。懸賞当たって、母ちゃん誘って行ったんだぜ」
「親孝行だね、偉いよ」

その後は、仕事にならなかった。
日曜日から例のゴルフ用の家に行く。明日の土曜も出社すれば、仕事はなんとか終わるだろう。
そう思いながら、なかなかデスクから立ち上がれなかった。
キシは僕を、憶えてはいるわけだ。
体の痛みはおさまり、動悸だけが残って、それも徐々に消えた。
自分がキシに連絡を取らないことは、はっきりとわかっていた。だが、それは何故かと誰かに聞かれたとしても、理由は説明できなかった。

  


午後三時に着いた時、高台にぽつんと建ったその家は、夏の陽射しに照らされて白く輝いていた。車の外に出て、二階建ての建物を見上げた。蝉の声が響き渡っているだけで、他の家も人の気配もない場所だった。
家の周りには垣根もなかった。代わりに道に面していない側に低い木が何本か植えてあり、その向こうに海が見えた。

「家の中からは、真っ正面に見えるよ」
英司はそう言いながら、海を見ている僕を追い越していく。僕が追いつくと、玄関のドアの前で鍵を手に持ったまま、振り向いて唇にキスした。
びっくりしていると、英司は僕の顔を見て、
「疲れた?」
と言う。
「驚いた」
「ここ、誰もいないから」

家は古く見えなかったし、そんなに小さくもなかった。玄関に荷物を置くと、英司は、
「二階の窓、開けといて」
と言って階段を指さし、自分はドアを開けて部屋に入って行った。僕は無垢の木の階段を上った。二階は広いリビングで、海に向かって一面が大きなガラス窓になっていた。
「うっわ」
思わず叫ぶ。英司が一階で、どうした、と声を上げた。
部屋を横切り、重い窓を一枚開けて、バルコニーに出た。敷き詰められたタイルが、靴下越しに少し熱い。海が見える二方向に開けて、広々とした空間に、心地よい風が吹いていた。
「別荘だったのかよ」
僕は海にいちばん近いフェンスに手を置いて、大きな声を出した。英司が、
「暑いな」
と言いながらバルコニーに出てきて、隣に並び、
「別荘って言わなかった?」
と聞く。
「ゴルフ用の家って」
「それ別荘だろう」
バルコニーの下は木々が生い茂り、崖になっているようだ。その先に海が広がり、遠くに船が何隻か見えている。
「こんないい景色、初めて見た」
「そうか」
僕が突っ立っていると、英司もしばらく海を見ていたが、
「ちょっと、掃除する」
と言って僕の腕を小突き、部屋に戻っていった。
海面に光が反射してきらめくのをずっと見ていたいと思いながら、切り上げて家の中に入った。

白いレジ袋を手にして、その中に洗面所の棚の物を入れていた英司が、
「風呂からも、海が見える」
と言う。洗面所の奥を覗くと、浴室は狭いが、大きな窓から海が見えていた。蛇口からバスタブに向けて、勢いよくお湯が出ている。
「風呂入るの?」
「昼間じゃないと、海見えないから」
「あっそうか」
「一緒に入ろう」
「一緒じゃなくていいよ」
彼は不思議そうに、
「なんで?」
と聞く。
「ゆっくり海見たいから」
「見なよ」
「いや、絶対襲うじゃん」
「襲わないから。襲われたい?」

紙のワイパーで床を拭いたり、エアコンをつけたり消したり、空気を入れ替えた窓を閉めたりして、部屋が落ち着いてから、英司が先にバスルームに行った。
一階に置いた鞄を取りに行って、英司がさっき持っていた袋が部屋の隅に置いてあったので中を見ると、女性用のシャンプーやボディソープのボトルが入っていた。
それは見る前から何となくわかっていて、どんな品物か見たかったのだ。
シャンプーとトリートメントは、オーガニック系の高そうなやつで、ボディソープは、薔薇の香りがすると書いてある輸入品だった。
ボトル自体は古びて埃を被っているが、中身はどれもまだ半分くらいある。袋の底に何かあるのでボトルを持ち上げると、かなり古くなった髭剃り用の剃刀が入っていた。
袋を元通りに置いて、立ち上がった。一階の二部屋のうち、ベッドが二台並んだ寝室に入って、造り付けのクローゼットを開けた。そこには何もなかった。

