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第一章 (仮)
第六十話 対話
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一瞬カッとなりかけたがエリッツはすべてを飲みこむように目を閉じた。
兄はワイダットに給金を支払いエリッツが危険な目に遭わないようにと指示したのだろう。だが実際にはエリッツは連日外を出歩いてはぼろぼろになって帰ってきた。だがワイダットが仕事をさぼっていたわけではないことはエリッツがよくわかっている。この屋敷に来てから最良の距離感でそばにいてくれた。ついでにダグラスは夜中にリークを追いかけてまで何らかの情報を得ろとはいっていない。
雇い主である兄の判断がすべてであり、エリッツにはそれに腹を立てる権利はない。そもそもエリッツはワイダットが任された仕事に気づきながら無茶をしていた。
この状況で誰が一番悪いかといえば自分である。
エリッツが黙っていたのでへそを曲げたとでも思ったのだろう。ダグラスはエリッツの頬にふれて「また状況がよくなったらお前の話し相手として呼び戻そう」とささやくようにいった。よく考えればエリッツはここに長くいるつもりはない。ワイダットには自分がサムティカまで会いにいけばいいだけのことだ。
「顔に傷を負わされたと聞いてちょっと頭に血がのぼってしまった。だが、そういうことがないように彼を本家から引きぬいたんだ。わかるだろ」
お人形じゃあるまいしと、エリッツは苦笑する。だが心配してくれるのはありがたい。特に昨夜の場合は兄がワイダットをそばにつけてくれていなければもっとひどい怪我を負っていたのは確かだ。
「兄さん、ありがとう。ところで昨夜のことなんだけど……」
怪我よりも昨夜の出来事がどう兄に伝わっているのかが今のエリッツの一番の関心事である。
「うん、報告は受けている。夜中はおかしな連中も多い。結果は期待できないが探させてはいる」
どうやらエリッツはリーク以外の何者かに襲われたことになっているようだ。存在しない暴漢を探すよう指示された兄の部下には申し訳ないが昨夜のことが何かの火種にならず助かった。
「リークという少年がこそこそと何かをやっているのも確からしいな。本当に危ないことをさせて悪かったよ」
夜、リークを追っていって襲われたことになっているらしい。嘘は少ない方がいい。
しかしリークが結局なんの目的でどこへ行ったのかよくわからない。気になるといえば気になるがクリフのためにまた怪我をするような義理もないだろう。
「エリッツ、あの少年のことはもういいからゆっくり休んでくれ」
兄が部屋を出ていこうとするのでエリッツはあわてて呼びとめた。
「兄さん、明日のことなんだけど」
「ああ、護衛の件か。アイザック氏は具合がよくなれば是非いっしょにということだったが。あれは例年であればただの花見だがな」
ダグラスはそこで渋い顔をする。例年とは違う空気を感じてエリッツの身を案じていることは想像できる。昨夜の傷も痛むし熱がひいたばかりでぼんやりとしていたが、過保護な兄にそれをさとられてはならない。
「いっぱい寝たからむしろ元気だよ。それに後学のためにも見ておいた方がいい気がする」
殊勝な様子を装ったことがよかったわけではないだろうが兄はうなずいた。
「まぁ、あちらであればそうたいしたことにはならないだろう」
兄のひとりごとのようなつぶやきの意味はよくわからないが、エリッツは引き続き神妙な顔を維持する。久々にシェイルに会えるかもしれない。それに帝国の使者や北の王、薔薇の庭も見られる。そう思うと自然に顔がゆるんでしまう。
「だが絶対に気を抜くなよ。デルゴヴァ兄弟の周辺が不穏なのは確かだ。それに帝国の連中もいる。もうこれ以上傷を負わないでくれよ」
