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第一章 夜鳴き箱
夜鳴き箱(6)
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声をあげる間もなくいくつもの腕に両足や体のあちこちをつかまれて、どんどん土の中にひきずりこまれていく。
「薬屋、つかまれ! 放したらぶっ殺すぞ」
ヴァルダが投げたらしき腰ひもの端を死に物狂いでつかんだものの、口から土が入るので息ができない。ウイルドの窮地に気づいているはずなのにヴァルダは「これは大モノだなぁ」などとのんきな声をあげて笑っているのが聞こえる。早く引き上げてほしい。腕がちぎれそうだ。
ようやくヴァルダがじりじりと腰ひもを引っ張りはじめるが、ここにきて恐ろしい事態を認識した。悪霊は二体とも怪力だったのだ。
「ちぎれる……、か、体がちぎれる……」
ヴァルダの方は体がシハルであるはずなのになぜあんな力が出るのか。もともとシハルも怪力なのか。
「餌盗りか」
ヴァルダの不吉なつぶやきが聞こえ、ウイルドの体はずぶずぶと土の中へともぐり込んでいく。
「あっさり引き下がらないでください!」
口に入る土を吐き出しながら絶叫するが、体はどんどん沈んでいく。手の力がもう限界だ。ウイルドもこの庭の屍人の一員となって夜な夜な薬箱をぎいぎい言わせることになるのだろうか。
絶望が全身に回る直前、ヴァルダの「よっ」という軽いかけ声を聞いた。何が起こったのかわからない。ウイルドは信じられないくらいに軽々と地上へと引き戻された。同時に背後で巨大な何かが地響きを立ててうちあげられる。
衝撃で絡みついていた無数の腕が外れ空に放り出された。地面に強かに体をぶつけ、おまけのようにちぎれ飛んできた青黒い腕が目の前にぼたりと落ちる。ウイルドは大声で叫びそのせいで派手に咳きこんだ。
その土混じりの唾液を吐いているウイルドの横を風が駆け抜ける。月光に反射する太刀の残像が目に残った。直後、背後ですさまじい絶叫が響き渡る。今のはヴァルダだ。
あの得体の知れないものを斬ったのだろうか。耳障りな絶叫は細く太く波打ちながら続いていた。
見てはならない気がする……。
しばらくウイルドは地面に手をついた姿勢のままで固まっていたが、背後からぼたぼたと湿った何かが地に散らばるような音と強烈な腐臭が漂ってくる。
「ヴァルダさん!」
たまらず振り返ると屍人の山が見え、そこから肉塊が崩れ落ちていた。ぼたぼたという音は粘度の高いなんらかの液体を滴らせた腕やら足やらどこの何かわからない肉が地面に落ちる音だったのだ。
意識が遠のきそうになる。
「薬屋、終わったぞ。釣りってのはタイミングなんだよ」
見るとヴァルダが脱ぎ散らかした服を着ているところだった。すっかり服を着こんでしまっている。こんな状況でやや落胆している自分に驚いた。
「急げ。ずらかるぞ」
そんなウイルドをヴァルダが足蹴にして急かす。
「もう、これ、死んでるんじゃないんですか。あ、最初から死んでるのか……」
何を急ぐ必要があるのか分からずウイルドはふらふらと立ち上がって周りを見渡した。まだのどに土が残っているような気がする。
「ぼけっとしてんじゃねぇよ。あちらの方々がお待ちかねなんだよ」
ぎぃ。
薬箱がひとつ開いた。
それが合図になったように庭中の薬箱があの音を不規則にたてながら開いてゆく。
「うわあああ」
ウイルドは悲鳴をあげてまた地面に伏せた。結局これらが一体何なのか全然わからない。
「うるせぇ!」
ヴァルダはまたウイルドを蹴り飛ばす。
「あちら側を斬るいわれがないんでね。急げ。店の中から金目のもの全部盗ってこい」
「は?」
ヴァルダはすでにシハルの荷物を背負っている。
「そこに箱いっぱいあんだろ。詰めるだけ詰めてさっさと逃げるぞ」
箱って……。
開いた薬箱からは黒くモヤのようなものが這い出て、店の中へじわじわ侵入している。気色悪い。あの箱を持ち出せというのか。
「む、無理です!」
「無理じゃねぇ。やれよ!」
