亡国の草笛

うらたきよひこ

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第七章 盛夏の逃げ水

第百六十八話 盛夏の逃げ水(33)

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「本当に水竜だ」
 エリッツは空を見上げた。
 城の方へと逃げている途中、ひときわ大きな地鳴りと揺れにみまわれる。エリッツは興奮した馬に振り落とされそうになって、あわてて降りて地面に伏せた。伏せるというより怪我のせいでバランスを崩して倒れこんだといった方が正しいかもしれない。周りもみな同じような状況で、悲鳴をあげながら転んだり落馬したりしている。
 しばらく続いた揺れと地鳴りの後、まるで滝の下にもぐりこんだようなすさまじい水音がした。驚いて見あげると、そう、水竜がいたのだ。
 一瞬、中空に滝があらわれたのかと思ったが、よく見ると水であるのに上空へと流れているように見える。空想物語の挿絵にあったような巨大な竜だ。向こうの景色が透けて見えるほど透明で陽光が体内で乱反射している。その体表には白波のような鱗がきらきらと光り、何本もの虹をからだにまとっていた。そんな神々しい姿で蛇が鎌首をもたげるようにこちらを見おろしている。
「うわー、きれいだ」
 その長すぎる体はあの渓谷の草地の辺りから伸びてきている。遠すぎてよくわからないが、岩場はかなり広い範囲で切り裂かれたように崩れていた。草地の辺りもおそらくひどいことになっているのだろう。今はもうもうと砂塵が舞っていてよくわからない。
「よくそんなのん気な感想が出るね」
 アルヴィンは隣で仰向けになっていた。どうやら落馬したらしい。
「大丈夫?」
 揺れはおさまっていたので、エリッツは起きあがって右手を差し伸べる。
「大丈夫だよ。この方がよく見える」
 本気で言っているのかわからないが、アルヴィンは仰向けになったままぼんやりと空を見ていた。
「じゃ、おれも」
 エリッツは左腕をかばいながらアルヴィンの横に寝そべる。下から見るとあの美しい水竜の姿に大空の青が透けてため息が出るほどである。
「きみ、ほんとにのん気だね」
 アルヴィンの方が先に寝ながら水竜を見ていたくせにそんなことを言う。
「だってシェイルがやったのかなって思ったら、別に怖くはないし」
 確定したわけではないが、もしもそうならあの水竜が体を出している渓谷のあたりにいるのかもしれない。早く会いたい。久々に会えるかもしれないと思うと何だかちょっと気恥ずかしいような気持ちになってくる。聞きたいこともいっぱいあるし、話したいこともいっぱいある。
 隣でアルヴィンがもぞもぞと動きながら「痛っ」などとうめいていた。やはり落馬して動けなかっただけじゃないのか。水竜を見ているというのは強がりだったに違いない。それにならって素直に寝転んだエリッツが急に間が抜けて感じられて半身を起こす。
「そろそろ行こう。水竜が安定してきている。たぶんだけとアレ、そろそろ動くよ」
「動く?」
 ちょうどその瞬間にすさまじい風が巻き起こり、まるで竜が咆哮をあげたような音を響かせる。落ちつきを取り戻しつつあった周りの人々がまた悲鳴をあげた。再度落馬している気の毒な兵もいる。馬のいななきがいくつも重なりまたもや現場は大混乱だ。
 水竜がこちらを威嚇するように首をおろして大きく口を開ける。口の中に滝のような水流が巻き起こっているのが見えてぞっとした。もし飲みこまれでもしたらただではすまない。
「あのさ、あれ、やめさせてきてくれない?」
 総長がまた例の黒髪の術士に詰め寄っている。
「いや、でも上の指示なんで……」
 そこにライラも「上って誰?」と加わる。その間に水竜はもう一度咆哮をあげた。それがおさまるのを待って黒髪の術士が「アシュレイア様が」と声を絞りだす。すっかり総長たちに押されているようだ。
「噂の王女様か」
 総長がおもしろがっているような声をあげたが、それに反してライラは何ともいえない困った顔をする。
「それってどんな人?」
 ライラの問いに旧アルメシエ軍の術兵たちはお互い顔を見合わせる。誰かの発言を待っているかのような間が流れた。
「どんなって……直接会ったことがないからわからないが、ここまでの作戦を立てて実行しているんだからかなりの切れ者だ」
