【R18】逆上がりの夏の空

藤原紫音

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第3話「鉄棒で逆上がりして、小学五年生の夏に戻ること」

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 同窓会は午後四時に終わり、ぼくたちは幡ヶ谷イルミナージュを後にする。

 みんなに手を振って別れる。ぼくは、唯と二人で一緒に電車に乗って、寮とは逆方向の明大方面に向かう。途中で乗り換えて、杉並まで。駅から十五分ほど歩くと、善福寺川ぜんぷくじがわ沿いに、かつて通った聖恵小学校の校舎が見えてくる。

 小さなグラウンドと小さな校舎。
 当時はとても広くて、大きな校舎だと思っていたけれど、想い出からワンサイズ縮小された可愛い建物に見えた。いまは半分くらいにネットが張られて、解体工事が始まっている。祝日の今日は作業をしていない。校庭には誰もいない。フェンスが茜色あかねいろに染まり、長い影をコンクリートの歩道に伸ばす。

「わー、懐かしー」と唯が言う。
「こんなに狭かったかな」とぼく。
「ね、ちいさいね」
「遊具は残ってるね」

 ぼくが指差した先に、雲梯うんていとジャングルジム、登り棒、それにぼくが落下した鉄棒が残されていた。鉄棒の足元にはゴム板が埋め込まれている。ぼくが転落したあとに設置された。大きな滑り台はすでに無い。唯がフェンスを乗り越えて、立入禁止の校庭に飛び込む。ぼくも慌ててあとに続く。

「勝手に入ったら怒られるよ」
「だれもいないじゃん、大丈夫だよ」

 唯は両手を伸ばして雲梯につかまる。あの頃は足がつかなかったのに、余裕で届く。唯がベストの下に着た白いキャミがずり上がって、お腹がみえる。唯は雲梯を掴んだまま空を仰ぐ。

「あの頃に戻れたら、どうする?」
「逆上がりはしない」
「アハハ、乃蒼くんはそうだね」

 * * *

 クラスでも人気者だった城島蒼汰きじまそうたは、五年生になった最初の頃はよく一緒に遊んでいた。

 体育の授業で、あの日、ぼくたちは鉄棒の練習をしていた。その前後のことはよく覚えていない。初夏の暑い日、鉄棒に集まって前回り、逆上がり、豚の丸焼きをやっていて、半分くらいの子はグラウンドで走り回っていた。先生の姿を思い出せない。

「乃蒼、逆上がりできないの?」と蒼汰が言う。
「一年生の頃はできたんだけど」
「やってみなよ、簡単だって」

 そう言って、蒼汰は隣でくるりと逆上りする。鉄棒を掴んで宙に浮いたまま、身体をしならせて勢いをつけて、そのまま空中逆上がりを決める。想い出の中の蒼汰は日焼けしている。

「ほら、余裕」

 向かいで見ていた唯と露杏奈が、蒼汰すごーい、と言う。露杏奈が見ている前で失敗したくない。ぼくが躊躇してると、蒼汰がますます煽ってくる。

「やってみて、ほら」

 ぼくは勢いをつけて地面を蹴る。身体が上がらなくてお尻が落ちる。一年生の頃は、もっと頭が重くて簡単に回ったはずなのに。もう一度勢いをつける。また失敗。

「乃蒼、前じゃなくて上に飛ぶんだよ。つま先を真上に上げるの」
「こう?」
 ぼくは片脚を上に伸ばす。
「そうそう、お前身体柔らかいな」

 ぼくはあまり勢いをつけずに足を真上に上げる。もう少し、というところでバランスを失って落ちる。唯と露杏奈が「乃蒼くん頑張れ」と言う。そうだ、そんなふうに励まされて、ぼくは諦めずにもう一度挑戦したんだ。

「あたしもできるよ」
 露杏奈がぼくの隣の鉄棒に捕まる。
「一緒に回ろう」

 勢いを着けて跳ねる。露杏奈も一緒に地面を蹴る。
 夏の空と白いグラウンドがぐるりと回転し、ぼくの両脚と露杏奈の白い両脚が空に並んで、ぼくは逆上がりに成功したけれど、勢いがつきすぎて両手が離れてしまい、そのまま背中から地面に叩きつけられる。ごつっ、という不穏な音が響いて、火花が散る。息ができない。唯と露杏奈の悲鳴。周囲の子が集まってくる。誰かが「せんせー!」と叫ぶ。

 * * *

「ぼく、今は回れるよ」
「逆上がり?」
「うん、余裕」
「できるようになったんだ」

 あのときは逆上がりに失敗したんじゃない。回り終えたときに逆手から順手に持ち替えようとして、着地に失敗しただけ。中学になってからはできるようになった。ぼくは鉄棒を逆手に持つ。

「えーやめて、失敗したら……」
「平気、もう五年も前だよ」

 唯が本気で不安そうな表情でぼくをみる。ぼくはそのまま勢いをつけて地面を蹴る。
 だいだいに染まった西の空がぐるりと回転し、それは回りながら青空にグラデーションして、すとんと着地したとき、夏空の強い太陽光に目が眩む。