ヴァルダは近くに半分埋まったような薬箱を引き出すとウイルドに投げつける。薬箱は結構大きいし重い。ちょっとした家具レベルだ。そんなものをぶつけられてウイルドはまた悲鳴をあげた。
ヴァルダに急かされてウイルドは店に戻ると店先に置きっぱなしになっていた売上金の一部、高級な薬種などを選んで薬箱に詰め込んでゆく。やりはじめるとウイルドにも欲が出てくる。最高級の人参などは根こそぎさらった。
「こっちは何だ?」
例の鍵がかかった部屋だ。
「入ったことがないので分かりません」
ヴァルダは相変わらずニタニタと下品な笑いを顔にはりつけて扉を蹴り始める。
「ちょ、ちょっと、店主たちが起きてきちゃいますよ」
「それは心配ない」
どういう蹴り方をすればそうなるのか。錠が破壊される音がして、扉が破られた。
「薬屋! これは何だ! 金になるか?」
早くも怒声が響き、慌てて部屋に駆け入った。主人が変わっただけのような気がしてくる。
「これは……」
ウイルドは床に積まれた袋の中身を確認して絶句する。
「何だ。もうかるか?」
ウイルドは黙って他の袋も開けてみる。
「これを薬として扱うには相当な知識と技術が必要です」
「――どういう意味だ?」
「薬効の出る量と死に至る量が非常に近しい。世間一般ではこういうものを『毒』と呼びますね。素人に売るようなものでは――」
「ごちゃごちゃうるせぇよ。金になるのかならないのか。それだけ言えよ」
ヴァルダはいら立って部屋の壁をがんがん蹴る。
「お金になります。この手のものを欲しがる御仁は五万といますから」
そういうことだったのかと、ウイルドは納得する。店主たちがときおり柄の悪い客や顔を隠した怪しげな客を店の中に引き入れていたのはこの薬種を販売するためだったのだ。治療ではなく殺すために使うのであれば薬の知識はほとんどいらない。ウイルドが表でまともな薬を売っていたのでよい隠れ蓑になったのだろう。
苦く熱い塊が腹から込みあげ、ウイルドはヴァルダと同じように壁をがんがん蹴った。
何が面白いのかヴァルダはゲラゲラと笑いながらまた壁を蹴りはじめる。ウイルドはそれにまた腹が立って壁を蹴る。意味はない。意味はないが無性に壁が蹴りたかった。
しばらくウイルドとヴァルダは壁を蹴っていたが、その衝撃のせいだろう。どすんと大きな音を立てて棚の上から何かが落ちた。もうもうと埃が立ち込める中、ヴァルダはこそ泥のような素早さで落ちたものを確認している。
「薬屋、これは金になるか」
何冊もの帳面が汚れた織物に包まれている。その織物にウイルドは見覚えがあった。
「それは……母のものです」
震える手で手に取ると表紙には懐かしい母の文字がある。開こうとして手をとめる。
なぜこんなところに母の大切な帳面があるのだろうか。ウイルドと同じように母も薬のことなどをよく帳面に書き込んでおり、何かあれば過去の記録を見て考えこんでいた。これがなくては仕事ができない。
その時、ウイルド思考を断ち切るような絶叫が店中に響き渡った。それを皮切りに何人もの悲鳴、激しい物音が続く。
「お、始まった」
ヴァルダは何でもないことのようにそう言うと、「金、金」としつこかったのが嘘のようにあっさりと踵を返す。ここにある毒物を売るために持ち出すのではないかと危惧していたが、最初からそんなものはなかったかのように無頓着に部屋を出てゆく。
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ」
ウイルドはあわてて重たくなった薬箱を背負い、母の帳面を織物に包んで胸に抱いた。
「引き際が肝心だぜ。欲をかけばろくなことにならねぇ」
ヴァルダはすでに裏口の方にいる。ずっと店中が騒がしいが、先ほど薬箱から出ていた黒いモヤと関係があるのだろうか。やはり気色悪い。ウイルドは裏口へと走った。
「ヴァルダさん、それ持ってくださいよ」
裏口には先ほど持って逃げようと用意した麻袋が置いてある。
「甘えるな。てめぇののケツはてめぇで拭け」
言うと思った。
ウイルドは仕方なく帳面を脇に抱えて麻袋をつかんで走り始めたが、数歩でバランスを崩して倒れこむ。
