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第六章 火の守
第百二十五話 火の守り(1)
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朝早くは夏といっても少しだけ肌寒い。深い森の奥であればなおのことだ。ルルクは薄い毛布をたぐりよせてベッドの上に丸くなった。小鳥たちが鳴きかわしている声からもう朝なのだろうが、もう少しくらいなら寝ていてもたぶん大丈夫だ。
その時、ふっと焦げ臭いを感じた気がして、あわてて飛び起きる。
先日、近くの家で火事があったばかりだった。幸い住んでいた老人はすぐ外に出たため無事であったが、あの真っ黒に焼け焦げた柱が骨のように立っていた光景はルルクの心に恐怖を植え付けた。
大人たちに聞いた侵略の話を思い出す。町や村がみんなこの焼けた家のような黒い骨ばかりになってしまったというのだ。大勢の人が死んだり、怪我をしたりした。
ルルクの父もその戦いで死んだらしい。
レジス生まれのルルクは父の顔を一度も見ていない。娘を見ることなく死んだ父はどれほど無念だっただろうか。いや、こんな出来損ないの娘を見ずにすんでよかったかもしれない。
犬のように鼻をうごめかしてよく嗅いでみると、それは玉子の焼ける匂いであった。通常であれば心地よい香りのはずである。驚いてすっかり目が覚めてしまった。
ベッドからおりて木地の床に足先が触れるとやはり少しだけひやりとする。足を動かして履物をさぐる。
部屋を出ると母が台所で朝食を作っていた。
「ルルク、おはよう。今起こそうかと思っていたの。玉子焼き、少し焦げちゃったわ。ごめんね」
言いながら木のテーブルの上にできたての食事が盛られた皿を並べてくれる。牛のミルクとパンもあった。
「ほら、早く。今日は火の守でしょう」
戸口でぼんやりとしているルルクを母が急き立てる。
なぜかいつもぼんやりしてしまう。同い年の友達たちは自分の「やるべきこと」「やりたいこと」を見つけてここを出ていったり、街に出て勉強を進めているのに、同年代でまだぐずぐずしているのはルルクぐらいである。
だから火の守の当番もよくまわってくる。
なぜ侵略を防ぐこともできなかった王を敬わなければならないのか。
「ルルク?」
母が小さく首をかしげている。
「お母さん……」
特に母に何かを言いたかったわけでもない。いや、何か言いたいことがあったような気もする。ゆっくりと席に着くと、母が「いつもそうなんだから」とあきれたようにため息をつき、ルルクの髪を編んでくれる。
「――自分でやるよ」
「間に合わないでしょう」
それもそうだ。
髪をぐいぐいとひっぱられながら、ミルクに口をつける。牛のミルクは好きだ。パンをちぎってミルクに浸して口に入れた。だがパンからミルクがたれてしまう。それが寝巻きにしみこんでいく様子をじっと見た。
この手のミスはいつものことなので母は何もいわずに、髪を編み続けている。
「ちゃんと着替えていくのよ」
さすがに寝巻きでは出ていかない。
家を出るとしんと清涼な森の緑の匂いと隣家の煮炊きの匂いがまざってルルクを包み込んだ。これがこの村の匂いだ。今日も風が強い。
すでに目的地である火の堂は見えている。その石造りの小さな建物の入口で少年が大きく手をふっているのが見えた。少年の長い袖が強風にあおられて旗のようにはためいている。
「ルルク、遅いよ。早く! 眠い!」
隣の家のリッケルという少年だ。ルルクよりもずっと年下だが、活発で性格も明るいので大人たちにもかわいがられている。
「ごめん」
小さな村であるから起きて朝食を食べ終え身支度を整えればすぐに来られるが、ルルクの場合はひとつひとつの行動に時間がかかる。早く起きたつもりだったが、遅刻しているようだ。
「いっつも遅いじゃん。俺、ルルクの前はやだよ」
結構きつい言い方をするが、目が笑っている。リッケルはルルクの横をちょろちょろしながら一緒に堂に入ってくる。
