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第一章 夜鳴き箱

夜鳴き箱(5)

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「――その前に、約束してください。服を脱がない、いやらしい行為をしない、片付いたら即刻戻る、無関係なものを傷つけない、いいですね?」
 シハルはかなり忌まわしいものを呼び出そうとしてはいないか。ウイルドはとんでもない悪霊が出てくる予感に震えがとまらない。目をそらした先に足をつかむ死人の腕がちらりと見え、あわててまた目をそらす。
「――ヴァルダ」
 りんと鈴の鳴るようなシハルの声に、さっと視界が桃色に染まった。幻覚だろうか。一瞬だけ、どこまでも広がる花畑を見たような気がする。さっと吹く風に花びらが舞いあがる気配だけがウイルドの頭にその光景の余韻を残した。

「今のは?」
 ウイルドは一瞬自分がどこにいるのかわからなくなる。月明かりに薄くなった闇から桃色の花びらが一枚だけ舞い落ちてきた。しかしそれはウイルドが手にする前に夜に溶けるように消えてしまう。
「ごちゃごちゃうるせぇな」
 ウイルドは店主が起きて来たのかとびくりと背を震わせる。
「脱ぐぞ」
 声の方を見ると、シハルが長衣を脱ぎ捨てているところだった。
 あれは――見事なまでに悪霊にとり憑かれているではないか。呪術を扱うといっていたが、これは正しい状態なのだろうか。
 まず目つきが悪い。声はシハルの声だが、口調などが完全に店主と同類のチンピラである。直後、ウイルドは両手で目を覆った。見てはならない気がする。
 シハルはどんどん服を脱いでいる。全裸ではないが、胸はさらしを巻いた状態、下はよくわからないが短袴というのか、たよりない腰ひもでしばられおり生地が薄いことが遠目でもわかる。おそらく下着だろう。シハルは脱ぐなと言っていたはずなのに、完全に無視していた。
 ここにきてウイルドは初めてシハルが女性であることを知った。祭司の長衣は主に男性がまとっているイメージだったし、声は高くなく落ち着いていたし、顔立ちも中性的、さらに長身である。しかもあんな大荷物を軽々と運んでいたという事実で誤認していた。いや、そもそも男装していたといえなくはない姿である。長衣の下には体の線を誤魔化したかったとしか思えないくらいに着こんでいた。
 ウイルドは半ば懸命に女性を男性だと思ってしまった無礼の言い訳を探す。
「てめぇ、見ただろ」
 そんなウイルドの混乱を知ってか知らずか、目つきの悪いシハルが大股でウイルドの方へ近づいてくる。因縁のつけ方が完全にチンピラだ。しかしなぜか先ほどまであんなにしつこくシハルを狙っていた腕は避けるように土の中へとひっこんでいく。まるで怯えているようだ。
 ハッとしてウイルドは自分の足をとらえてくる腕を見ると、シハルが近づいてくるのを察知したかのようにゆっくりと土の中に消えていった。
 動ける。
 ウイルドが立ち上がろうとした途端、熱い衝撃に襲われ、また地面に尻もちをついた。
「何で殴るんですか」
 シハルはウイルドの胸倉をつかむ。いや、これはヴァルダという悪霊か。ややこしい。
「うるっせえ、黙れ。お前みたいなのを見てるとイライラするんだよ。あと、シハルを餌付けしようとするんじゃねえ」
 餌付けって動物じゃあるまいし。それにまだ何も与えていないうえにお腹がすいたとアピールしてきたのはシハルの方である。
 だがチンピラの扱いに慣れているウイルドは何も言い返さなかった。口ごたえをすると、どんどんヒートアップしていくのがこの手の人間だ。いや、悪霊か。
 とにかく今の状況がよくわからない。ヴァルダをちらりと見あげたが、目のやり場に困ってすぐに顔をそむけた。しかしチンピラは目ざとい。
「どこ見てんだよ、このドスケベが」
 やはり絡まれる。
「――お前、どうせ童貞だろ。いいものを見せてやろうか」
 ヴァルダはこれ見よがしに女性的な手つきで腰ひもに手をかける。
「結構です! 服を着てください」
 ウイルドはあわてて、ヴァルダの手をつかむ。
「触るんじゃねぇ」
 すかさず殴られる。理不尽が過ぎる。
 ウイルドは殴られた頬をさすり、辺りを見渡す。先ほどまであんなに恐ろしかった庭が静まり返っている。薬箱もいつの間にかすべて閉まっていた。
 首をかしげているウイルドにヴァルダが口を開く。
「悪霊にも格というものがあるんでね。俺のことが怖いわけだ」
 言いながら品の悪い笑い方をする。どこか抜けてはいたが妙に行儀よかったシハルとはまったく別人にしか見えない。
 あの小箱におさまっていたときから禍々しいとは思っていたが、格の高い「悪霊」だったわけだ。
