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第一章 あなたと友達でいられる最後の日
どこにも行かないで
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「もういい」
「柊くん……!」
柊はグラスに残ったウィスキーをいっきにあおった。止めようと手を伸ばせば、その手を掴まれる。柊の手は酷く熱かった。そのまま小春の手はテーブルの上に押しつけられる。強い力で握られているので、手を引っこめることもできなかった。
「そんな風に飲んだら危ないよ」
「飲んで忘れたい」
「相手が嫌な人なの?」
「いや、まだ決まってない」
「なら悪いようにとらえなくてもいいんじゃないの。ほら、案外お見合い相手に会ってみたら素敵な人かもしれないよ」
衛もそれほど酷い人ではないだろう。どれほど相手が取り繕うと、人格的に問題がない人しか認めないはずだ。
なのに柊は二杯目を注文する。ペースが速い。どうにか止めようと思ったが、頑なに聞こうとしなかった。それに手を重ねられているせいで、柊を見ることができない。
しばらくすると手が緩んだのでそろりと引っ込める。また手を掴まれてしまったら、と考えるともう彼の気を逆撫でするようなことも言えない。動かせるようになった右手で、ちょっとずつ料理を食べる。
もちろん、小春がとめるのを諦めたので柊は完全に酔っ払っていた。アルコールに頼ることを嫌悪しているから、嗜む程度にしか飲まないのに頬が赤らんでいる。眠そうにうとうとと瞬きをするので、小春自ら家に帰した方がいいだろう。怒らせてしまったことに責任も感じていた。
だけど謝罪の言葉は言えない。言ったところで、小春の決意は固い。今日で終わり。そうしないと、ずるずると会ってしまいそうだった。
柊に水を飲ませ、小春は会計しようとすればいつの間にか料金は支払い済みだった。小春がお手洗いに行った隙に払われてしまったのだろうか。案外酔っていないのかと疑いそうになるが、弱り切った顔を見ると小さく息をつくことしかできない。
結局タクシーだけを頼んで、小春は柊に肩を貸して店の外に出た。そうしないとなかなか立ってくれなかったのだ。小春に比べて肩幅の広い柊に肩を貸していると、抱きしめられているみたいでうなじがカッと熱くなる。酒で熱っぽくなった体が背中にピタリとついていた。小春が何かすると思っていないから、こんなに弱った姿を見せられるのだ。絶対的な信頼は最初の頃であれば喜んでいたのに、今は重たくて辛い。
タクシーの後部座席に二人で乗っても、柊は小春から離れなかった。体がだるいのか、小春の方に体重をかけている。
「どちらまでですか」
その言葉を聞いて、小春は脳裏で不適切な場所を思い浮かべた。隣にいる柊を見れば、さっきまで歩いていたのに小春の肩に頭を置いて目を硬く瞑っている。手のひらがじんわりと嫌な汗をかいた。うっかり目が泳ぎそうになり、柊が一人で暮らしている住所を伝える。
タクシーが走り始めると、柊の目がパチリと開く。小春でなければ、安全に送り届けることはできなかっただろう。こんな風に飲んでしまう要因を作ったのは小春だが、彼の今後を考えると心配になる。
タクシーの中では一言も会話がなかった。窓から都会の景色を眺めながら、小春は喧嘩別れするような形になってしまったと悲しくなる。それなのに体はこんなに触れている。今まで手を握られたことすらなかったのに。
柊が住むマンションの前に着き、一人放置することもできず家の中まで移動する。家を出るまでどれくらい時間がかかるか分からないので、タクシーには帰ってもらう。帰りは電車でも大丈夫だろう。
マンションは十四階建てで、十二階が柊の家だ。実家は都内にあるのだから、わざわざ一人暮らしをする必要はないのだが一度くらいは経験しておきたいからと引っ越したのだ。その手伝いをするため、小春は一日だけ家に入ったことがあった。それ以降は家を訪れたことはない。家でご飯を食べてもいいと柊は言ってくれたが、準備も片付けも迷惑をかけるからと断った。
実家は家政婦が定期的に来ると言っていたので、どんな状態になっているのだろうと柊から受け取ったカードキーで家に入る。電気をつけると、案外綺麗だ。物で散らかっているなんてことにはなっていなかった。ほっと胸を撫でおろして、小春はベッドの前まで移動する。
