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第一章 (仮)
第十五話 はちみつ
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「そんなことよりも休まなくていいんですか。最近、ずっと仕事してましたよね」
「とりあえず一段落ついたので明日ゆっくり休むことにしました」
しゃべりながらも手をとめない。
かまどに火を入れて昨日作っていたスープを温めはじめた。窯に入れるのが面倒なのか、小麦を焼きかためたものも鍋の横に置きついでに温めている。
うさぎも後日スープにするのだろうか。裏口につるされている肉塊をちらりと見る。
「そのスープ、何が入ってるんですか」
「昨日も食べたでしょう。干した牛の肉とハーブ、それからスパイス、塩」
「ハーブって何ですか。どういうやつですか」
「そこに生えている草です」
シェイルが裏口の方を指す。そんなものが生えていたのか。明日、外が明るくなったら見てこよう。
「それをスープにひたして食べるんですよね」
温まった小麦の塊からただよってくる香ばしさにエリッツはまばたきをする。こんな匂いがしただろうか。
「何を今さら。昨日も食べていたじゃないですか」
どうも食べ物には興味がなくて覚えていない。しかしシェイルのなめらかな手つきを見ていると食べたくなってくるから不思議だ。
食事を終えてから紅茶を飲んでいると、シェイルが「そういえば」と、荷物から重そうな瓶をとりだした。
「殿下からいただきました」
粘度の高そうな液体がランプの灯りを反射して金色に輝いている。瓶の形も凝っていて工芸品のような細工がほどこされていた。
「はちみつですか」
はちみつはかなりの高級品だと聞く。こわい人だという印象が抜けないが気前がいい。また折檻のことを思い出しかけて慌てて紅茶を口に含む。
花、とりわけバラのような香りと太陽の光に当たった土のような深みのある香りが混ざり合う。花が咲き乱れる庭園にいるようなすばらしい香りだった。
「これ、いい紅茶ですね」
「それも殿下からですよ」
「殿下はシェイルのこと大事にしているんですね……」
折檻はさておき、側近にそこまでものをあたえるものであろうか。王族ともなればそれくらいのことは普通なんだろうか。
何がおもしろいのか、シェイルは笑いをこらえるようにしてはちみつの瓶をエリッツの前に置いた。
「これはあなたに、です」
「お、おれに? なんで」
クソガキとか仕上がった男娼とかめちゃくちゃないわれようだったからてっきり嫌われているものと思っていた。
「ずいぶんとやせているからちゃんと食べさせるように、といわれてしまいました。これは栄養豊富で薬にもなりますからね」
「薬になるんですか」
薬だと思えば口にしてみてもいいような気がしてくる。
「紅茶に入れてみますか」
シェイルが瓶の蓋をあけ、木の匙をつかってエリッツのカップにはちみつを入れてくれる。きらきらと光りながら琥珀の液体の中にとけこんでいく。澱となってゆらいでいる様子はきれいだった。
シェイルは指についたはちみつをなめる。
「甘いですか」
「甘いですよ」
ごく自然な動きでシェイルは蓋についたはちみつを指ですくいとるとエリッツにさしだした。直後、何かに気づいたかのように「あ」と声をもらして手を引こうとしたが遅い。
エリッツはシェイルの左手をがっちりとつかむとはちみつのついた指をそうっと口に含む。
「エリッツ、ちょっと……」
すでにはちみつがなめとられた指をいつまでも執拗になめ続ける。シェイルは何かをあきらめたようにうなだれた。
「おいしいです。ちょっと金属っぽいにおいがします」
シェイルは無言でテーブルの上の布をエリッツにさしだす。エリッツが不思議そうに布を見ていると「鼻血を拭きなさい」とため息をついた。
「ところで、その左手の中指の傷はどうしたんですか」
布巾を鼻に押しあてているので声がくぐもるうえに、のどに血がおりてきて不快だ。
エリッツが執拗になめ続けたのは、はちみつのついた人差し指だけではなかった。中指の付け根の腹の辺りに鋭い刃物で切ったかのような深い傷跡があったのだ。舌で触れて気づくくらいの痕が残っているが、関節に近いためぱっと見ただけではわからない。