火の守の当番が座るための席には基本的にものを置きっぱなしにしてはいけない決まりになっているが、年季の入った立派な木の机の上には本やお菓子が置きっぱなしになっていた。
ルルクは首をかしげてリッケルを見る。
「これ、マーシェルおばさんからの差し入れだって、エダの実の砂糖漬け。ひとり二つずつ。それからこれが、俺の前の前の当番のウェルダーのおすすめの本。よくわからないけど回せって。俺は読んでないけど。読み終わったら感想を語り合いたいとか言ってたらしい。あいつめんどくさいよな。毎回」
矢継ぎ早に言われてもルルクは理解が追いつかない。
「エダの実は二つ……」
「もう一回言おうか?」
嫌な顔ひとつせず、リッケルはもう一度説明してくれる。きちんと理解できた頃にはリッケルの寝る時間をだいぶ削ってしまった頃だった。
ルルクはようやく定位置に着く。そこからは祭壇のように飾られた場所にぽつんと火の入ったランプが置かれているのが見える。この火が消えてしまわないようにときどき油を足しながら見張るのが火の守だ。
火の守という仕事でありながら、火と語らい自身を見つめなおす修行でもあると大人たちはいうが、ルルクにはあまり意味があるようには思えない。
「どうしてだろう……」
申し送りを終えたリッケルが堂を出ようとしたところでルルクの口からふっと言葉が出た。
「どうして火を守らないといけないのかな」
「そりゃあ、ラインデル帝国からの侵略を忘れないように、それと俺たちを守ってくれた王に感謝を……」
リッケルはそこで言葉をとめた。リッケルは年下なのにルルクよりもずっと人に配慮ができる。
火はルルクたちの故国であるロイの王であったアルサフィアが民を守るために放った巨大な炎の残り火であるらしい。誰がどのように持ち帰ったのかは定かではない。
だがルルクの父は死んだ。家族が全員助かった人たちは感謝もするだろうが、ルルクにいたっては特に感謝をする理由がない。自分自身の命が助かったのだからという人もいるだろうが、ルルクはまだ生まれてもいなかった。
生まれなくても別にかまわなかった。生まれていなければ生まれてこれなかったと感じる自分もいないのだから結局何も起こらなかったというだけのことだ。母も一人で娘を育てる苦労をしなくてすんだはずだ。
「俺、帰るよ」
またぼんやりしているルルクを置いて、リッケルはさっさと堂を出ていく。
日が高くなってくるとこの石造りの建物の中は暑くなるため、ルルクは立ち上がって小さな窓を開けた。夏のこの時期になるとレジスでは風が強く吹くので、少しずつだ。
だが小さな堂の中の空気に一切変化はなかった。
ルルクは首をかしげる。外はそれなりに強く風が吹いていた。急に息が詰まるような感じがして、どうにか少しでも風を入れないと、席に座れない気がしてくる。
反対側の窓も開けてみよう。
今度は特に気をつかうことなく一気に窓をあけた。
びょうっと強い風が堂内に吹きこんでくる。編まれた髪がぐるぐると頭の後ろで暴れていた。こんなに風が強くては火が消えてしまう。
窓を押さえつけるように閉めようとするが、風が強すぎてうまくいかない。
バアンと大きな音を立ててようやく窓を閉めることに成功したときには肩で息をするほどになっていた。唐突に訪れた静寂に耳の中でしーんという耳鳴りがする。
しばらくは窓の前で息をととのえようと深呼吸を繰り返した。
「あ、火は……」
祭壇を見るときちんと台座に固定してあるはずのランプが倒れている。中に入っていた油が台座の上に流れ出ていて、今にも火が燃え移りそうになっていた。
火事になる。
ルルクにしてはありえないほどの素早さで左腕をランプに伸ばしていた。左手の中指が強く痛んだが、火事への恐怖の方が勝っていた。水の精を一点に集めて解き放つ。ルルクはあまり得意ではなかったがそんなことを言ってはいられない。
脳裏にはあの黒い残骸となった家が浮かんでいた。
気がつくと中指から手のひらにかけて一直線に裂けている。すぐにルルクは左手を押さえてその場に膝をついた。パンにしみこませ過ぎたミルクのように血が石造りの床にぽたぽたと落ちてゆく。
この傷を隠さなければならない。