「重い。痛い」
薬箱に押し潰される形になり起き上がれない。店を出たのだからこれ以上走る必要があるのだろうかと倒れた姿のまま伸びていると、背後ですさまじい爆発音がした。
「薬屋、つかまれ! 放したらぶっ殺すぞ」
ヴァルダが投げたらしき腰ひもの端を死に物狂いでつかんだものの、口から土が入るので息ができない。ウイルドの窮地に気づいているはずなのにヴァルダは「これは大モノだなぁ」などとのんきな声をあげて笑っているのが聞こえる。早く引き上げてほしい。腕がちぎれそうだ。
ようやくヴァルダがじりじりと腰ひもを引っ張りはじめるが、ここにきて恐ろしい事態を認識した。悪霊は二体とも怪力だったのだ。
「ちぎれる……、か、体がちぎれる……」
ヴァルダの方は体がシハルであるはずなのになぜあんな力が出るのか。もともとシハルも怪力なのか。
「餌盗りか」
ヴァルダの不吉なつぶやきが聞こえ、ウイルドの体はずぶずぶと土の中へともぐり込んでいく。
「あっさり引き下がらないでください!」
口に入る土を吐き出しながら絶叫するが、体はどんどん沈んでいく。手の力がもう限界だ。ウイルドもこの庭の屍人の一員となって夜な夜な薬箱をぎいぎい言わせることになるのだろうか。
絶望が全身に回る直前、ヴァルダの「よっ」という軽いかけ声を聞いた。何が起こったのかわからない。ウイルドは信じられないくらいに軽々と地上へと引き戻された。同時に背後で巨大な何かが地響きを立ててうちあげられる。
衝撃で絡みついていた無数の腕が外れ空に放り出された。地面に強かに体をぶつけ、おまけのようにちぎれ飛んできた青黒い腕が目の前にぼたりと落ちる。ウイルドは大声で叫びそのせいで派手に咳きこんだ。
その土混じりの唾液を吐いているウイルドの横を風が駆け抜ける。月光に反射する太刀の残像が目に残った。直後、背後ですさまじい絶叫が響き渡る。今のはヴァルダだ。
あの得体の知れないものを斬ったのだろうか。耳障りな絶叫は細く太く波打ちながら続いていた。
見てはならない気がする……。
しばらくウイルドは地面に手をついた姿勢のままで固まっていたが、背後からぼたぼたと湿った何かが地に散らばるような音と強烈な腐臭が漂ってくる。
「ヴァルダさん!」
たまらず振り返ると屍人の山が見え、そこから肉塊が崩れ落ちていた。ぼたぼたという音は粘度の高いなんらかの液体を滴らせた腕やら足やらどこの何かわからない肉が地面に落ちる音だったのだ。
意識が遠のきそうになる。
「薬屋、終わったぞ。釣りってのはタイミングなんだよ」
見るとヴァルダが脱ぎ散らかした服を着ているところだった。すっかり服を着こんでしまっている。こんな状況でやや落胆している自分に驚いた。
「急げ。ずらかるぞ」
そんなウイルドをヴァルダが足蹴にして急かす。
「もう、これ、死んでるんじゃないんですか。あ、最初から死んでるのか……」
何を急ぐ必要があるのか分からずウイルドはふらふらと立ち上がって周りを見渡した。まだのどに土が残っているような気がする。
「ぼけっとしてんじゃねぇよ。あちらの方々がお待ちかねなんだよ」
ぎぃ。
薬箱がひとつ開いた。
それが合図になったように庭中の薬箱があの音を不規則にたてながら開いてゆく。
「うわあああ」
ウイルドは悲鳴をあげてまた地面に伏せた。結局これらが一体何なのか全然わからない。
「うるせぇ!」
ヴァルダはまたウイルドを蹴り飛ばす。
「あちら側を斬るいわれがないんでね。急げ。店の中から金目のもの全部盗ってこい」
「は?」
ヴァルダはすでにシハルの荷物を背負っている。
「そこに箱いっぱいあんだろ。詰めるだけ詰めてさっさと逃げるぞ」
箱って……。
開いた薬箱からは黒くモヤのようなものが這い出て、店の中へじわじわ侵入している。気色悪い。あの箱を持ち出せというのか。
「む、無理です!」
「無理じゃねぇ。やれよ!」
ヴァルダは近くに半分埋まったような薬箱を引き出すとウイルドに投げつける。薬箱は結構大きいし重い。ちょっとした家具レベルだ。そんなものをぶつけられてウイルドはまた悲鳴をあげた。