 最終的に黒髪の術士が口を開いた。
「昨夜、いきなり渓谷で待機しろって伝令が来て、正直わけがわからないって思ってたけど、作戦の全貌を知るとなるほどって感じだよね」
 栗色の髪の女性も言いそえ、周りの術兵たちがうんうんと頷いている。
「会ったことない? じゃあ、わからないよな。――で、あっちの水竜掘ってた人は王女様の指示を素直に聞いたわけ? そもそもあっちに何人いるの?」
 さらに総長は興味深そうに質問をつらねる。シェイルのことであればエリッツも知りたい。
「ひ、ひとり。はじめは話が違うって怒ってたけど、水竜のことはちょっと気になったみたいで、作戦にのるかどうかは置いといてちょっと掘ってみようかなくらいの軽いノリで……だからまさかこんな」
 黒髪の術士は言葉を切ってちらりと水竜に目をやる。不思議なことにやりとりを観察しているように上空からこちらを睥睨している。言うと叱られるだろうが呼吸のようなリズムの水音がエリッツには心地よく感じられた。
「あの、そもそもあの水竜というのは何なんですか?」
 しばし誰も発言しないのをいいことにエリッツは気になっていたことを聞いてみる。
「ある種の水系の術という認識でいいんじゃないかと思うけど……桁が違うよな」
 意外にも黒髪の術士がエリッツの質問に答えてくれる。
「術士じゃない人には地下水脈を引っぱりあげたといった方がわかりやすいんじゃないの」
 栗色の髪の女性が付け加えてくれる。
「わかりやすいには違いないけど、そんな単純な話でもないんだよね」
 そこにアルヴィンも加わった。何だかみんな親切である。
「そうそう」
 栗色の髪の女性はアルヴィンの意見に頷いてその場にしゃがみこむ。
「まずこうやって――」
 言いながら地面に左の手のひらを置く。
「土の術素を少しずつ避けていく」
 砂ばかりの地面がぽこりと小さく盛り上がった。
「このまま感覚が地下にある水の術素にたどりつくまで続けて、届いたら一気にそれを地上に引きこんで集める。あ、もうダメだ。土の術素が重すぎる。届く気がしない」
 女性はぺたんとその場に尻もちをついた。エリッツは背後の崩れ落ちた岩場に目をやった。デモンストレーションで軽くやってくれたのだろうけど、この砂の盛り上がりとはえらい違いだ。
「普通は無理だし、しんどいからやろうとも思わないよ」
 アルヴィンもしゃがみこんでぺたぺたと地面を叩いている。
「どうかしてるんだろうな」
 総長までしゃがみこんでぺたぺたしている。つられたように周りの術士たちもぺたぺたをやり始め「重い」とか「意味がわからない」と口々に感想をもらしている。子供が砂遊びをしているようだ。
「とにかくこの作戦、もうアレいらないし。いや、最初からいらなかったんじゃないの? ちゃんと元通りに埋め戻すよういってきてよ」
 総長がぺたぺたをやりながら黒髪の術士に言っている。黒髪の術士の方は首をかしげながら地面を撫でまわしていた。
「水竜はこの作戦に必要なんだよ。あんたロイだからピンとこないかもしれないけど、アルメシエにとって水竜というモチーフは特別なんだ」
 黒髪の術士に続いて栗色の髪の女性も口を開く。
「アルメシエの建国神話に登場するからね。この戦いでこちらの軍勢に水竜がついたという事実は今後のために重要なの。城に避難している街の住民もきっとこの水竜を見てるし、アシュレイア様が国を治める正統性の根拠になる」
 なるほど。演出の一環ということか。しかしアシュレイアという人が国を治めるのが確定事項のようになっているが、それは大丈夫なのだろうか。
「じゃ、もういいんじゃない。水竜はあらわれたし、みんな見てたし、もう土の下にしまっといたら?」
 総長はしつこく食い下がる。どうも水竜が背後にいる状況が気に入らないようだ。
 そのときおとなしくしていた水竜が吐いた。
 水竜の巨大さからしたらよだれをたらしたくらいの規模だが、うまいこと総長だけがずぶ濡れになる。故意なのかどうかわからないが、まるで自身を否定する総長に抗議したかのようだ。周りは驚いて言葉が出ない。攻撃というほどのものではないものの、あの神々しい姿でずいぶんと地味な嫌がらせである。
「上等だ、あのクソガキ」
 総長は全身から水をしたたらせながら不敵な表情で笑った。
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