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第六章 火の守
第百三十五話 火の守り(11)
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エリッツは大きくため息をついてその場に寝転んだ。
「遠い……」
思わずひとりごとまでこぼれてしまう。晴れ渡った夏の空にエリッツのよく知らない鳥が数羽飛んでいた。
「こんなところで何やってるの?」
一瞬またアレックスかと思ったが声が違う。軽く頭をあげると、アレックスとは真逆のほっそりとした人影が見えたのでそのまま上体を起こした。
「カーラ?」
「なにここ? いつもこんなところで休憩してるの?」
また例の執務室近くの隙間のような草地である。確かに木々に隠れた場所にこんな空間があるとは普通に通路を歩いているだけだと気づかないはずだ。大方エリッツがここに入りこんでいくのを目撃してついてきたのだろう。
「いつもじゃないよ」
今日は昼食にするパンすら買ってこなかった。遠く見える中の間の木々はいよいよ夏の盛りとばかりに葉を繁らせている。
「ねぇねぇ、視察どうだった?」
カーラはエリッツの様子にかまわず隣に腰をおろす。相変わらずだが、休憩時間なので先輩事務官に叱られる心配はない。
「ずいぶんと楽しそうな内容だったじゃない」
視察の話題はどこまで話をしてもいいのかわからないので難しいが、北の王の話題でなければ問題ないだろう。
「ああ、その話……」
カーラは王命執行主席補佐事務、要はラヴォート殿下に関わる事務仕事をしている。視察の内容なども機密情報以外は耳に入っていても不思議ではない。
「楽しかったよ」
「楽しくなさそうね」
すかさずカーラが返してくる。それとこれとは別だ。視察そのものが楽しかったことに嘘はない。
「ロイの子供たちとパンを焼いたんですって? アレックス様は本当にいろいろと思いつくわね」
そうだった。アレックスの背嚢にはたくさんの瓶詰や小麦粉が詰まっていたのだ。さらに事前に別部隊にも同様の荷物を運ばせていたらしく、保護区にはすでにたくさんの材料が準備されていた。ロイの子供たちとてパンは別にめずらしくもなんともないだろうが、アレックスが焼こうと提案したのはレジス式のやわらかく白っぽいパンだった。ちょうど数日前にエリッツがもらったようなふわふわとしたあれだ。
ロイでは主に穀物の味が濃くて固めの重いパンを煮込み料理と一緒に食べるのが一般的で、レジスのようにやわらかいパンに甘いクリームやジャムなどを塗ってお菓子のようにして食べる習慣はなかったらしい。おそらくロイとレジスでは収穫できる麦の種類が違うのもその理由だろう。
はじめは「何だ、パン焼きの手伝いか」と渋い表情だった子供たちは、窯からふわっとふくらんで出てきたパンに目をかがやかせた。さらに各々気に入った瓶詰の果物をのせたり、シロップをぬったりして口に入れ、笑みを広げてゆく様子はエリッツも見ていて幸せな気分になったものだ。どこの国でも子供たちは甘いものが大好きだ。
ロイの大人たちには事前に根回しがしてあったようで、パンを焼くための窯を空けてもらっており、ある程度の下準備もできていた。子供たち全員でパンを焼くという一大イベントのわりにスムーズに進みエリッツたちは定刻に帰路につくことができたわけだ。
そしてなぜかこの企画のことはエリッツだけが聞かされていなかった。サプライズされる子供たちの側に数えられていたようだ。実際にパン焼きを手伝い、パンももらった。子供扱いが甚だしい。
アレックスに文句を言おうにもあのふくふくとした笑顔で「どう? びっくりした?」と問われると何も言えなくなる。
「焼きたてのパンかぁ、いいわねー」
カーラはエリッツの話にまるで旅行の土産話のような相槌を入れ、日の光に目を細めていた。
「さて、全体的な視察の感触はいかがでしたか?」
今度は急にわざとらしくまじめくさった声色を作る。
「いきなり何?」
「あら、レジスとロイのつながりは重要よ。それに王命執行主席補佐事務室としてはラヴォート殿下の進退にも大いに興味を持つべきだわ」
「それ、よく噛まずに言えるね」
「むしろなんで言えないのよ。そんなことよりどうだったの? 視察」
王命執行主席補佐事務室なんて声に出して言ったのは一度あるかないかだ。エリッツがそこに含まれるのかはわからないが、確かにラヴォート殿下の動向がエリッツの仕事に大きく影響を及ぼすのは間違いない。
