2 / 109
第1部
第1話「ぼくの乗った飛行機が墜落する顛末」
しおりを挟む
落下したエレベーターから異世界に落ちた総一は、王都へ旅立つ飛行船に乗せられ、砲手として見知らぬ敵と戦う羽目になる。
裏表紙のあらすじを読むぼくは、本を飛行機の座席テーブルにのせる。まだ読まない。飛行機はまだ離陸していない。隣に座った父はテーブルに書類をひろげて、老眼鏡をかけて小さな文字を目で追っている。
「梨央、向こうについたら夕飯は何がいい?」と父が聞く。
「うーん、揚餃子でいいよ」
「寿司とか肉じゃなくていいのか」
「まだお腹すいてないし……」
「じゃあ揚餃子な」
「着いたら、相談があるんだけど」
「なんだ」
「着いてから話すよ」
ぼくは袴田梨央、十七歳の高校二年生。夏休みに入ったばかりのこの時期に、父の袴田功は研究論文発表会にぼくを同伴させた。母と妹の友梨は家で留守番。ぼくも留守番したかった。飛行機に乗る前に妹にこの本を借りて、機内で読むつもりだった。
異世界転生。
ありきたりな設定のありきたりなライトノベルだったけれど、妹の友梨が勧めてくれた本だし、学校放送のために氷点とか冷血とかチェーホフのかもめを精読して、脳が疲れていたぼくにはちょうどよかった。
チェーホフとかトルストイみたいなクドイ作家の本なんか二度と、もう一生読まなくていい。
ぼくは医学博士の父の勧めで都内の名門高校に進学し、将来は保証されていたけれど、これから待ち受けるエリートの人生はなんだかぼくにはハードで退屈で重い。
異世界転生にありがちな、車に跳ねられたり、高いところから落ちて人生一回リセットして、草花の香りのする牧歌的な世界で、モブで構わないからのんびりした日々を過ごす空想をすることがある。
飛行機が加速する。
ふわりと浮かぶ感覚は何度味わっても慣れない。どんどん高度があがる。
ぼくと父が乗るこのチャーター機は、医学会が用意した専用機だから、今回の発表会関係者が三十人ほどしか乗っていない。おじさんばかり。エリートばかり。スーツばかり。
ぼくは余所行きのジャケットとネクタイを締める。小型機の機内は息苦しく、乱気流を通過するときの揺れが大きくて、ぼくはネクタイを緩めてシャツのボタンを外す。
ベルトのランプが消灯する。
『ベルト着用サインが消えても、揺れに備えてベルトはそのままでお願いいたします』
アナウンスが流れる。お父さんはイヤホンをつけて目を閉じる。ぼくは本を開いて読み始める。
父はぼくがどんな本を読んでいても、ゲームをやっていても、勉強していなくても、なにも言わない。欲しい物は買ってくれる。模試の成績も通知表もみたことがない。高校の受験先を選ぶときだけ、近いからここにしろと言った。
ぼくはクラスでも下の方だった成績を半年で上位十人の中にねじ込んだけれど、父は褒めてくれなかった。それが当たり前だという無言の圧力を感じた。
進学してから、ぼくはその名門校が男子校だと気づいた。人生最大の失敗。
青春の一番大切な時期を、男だらけの施設に閉ざされて過ごす愚か者は、判断を誤ってこういう男子校に進学したやつか、罪を犯してネリカンに放り込まれたケーキを三等分にできないゴミのどちらかだ。ぼくは前者だったけれど、後者と変わりない生活を余儀なくされた。
女子高生のいない高校生活にはなんの価値もなかったけれど、与えられた環境で最善を尽くすのがエリート家系に生まれた代償だと考えよう。だけど、想像だけでも異世界へ逃げ出したって構わないじゃないか。
ぼくと同い年の主人公、総一は乗っていたエレベータが落下して、異世界の空に放り出された。
自由落下した総一は布張りの飛行船にバウンドして一命を取り留める。飛行船の乗組員に捕らわれた総一は、人手が足りない船の砲手として訓練を受け、軍港のある古都トトランへ。しかし、その道中、飛行船は共和国の解放軍の軍艦から砲撃を受ける。分厚い雲の中から現れた軍船の大砲が近距離で掃射され、総一の乗った船に命中する――。
ドドン。
ぼくは座席から浮かぶほどの衝撃に、読みかけの本を取り落とす。イヤホンをつけたまま眠りこけていた父が跳ね起きる。天井から黄色い酸素マスクが一斉に降りる。