「そもそもここにいる半数はこちらに対しては悪意がない。お前を逃がしてやろうと夜な夜なおどかしていただけだ。それなのにお前ときたら、腰抜けが過ぎて一周回って肝が据わって見える」
 ヴァルダはそう言いながら相変わらず下品な笑い声をあげる。もはやシハルの人格を貶めるレベルだ。
「そもそもこの庭に何がいるって言うんですか」
 笑いをおさめたヴァルダは小馬鹿にするようにウイルドを見下ろした。
「見たらわかるだろ。屍人だ」
 確かに見たらわかるがその状況も含めてウイルドには何が起こっているのかわからない。
「な、なんでここで死んでるんですか」
「この辺で殺したからだろ」
「誰がそんな……」
 言いながら答えはひとつしかないことに思いいたる。しかもかなりの腕の数だった。ここにいる屍人の数は想像を絶する。ウイルドはぞっとして自身の肩を抱く。ヴァルダはそんなウイルドをあきれたような冷たい目で見てから、背を向けぐっとその場で体を伸ばした。ほの白く浮かぶ脇から腰までのゆるやかな曲線に思わず目が釘付けになる。
「てめぇの自慰のネタになるために脱いだわけじゃねぇぞ」
 後ろに目がついているのか。ウイルドはそわそわと視線をさまよわせる。
「街道の追い剥ぎどものアジトを立派な薬屋にしちまったお前は結構罪深いぜ」
 追い剥ぎ?
 ウイルドがその意味をはかりかねて絶句している間にヴァルダはシハルの薬箱のあった辺りから何かを引き出した。布で包まれていたあの細長い何かだ。ヴァルダが乱暴にその布をとくと中から現れたのは大ぶりの太刀であった。こちらはシハルの祭具のような小刀よりもずっと実用的な得物に見える。かなり使い込まれたような風格だが、きちんと手入れがされているらしく、ヴァルダが鞘から抜き放つと同時に月の光をぎらぎらと照り返した。
 禍々しい。
 まるで絡む相手を探すチンピラのように下卑た笑いを浮かべながら庭を見渡している。その細いが程よく筋肉がついた腕は危なげなく太刀をかまえていた。なるほど、シハルの長衣ではこの太刀を振り回すには若干動きにくい。
「どこだ……」
 ヴァルダは舌なめずりをせんばかりに庭を再度見渡すが、探している獲物が見つからないのかだんだんと焦れてきているようだった。ウイルドとしては怖いものが出て来なくなったならそれでもういいのだが、ヴァルダの方はそうはいかないらしい。いら立ったように薬箱を蹴飛ばしている。
「シハル! これは俺にもつかえるのか。めんどくせぇな」
 ヴァルダが乱暴に髪をかきあげるような仕草をすると、その手には不思議な形状の道具が握られていた。三日月のような形のものがつらなっていて、しゃらしゃらと澄んだ音をさせている。これもやはり祭具か装飾品のように見えた。
 ヴァルダはしばらくはおとなしくその道具を見ていたが、元来短気なのだろう。すぐにそれを放り投げる。それは場違いにも美しい音をたてて地に落ちた。シハルの持ち物だろうに大丈夫だろうか。
「探さなくても地面からいっぱい腕が出てたじゃないですか」
 ウイルドはたまりかねてヴァルダに声をかけるが、凶悪な顔で睨まれただけだった。
「あれはただの屍人だ。いくら斬ってもきりがない。大元をつぶさねぇと」
「格が高くてもそれがどこにいるかわからないんですか」
 ウイルドは純粋に不思議に思って口にしてしまってからすぐに後悔した。また殴られるかもしれないと思わず身を縮めたが、ヴァルダはもう何か言うのも面倒だという様子でウイルドの方を見もしない。
「お前も死んでみたらわかるさ。生者と死者はそんなに差はないんだぜ」
 そういうものだろうか。ウイルドは屍人がうごめいているのを生まれて初めて見たわけだが、こういうのはよくあることだったのか。何度か首をかしげたがやはりあまりないような気がする。
 ここ数年ウイルドを悩ませてきた薬箱の音は悪意のないものだとヴァルダは言った。死者も生者と同じく悪意のあるものとないものがあるということだろう。もしヴァルダのいうとおりであれば、大元というのはヴァルダのような強い悪霊からは姿を隠したいが、弱い者であれば痛めつけたいというチンピラのような性分だと思われる。で、あれば―。
「負けるのがわかっていて出て来るわけないですよ。ずいぶんと手下が多いようですが、所詮この狭い庭の中だけのことです」
 チンピラの生態は熟知している。
 しばらくはしんと静まり返っているだけだった。チンピラ体質の悪霊がのってこないわけはないとウイルドが辺りを見渡すと、ヴァルダが悪辣な笑みを浮かべているのが視界に入った。
「釣りは嫌いじゃない」
 意味不明なことを言いながら、ためらいなく下着の腰ひもをといてしまう。
「ちょ、ちょっと……」
 しかしウイルドはみなまで言えなかったし、残念ながら何も見えなかった。
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