シェイルは何かを思い出しているように自身の左手を広げて見ている。
「これは――」
少し困ったようにシェイルが眉根をよせた瞬間、すさまじい音を立てて入口の扉が開け放たれた。
ひやりとした森の夜気とともに飛び込んできたのはひどく青ざめた顔をした二十代半ばくらいの青年だ。
エリッツにとってすでにおなじみとなった濃紺の制服姿でひょろりと背が高くやせているので大きな荷物の方が目立っていた。勢いで荷物に押しつぶされそうだ。
「そ、そ、そ、外に、血が。無事ですか!」
「ゼイン、落ち着いてください」
ゼインと呼ばれた青年は、エリッツを見ると「ああっ。いるっ」と大声をあげて指をさす。なんだか異常に騒がしい人だ。
「あの血痕はその子の鼻血なんですか! 鼻血、出過ぎじゃないですか」
ゼインは血のついた布巾で鼻を押さえているエリッツを気味悪そうに見て眉間にしわを寄せた。声だけではなく動きも表情もやかましい。
「いえ、あれはうさぎを解体したんです。とりあえず座ってください」
ゼインは背中の大荷物を壁際におろし、マリルがやっていたように制服のポケットからいくつも手紙や封書をとりだしてテーブルに広げた。
「うさぎ? わっけわかんないな……」
小声でぶつくさいいながらエリッツの隣に腰かける。
「あれ? 長髪ってきいたけど髪切ったの? ――ってかさ、おまえなんでちんちん勃ってんの」
エリッツは顔が熱くなるのを感じてうつむいた。とめられることなく存分に指をなめさせてもらってつい興奮してしまった。
しかしゼインとは初めて会ったはずなのにエリッツのことを前から知っていたかのような口ぶりである。
確かに実家にいたときは、おろせば女の子に見えてしまうような長髪であった。ちょっとでも見つかりにくいようにと自分で切ってきたのだ。
「あんまりその子をかまわないでください」
シェイルが紅茶をいれて戻ってくるとゼインはいったんおとなしくなった。だが、紅茶を一口飲むとすぐに鞭の入った馬のような勢いでしゃべりだす。
「この紅茶、めっちゃウマいですね。そういえばシェイルさんの実家から手紙きてましたよ。どうせずっと実家帰ってないんでしょ。カウラニー家の御大が引退してもう五年くらい? あれ、四年? たまには顔見せた方がいいですよ。まぁ、俺もだけど。かれこれ十年は帰ってないかな、いや、そんなに経っているわけないか。八年くらい盛りました。あ、そうそう、新しい絵ができたんで持ってきました。これは間違いなく傑作です。今年は賞に応募しようと思うんですがどう思いますか」
ゼインが先ほどの大荷物を指さしている。あれは絵だったのか。わざわざレジスの街からかついで来るのは大変だっただろう。獣道のようなところを半刻も歩くのである。
ここに来るまでに疲弊しているであろうにしゃべる勢いはそれを感じさせない。
「絵はあとでゆっくり見せてもらいます。何か用事があったんじゃないんですか」
ハッとゼインは息をのみ、大仰に両手をつかってシェイルを指さす。
「それ、それ、それ! 大事な用事がありましたっ。外が血まみれなんで全部一気に忘れましたよ」
そういったきり、ゼインは天井を仰いでしまう。
血まみれは言い過ぎだろう。
「マリルさんいないんで、ほんとどうしたらいいんでしょうね」
シェイルはゼインがまともに用件を話しはじめるのを辛抱強く待っている。最近姿を見せないマリルはやはりこの辺りにはいないのだろう。遠方での仕事だろうか。
「陛下からのお話というか、俺らの同僚っていうか、調べてるじゃないですかいろいろ。それでわかったことで、ラヴォート殿下に伝えようとしたところですね、ええっと、まずどこからいえばいいのかな」
言葉尻はひとりごとのように小さく消えていく。どうやら「要点をまとめる」ということが極端に苦手のようだ。
「ラヴォート殿下の無数いる恋人の中で一番ヤバいヤツの――」
「ストップ」
シェイルが静かにゼインに手のひらを向ける。
「ええー」
「そういう不確定かつ余分な情報を入れないでください」
「あー、それ、マリルさんにもよく言われます。っていうか、この子、いいんですか」
ゼインはまた両手をつかって大仰にエリッツを指さす。
指されたエリッツは素直に席を立つ。
「部屋に戻っています」