当番のために持ち込んだ手拭き用の布をつかって傷を固定する。見た目はひどいがそこまで深くはない。大丈夫だ。隠し通せる。
ようやく落ち着いてはっと祭壇を見上げ愕然とした。祭壇が水浸しになっている。
アルサフィア王の火は消えていた。
その時、ふっと焦げ臭いを感じた気がして、あわてて飛び起きる。
先日、近くの家で火事があったばかりだった。幸い住んでいた老人はすぐ外に出たため無事であったが、あの真っ黒に焼け焦げた柱が骨のように立っていた光景はルルクの心に恐怖を植え付けた。
大人たちに聞いた侵略の話を思い出す。町や村がみんなこの焼けた家のような黒い骨ばかりになってしまったというのだ。大勢の人が死んだり、怪我をしたりした。
ルルクの父もその戦いで死んだらしい。
レジス生まれのルルクは父の顔を一度も見ていない。娘を見ることなく死んだ父はどれほど無念だっただろうか。いや、こんな出来損ないの娘を見ずにすんでよかったかもしれない。
犬のように鼻をうごめかしてよく嗅いでみると、それは玉子の焼ける匂いであった。通常であれば心地よい香りのはずである。驚いてすっかり目が覚めてしまった。
ベッドからおりて木地の床に足先が触れるとやはり少しだけひやりとする。足を動かして履物をさぐる。
部屋を出ると母が台所で朝食を作っていた。
「ルルク、おはよう。今起こそうかと思っていたの。玉子焼き、少し焦げちゃったわ。ごめんね」
言いながら木のテーブルの上にできたての食事が盛られた皿を並べてくれる。牛のミルクとパンもあった。
「ほら、早く。今日は火の守でしょう」
戸口でぼんやりとしているルルクを母が急き立てる。
なぜかいつもぼんやりしてしまう。同い年の友達たちは自分の「やるべきこと」「やりたいこと」を見つけてここを出ていったり、街に出て勉強を進めているのに、同年代でまだぐずぐずしているのはルルクぐらいである。
だから火の守の当番もよくまわってくる。
なぜ侵略を防ぐこともできなかった王を敬わなければならないのか。
「ルルク?」
母が小さく首をかしげている。
「お母さん……」
特に母に何かを言いたかったわけでもない。いや、何か言いたいことがあったような気もする。ゆっくりと席に着くと、母が「いつもそうなんだから」とあきれたようにため息をつき、ルルクの髪を編んでくれる。
「――自分でやるよ」
「間に合わないでしょう」
それもそうだ。
髪をぐいぐいとひっぱられながら、ミルクに口をつける。牛のミルクは好きだ。パンをちぎってミルクに浸して口に入れた。だがパンからミルクがたれてしまう。それが寝巻きにしみこんでいく様子をじっと見た。
この手のミスはいつものことなので母は何もいわずに、髪を編み続けている。
「ちゃんと着替えていくのよ」
さすがに寝巻きでは出ていかない。
家を出るとしんと清涼な森の緑の匂いと隣家の煮炊きの匂いがまざってルルクを包み込んだ。これがこの村の匂いだ。今日も風が強い。
すでに目的地である火の堂は見えている。その石造りの小さな建物の入口で少年が大きく手をふっているのが見えた。少年の長い袖が強風にあおられて旗のようにはためいている。
「ルルク、遅いよ。早く! 眠い!」
隣の家のリッケルという少年だ。ルルクよりもずっと年下だが、活発で性格も明るいので大人たちにもかわいがられている。
「ごめん」
小さな村であるから起きて朝食を食べ終え身支度を整えればすぐに来られるが、ルルクの場合はひとつひとつの行動に時間がかかる。早く起きたつもりだったが、遅刻しているようだ。
「いっつも遅いじゃん。俺、ルルクの前はやだよ」
結構きつい言い方をするが、目が笑っている。リッケルはルルクの横をちょろちょろしながら一緒に堂に入ってくる。
火の守の当番が座るための席には基本的にものを置きっぱなしにしてはいけない決まりになっているが、年季の入った立派な木の机の上には本やお菓子が置きっぱなしになっていた。
ルルクは首をかしげてリッケルを見る。