テーブルをしまってください、シートベルトをつけてください、酸素マスクをつけてください。機長がアナウンスする。ただいま、右エンジンで火災が発生した模様です。消化を行っております。当機はこれより羽田に引き返します。緊急着陸の衝撃に備えて、客室乗務員の指示に従い、防御姿勢を取ってください。
「梨央、マスク」
父が震える手でぼくにマスクをつける。ぼくはマスクを握りしめてぶるぶる震える。ぶら下がったマスクが前方に傾斜する。飛行機が落下している。父が窓のシャッターを開ける。斜めの水平線が目に入る。どんどん落ちている。心臓がばくばく。
だめ、死ぬ、お母さん、友梨。
飛行機の傾斜が持ち直す。少しだけ機首があがる。今度は右に傾く。機内を飲み物のカップやボールペンやスマホやイヤホンのケーブル、それにぼくの本が飛び交う。全身の筋肉がひきつる。死ぬなら一瞬がいい。痛いのは嫌だ。
どーんと大きな音と衝撃が走り、右側の天井がバックリ引き剥がされ、青空がみえる。太陽がぐるりと回転し、ぼくたちの飛行機が海面を跳ねて、回転しているのだと把握する。
右側に座っていた人たちが外に吸い出される。一瞬無重力になって、手足がふわりと浮かび、今度は残酷なほど巨大な力に全身が翻弄される。手に持っていた酸素マスクがどこかに飛んでいく。大量の海水が流れ込む。
お父さんがみえない。息ができない。なにもきこえない。なにもみえない。なにもかんがえられない。
裏表紙のあらすじを読むぼくは、本を飛行機の座席テーブルにのせる。まだ読まない。飛行機はまだ離陸していない。隣に座った父はテーブルに書類をひろげて、老眼鏡をかけて小さな文字を目で追っている。
「梨央、向こうについたら夕飯は何がいい?」と父が聞く。
「うーん、揚餃子でいいよ」
「寿司とか肉じゃなくていいのか」
「まだお腹すいてないし……」
「じゃあ揚餃子な」
「着いたら、相談があるんだけど」
「なんだ」
「着いてから話すよ」
ぼくは袴田梨央、十七歳の高校二年生。夏休みに入ったばかりのこの時期に、父の袴田功は研究論文発表会にぼくを同伴させた。母と妹の友梨は家で留守番。ぼくも留守番したかった。飛行機に乗る前に妹にこの本を借りて、機内で読むつもりだった。
異世界転生。
ありきたりな設定のありきたりなライトノベルだったけれど、妹の友梨が勧めてくれた本だし、学校放送のために氷点とか冷血とかチェーホフのかもめを精読して、脳が疲れていたぼくにはちょうどよかった。
チェーホフとかトルストイみたいなクドイ作家の本なんか二度と、もう一生読まなくていい。
ぼくは医学博士の父の勧めで都内の名門高校に進学し、将来は保証されていたけれど、これから待ち受けるエリートの人生はなんだかぼくにはハードで退屈で重い。
異世界転生にありがちな、車に跳ねられたり、高いところから落ちて人生一回リセットして、草花の香りのする牧歌的な世界で、モブで構わないからのんびりした日々を過ごす空想をすることがある。
飛行機が加速する。
ふわりと浮かぶ感覚は何度味わっても慣れない。どんどん高度があがる。
ぼくと父が乗るこのチャーター機は、医学会が用意した専用機だから、今回の発表会関係者が三十人ほどしか乗っていない。おじさんばかり。エリートばかり。スーツばかり。
ぼくは余所行きのジャケットとネクタイを締める。小型機の機内は息苦しく、乱気流を通過するときの揺れが大きくて、ぼくはネクタイを緩めてシャツのボタンを外す。
ベルトのランプが消灯する。
『ベルト着用サインが消えても、揺れに備えてベルトはそのままでお願いいたします』
アナウンスが流れる。お父さんはイヤホンをつけて目を閉じる。ぼくは本を開いて読み始める。
父はぼくがどんな本を読んでいても、ゲームをやっていても、勉強していなくても、なにも言わない。欲しい物は買ってくれる。模試の成績も通知表もみたことがない。高校の受験先を選ぶときだけ、近いからここにしろと言った。
ぼくはクラスでも下の方だった成績を半年で上位十人の中にねじ込んだけれど、父は褒めてくれなかった。それが当たり前だという無言の圧力を感じた。