柊の家の間取りはダイニングキッチンと居住スペースがあり、広々としている。壁は白色で、床はフローリング。フローリングと同じ色のテーブルや棚があり、それ以外は白色かグレーの家具で揃えている。
柊をベッドに座らせて他に何ができるか考え、別にもう帰ってもいいのだと気づく。早めに帰らなければ、理性が鈍りそうだ。
けれど最後にきちんと挨拶がしたかった。
「柊くん」
聞こえているのだろうか。話しかけられた柊は眠たそうな表情をしたまま、ぼんやりしている。
「私、もう帰るね」
寂しい別れ方かもしれない。いや、こっちの方がよかったのか。
すこし待ってみたが、答えはなかった。
もう帰ろう。座っている柊から離れようと体を動かせば、腕を掴まれた。
「柊くん?」
柊の前で立っていた小春は腕を引かれて、呆気なくベッドに倒れる。起き上がろうとすれば、すぐに柊が小春に覆い被さる。ベッドに押し倒された状態に、腰が砕けそうになった。逃げなければいけないのに、足がピクリとも動かない。
「小春、友達やめるならさ……俺のことは放っておけばよかっただろ」
抑揚のない声だった。泣いているようにも、怒っているようにも聞こえる。
「何で? 柊くん、すごく酔ってるんだよ。放っておいたら、誰かに襲われちゃいそう」
「俺はどっかのいいとこのお嬢さんかよ」
ふっと柊の口元が笑みを作る。それにつられて、小春も「今はそうかもね」と軽口が出た。すると大変不服そうな顔をするので、彼の怒りは時間の経過で和らいでいるのかもしれない。
「私、そろそろ帰りたいんだけど」
「やだ」
「……えっと、柊くん」
ここで帰らせてもらえなければ困る。たぶん今が一番いいタイミングだった。お互いちょっとした軽口を出して、元気でねってさようならができる。未練が残るような別れにはしたくない。
「帰りたいなら、俺のことを襲ってから帰ってくれ」
「何言ってるの」
酔っているとはいえ、何て恐ろしいことを言うのだろう。できるはずがない。そして下心があろうと小春には難しいだろう。
柊は酷く重たい悩みを打ち明けるように、ぐっと眉を寄せた。
「誰とも経験がないんだ」
「柊くんが?」
真上にいる男の顔を見るが、そんな風には見えなかった。大学時代、柊はとてもモテた。駄目元でも告白する女性が何人もいて、誰が告白しただとかそういう噂が絶えなかった。だが、そんな集団から柊が逃げていたのを思い出す。有り得なくはないのか。
「襲うって言われても……」
自分よりも体格がいい男をどうやって襲えばいいのか。それにこの体勢は襲うというより、襲われる一歩手前だ。……そうでなくとも、見合いを控えている人に手を出す度胸はない。
「酔いすぎだよ、柊くん」
「……全然酔ってない」
柊の顔はとても赤かった。これは相当酔っている。
「そうかなぁ」
どうにかして小春を留めようとする柊の姿に、小春は戸惑った。
本当は小春だって友達をやめたくない。できる限り長くそばにいたかった。何と言っても柊と友達をやめたら、これから困るのは小春だ。
大学で一番親しい友人は柊だ。他に話せる同級生がいるにはいたが大学の外で遊ぶほどの仲ではなかった。どこまで近づいていいのか、距離感が掴めなかったのだ。なので今ではもうすっかり連絡を取っていなかった。
なら職場ではどうなのかというと、関わりのある女性の社員は全員、既婚者だ。小春のような独身の女性はいないので、気軽に話せるのは会社の中か定期的に開催される飲み会のみだ。
こうして気軽に会って、仕事や趣味の話を聞いてくれるのは柊だけだった。
たぶん、人間関係が下手なのだ。年上で、ある程度歩み寄ってくれる人でないと小春はうまく付き合えない。相手に申し訳ないと思うのだが、どれほど頑張っても空振りで終わってしまう。
「小春」
どこにも行かないで、とまでは言われなかった。けれど柊の声は弱っていた。他にも何か言いたそうにしているのに、言葉にならないのか小春の首筋に頭を擦りつける。
さらさらした髪の毛が首にも鎖骨にも触れてくすぐったい。じゃれるような素振りに思わず笑い声が出た。柊の頭が首筋に触れたままぴたりと止まって、小春の中にあった強張りが解ける。
「私、男だったらよかったね。そうしたら柊くんが困っていたら助けられたし、結婚式にも行けるでしょ。それでね、柊くんがどれほどいい人なのか友人のスピーチを――っ」