いつもシェイルとマリルが仕事の話をしているときは席を外していたのだった。
「ちょっと待ってください。エリッツ。あなた字は書けますね」
「とりあえず一段落ついたので明日ゆっくり休むことにしました」
しゃべりながらも手をとめない。
かまどに火を入れて昨日作っていたスープを温めはじめた。窯に入れるのが面倒なのか、小麦を焼きかためたものも鍋の横に置きついでに温めている。
うさぎも後日スープにするのだろうか。裏口につるされている肉塊をちらりと見る。
「そのスープ、何が入ってるんですか」
「昨日も食べたでしょう。干した牛の肉とハーブ、それからスパイス、塩」
「ハーブって何ですか。どういうやつですか」
「そこに生えている草です」
シェイルが裏口の方を指す。そんなものが生えていたのか。明日、外が明るくなったら見てこよう。
「それをスープにひたして食べるんですよね」
温まった小麦の塊からただよってくる香ばしさにエリッツはまばたきをする。こんな匂いがしただろうか。
「何を今さら。昨日も食べていたじゃないですか」
どうも食べ物には興味がなくて覚えていない。しかしシェイルのなめらかな手つきを見ていると食べたくなってくるから不思議だ。
食事を終えてから紅茶を飲んでいると、シェイルが「そういえば」と、荷物から重そうな瓶をとりだした。
「殿下からいただきました」
粘度の高そうな液体がランプの灯りを反射して金色に輝いている。瓶の形も凝っていて工芸品のような細工がほどこされていた。
「はちみつですか」
はちみつはかなりの高級品だと聞く。こわい人だという印象が抜けないが気前がいい。また折檻のことを思い出しかけて慌てて紅茶を口に含む。
花、とりわけバラのような香りと太陽の光に当たった土のような深みのある香りが混ざり合う。花が咲き乱れる庭園にいるようなすばらしい香りだった。
「これ、いい紅茶ですね」
「それも殿下からですよ」
「殿下はシェイルのこと大事にしているんですね……」
折檻はさておき、側近にそこまでものをあたえるものであろうか。王族ともなればそれくらいのことは普通なんだろうか。
何がおもしろいのか、シェイルは笑いをこらえるようにしてはちみつの瓶をエリッツの前に置いた。
「これはあなたに、です」
「お、おれに? なんで」
クソガキとか仕上がった男娼とかめちゃくちゃないわれようだったからてっきり嫌われているものと思っていた。
「ずいぶんとやせているからちゃんと食べさせるように、といわれてしまいました。これは栄養豊富で薬にもなりますからね」
「薬になるんですか」
薬だと思えば口にしてみてもいいような気がしてくる。
「紅茶に入れてみますか」
シェイルが瓶の蓋をあけ、木の匙をつかってエリッツのカップにはちみつを入れてくれる。きらきらと光りながら琥珀の液体の中にとけこんでいく。澱となってゆらいでいる様子はきれいだった。
シェイルは指についたはちみつをなめる。
「甘いですか」
「甘いですよ」
ごく自然な動きでシェイルは蓋についたはちみつを指ですくいとるとエリッツにさしだした。直後、何かに気づいたかのように「あ」と声をもらして手を引こうとしたが遅い。
エリッツはシェイルの左手をがっちりとつかむとはちみつのついた指をそうっと口に含む。
「エリッツ、ちょっと……」
すでにはちみつがなめとられた指をいつまでも執拗になめ続ける。シェイルは何かをあきらめたようにうなだれた。
「おいしいです。ちょっと金属っぽいにおいがします」
シェイルは無言でテーブルの上の布をエリッツにさしだす。エリッツが不思議そうに布を見ていると「鼻血を拭きなさい」とため息をついた。
「ところで、その左手の中指の傷はどうしたんですか」
布巾を鼻に押しあてているので声がくぐもるうえに、のどに血がおりてきて不快だ。
エリッツが執拗になめ続けたのは、はちみつのついた人差し指だけではなかった。中指の付け根の腹の辺りに鋭い刃物で切ったかのような深い傷跡があったのだ。舌で触れて気づくくらいの痕が残っているが、関節に近いためぱっと見ただけではわからない。
シェイルは何かを思い出しているように自身の左手を広げて見ている。
「これは――」
少し困ったようにシェイルが眉根をよせた瞬間、すさまじい音を立てて入口の扉が開け放たれた。
ひやりとした森の夜気とともに飛び込んできたのはひどく青ざめた顔をした二十代半ばくらいの青年だ。
エリッツにとってすでにおなじみとなった濃紺の制服姿でひょろりと背が高くやせているので大きな荷物の方が目立っていた。勢いで荷物に押しつぶされそうだ。
「そ、そ、そ、外に、血が。無事ですか!」
「ゼイン、落ち着いてください」
ゼインと呼ばれた青年は、エリッツを見ると「ああっ。いるっ」と大声をあげて指をさす。なんだか異常に騒がしい人だ。
「あの血痕はその子の鼻血なんですか! 鼻血、出過ぎじゃないですか」
ゼインは血のついた布巾で鼻を押さえているエリッツを気味悪そうに見て眉間にしわを寄せた。声だけではなく動きも表情もやかましい。
「いえ、あれはうさぎを解体したんです。とりあえず座ってください」
ゼインは背中の大荷物を壁際におろし、マリルがやっていたように制服のポケットからいくつも手紙や封書をとりだしてテーブルに広げた。
「うさぎ? わっけわかんないな……」
小声でぶつくさいいながらエリッツの隣に腰かける。
「あれ? 長髪ってきいたけど髪切ったの? ――ってかさ、おまえなんでちんちん勃ってんの」
エリッツは顔が熱くなるのを感じてうつむいた。とめられることなく存分に指をなめさせてもらってつい興奮してしまった。
しかしゼインとは初めて会ったはずなのにエリッツのことを前から知っていたかのような口ぶりである。
確かに実家にいたときは、おろせば女の子に見えてしまうような長髪であった。ちょっとでも見つかりにくいようにと自分で切ってきたのだ。
「あんまりその子をかまわないでください」
シェイルが紅茶をいれて戻ってくるとゼインはいったんおとなしくなった。だが、紅茶を一口飲むとすぐに鞭の入った馬のような勢いでしゃべりだす。
「この紅茶、めっちゃウマいですね。そういえばシェイルさんの実家から手紙きてましたよ。どうせずっと実家帰ってないんでしょ。カウラニー家の御大が引退してもう五年くらい? あれ、四年? たまには顔見せた方がいいですよ。まぁ、俺もだけど。かれこれ十年は帰ってないかな、いや、そんなに経っているわけないか。八年くらい盛りました。あ、そうそう、新しい絵ができたんで持ってきました。これは間違いなく傑作です。今年は賞に応募しようと思うんですがどう思いますか」
ゼインが先ほどの大荷物を指さしている。あれは絵だったのか。わざわざレジスの街からかついで来るのは大変だっただろう。獣道のようなところを半刻も歩くのである。
ここに来るまでに疲弊しているであろうにしゃべる勢いはそれを感じさせない。
「絵はあとでゆっくり見せてもらいます。何か用事があったんじゃないんですか」
ハッとゼインは息をのみ、大仰に両手をつかってシェイルを指さす。
「それ、それ、それ! 大事な用事がありましたっ。外が血まみれなんで全部一気に忘れましたよ」
そういったきり、ゼインは天井を仰いでしまう。
血まみれは言い過ぎだろう。
「マリルさんいないんで、ほんとどうしたらいいんでしょうね」
シェイルはゼインがまともに用件を話しはじめるのを辛抱強く待っている。最近姿を見せないマリルはやはりこの辺りにはいないのだろう。遠方での仕事だろうか。
「陛下からのお話というか、俺らの同僚っていうか、調べてるじゃないですかいろいろ。それでわかったことで、ラヴォート殿下に伝えようとしたところですね、ええっと、まずどこからいえばいいのかな」
言葉尻はひとりごとのように小さく消えていく。どうやら「要点をまとめる」ということが極端に苦手のようだ。
「ラヴォート殿下の無数いる恋人の中で一番ヤバいヤツの――」
「ストップ」
シェイルが静かにゼインに手のひらを向ける。
「ええー」
「そういう不確定かつ余分な情報を入れないでください」
「あー、それ、マリルさんにもよく言われます。っていうか、この子、いいんですか」
ゼインはまた両手をつかって大仰にエリッツを指さす。
指されたエリッツは素直に席を立つ。
「部屋に戻っています」
いつもシェイルとマリルが仕事の話をしているときは席を外していたのだった。
「ちょっと待ってください。エリッツ。あなた字は書けますね」
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