進学してから、ぼくはその名門校が男子校だと気づいた。人生最大の失敗。
青春の一番大切な時期を、男だらけの施設に閉ざされて過ごす愚か者は、判断を誤ってこういう男子校に進学したやつか、罪を犯してネリカンに放り込まれたケーキを三等分にできないゴミのどちらかだ。ぼくは前者だったけれど、後者と変わりない生活を余儀なくされた。
女子高生のいない高校生活にはなんの価値もなかったけれど、与えられた環境で最善を尽くすのがエリート家系に生まれた代償だと考えよう。だけど、想像だけでも異世界へ逃げ出したって構わないじゃないか。
ぼくと同い年の主人公、総一は乗っていたエレベータが落下して、異世界の空に放り出された。
自由落下した総一は布張りの飛行船にバウンドして一命を取り留める。飛行船の乗組員に捕らわれた総一は、人手が足りない船の砲手として訓練を受け、軍港のある古都トトランへ。しかし、その道中、飛行船は共和国の解放軍の軍艦から砲撃を受ける。分厚い雲の中から現れた軍船の大砲が近距離で掃射され、総一の乗った船に命中する――。
ドドン。
ぼくは座席から浮かぶほどの衝撃に、読みかけの本を取り落とす。イヤホンをつけたまま眠りこけていた父が跳ね起きる。天井から黄色い酸素マスクが一斉に降りる。
テーブルをしまってください、シートベルトをつけてください、酸素マスクをつけてください。機長がアナウンスする。ただいま、右エンジンで火災が発生した模様です。消化を行っております。当機はこれより羽田に引き返します。緊急着陸の衝撃に備えて、客室乗務員の指示に従い、防御姿勢を取ってください。
「梨央、マスク」
父が震える手でぼくにマスクをつける。ぼくはマスクを握りしめてぶるぶる震える。ぶら下がったマスクが前方に傾斜する。飛行機が落下している。父が窓のシャッターを開ける。斜めの水平線が目に入る。どんどん落ちている。心臓がばくばく。
だめ、死ぬ、お母さん、友梨。
飛行機の傾斜が持ち直す。少しだけ機首があがる。今度は右に傾く。機内を飲み物のカップやボールペンやスマホやイヤホンのケーブル、それにぼくの本が飛び交う。全身の筋肉がひきつる。死ぬなら一瞬がいい。痛いのは嫌だ。
どーんと大きな音と衝撃が走り、右側の天井がバックリ引き剥がされ、青空がみえる。太陽がぐるりと回転し、ぼくたちの飛行機が海面を跳ねて、回転しているのだと把握する。
右側に座っていた人たちが外に吸い出される。一瞬無重力になって、手足がふわりと浮かび、今度は残酷なほど巨大な力に全身が翻弄される。手に持っていた酸素マスクがどこかに飛んでいく。大量の海水が流れ込む。
お父さんがみえない。息ができない。なにもきこえない。なにもみえない。なにもかんがえられない。
0
お気に入りに追加
63
あなたにおすすめの小説

高身長お姉さん達に囲まれてると思ったらここは貞操逆転世界でした。〜どうやら元の世界には帰れないので、今を謳歌しようと思います〜
水国 水
恋愛
ある日、阿宮 海(あみや かい)はバイト先から自転車で家へ帰っていた。
その時、快晴で雲一つ無い空が急変し、突如、周囲に濃い霧に包まれる。
危険を感じた阿宮は自転車を押して帰ることにした。そして徒歩で歩き、喉も乾いてきた時、運良く喫茶店の看板を発見する。
彼は霧が晴れるまでそこで休憩しようと思い、扉を開く。そこには女性の店員が一人居るだけだった。
初めは男装だと考えていた女性の店員、阿宮と会話していくうちに彼が男性だということに気がついた。そして同時に阿宮も世界の常識がおかしいことに気がつく。
そして話していくうちに貞操逆転世界へ転移してしまったことを知る。
警察へ連れて行かれ、戸籍がないことも発覚し、家もない状況。先が不安ではあるが、戻れないだろうと考え新たな世界で生きていくことを決意した。
これはひょんなことから貞操逆転世界に転移してしまった阿宮が高身長女子と関わり、関係を深めながら貞操逆転世界を謳歌する話。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる