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第一章 (仮)
第七十一話 帰還
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討った。
真にヤツだけが仇だったのか、わからない。誰を憎めばよいのかわからなかった。だが、確実にあのアイザック・デルゴヴァだけは討たねばならなかった。帝国に通じ、コルトニエスで産出された金属の多くを帝国に流していた。
それだけではない。コルトニエス一帯で絹をつくらせ蚕のふんを利用してわずかばかりの火薬まで生産していた。銃火器をたくわえ、時がくればコルトニエス鉱山ごと帝国に寝返るつもりだったのだから許されるはずはない。
ロイ国の王族をそのレジス産の銃で殺害し、ロイの反乱を意図的に起こそうとも目論んでいた。
レジス国家に親の代からの恨みを抱いていたとは聞いたが、そんなことは知ったことではない。山奥とはいえ、国に身分を保証され、十分な仕事と給金、温かな家、広い土地を与えられたものが、甘えた恨み事でその日暮らしの人々を蹂躙してもよいいわれはない。得意げに手を汚さずにすべてを手に入れたと吹聴していた姿を思い出し、吐き気がするほどの怒りをおぼえる。
義憤。
それを盾にアイザック・デルゴヴァを何年も追い続けた。その実は私怨。
両親を惨殺されて何年が経ったか。
両親に手をかけたのはヤツではない。だが、そうなる状況を意図的に作り出したのは間違いない。直に手を下した者はとうにこの世にはいない。憎むべき標的が必要だった。それでなければ生きていけなかった。
しかしヤツを討ち果たしたのに、なぜこんな空虚な思いをしなければならないのか。また誰かを憎まねば生きていけないのかもしれない。
オグデリス・デルゴヴァか。いや、虫のようにみじめな姿で地を這っていた肥満体の醜悪な老人では足らない。あんな者では満ち足らない。
わずかに血痕の残る短剣が腰で音を立てている。
自分はどこにむかって走っているのだろう。長いこと走っているような気がする。足がもつれ、どうとその場に倒れ伏した。衝撃で腰の短剣が大きく前方に飛ばされた。手を伸ばし、それを取ろうとして悪夢のような光景がよみがえる。
――両親を殺されて、憎くはないのですか
知らず嗚咽が漏れる。
憎い。憎いに決まっている。それなのに体がいうことをきかない。いや、本当は動いたのだ。気づいていた。自分は動けた。ただ、ただ、その場で立ち上がるのがおそろしかった。
怖い。
このまま目をつぶっていれば誰かが何とかしてくれる。お父さんもお母さんもきっと家に帰ってくる。
鋭い絶叫が辺り一帯に響き渡る。のどが裂けんばかりに痛むが、何度も、何度も叫ばずにいられなかった。
やがて血を吐いた。転んで腹を打ったのか、本当にのどが裂けたのかわからない。
――もうちょっとだ。
耳元で兄の声がした。よろめきながら立ち上がり、ふらふらと歩きだした。
家はすぐそこだ。勢いよく扉をあける。すぐに母の叱る声が聞こえるはずだったが、家は静まり返っている。ぎいと扉がきしむ音が大きく聞こえた。
裏庭をのぞくと、春の心地よい風にハーブが心もとなくふわふわとゆれている。地下の収納庫には小麦と豆の袋がたっぷりと入っていた。棚にはパンと焼きたてのビスケットがまだ温かく香っている。
寝室の引き出しをあけると父の仕事の書類がたくさん入っている。クローゼットには父の仕事の服がかかっていた。父の匂いがした。そして難しそうな本がたくさん床に積まれている。
なぜお父さんとお母さんがいないのだろうか。早く帰っているはずなのに。
不安になって自分の部屋に人形を取りにいく。
――迎えにいこう。
また兄の声がした。
「うん、迎えに行く」
一本道だから迷うことはない、すれ違うこともない。
足取りはおぼつかなかったが、一歩一歩確実に歩んでいく。やがて隙間風のような音が聞こえてきた。
なぜか体がひどく震える。その先に進んではいけない。そうわかっているのに体が勝手にしげみへと踏みいれようとする。
嫌だ、嫌だ。そっちへは行きたくない。それなのに体がいうことを聞かない。
