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妄執
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再配達された荷物を受け取って、吉村さんは仕事部屋に入り、リビングに戻ってこなかった。
部屋が暖まったらしく、かちっとかすかな音がしてガスストーブの送風が止んだ。風が吹かず、雨も降らない夜は静かだった。
この家には音がない。まずテレビがない。訪ねた時に仕事部屋から音楽が聴こえたことはあるが、俺がいると無音だ。
立ち上がると床が軋む音が大きく響いた。食べ終わった分の食器を重ねて、台所に下げる。
ガス台の上の大きな鍋に、けんちん汁がまだたっぷり入っていた。銀色の蓋の裏から水滴が垂れて鍋の中に入るので、慌てて元に戻す。
さっき、これうまい、と言ったら、彼は笑った。
「冬はこういうものうまいね」
「作るの大変じゃないですか?」
「切った野菜が売ってるから豆腐入れるだけ。今日は油揚追加したけど」
吉村さんは俺が食べるのをぼんやり見ていて、
「南は」
と話し出した。
「この先も今の会社にずっと勤める?それとも何か目標があるのか」
「俺の話ですか」
「一度転職したってことは、この先も何か探して転職するとか」
吉村さんは箸を置いて右目を擦った。疲れた顔で、俺がそうしたと思うとかわいそうで、また触れたくなった。
「吉村さんこそ、どうなんですか」
「俺の話ですか」
吉村さんは俺の口真似をした。
「そうです。この先。仕事、結婚」
俺は口を滑らせ、吉村さんは一瞬固まり、その時どんどんと玄関のドアを叩く音がしたので、席を立って行った。
俺は台所から戻っていったん椅子に座ったが、思い直して廊下に出た。空気がひんやりしていて、さむ、と思わず呟く。
仕事部屋からは何の気配もなく、緑色のドアの前に立っても物音はなかった。
吉村さん、と呼びかける。一拍置いて、ああ、とくぐもった声がした。
「開けていいですか?」
「今、行く」
ドアを開けると、彼は床に座り込んでいた。いつかの夜と同じように、デスクの引き出しに凭れた格好で。
「どうしたんですか」
「今、行くって」
彼は立ち上がろうとしたが、俺は床に膝をついて覗き込んだ。
そうする前に見た限りでは、届いたはずの荷物はどこにもなかった。
「宅急便は何だったの?」
「仕事のだった」
「あんた、平気で俺に嘘つくんだな」
吉村さんは、驚いたように俺を見上げた。寝室で白い服の女を見た時と同じ寒気が背筋に走った。
やめておけと思いながら、彼の肩に手を置いた。
「なあ。宮田圭悟から?何の連絡?」
吉村さんの顔からゆっくりと表情が失われていく。肩の手を振り落とすように彼は立ち上がり、俺も同時に立ち上がって向かい合う。
「飯、食いに行く」
「吉村さん」
「寒いからあっち戻ろう」
「寒いのに何してたんです」
吉村さんは首を横に振りながら、小さく笑い声を立てて俺を押しのけ、
「電気消してきて」
と言って出て行った。
俺は後を追って壁のスイッチに手を掛け、部屋を振り返った。
引き出しか棚に入れたか、大きな物ではないのか。中身など知ってどうなるものでもないのに。
スイッチを押して部屋のドアを閉め、寒い廊下からリビングに戻った。
「それ、あっため直そうか」
俺がけんちん汁だけ残しているのを、吉村さんは指差した。自分の分の器を片手に持っている。
「じゃあ、お願いします、あ、俺やります」
「ドアだけ開けて」
俺がドアを開けると、両手に器を持った彼は台所に入っていってそれを置き、鍋の蓋を開けてガスの火をつけた。
「食べたら、今日は帰った方がいい。悪いけど」
そう言った後、器の中身を鍋にあけて、俺を見た。
わかりました、と言おうとしたのに、鍋をかきまわしてから蓋をする吉村さんを見ているうちに口から出てきたのは、
「ライブが終わってから、髪切ったでしょう」
という言葉だった。
吉村さんは不思議なものを見たように眉をひそめ、口を開きかけた。俺は待ちきれずに言ってしまう。
「あいつが戻ってきたら、吉村さん、どうしますか?」
「あいつ」
「宮田。あいつが今戻ってきたら、どうします?それとも、もう言い寄ってきた?」
吉村さんは一歩後ずさった。ガス台の火に近づきすぎたように見えて、俺は反射的に腕を掴んで、引き寄せた。
吉村さんは手を振り払おうとしたが、俺が離さないのでもう片方の手で俺を突き飛ばそうとする。俺はそっちの手も掴んだ。
「抱かれたいでしょう、きっと、あいつに。ああ、でも」
「南」
「俺はよくないけど、しょうがないです」
力を入れ過ぎていた両手を離した。