エリッツとて痛い思いはしたくない。だが兄がいっているのはどうも顔の傷のことのようで話がかみあわないようなもどかしさを感じる。どちらかというと首の怪我、それに走り続けた足の疲労の方が苦痛だ。
「わかってるよ。気をつける」
些細な疑問は飲みこんで返事をすると兄は小さくうなずいて部屋を出ていった。
夕陽の光は徐々に弱くなっていく。
しっかりと眠って明日に備えようと思ったが、さすがに眠りすぎて疲れを感じるほどだ。もう一度身を起こすと、首の傷が引きつれて痛んだ。痛みに身を縮めた瞬間、体の節々が順に悲鳴をあげていく。
何とか兄の許可を得たもののこんな状態で本当に出かけられるのだろうか。不安にかられエリッツは素足のままベッドからそろそろと降りる。すぐにめまいを感じて床に手をついた。しばらくそのままめまいがおさまるのを待つ。ようやく立ち上がることができたが、このままでは体力が回復しても動けない可能性がある。兄に見つからないように少し外の空気を吸ってこよう。さいわい熱っぽさはなくなっている。
普段エリッツは下着と薄物を羽織るくらいのほとんど裸のような状態でベッドに入っていたが、おそらく着がえさせてくれた誰かが気をつかったのだろう。ずいぶんとたくさん着こまされていた。発熱のせいで汗をぐっしょりと吸っており気持ちが悪い。
すべてを脱ぎ捨てて外に出られるような服を着る。念のため綿の入った上着を着込んで音をたてないように部屋を出る。
やはり足の疲労感がひどい。歩くたびにぎしぎしと痛む。
廊下は窓からさす西日で燃えるように赤々としていた。ちらりと外をうかがうと、昨日よりも薔薇が多く咲いているように見える。その薔薇もすべて夕陽で真っ赤に染まっていた。
薔薇を見て戻ってこよう。
目標を定めると心なし足どりが軽くなる。薔薇を見て、帰りにまた厨房によって何か消化にいい食べ物をもらってこよう。夕食はパスして朝まで眠ればきっと具合はマシになるはずだ。
シェイルのいいつけ通りきちんとごはんを食べよう。肉はあまり消化によくないかもしれないが、あの親切な料理人にたのめばちょうどいい食べ物を見繕ってくれそうだ。はちみつはあるだろうか。
庭に出て薔薇以外にも春の花々や芽吹いた緑をながめていると、繁みに何かがいるのを見つけた。小動物が庭に紛れこんだのだろうか。夕陽はすでに弱弱しく繁みの奥はよく見えない。
猫か犬か、もしかして鳥だろうかと何の気なしに繁みをかき分けているとそれはうごめき立ちあがった。
「うわっ」
エリッツは驚いてそのまま尻もちをつく。
「リーク、そんなところで何してるの」
無言で繁みから姿をあらわしたリークはうつむいたまま何もいわず、体に葉っぱや土をつけたままたたずんでいる。
「――泣いているの?」
「寝てた」
ようやくそう口を開くと、その場でへたりこんでいるエリッツを見おろした。
「おまえこそ、そんなところに座って何をしてるんだ」
やはり心なしか元気がないように感じる。薄暗いせいかもしれないが、顔色が悪いようだ。昨夜あの後で何かあったのか、聞きたいがまた切りつけられても困る。
エリッツはお尻をついたままずるずるとリークから距離をとる。
「リーク、何かあったの?」
「何だその動き。気持ち悪いな」
「いや、だってさ」
昨夜のことを忘れたのか。エリッツは無意識に首の怪我に手をあてる。
「ああ、悪かった、悪かった。ほら、また熱がでるぞ」
リークが歩みより手を差しだす。やさしくて気味が悪い。恐る恐る上目づかいで様子をうかがうエリッツをリークは嫌そうに見おろした。
「そんな顔すんな」
急にやさしくされてもゼインとワイダットから近づくなといわれているし、それは昨夜身をもって思い知ったばかりだ。
「いいよ。ずっとそこ座ってろ」
いいながら、リーク自身もその場にあぐらをかいた。すでに辺りは薄暗く薔薇の香りだけがうすく漂っている。エリッツは不思議な思いでリークをながめた。なんだかいつもと雰囲気が違う。