「嫌! お父さん、お母さん」
その腕を誰かが強くつかみ引き戻す。
ふり返ると一人の青年が立っていた。
「何やってんスか」
「お父さん?」
「違います」
青年は頭をかきながら、「まいったな」とつぶやいて握ったままの腕をぐいぐいと引いていく。
助かった。
ほっとした瞬間、膝からその場にくずれおちる。
「ええー、マジっすかぁ。なんかちょっと今荷物多いんですよ。誰も買い物行ってくれないじゃないですか。バターもミルクも卵も野菜もないし、ちょっと耐えられないっていうか、すぐ帰ってくるつもりだったんですが、このタイミングでこれッスか。あとはずっと家で留守番してたんですよ。嘘じゃないですから」
「うる……さ、い」
「おっと正気に」
青年は軽々とその体を抱えがあげ、家への道を歩き出す。
「重い。いや、重いっていうのは荷物の話ですよ」
やがて家の扉の前におろされる。
「ちょっと待っててください。先に入ります。ちゃんと留守番をしていたていで中にいますから。いいですね。俺はさぼっていませんでしたよ」
そう言っていそいそと扉をしめてしまう。
仕方なしにノックをすると、中から「はーい」というのんきな返事が聞こえていた。体中泥のように疲れているのにこの茶番は死ぬほど面倒くさい。
「ご帰還をお待ちしておりました。マリル・ウィンレイク指揮官。ご無事で何よりです」
軍式の敬礼で迎えるもののすぐにふにゃりと姿勢を崩す。
「お、それが長年かけて作り上げたフェリク・リンゼイの扮装ですか。なんというか、変態的に粘着質な取材を続けただけあって見事なもんですね。どっからどう見ても十五、六の小生意気なガキ」
どっと疲れが押し寄せてくるが、どこかで安堵もしている。悪夢へ落ちる崖のきわから引き戻された。
「ゼイン、森の中で大事な短剣を落しました。拾ってきてください」
「さっそくこき使いますね。ああ、この空気を読まずに人を犬のようにつかう感じ、久しぶりです。懐かしいです。ええと、短剣? とってきますけど、それより腹減ってないですか。うさぎ食べませんか、うさぎ」
空気を読まないのはどっちだろうか。
「何でうさぎ?」
真にヤツだけが仇だったのか、わからない。誰を憎めばよいのかわからなかった。だが、確実にあのアイザック・デルゴヴァだけは討たねばならなかった。帝国に通じ、コルトニエスで産出された金属の多くを帝国に流していた。
それだけではない。コルトニエス一帯で絹をつくらせ蚕のふんを利用してわずかばかりの火薬まで生産していた。銃火器をたくわえ、時がくればコルトニエス鉱山ごと帝国に寝返るつもりだったのだから許されるはずはない。
ロイ国の王族をそのレジス産の銃で殺害し、ロイの反乱を意図的に起こそうとも目論んでいた。
レジス国家に親の代からの恨みを抱いていたとは聞いたが、そんなことは知ったことではない。山奥とはいえ、国に身分を保証され、十分な仕事と給金、温かな家、広い土地を与えられたものが、甘えた恨み事でその日暮らしの人々を蹂躙してもよいいわれはない。得意げに手を汚さずにすべてを手に入れたと吹聴していた姿を思い出し、吐き気がするほどの怒りをおぼえる。
義憤。
それを盾にアイザック・デルゴヴァを何年も追い続けた。その実は私怨。
両親を惨殺されて何年が経ったか。
両親に手をかけたのはヤツではない。だが、そうなる状況を意図的に作り出したのは間違いない。直に手を下した者はとうにこの世にはいない。憎むべき標的が必要だった。それでなければ生きていけなかった。
しかしヤツを討ち果たしたのに、なぜこんな空虚な思いをしなければならないのか。また誰かを憎まねば生きていけないのかもしれない。
オグデリス・デルゴヴァか。いや、虫のようにみじめな姿で地を這っていた肥満体の醜悪な老人では足らない。あんな者では満ち足らない。
わずかに血痕の残る短剣が腰で音を立てている。
自分はどこにむかって走っているのだろう。長いこと走っているような気がする。足がもつれ、どうとその場に倒れ伏した。衝撃で腰の短剣が大きく前方に飛ばされた。手を伸ばし、それを取ろうとして悪夢のような光景がよみがえる。