「これ、マーシェルおばさんからの差し入れだって、エダの実の砂糖漬け。ひとり二つずつ。それからこれが、俺の前の前の当番のウェルダーのおすすめの本。よくわからないけど回せって。俺は読んでないけど。読み終わったら感想を語り合いたいとか言ってたらしい。あいつめんどくさいよな。毎回」
矢継ぎ早に言われてもルルクは理解が追いつかない。
「エダの実は二つ……」
「もう一回言おうか?」
嫌な顔ひとつせず、リッケルはもう一度説明してくれる。きちんと理解できた頃にはリッケルの寝る時間をだいぶ削ってしまった頃だった。
ルルクはようやく定位置に着く。そこからは祭壇のように飾られた場所にぽつんと火の入ったランプが置かれているのが見える。この火が消えてしまわないようにときどき油を足しながら見張るのが火の守だ。
火の守という仕事でありながら、火と語らい自身を見つめなおす修行でもあると大人たちはいうが、ルルクにはあまり意味があるようには思えない。
「どうしてだろう……」
申し送りを終えたリッケルが堂を出ようとしたところでルルクの口からふっと言葉が出た。
「どうして火を守らないといけないのかな」
「そりゃあ、ラインデル帝国からの侵略を忘れないように、それと俺たちを守ってくれた王に感謝を……」
リッケルはそこで言葉をとめた。リッケルは年下なのにルルクよりもずっと人に配慮ができる。
火はルルクたちの故国であるロイの王であったアルサフィアが民を守るために放った巨大な炎の残り火であるらしい。誰がどのように持ち帰ったのかは定かではない。
だがルルクの父は死んだ。家族が全員助かった人たちは感謝もするだろうが、ルルクにいたっては特に感謝をする理由がない。自分自身の命が助かったのだからという人もいるだろうが、ルルクはまだ生まれてもいなかった。
生まれなくても別にかまわなかった。生まれていなければ生まれてこれなかったと感じる自分もいないのだから結局何も起こらなかったというだけのことだ。母も一人で娘を育てる苦労をしなくてすんだはずだ。
「俺、帰るよ」
またぼんやりしているルルクを置いて、リッケルはさっさと堂を出ていく。
日が高くなってくるとこの石造りの建物の中は暑くなるため、ルルクは立ち上がって小さな窓を開けた。夏のこの時期になるとレジスでは風が強く吹くので、少しずつだ。
だが小さな堂の中の空気に一切変化はなかった。
ルルクは首をかしげる。外はそれなりに強く風が吹いていた。急に息が詰まるような感じがして、どうにか少しでも風を入れないと、席に座れない気がしてくる。
反対側の窓も開けてみよう。
今度は特に気をつかうことなく一気に窓をあけた。
びょうっと強い風が堂内に吹きこんでくる。編まれた髪がぐるぐると頭の後ろで暴れていた。こんなに風が強くては火が消えてしまう。
窓を押さえつけるように閉めようとするが、風が強すぎてうまくいかない。
バアンと大きな音を立ててようやく窓を閉めることに成功したときには肩で息をするほどになっていた。唐突に訪れた静寂に耳の中でしーんという耳鳴りがする。
しばらくは窓の前で息をととのえようと深呼吸を繰り返した。
「あ、火は……」
祭壇を見るときちんと台座に固定してあるはずのランプが倒れている。中に入っていた油が台座の上に流れ出ていて、今にも火が燃え移りそうになっていた。
火事になる。
ルルクにしてはありえないほどの素早さで左腕をランプに伸ばしていた。左手の中指が強く痛んだが、火事への恐怖の方が勝っていた。水の精を一点に集めて解き放つ。ルルクはあまり得意ではなかったがそんなことを言ってはいられない。
脳裏にはあの黒い残骸となった家が浮かんでいた。
気がつくと中指から手のひらにかけて一直線に裂けている。すぐにルルクは左手を押さえてその場に膝をついた。パンにしみこませ過ぎたミルクのように血が石造りの床にぽたぽたと落ちてゆく。
この傷を隠さなければならない。
当番のために持ち込んだ手拭き用の布をつかって傷を固定する。見た目はひどいがそこまで深くはない。大丈夫だ。隠し通せる。
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