「そういう視点でいうなら、悪くなかったと思う」
ダフィットの言葉を借りるならアレックスのパフォーマンスは完璧だったといえるだろう。子供たちは大喜びでその子供たちを見ている親たちも始終にこにこしていた。パンを食べた子供たちの中には大人になったらレジスの助けとなる仕事をしてもいいと考える子もいたはずだ。
ただ北の王はアレックスに敬意を払いつつもラヴォート殿下と常に行動を共にしていた。見ている側からしたら北の王が信頼を寄せているのはラヴォート殿下の方だという印象をもったに違いない。そういう意味ではこちらも見事なパフォーマンスだった。
印象的だったのが、北の王がアレックスに供されたパンを半分にちぎりラヴォート殿下にさしだした場面だった。レジス側の人間は子ども扱いされているエリッツを除きパンを食べてはいなかったが、パンを焼いた子供たちをねぎらうように「よく焼けている」と例の王子様の笑顔でコメントしたラヴォート殿下に対して「ええ、とてもおいしそうですよ」といいながらパンをさしだしたのだ。もちろん村中の人間の注目を集めている北の王である。それこそみんながそれを目撃していたに違いない。
北の王の話題には触れずに、エリッツが自身の所感をのべたところ、カーラは何ごとかを思案するような表情でうんうんとうなずいていた。
「それなら私が事務官長になった後も事務室は安泰かもね」
小声でそんなことをつぶやいている。事務官長になるというのはやはり本気なのか。
「何だか書類の感じが妙だったし、エリッツも視察戻ってから元気がないから、表に出せない問題でも発生したのかと思って心配だったんだけど、全然大丈夫なのね?」
そう念を押すように言われてエリッツは分かりやすいくらいに動揺してしまった。
書類が妙だったのはおそらく北の王にかかわる記述がわざと抜かしてあるからだろう。エリッツの元気がないのはまた全然別の話だ。
「やっぱり何かあったの?」
エリッツがうろたえるのを見てカーラは表情を曇らせる。
「視察は本当に問題なかったよ。おれ、そんなに元気なく見える?」
「んー……、見えるね」
カーラがそう思うのも無理はない。実際にエリッツは落ち込んでいた。どう説明したらいいだろう。
「たとえばだよ……す、好きな人が……」
「またカウラニー様の話?」
あまりにも速い返しにエリッツはしばし黙り込む。
「あれ? 違った?」
「違わないけど」
シェイルが遠すぎる。
視察中にエリッツが感じ続けたのはこのことだ。生まれた境遇から背負っているものまであらゆることがエリッツとはかけ離れていた。わかっていたつもりだったが本当の意味で理解していなかったのだろう。北の王としてふるまっているシェイルのあまりの遠さに打ちのめされてしまった。これまでのようになでてもらったり、指をなめさせてもらったりできる気がしない。
だがカーラにいってもエリッツの煩悶とした思いにピンときていないようだ。
「――ふーん」と、興味なさそうにその場の草を引き抜いたりしている。
また頭の中がピンク色だと思われている可能性がある。エリッツは話題を変えようと思考をめぐらせるが、やはり気が滅入っていて何も浮かばない。
「そうだった。そのカウラニー様、今日はどこにいるの? エリッツ、朝から一人よね?」
「え?」
そういえば朝からシェイルを見ていない気がする。予定を管理しているエリッツがわからないのだからカーラにはもっとわからないだろう。また国王陛下に呼び出されているか何かだろうと思っていたが半日不在なのはおかしい。それにその場合はいつもエリッツにひとこと伝えてくれる。――となると、北の王の立場としてダフィットでは代われないような用事があったのかもしれない。
いろいろと考えればいくらでも可能性が出るが、エリッツは何だかじわじわと焦りを感じはじめていた。
「カーラはシェイルを探しに来たの?」
「探すというほどのことでもないけど、あの方仕事が早いのにめずらしく止まっている書類があるから、どうなっているのか確認するようにって、上官からの督促依頼、というわけ」
「ええっ! ごめん」
それはほぼエリッツの責任である。シェイルのスケジュール管理の一環として書類の期限なども確認をしていた。確認はしていたが、シェイルがいつも期限よりも早く終わらせてしまうのでほぼ不要な作業となっていたのだ。
「エリッツの心当たりがないとなるともう手詰まりだなー」
さほど焦っている様子でもないカーラの声を聞きながら、エリッツはさらに嫌な予感がこみあげるのを抑えきれなかった。こんなことは今までなかった。