「万策尽きたというやつだ」
リークは十分すぎる間をおいて、おもむろに口を開いた。
兄はワイダットに給金を支払いエリッツが危険な目に遭わないようにと指示したのだろう。だが実際にはエリッツは連日外を出歩いてはぼろぼろになって帰ってきた。だがワイダットが仕事をさぼっていたわけではないことはエリッツがよくわかっている。この屋敷に来てから最良の距離感でそばにいてくれた。ついでにダグラスは夜中にリークを追いかけてまで何らかの情報を得ろとはいっていない。
雇い主である兄の判断がすべてであり、エリッツにはそれに腹を立てる権利はない。そもそもエリッツはワイダットが任された仕事に気づきながら無茶をしていた。
この状況で誰が一番悪いかといえば自分である。
エリッツが黙っていたのでへそを曲げたとでも思ったのだろう。ダグラスはエリッツの頬にふれて「また状況がよくなったらお前の話し相手として呼び戻そう」とささやくようにいった。よく考えればエリッツはここに長くいるつもりはない。ワイダットには自分がサムティカまで会いにいけばいいだけのことだ。
「顔に傷を負わされたと聞いてちょっと頭に血がのぼってしまった。だが、そういうことがないように彼を本家から引きぬいたんだ。わかるだろ」
お人形じゃあるまいしと、エリッツは苦笑する。だが心配してくれるのはありがたい。特に昨夜の場合は兄がワイダットをそばにつけてくれていなければもっとひどい怪我を負っていたのは確かだ。
「兄さん、ありがとう。ところで昨夜のことなんだけど……」
怪我よりも昨夜の出来事がどう兄に伝わっているのかが今のエリッツの一番の関心事である。
「うん、報告は受けている。夜中はおかしな連中も多い。結果は期待できないが探させてはいる」
どうやらエリッツはリーク以外の何者かに襲われたことになっているようだ。存在しない暴漢を探すよう指示された兄の部下には申し訳ないが昨夜のことが何かの火種にならず助かった。
「リークという少年がこそこそと何かをやっているのも確からしいな。本当に危ないことをさせて悪かったよ」
夜、リークを追っていって襲われたことになっているらしい。嘘は少ない方がいい。
しかしリークが結局なんの目的でどこへ行ったのかよくわからない。気になるといえば気になるがクリフのためにまた怪我をするような義理もないだろう。
「エリッツ、あの少年のことはもういいからゆっくり休んでくれ」
兄が部屋を出ていこうとするのでエリッツはあわてて呼びとめた。
「兄さん、明日のことなんだけど」
「ああ、護衛の件か。アイザック氏は具合がよくなれば是非いっしょにということだったが。あれは例年であればただの花見だがな」
ダグラスはそこで渋い顔をする。例年とは違う空気を感じてエリッツの身を案じていることは想像できる。昨夜の傷も痛むし熱がひいたばかりでぼんやりとしていたが、過保護な兄にそれをさとられてはならない。
「いっぱい寝たからむしろ元気だよ。それに後学のためにも見ておいた方がいい気がする」
殊勝な様子を装ったことがよかったわけではないだろうが兄はうなずいた。
「まぁ、あちらであればそうたいしたことにはならないだろう」
兄のひとりごとのようなつぶやきの意味はよくわからないが、エリッツは引き続き神妙な顔を維持する。久々にシェイルに会えるかもしれない。それに帝国の使者や北の王、薔薇の庭も見られる。そう思うと自然に顔がゆるんでしまう。
「だが絶対に気を抜くなよ。デルゴヴァ兄弟の周辺が不穏なのは確かだ。それに帝国の連中もいる。もうこれ以上傷を負わないでくれよ」
エリッツとて痛い思いはしたくない。だが兄がいっているのはどうも顔の傷のことのようで話がかみあわないようなもどかしさを感じる。どちらかというと首の怪我、それに走り続けた足の疲労の方が苦痛だ。
