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夜にたどり着く

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キシが、僕を後ろからしている。
両手で抱えていた枕を、キシは横から引っ張って取ってしまい、僕の右手をベッドに押さえつけ、さらに奥に入れてくる。
キシがゆっくり、深く突いてくるたびに、シーツに擦りつけられている自分のものがますます熱くなり、膝の内側から脚の付け根に向けて、潮が満ちてくるように少しずつ快感が積み上げられ、だめ、ああ、だめ、お願い、と自分の口から漏れる声が、溺れている誰かのように、まるで他人の声のように聞こえて、怖くなって目を開けた。

キシは動くのを止め、
「そんな、すごい声を出すなよ」
と息を切らして呟く。
右手にキシの手が重ねられ、指と指が絡まり合っているのが、目に映っていた。
僕が手を動かすと、キシは力を緩めて指をほどき、僕の手を自分の手で包んだ。
「我慢できなくなるじゃん」
と囁きながら、キシは僕の背中に唇を押し当てた。

またしばらく後に仰向けになり、キシはサイドテーブルのライトをつけて、僕を見下ろしながらしている。
片手を顔の前に持っていくと、キシは軽く払いのけるようにして止め、
「電気つけた意味」
と笑った。

キシは、あの光を湛えた目で僕を見ていて、指で僕の頬に触れ、その指を僕は手を伸ばして掴み、自分の口元に持っていった。
口を開いて、キシが唇を撫でている親指を舌で絡め取り、口の中で軽く噛む。
キシは深く息をついて指を引き抜き、顔を傾けて、僕にキスした。
目を開けると、キシの目は閉じられ、その皮膚の薄い瞼ときれいなまつげが、僕の胸を締めつけた。
唇が離れた時に、僕は、
「好き」
と口走った。
言おうとしたのではなく、気がついたら、言っていた。

思わず息をのみ、しまった、と思ったのが、多分顔に出た。
キシは、聞かなかったふりをしようとして、それも難しいタイミングだったらしく、口の中で、うん、と言って、続きを始めた。

いつもは、先にシャワー浴びろ、と僕をベッドから追い出すキシが、何も言わないで天井を見ているので、僕はうつ伏せて、その横顔を眺めていた。
顔が好きっていう意味、と今からフォローしてみるのはどうだろう、というアイデアが頭を回り始めた頃、キシが僕にちらっと目をやって、
「枕、取ってくんない」
と言った。
僕は肘をついて体を起こし、ベッドの下に手を伸ばした。何も手に触れないので、顔を上げて見ると、かなり遠くに落ちていた。
「投げるなよ」
「取ってきて」
僕は立っていって、ふわふわした大きな枕を拾い上げ、手を伸ばしているキシに渡した。
「シャワー浴びてくる」
「ちょっと待って」
キシは枕を頭の下に入れて、はい、と言って腕を投げ出した。僕はベッドに戻り、彼の腕と枕に頭を乗せて、天井を見た。

「上野が付き合ってる人」
とキシが言った。
「付き合ってない」
「でも、切れないんだろ」
キシの声は明るかった。
「切れないということは、なんかあるわけだよ」
「どういう意味」
「さあ、うまいとか、相性いいとか」
キシと僕は、同時にお互いを見た。
キシの方が早く口を開き、
「そいつんとこに、行きな」
と言った。

「キシさん」
「あ、もう、好きとか無しね」
キシは僕の目を見て、初めて聞く冷たい声で言った。
「お前と、付き合ったりはできない」
息が止まるような気がした。
「付き合ってくれなんて、言ってない」
キシは、もう一度天井を見て、もう一度僕を見た。
「俺がもう無理なんだよ。ごめん」

波が引く時の音を立てて、みぞおちを打たれたような痛みが体に染み通っていった。
僕は起き上がり、キシに背を向けて、ベッドの端に座った。
「最初から、わかってたよ」
と言っている声は、さっきと同じように、誰か他の人が話しているように、耳に届いた。
「何を」
「あんたは、僕を好きにならない」
床に置いた足の裏から、ひんやりとした九月の夜の気配が伝わってきた。

「僕は、一人になるのは、もういやだから」
目を上げて、薄暗いキシの部屋を、カウンターの上に並んだガラスのコップを、その向こうの暗闇を見た。
「だから、言わなかった、言わないようにずっと気をつけてた」
ばかだ、と僕は心の中で言った。
「踏み込んだら、いなくなるって知ってたから」
キシが体を起こす気配がした。
「お前、夜中にうなされてるだろ」
僕は振り向かなかった。
「俺じゃなくて、もっと良い人のところへ行きな」

やはりこの場所に辿り着いてしまった、という思いが両手を震わせ、僕は握りしめた拳を開くことができず、体じゅうに広がった痛みはだんだんと胸に収束して、喉が詰まったように息苦しかった。夜の空気の中で、皮膚の温度が少しずつ下がり、体の奥に重い熱さが残っているのがわかった。
涙は出なかった。その頃、キシといると、いつも泣き出しそうな気がしていたのに。

今まで通り、会うだけでいい。
僕は口を開き、そう言おうとして、何度か息を吸い込んだ。でも、声にならなかった。
振り向くと、キシは半分体を起こして、僕を見ていた。
「どうして」
キシは、あの考え深そうな目でしばらく僕を見ていて、口元で笑うと、
「かわいいから」
と言った。

金曜日の夜にキシが僕を誘うことは、その後なかった。
キシが会社を辞めるという噂が、同期の間で広まり始めたのは、十月に入ってからだった。
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