そしてその予感通り、エリッツはそれからしばらくの間シェイルの姿を見ることがなかったのだ。
「遠い……」
思わずひとりごとまでこぼれてしまう。晴れ渡った夏の空にエリッツのよく知らない鳥が数羽飛んでいた。
「こんなところで何やってるの?」
一瞬またアレックスかと思ったが声が違う。軽く頭をあげると、アレックスとは真逆のほっそりとした人影が見えたのでそのまま上体を起こした。
「カーラ?」
「なにここ? いつもこんなところで休憩してるの?」
また例の執務室近くの隙間のような草地である。確かに木々に隠れた場所にこんな空間があるとは普通に通路を歩いているだけだと気づかないはずだ。大方エリッツがここに入りこんでいくのを目撃してついてきたのだろう。
「いつもじゃないよ」
今日は昼食にするパンすら買ってこなかった。遠く見える中の間の木々はいよいよ夏の盛りとばかりに葉を繁らせている。
「ねぇねぇ、視察どうだった?」
カーラはエリッツの様子にかまわず隣に腰をおろす。相変わらずだが、休憩時間なので先輩事務官に叱られる心配はない。
「ずいぶんと楽しそうな内容だったじゃない」
視察の話題はどこまで話をしてもいいのかわからないので難しいが、北の王の話題でなければ問題ないだろう。
「ああ、その話……」
カーラは王命執行主席補佐事務、要はラヴォート殿下に関わる事務仕事をしている。視察の内容なども機密情報以外は耳に入っていても不思議ではない。
「楽しかったよ」
「楽しくなさそうね」
すかさずカーラが返してくる。それとこれとは別だ。視察そのものが楽しかったことに嘘はない。
「ロイの子供たちとパンを焼いたんですって? アレックス様は本当にいろいろと思いつくわね」
そうだった。アレックスの背嚢にはたくさんの瓶詰や小麦粉が詰まっていたのだ。さらに事前に別部隊にも同様の荷物を運ばせていたらしく、保護区にはすでにたくさんの材料が準備されていた。ロイの子供たちとてパンは別にめずらしくもなんともないだろうが、アレックスが焼こうと提案したのはレジス式のやわらかく白っぽいパンだった。ちょうど数日前にエリッツがもらったようなふわふわとしたあれだ。
ロイでは主に穀物の味が濃くて固めの重いパンを煮込み料理と一緒に食べるのが一般的で、レジスのようにやわらかいパンに甘いクリームやジャムなどを塗ってお菓子のようにして食べる習慣はなかったらしい。おそらくロイとレジスでは収穫できる麦の種類が違うのもその理由だろう。
はじめは「何だ、パン焼きの手伝いか」と渋い表情だった子供たちは、窯からふわっとふくらんで出てきたパンに目をかがやかせた。さらに各々気に入った瓶詰の果物をのせたり、シロップをぬったりして口に入れ、笑みを広げてゆく様子はエリッツも見ていて幸せな気分になったものだ。どこの国でも子供たちは甘いものが大好きだ。
ロイの大人たちには事前に根回しがしてあったようで、パンを焼くための窯を空けてもらっており、ある程度の下準備もできていた。子供たち全員でパンを焼くという一大イベントのわりにスムーズに進みエリッツたちは定刻に帰路につくことができたわけだ。
そしてなぜかこの企画のことはエリッツだけが聞かされていなかった。サプライズされる子供たちの側に数えられていたようだ。実際にパン焼きを手伝い、パンももらった。子供扱いが甚だしい。
アレックスに文句を言おうにもあのふくふくとした笑顔で「どう? びっくりした?」と問われると何も言えなくなる。
「焼きたてのパンかぁ、いいわねー」
カーラはエリッツの話にまるで旅行の土産話のような相槌を入れ、日の光に目を細めていた。
「さて、全体的な視察の感触はいかがでしたか?」
今度は急にわざとらしくまじめくさった声色を作る。
「いきなり何?」
「あら、レジスとロイのつながりは重要よ。それに王命執行主席補佐事務室としてはラヴォート殿下の進退にも大いに興味を持つべきだわ」
「それ、よく噛まずに言えるね」
「むしろなんで言えないのよ。そんなことよりどうだったの? 視察」
王命執行主席補佐事務室なんて声に出して言ったのは一度あるかないかだ。エリッツがそこに含まれるのかはわからないが、確かにラヴォート殿下の動向がエリッツの仕事に大きく影響を及ぼすのは間違いない。
「そういう視点でいうなら、悪くなかったと思う」
ダフィットの言葉を借りるならアレックスのパフォーマンスは完璧だったといえるだろう。子供たちは大喜びでその子供たちを見ている親たちも始終にこにこしていた。パンを食べた子供たちの中には大人になったらレジスの助けとなる仕事をしてもいいと考える子もいたはずだ。