ヴァルダに急かされてウイルドは店に戻ると店先に置きっぱなしになっていた売上金の一部、高級な薬種などを選んで薬箱に詰め込んでゆく。やりはじめるとウイルドにも欲が出てくる。最高級の人参などは根こそぎさらった。
「こっちは何だ?」
例の鍵がかかった部屋だ。
「入ったことがないので分かりません」
ヴァルダは相変わらずニタニタと下品な笑いを顔にはりつけて扉を蹴り始める。
「ちょ、ちょっと、店主たちが起きてきちゃいますよ」
「それは心配ない」
どういう蹴り方をすればそうなるのか。錠が破壊される音がして、扉が破られた。
「薬屋! これは何だ! 金になるか?」
早くも怒声が響き、慌てて部屋に駆け入った。主人が変わっただけのような気がしてくる。
「これは……」
ウイルドは床に積まれた袋の中身を確認して絶句する。
「何だ。もうかるか?」
ウイルドは黙って他の袋も開けてみる。
「これを薬として扱うには相当な知識と技術が必要です」
「――どういう意味だ?」
「薬効の出る量と死に至る量が非常に近しい。世間一般ではこういうものを『毒』と呼びますね。素人に売るようなものでは――」
「ごちゃごちゃうるせぇよ。金になるのかならないのか。それだけ言えよ」
ヴァルダはいら立って部屋の壁をがんがん蹴る。
「お金になります。この手のものを欲しがる御仁は五万といますから」
そういうことだったのかと、ウイルドは納得する。店主たちがときおり柄の悪い客や顔を隠した怪しげな客を店の中に引き入れていたのはこの薬種を販売するためだったのだ。治療ではなく殺すために使うのであれば薬の知識はほとんどいらない。ウイルドが表でまともな薬を売っていたのでよい隠れ蓑になったのだろう。
苦く熱い塊が腹から込みあげ、ウイルドはヴァルダと同じように壁をがんがん蹴った。
何が面白いのかヴァルダはゲラゲラと笑いながらまた壁を蹴りはじめる。ウイルドはそれにまた腹が立って壁を蹴る。意味はない。意味はないが無性に壁が蹴りたかった。
しばらくウイルドとヴァルダは壁を蹴っていたが、その衝撃のせいだろう。どすんと大きな音を立てて棚の上から何かが落ちた。もうもうと埃が立ち込める中、ヴァルダはこそ泥のような素早さで落ちたものを確認している。
「薬屋、これは金になるか」
何冊もの帳面が汚れた織物に包まれている。その織物にウイルドは見覚えがあった。
「それは……母のものです」
震える手で手に取ると表紙には懐かしい母の文字がある。開こうとして手をとめる。
なぜこんなところに母の大切な帳面があるのだろうか。ウイルドと同じように母も薬のことなどをよく帳面に書き込んでおり、何かあれば過去の記録を見て考えこんでいた。これがなくては仕事ができない。
その時、ウイルド思考を断ち切るような絶叫が店中に響き渡った。それを皮切りに何人もの悲鳴、激しい物音が続く。
「お、始まった」
ヴァルダは何でもないことのようにそう言うと、「金、金」としつこかったのが嘘のようにあっさりと踵を返す。ここにある毒物を売るために持ち出すのではないかと危惧していたが、最初からそんなものはなかったかのように無頓着に部屋を出てゆく。
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ」
ウイルドはあわてて重たくなった薬箱を背負い、母の帳面を織物に包んで胸に抱いた。
「引き際が肝心だぜ。欲をかけばろくなことにならねぇ」
ヴァルダはすでに裏口の方にいる。ずっと店中が騒がしいが、先ほど薬箱から出ていた黒いモヤと関係があるのだろうか。やはり気色悪い。ウイルドは裏口へと走った。
「ヴァルダさん、それ持ってくださいよ」
裏口には先ほど持って逃げようと用意した麻袋が置いてある。
「甘えるな。てめぇののケツはてめぇで拭け」
言うと思った。
ウイルドは仕方なく帳面を脇に抱えて麻袋をつかんで走り始めたが、数歩でバランスを崩して倒れこむ。
「重い。痛い」
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