吉村さんは何か言おうとして俺の視線に気づき、叩きつけるようにガス台の火を消した。
「帰れ」
部屋が暖まったらしく、かちっとかすかな音がしてガスストーブの送風が止んだ。風が吹かず、雨も降らない夜は静かだった。
この家には音がない。まずテレビがない。訪ねた時に仕事部屋から音楽が聴こえたことはあるが、俺がいると無音だ。
立ち上がると床が軋む音が大きく響いた。食べ終わった分の食器を重ねて、台所に下げる。
ガス台の上の大きな鍋に、けんちん汁がまだたっぷり入っていた。銀色の蓋の裏から水滴が垂れて鍋の中に入るので、慌てて元に戻す。
さっき、これうまい、と言ったら、彼は笑った。
「冬はこういうものうまいね」
「作るの大変じゃないですか?」
「切った野菜が売ってるから豆腐入れるだけ。今日は油揚追加したけど」
吉村さんは俺が食べるのをぼんやり見ていて、
「南は」
と話し出した。
「この先も今の会社にずっと勤める?それとも何か目標があるのか」
「俺の話ですか」
「一度転職したってことは、この先も何か探して転職するとか」
吉村さんは箸を置いて右目を擦った。疲れた顔で、俺がそうしたと思うとかわいそうで、また触れたくなった。
「吉村さんこそ、どうなんですか」
「俺の話ですか」
吉村さんは俺の口真似をした。
「そうです。この先。仕事、結婚」
俺は口を滑らせ、吉村さんは一瞬固まり、その時どんどんと玄関のドアを叩く音がしたので、席を立って行った。
俺は台所から戻っていったん椅子に座ったが、思い直して廊下に出た。空気がひんやりしていて、さむ、と思わず呟く。
仕事部屋からは何の気配もなく、緑色のドアの前に立っても物音はなかった。
吉村さん、と呼びかける。一拍置いて、ああ、とくぐもった声がした。
「開けていいですか?」
「今、行く」
ドアを開けると、彼は床に座り込んでいた。いつかの夜と同じように、デスクの引き出しに凭れた格好で。
「どうしたんですか」
「今、行くって」
彼は立ち上がろうとしたが、俺は床に膝をついて覗き込んだ。
そうする前に見た限りでは、届いたはずの荷物はどこにもなかった。
「宅急便は何だったの?」
「仕事のだった」
「あんた、平気で俺に嘘つくんだな」
吉村さんは、驚いたように俺を見上げた。寝室で白い服の女を見た時と同じ寒気が背筋に走った。
やめておけと思いながら、彼の肩に手を置いた。
「なあ。宮田圭悟から?何の連絡?」
吉村さんの顔からゆっくりと表情が失われていく。肩の手を振り落とすように彼は立ち上がり、俺も同時に立ち上がって向かい合う。
「飯、食いに行く」
「吉村さん」
「寒いからあっち戻ろう」
「寒いのに何してたんです」
吉村さんは首を横に振りながら、小さく笑い声を立てて俺を押しのけ、
「電気消してきて」
と言って出て行った。
俺は後を追って壁のスイッチに手を掛け、部屋を振り返った。
引き出しか棚に入れたか、大きな物ではないのか。中身など知ってどうなるものでもないのに。
スイッチを押して部屋のドアを閉め、寒い廊下からリビングに戻った。
「それ、あっため直そうか」
俺がけんちん汁だけ残しているのを、吉村さんは指差した。自分の分の器を片手に持っている。
「じゃあ、お願いします、あ、俺やります」
「ドアだけ開けて」
俺がドアを開けると、両手に器を持った彼は台所に入っていってそれを置き、鍋の蓋を開けてガスの火をつけた。
「食べたら、今日は帰った方がいい。悪いけど」
そう言った後、器の中身を鍋にあけて、俺を見た。
わかりました、と言おうとしたのに、鍋をかきまわしてから蓋をする吉村さんを見ているうちに口から出てきたのは、
「ライブが終わってから、髪切ったでしょう」
という言葉だった。
吉村さんは不思議なものを見たように眉をひそめ、口を開きかけた。俺は待ちきれずに言ってしまう。
「あいつが戻ってきたら、吉村さん、どうしますか?」
「あいつ」
「宮田。あいつが今戻ってきたら、どうします?それとも、もう言い寄ってきた?」
吉村さんは一歩後ずさった。ガス台の火に近づきすぎたように見えて、俺は反射的に腕を掴んで、引き寄せた。
吉村さんは手を振り払おうとしたが、俺が離さないのでもう片方の手で俺を突き飛ばそうとする。俺はそっちの手も掴んだ。
「抱かれたいでしょう、きっと、あいつに。ああ、でも」
「南」
「俺はよくないけど、しょうがないです」
力を入れ過ぎていた両手を離した。
吉村さんは何か言おうとして俺の視線に気づき、叩きつけるようにガス台の火を消した。
「帰れ」
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