――両親を殺されて、憎くはないのですか
知らず嗚咽が漏れる。
憎い。憎いに決まっている。それなのに体がいうことをきかない。いや、本当は動いたのだ。気づいていた。自分は動けた。ただ、ただ、その場で立ち上がるのがおそろしかった。
怖い。
このまま目をつぶっていれば誰かが何とかしてくれる。お父さんもお母さんもきっと家に帰ってくる。
鋭い絶叫が辺り一帯に響き渡る。のどが裂けんばかりに痛むが、何度も、何度も叫ばずにいられなかった。
やがて血を吐いた。転んで腹を打ったのか、本当にのどが裂けたのかわからない。
――もうちょっとだ。
耳元で兄の声がした。よろめきながら立ち上がり、ふらふらと歩きだした。
家はすぐそこだ。勢いよく扉をあける。すぐに母の叱る声が聞こえるはずだったが、家は静まり返っている。ぎいと扉がきしむ音が大きく聞こえた。
裏庭をのぞくと、春の心地よい風にハーブが心もとなくふわふわとゆれている。地下の収納庫には小麦と豆の袋がたっぷりと入っていた。棚にはパンと焼きたてのビスケットがまだ温かく香っている。
寝室の引き出しをあけると父の仕事の書類がたくさん入っている。クローゼットには父の仕事の服がかかっていた。父の匂いがした。そして難しそうな本がたくさん床に積まれている。
なぜお父さんとお母さんがいないのだろうか。早く帰っているはずなのに。
不安になって自分の部屋に人形を取りにいく。
――迎えにいこう。
また兄の声がした。
「うん、迎えに行く」
一本道だから迷うことはない、すれ違うこともない。
足取りはおぼつかなかったが、一歩一歩確実に歩んでいく。やがて隙間風のような音が聞こえてきた。
なぜか体がひどく震える。その先に進んではいけない。そうわかっているのに体が勝手にしげみへと踏みいれようとする。
嫌だ、嫌だ。そっちへは行きたくない。それなのに体がいうことを聞かない。
「嫌! お父さん、お母さん」
その腕を誰かが強くつかみ引き戻す。
ふり返ると一人の青年が立っていた。
「何やってんスか」
「お父さん?」
「違います」
青年は頭をかきながら、「まいったな」とつぶやいて握ったままの腕をぐいぐいと引いていく。
助かった。
ほっとした瞬間、膝からその場にくずれおちる。
「ええー、マジっすかぁ。なんかちょっと今荷物多いんですよ。誰も買い物行ってくれないじゃないですか。バターもミルクも卵も野菜もないし、ちょっと耐えられないっていうか、すぐ帰ってくるつもりだったんですが、このタイミングでこれッスか。あとはずっと家で留守番してたんですよ。嘘じゃないですから」
「うる……さ、い」
「おっと正気に」
青年は軽々とその体を抱えがあげ、家への道を歩き出す。
「重い。いや、重いっていうのは荷物の話ですよ」
やがて家の扉の前におろされる。
「ちょっと待っててください。先に入ります。ちゃんと留守番をしていたていで中にいますから。いいですね。俺はさぼっていませんでしたよ」
そう言っていそいそと扉をしめてしまう。
仕方なしにノックをすると、中から「はーい」というのんきな返事が聞こえていた。体中泥のように疲れているのにこの茶番は死ぬほど面倒くさい。
「ご帰還をお待ちしておりました。マリル・ウィンレイク指揮官。ご無事で何よりです」
軍式の敬礼で迎えるもののすぐにふにゃりと姿勢を崩す。
「お、それが長年かけて作り上げたフェリク・リンゼイの扮装ですか。なんというか、変態的に粘着質な取材を続けただけあって見事なもんですね。どっからどう見ても十五、六の小生意気なガキ」
どっと疲れが押し寄せてくるが、どこかで安堵もしている。悪夢へ落ちる崖のきわから引き戻された。
「ゼイン、森の中で大事な短剣を落しました。拾ってきてください」
「さっそくこき使いますね。ああ、この空気を読まずに人を犬のようにつかう感じ、久しぶりです。懐かしいです。ええと、短剣? とってきますけど、それより腹減ってないですか。うさぎ食べませんか、うさぎ」
空気を読まないのはどっちだろうか。
「何でうさぎ?」
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