英司が持ち込んだトラベルサイズのボディソープで体を洗い、バスタブに入ろうとすると、海に面した窓の方を向いていた英司が、
「髪、後で洗う派?」
とこっちを見かえって聞いた。
「とりあえず一度入る」
「一度浸かってから髪洗う派」
「そんな派閥に属してないから」
英司が浴槽の左側にもたれたので、右側から向かい合って座るように入った。
「痩せたなあ」
「そう?」
横を向くと、窓ガラスの向こうに海が見える。
「ごはん食べてる?」
「まあ」
「仕事はどうなったんだ」
「うーん」
伸ばした脚に英司が手を置いたので、僕も浴槽に沈んだ彼の足先に触れた。

黙っていると、少し動いた時の水音が大きく響いた。波の音を連想し、ここから海までどれくらいで行けるかを聞こうと英司を見た。
目が合って、口を開く前に彼は大きな水音を立てて体を起こし、覆いかぶさってきた。
反射的に両手を掴んで組み合ってしまい、力比べの体勢になった。英司が押さえ込んでくるので、僕は足を蹴り上げて抵抗し、
「やめろ」
「そっちがやめろって」
と言い合って、しばらく格闘になる。
最終的に浴槽の縁に抱え上げられ、英司が僕のを手と口で愛撫していた。僕は息が上がったまま、英司の頭を両手で掴んで、指の間で短い髪を引っ張った。
「いかせないで」
「どうして」
「この後、使い物にならなくなる、多分寝る」
英司は僕の体が震えてバランスが危うくなると、もう片方の手で腰を支えてくれた。彼の後頭部に手を当てて、口元を見ながらゆっくり出し入れし、その音と自分の抑えた声がバスルームに反響して、興奮が加速する。僕が見ていられなくなり、名前を呼ぶと、英司は口を離した。
「やめるか?」
「やめ、る」
「嘘だろ。じゃあ出てからやる?」
英司は手を動かし、指で先の方を擦った。
「あ、あっ」
「やめる?」
「出てから」
英司が先に立ち上がり、僕の腕を取って立ち上がらせたので、濡れた胸にもたれた。
「襲わないっていうのは」
「だめだよ、信じちゃ」

英司が出て行った後、お湯が少なくなったバスタブで海を見た。
海は、キシのいるところまで繋がっている。空も、あの写真のキシに繋がっている。
同じ時間を生きているとは、そういうことだ。
髪を洗おうと思いながら、英司が心配して見に来るまで、座り込んでいた。

  


結局、夜まで眠った。車の中で、
「週末混むから、店予約しちゃって」
と英司が言う。
「眠いよな、悪い」
「いや、こっちこそ寝ちゃってごめん」
腰から下の浮遊感が、起きてからもなかなか消えなかった。
「体が変だ、なんか」
英司は僕の顔を見て、普段あまり笑わない人だが、笑顔になった。
「よかった?」
「うん」
「またしていい?」
僕が頷くと、英司は視線を前に戻した。その後、何か言いかけてやめた。

店はほぼ満席だった。英司が名前を告げると、奥の小上がりに通された。
「よく来るの?」
「あそこに泊まる時は。もうだいぶ来てなかった」
英司はメニューを開いて、僕に渡した。
「ウーロン茶にする」
「気にしないで飲んで」
「いや、飲んだらまた寝ると思う」
「君、平日眠れてないだろう」
座卓の上のボタンを押すと、白い割烹着を着た女性が小上がりの前まで急いでやってきた。英司の顔を見るなり、
「あ、先生」
と声を上げた。
「ご無沙汰してますね」
英司は応えた。彼女は草履を脱いで膝立ちで上がってきて、
「どうも、いらっしゃいませ」
と僕に向かって、にこやかに頭を下げた。
「ゴルフですか?」
「うん、友達を連れてきた」
「今日も暑かったけど」
彼女は笑顔のままで僕に向かって言い、ふと気づいたように英司の方に顔を向けた。
「奥さまは、お元気ですか?」
英司はちらっと僕を見てから、彼女に向き直り、
「実は、バツイチになっちゃったんだよね」
と言った。
彼女が注文を取り終わって立ち去り、
「帰ってから、話す」
と英司が言う。僕はうん、と答え、彼が仕事のことを尋ねるので、新しい部署の話をした。