 何かが起きた。


 誰もいなかったグラウンドは、五年一組の生徒がいっぱい。シートが掛けられていた古い小さな校舎は、真っ白で巨大な建物になって、体操服を着た幼い露杏奈が隣の鉄棒を掴んでぼくをみる。

「おー、すごーい、乃蒼くんも回れた」

 唯がが手を叩く。隣の鉄棒を掴んだ蒼汰が「ほらできるじゃん」と言ってぼくの肩を叩く。
 グラウンドで袴田くんと野田亮二が五十メートル走の競争をしている。莉緒菜が梅津先生となにか喋っている。ぼくは呆然として鉄棒を掴んだまま、隣の露杏奈をみつめる。露杏奈もぼくをみつめる。お互い唖然とした表情。ぼくは状況が掴めず、露杏奈はぼくが逆上がりできたことを驚いているかのよう。
 露杏奈をよくみると、たしかに瞳が青い。お人形のように整った顔立ちで、透き通った肌に唇の赤みが際立つ。こんなに可愛かったんだ。そういえば、ぼくは露杏奈としゃべるとき、恥ずかしくてちゃんと顔をみていなかった。

 チャイムが鳴る。梅津先生が「教室に戻れー」と声をかける。ぼくは小学五年生の集団に紛れて、昇降口へ駆ける。

 * * *

 教室のカレンダーは二〇一三年六月三日だった。これは夢か、それともさっきまでのが夢か。

 ぼくは小学校の教科書を拡げて、授業を受けていた。隣には露杏奈が座る。そうだ、露杏奈は隣の席だったから、あんなに仲が良かったんだ。すっかり忘れていた記憶が、次々と蘇る。
 二十八人のクラスメートの顔と名前、掲示物、日直の名前、木製の古い教卓、窓際のぼくの席にはエアコンの風が来なくて、夏はとても暑いこと。すべてが懐かしくて、授業も上の空。

 給食の時間。ぼくは露杏奈と同じ班で、机を向かい合わせる。食べ始めてすぐ、露杏奈はぼくに話しかける。

「乃蒼くん、今日変だね。ずっとぼんやりしてるよ」
 女の子はちゃんとみている。ぼくは頬が赤くなる。
「なんか、懐かしくて」
「懐かしい?」
「ううん、なんでもない」
「何? 気になる」

 露杏奈は机の下で足を伸ばして、ぼくのすねを小突く。ぼくが笑うと、露杏奈は嬉しそうな顔をする。上目遣いになる。隣のカナとひそひそ話。私立受験の激戦をくぐり抜け、鉛色の青春を過ごしたぼくにとって、女の子のそういう所作しょさはとても新鮮で輝いてみえる。

 高校一年生だったぼくは、小学校の校庭で逆上がりしたことで、五年前の夏の日に時間が巻き戻った。逆上がりしたことで巻き戻ったのか、それとも他の要因かわからないけれど、高校一年生の記憶を持ったまま、ぼくにのチャンスが訪れた。
 あの鉄棒から落ちて以来、ぼくは後悔を重ねてきた。
 友達を作らず、思い切り遊ぶこともなく、私立中学進学を選んだことで勉強漬けの毎日を送り、露杏奈とは親密になれずに隣の席の子のまま二年間が無為に過ぎてしまう。そうだ、妹とも喧嘩をして、仲直りできなかった。口惜しさに


 お昼休み。
 ぼくは蒼汰に誘われてグラウンドに遊びに行く。野田亮二と袴田くんの他に、ダイキやショウイチがいて、みんなで足を出して鬼決めをする。鬼ごっこが始まる。一息つく暇もない。みんな間断かんだんなく全力で遊ぶ。小学生ってこんなにハードだっけ。ぼくが鬼になると、足の遅いダイキを追いかける。
 この日のお昼休みは、ぼくの記憶にないお昼休み。記憶の中では、ぼくは鉄棒から落下して、この日から一ヶ月近く入院することになった。退院してすぐに夏休みになってしまって、ぼくは五年一組で浮いた存在になってしまった。

 掃除の時間、昇降口を一緒に掃除していた野田亮二がぼくに声をかける。

「乃蒼、お前税務署のとこ住んでるよね」
「そうだけど……」
「通学班ってユウナとか伊東さんと帰ってない? 遠回りだろ」
「同じくらいだよ」
「青梅街道まで出てるじゃん。絶対遠回りだって」
「そうかなあ」
「先生に言っておいてやるから、俺達の班と一緒に帰りなよ」
「うん」

 野田亮二の言う通りだ。ぼくはユウナたちの通学班で登下校している。それは、ぼくの家が亮二たちの班のエリアとユウナたちの班のエリアの境界線にあったからだ。ユウナの班には伊東露杏奈がいたから、ぼくはそっちに加わることを選んだ覚えがある。通学の時間は五分ほど余計にかかるけれど、黙っていた。野田亮二は善意でそう言ってくれているのだろうけど、正直迷惑だった。

 記憶を持ったまま過去へ戻った謎現象にまだ心が落ち着かないまま、露杏奈と一緒に下校できることを期待していたぼくは、なんだか脱力して放課後を迎える。だけど、その通学路の変更をきっかけに、ぼくの運命は大きく狂い始める。
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