「わかってるよ。気をつける」
些細な疑問は飲みこんで返事をすると兄は小さくうなずいて部屋を出ていった。
夕陽の光は徐々に弱くなっていく。
しっかりと眠って明日に備えようと思ったが、さすがに眠りすぎて疲れを感じるほどだ。もう一度身を起こすと、首の傷が引きつれて痛んだ。痛みに身を縮めた瞬間、体の節々が順に悲鳴をあげていく。
何とか兄の許可を得たもののこんな状態で本当に出かけられるのだろうか。不安にかられエリッツは素足のままベッドからそろそろと降りる。すぐにめまいを感じて床に手をついた。しばらくそのままめまいがおさまるのを待つ。ようやく立ち上がることができたが、このままでは体力が回復しても動けない可能性がある。兄に見つからないように少し外の空気を吸ってこよう。さいわい熱っぽさはなくなっている。
普段エリッツは下着と薄物を羽織るくらいのほとんど裸のような状態でベッドに入っていたが、おそらく着がえさせてくれた誰かが気をつかったのだろう。ずいぶんとたくさん着こまされていた。発熱のせいで汗をぐっしょりと吸っており気持ちが悪い。
すべてを脱ぎ捨てて外に出られるような服を着る。念のため綿の入った上着を着込んで音をたてないように部屋を出る。
やはり足の疲労感がひどい。歩くたびにぎしぎしと痛む。
廊下は窓からさす西日で燃えるように赤々としていた。ちらりと外をうかがうと、昨日よりも薔薇が多く咲いているように見える。その薔薇もすべて夕陽で真っ赤に染まっていた。
薔薇を見て戻ってこよう。
目標を定めると心なし足どりが軽くなる。薔薇を見て、帰りにまた厨房によって何か消化にいい食べ物をもらってこよう。夕食はパスして朝まで眠ればきっと具合はマシになるはずだ。
シェイルのいいつけ通りきちんとごはんを食べよう。肉はあまり消化によくないかもしれないが、あの親切な料理人にたのめばちょうどいい食べ物を見繕ってくれそうだ。はちみつはあるだろうか。
庭に出て薔薇以外にも春の花々や芽吹いた緑をながめていると、繁みに何かがいるのを見つけた。小動物が庭に紛れこんだのだろうか。夕陽はすでに弱弱しく繁みの奥はよく見えない。
猫か犬か、もしかして鳥だろうかと何の気なしに繁みをかき分けているとそれはうごめき立ちあがった。
「うわっ」
エリッツは驚いてそのまま尻もちをつく。
「リーク、そんなところで何してるの」
無言で繁みから姿をあらわしたリークはうつむいたまま何もいわず、体に葉っぱや土をつけたままたたずんでいる。
「――泣いているの?」
「寝てた」
ようやくそう口を開くと、その場でへたりこんでいるエリッツを見おろした。
「おまえこそ、そんなところに座って何をしてるんだ」
やはり心なしか元気がないように感じる。薄暗いせいかもしれないが、顔色が悪いようだ。昨夜あの後で何かあったのか、聞きたいがまた切りつけられても困る。
エリッツはお尻をついたままずるずるとリークから距離をとる。
「リーク、何かあったの?」
「何だその動き。気持ち悪いな」
「いや、だってさ」
昨夜のことを忘れたのか。エリッツは無意識に首の怪我に手をあてる。
「ああ、悪かった、悪かった。ほら、また熱がでるぞ」
リークが歩みより手を差しだす。やさしくて気味が悪い。恐る恐る上目づかいで様子をうかがうエリッツをリークは嫌そうに見おろした。
「そんな顔すんな」
急にやさしくされてもゼインとワイダットから近づくなといわれているし、それは昨夜身をもって思い知ったばかりだ。
「いいよ。ずっとそこ座ってろ」
いいながら、リーク自身もその場にあぐらをかいた。すでに辺りは薄暗く薔薇の香りだけがうすく漂っている。エリッツは不思議な思いでリークをながめた。なんだかいつもと雰囲気が違う。
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