バルコニーに出ると、英司がスイッチを入れたらしく、突然明るい照明がついた。
リビングの奥にあったベランダチェアを海に向けて二脚並べる。
「テーブルは」
と英司が部屋の中から聞く。
「要らないと思う」
僕が座ると、しばらくして照明が消され、真っ暗になった。英司がバルコニーに出てきて、窓を閉める音がした。
三浦半島と教えられたあたりに、光が並んでいた。その手前に船の灯りがいくつかあるので、そこは海だとわかる。
英司が隣に座って、コンビニで買ったペットボトルの入った袋を足下に置いた。
「なんか飲む?」
「今はいいや。英司、ほんとに酒やめたの?」
「まだ、やめて三週間くらいだけど。やめるつもり」
「元々、そんなに飲まないよね」
帰りにコンビニで買い物をした時、
「俺、今酒やめてるから。君は飲んで」
と言われていた。

昼間の暑さは和らいで、海から吹く風が涼しく肌に感じられた。空は雲に覆われているようだ。月も星も見えなかった。
水のペットボトルを開けて飲んでいた英司が、暗がりの中で、こちらを見た。
「少し前、離婚届を書いて」
「うん」
話しづらそうなので、僕は海の方を向いた。
「話し合いとかいろいろあって、気持ちが切り替えられなくて。気分転換に走り始めた」
「走る。ランニング?」
「ランニング。朝少しだけ、家の周りを」
「へー、すごい」
「走ると体が重いから、試しに禁酒してる」
その後、沈黙が続いた。バルコニーの下のどこかで、小さく虫が鳴いていた。かすかに波の音が聞こえる。気のせいかもしれない。

英司がまた水を飲み、僕の前にボトルを差し出してくれた。受け取って、ひと口飲んだ。
「幸彦」
「ん?」
薄闇に目が慣れて、英司が目を閉じて眉根を寄せ、また目を開いたのがはっきり見えた。
「近くに引っ越してくる選択肢は、ないか?」
「近く?」
彼は僕の手からペットボトルを取り上げて、蓋をした。
「俺がいるところの近くに住む選択肢は、ないかな」
「選択肢と言われても。会社に通えない」
英司は、ボトルを椅子の下に置き、そのまま前屈みで膝に腕を乗せた。
「もしかして、仕事を変えろという意味で言ってるの?」
「そういう意味で言ってる」
俯いた横顔は表情を変えず、僕がそのまま黙っていると、しばらくしてから、
「意味がわからない?」
と聞いた。
「わからない」
英司は息を吐き、体を起こして、僕を見た。
「君が好きだから、そばにいて欲しい」
「仕事を辞めて?」
驚いて、声が上ずった。
「辞めずにもっと頻繁に会えるなら、それがいちばんいい」
「無理なことを」
「君の気持ちを聞いてる」
「意味がわからない」