ただ北の王はアレックスに敬意を払いつつもラヴォート殿下と常に行動を共にしていた。見ている側からしたら北の王が信頼を寄せているのはラヴォート殿下の方だという印象をもったに違いない。そういう意味ではこちらも見事なパフォーマンスだった。
印象的だったのが、北の王がアレックスに供されたパンを半分にちぎりラヴォート殿下にさしだした場面だった。レジス側の人間は子ども扱いされているエリッツを除きパンを食べてはいなかったが、パンを焼いた子供たちをねぎらうように「よく焼けている」と例の王子様の笑顔でコメントしたラヴォート殿下に対して「ええ、とてもおいしそうですよ」といいながらパンをさしだしたのだ。もちろん村中の人間の注目を集めている北の王である。それこそみんながそれを目撃していたに違いない。
北の王の話題には触れずに、エリッツが自身の所感をのべたところ、カーラは何ごとかを思案するような表情でうんうんとうなずいていた。
「それなら私が事務官長になった後も事務室は安泰かもね」
小声でそんなことをつぶやいている。事務官長になるというのはやはり本気なのか。
「何だか書類の感じが妙だったし、エリッツも視察戻ってから元気がないから、表に出せない問題でも発生したのかと思って心配だったんだけど、全然大丈夫なのね?」
そう念を押すように言われてエリッツは分かりやすいくらいに動揺してしまった。
書類が妙だったのはおそらく北の王にかかわる記述がわざと抜かしてあるからだろう。エリッツの元気がないのはまた全然別の話だ。
「やっぱり何かあったの?」
エリッツがうろたえるのを見てカーラは表情を曇らせる。
「視察は本当に問題なかったよ。おれ、そんなに元気なく見える?」
「んー……、見えるね」
カーラがそう思うのも無理はない。実際にエリッツは落ち込んでいた。どう説明したらいいだろう。
「たとえばだよ……す、好きな人が……」
「またカウラニー様の話?」
あまりにも速い返しにエリッツはしばし黙り込む。
「あれ? 違った?」
「違わないけど」
シェイルが遠すぎる。
視察中にエリッツが感じ続けたのはこのことだ。生まれた境遇から背負っているものまであらゆることがエリッツとはかけ離れていた。わかっていたつもりだったが本当の意味で理解していなかったのだろう。北の王としてふるまっているシェイルのあまりの遠さに打ちのめされてしまった。これまでのようになでてもらったり、指をなめさせてもらったりできる気がしない。
だがカーラにいってもエリッツの煩悶とした思いにピンときていないようだ。
「――ふーん」と、興味なさそうにその場の草を引き抜いたりしている。
また頭の中がピンク色だと思われている可能性がある。エリッツは話題を変えようと思考をめぐらせるが、やはり気が滅入っていて何も浮かばない。
「そうだった。そのカウラニー様、今日はどこにいるの? エリッツ、朝から一人よね?」
「え?」
そういえば朝からシェイルを見ていない気がする。予定を管理しているエリッツがわからないのだからカーラにはもっとわからないだろう。また国王陛下に呼び出されているか何かだろうと思っていたが半日不在なのはおかしい。それにその場合はいつもエリッツにひとこと伝えてくれる。――となると、北の王の立場としてダフィットでは代われないような用事があったのかもしれない。
いろいろと考えればいくらでも可能性が出るが、エリッツは何だかじわじわと焦りを感じはじめていた。
「カーラはシェイルを探しに来たの?」
「探すというほどのことでもないけど、あの方仕事が早いのにめずらしく止まっている書類があるから、どうなっているのか確認するようにって、上官からの督促依頼、というわけ」
「ええっ! ごめん」
それはほぼエリッツの責任である。シェイルのスケジュール管理の一環として書類の期限なども確認をしていた。確認はしていたが、シェイルがいつも期限よりも早く終わらせてしまうのでほぼ不要な作業となっていたのだ。
「エリッツの心当たりがないとなるともう手詰まりだなー」
さほど焦っている様子でもないカーラの声を聞きながら、エリッツはさらに嫌な予感がこみあげるのを抑えきれなかった。こんなことは今までなかった。
そしてその予感通り、エリッツはそれからしばらくの間シェイルの姿を見ることがなかったのだ。
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