僕は体の向きを変えて、英司と逆の側の肘掛にもたれ、暗い海を眺めた。やはり波の音が聞こえていた。
そのうち、家の横の道を車が通り過ぎる音がして、一瞬だけバルコニーの前の木々がヘッドライトに照らし出された。
「離婚届は、書いて、提出したの」
「じきに提出する」
「じゃ、離婚したら僕を囲うって話か」
英司は椅子から立ち上がり、座っている僕の前に膝をついて向かい合った。
「俺の話、聞いてたか?」
「聞いてたよ。仕事を辞めさせて、自分の側に置くなら、愛人じゃないか」
「君が女性なら、結婚してくれって言ってる」
英司は、僕の膝に手を置いて大きく息を吐いた。
「落ち着いて、聞いて」
その声があまりに沈んでいるので、僕は立ち上がるのをいったん諦めた。
「勝手なことを言ってるのは、わかってる。いやな気持ちにさせたんなら謝る」
英司は真剣な目で僕を見ていた。目をそらしたくてたまらなかった。
「俺は自分の人生で、仕事がいちばん大事だ。職業を選んだ時から決まったことだから。もちろん、幸彦にとっても仕事が大事なのは、わかってる」
僕が思わず口を開きかけたのを、英司は脚に置いた手に力を入れて止めた。
「でも、会えない時間が辛い。君が何をしているか、一人で眠れないんじゃないかと考えることも。会っていても君は」
英司は言葉を途切らせた。
「英司」
「君に、今の生活を捨てろと言うのが、俺の思い上がりだってことは知ってるよ。知っているけど、口に出して頼んだら、君の気持ちが変わるかもしれないから」
英司は僕の顔を見て、しばらく黙っていた後、呟いた。
「君を、俺だけのものにしたい」
彼は立ち上がって、僕に背を向け、バルコニーの端まで歩いていった。僕は鈍く重く打ち始める自分の心臓の音を聞いた。

英司の言葉は僕を苛立たせ、的外れだと怒りさえ覚えているのに、何故かひどく欲情を刺激された。笑い飛ばしてやろうと思いながら、興奮で顔が熱くなってくる。
さっき、時間をかけて中でいかされた後の浮遊感がよみがえり、口の中に唾液が溜まってくるのを、僕は喉を鳴らして飲み込んだ。
女のように抱かれて、あなたのものだよと英司に言ってあげたい気持ちが、半分は残酷な嘘で、半分は泣きたいような切実さで、胸に迫った。

  


目が覚めた時、隣のベッドに英司はいなかった。カーテンと窓を開けると、網戸越しの空は曇っていた。蝉が鳴いている。テーブルの上のスマホの充電コードを外して、ベッドに戻った。

——走ってきます。
英司から、八時二十分にメッセージが入っていて、もう九時を回っていた。
会社のメールをチェックすると、十件以上受信した中に、件名のないメールがあった。安田からだ。
開くと、キシの写真が添付されていた。
テーブルの前に座っているのは金曜に見たもので、もう一枚、街角にキシが一人で立っている写真があった。「送っとくね!」と本文に書いてあった。

メールごと削除しようと思いながら、僕は街角の写真を拡大した。
二、三年後にキシが帰ってきて、同期の皆で会おうという話になるとする。僕は行かない。その後、キシから連絡が来たら。いや、連絡などないかもしれない。

階段を降りてくる足音がして、驚いて体を起こした。
英司が寝室に入ってきた。
「びっくりした、戻ってたんだ」
「シャワー浴びてた」
英司は僕の手元に目をやって、僕は手のひらを返して、スマホを伏せた。
「暑いのに、走った?」
「曇りだからだいぶましだけど、まあ暑かった」
英司はTシャツに短パンで、首に巻いたタオルで髪を拭いながら、ベッドの足下の方に回った。
「エアコンつけていいかな」
「うん」
英司が窓を閉める間に、僕は写真が表示されたメール画面を閉じた。
「誰?」
聞かないと思ったのに、英司が聞いた。
「会社の人」
「正直じゃないくせに、嘘が下手なのはどういうことだ」
英司は苦笑いして、手に取ったリモコンのスイッチを入れずにサイドテーブルに戻し、
「起きたんなら二階に行こうか。朝ごはん買ってきた」
と言った。部屋を出る前に、
「誰だか、言わなくていいからな」
と言い捨てていった。

着替えて階段を上がると、英司はバルコニーにいて、二脚の椅子の間に、昨日出さなかったテーブルが出してあった。
リビングの大きな食卓に、洒落たロゴが印刷された薄茶色の紙袋があり、ビニールに包まれたパンがいくつか入っていた。
窓を開けて、曇り空のバルコニーに出る。灰色の大きな船が一隻、沖合に浮かんでいた。
「タンカーかな」
英司の背中に向かって尋ねる。
「そうだね」
振り向いた彼の目が赤かった。
「目、充血してる」
「眠れなかった」
英司は僕を見て、笑顔になった。
「君はよく寝てた、昨日は」

彼は海に向けた椅子に座り、僕がテーブルを挟んだもう一脚に腰掛けると、少ししてから、
「さっきの言い方は悪かった」
と言った。
「なに?」
「誰だか言わなくていい、と」
「ああ。でも、誰でもないのに」
嘘つきと思われる方が、キシのことに踏み込まれるより楽だった。僕を探るように見ていた英司は、そのうち、
「そんな顔するなよ」
とため息混じりに呟いた。
「寝てる時は、かわいらしいのになあ」
「かわいいって歳じゃない」
「かわいいよ」
「かわいくなくなるよ。三十過ぎたし」

僕は両腕を海の方に向かって押し出して、体を伸ばした。
「会社辞めるのは、無理だよ」
昨日の夜に質問された時から決まっていた答えだった。
「別に、仕事は好きじゃないけど。今の会社は辞められないし、引っ越しもしない」
英司は海に目をやったまま、頷いた。
「わかった」
その横顔を僕が見ているうちに、
「どうすれば、俺は君と付き合ったことになる?」
と彼は震える声で言った。
「え?」
英司は、ゆっくり僕に顔を向けた。
「君は、何年も前に振られた男の話をして、そいつとは付き合ってなかった、と言った。君の気持ちはどこにあったんだ。俺のことも、そんな風に誰かに言うのか?」
僕は俯き、自分の素足に目を落とした。
英司の言葉の中にいる、英司ではない他の誰かと会っている自分の薄汚さが、暗い大きな影になって、背後から自分を飲み込むような気がした。

「別れよう」
よく考える前に、僕は口にしていた。
「英司とは、付き合ってたよ。だから、別れよう」
彼は表情を変えずに、木製のきれいなテーブルに自分の腕を伸ばして置いた。僕はその手に自分の手を重ねた。
「このまま続けたら、僕を嫌いになるだろうから」
「それはない」
答えた後で、英司は目を伏せて、
「でも、このままでいるのは良くないな」
と口から言葉を無理に押し出すように言った。

テーブルの上で手を重ねたままでいた。蝉の声がして、大きな船はまだ浮かんでいる。灰色のその影は、少しも動いていないようだった。
「友達でいてくれる?」
僕が言うと、
「ああ、もちろん」
と英司は答えて、手に力を込めた。

キシに連絡を取らないことがはっきりとわかっているように、この人と別れることもわかっていた。でも、何故かと自分に聞いても、別れたくない理由しか思いつけなかった。

  


お土産の焼き菓子は、自分の部署に配ると少し余った。椅子を後ろに引いて、背中合わせに座っている岬さんに、そっと渡した。
「そちらのチーム全員の分はないので」
「わあっ、ありがとう」
岬さんは割と大きな声を上げてから、肩をすくめた。
「すみません、マドレーヌ大好きなの」
「よかったです」
岬さんも椅子を少し後ろにずらし、焼き菓子の小さな袋を眺めた。
「しかもとっても美味しそう。どちらに行かれたの?」
「房総の方に」
岬さんは袋に印刷された住所を見て、うんうんと頷いた。
「地元のパン屋さんで、一日限定何個、みたいに売ってました」
あの家から帰る時、英司が朝パンを買ってきた店に寄った。お母さんに頼まれたというバゲットを買うついでに、会社のお土産に、と彼が勝手に選んで買ってくれた。
「いただくのが楽しみだわ」
岬さんはにっこり笑った。
「お友達と行かれたの?」
「はい、友達と」

長いドライブをして、僕の家の近くで高速を下りる前に、パーキングエリアの片隅に停めた車の中で、キスをした。僕が次第に夢中になるのを、英司は押しとどめてシートベルトを締めた。それから僕の顔を手のひらで撫でて、もう一度唇を重ねた。
「好きだよ」
と僕が言うと、
「わかってる」
と彼は囁いた。
英司にとって、僕はもう失われていた。もしかしたら、会った時から。しかし、それなら、予め失われていないものなど、この世にあるだろうか。

岬さんが僕の顔を見て、微笑んだ。
「少し元気そうになって、良かったわ」
夏は、終わろうとしていた。
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