そもそも性別が違えば、悩むこともなかった。友達をやめるだとかそういう話は出ないのだから。
しかし、首筋に鋭い痛みが走る。びっくりして、小春は目を丸くする。
今、噛まれた。
首筋を。
カプリと。
小春の心臓がまるで爆発するようにドッドッと音を立てる。うなじには玉のような汗がぷくりと浮かぶ。直感的に危機感を抱いた。何を呑気に話していたのだろう。
「柊くん、酔っているよね。あの、えっと、待ってね……水……水を飲もう……」
そしてコップを近くに置いたら逃げよう。もぞもぞと足を動かす。だがそれも柊が退いてくれなければできないことだった。
「一回でいい」
柊の口からぽつりとこぼれる。
小春はどうしていいのか分からなかった。今度こそ、本当に分からない。柊は元々プライドの高い人で、こんなに弱ったところを見たことがなかった。二人きりの時に多少の愚痴は聞いたが、落ち込んだ姿を見せるような人ではない。いつも飄々としていて、大抵のことはポジティブに受け取っている。
「そんなことしたら、きっと後悔するよ。相手がどんな人かも決まってないんでしょう」
「後悔なんてしない」
「……友達に手を出すのは」
「もう友達じゃなくなるだろ」
「それはいくら何でも最低だよ」
「後でいくらでも嫌ってくれ」
今ここで無理矢理されても、小春は柊を嫌うことはないだろう。むしろ素面に戻った彼の精神面が心配だ。もう会うこともないのだから気まずくなったって構わないが、たぶん気にする人だろう。
「そもそも、コンドーム持ってないよ」
これを理由にすれば帰られるだろうか。ないなら買ってくると言って、帰ることができそうだ。
「それならある」
「経験がないのに?」
「なくても買ってるもんだ。今まで何の機会も恵まれなかったけどな」
どうやらそういう機会を待っていたらしい。知りたくなかった事実に小春は天井の角を見る。憎たらしいほど真っ白だ。このまま柊が寝るまでなだめればいいだろうか。そのうち寝るはずだ。考えられる選択肢の中で一番平和な解決策だった。
「ひゃっ」
噛まれた箇所がぬるりと滑り、小春は声を上げる。
「小春」
歯の先が首筋を掠め、息が止まった。こんなことを続けながら、柊が眠るのを待たなければならないのか。小春だって酒を飲んでいる。一杯でやめておけばよかったのに、たくさん飲む柊につられて二杯飲んでしまった。
だからかもしれない。柊に触れられて、体がきゅうっとなると頭までくらくらした。トドメに首をまるでキスするように吸われ、腹が熱くなる。柊と体が接している箇所が気持ちいい。そのまま体を預けそうになって戸惑う。
柊は酒を飲んでどうかしてしまったのだ。自分だけは正気でいなければならない。だめ、とうわごとのように言い続けるが、柊はちゅうっと甘い音を立てて首を吸う。今なら未遂のうちに入る。
なのに小春の唇からこぼれる吐息は乱れていた。小春、小春と何度も呼ばれて、狂いそうになる。こんな風に切なく名前を呼ばれたら一生忘れられない。どうして分かってくれないのだろう。今押し倒している友人が自分のことを好きだなんて考えたこともないのか。
大学生だった当初、柊には男女関係なく友人が多かった。だが、女友達はいつの間にやら柊に落ちて色目を使うようになって、結局友情は破綻した。残った女友達は小春だけだ。だからどうしても隠したい。こんなにも近くに軽蔑したくなるような存在がいるのだと知られたくなかった。
――今日までずっと耐えられたのに。
触れて欲しい。もっと、首以外にも。どうせ会わないのだから、もうどうなったっていい。
「……そこまで、言う……なら……」
「本当にいいのか?」
「柊くんが言ったんでしょう」
「そうだけど」
ようやく首から唇が離れる。顔を上げた柊は、驚いたような顔をしていた。それを見ると、小春はここまでずっと柊に気づかせないでいられた自分を褒めたくなる。気持ちがバレたらどうしようと躊躇していたけれど、そんな心配はいらないみたいだった。
「柊くん……!」
柊はグラスに残ったウィスキーをいっきにあおった。止めようと手を伸ばせば、その手を掴まれる。柊の手は酷く熱かった。そのまま小春の手はテーブルの上に押しつけられる。強い力で握られているので、手を引っこめることもできなかった。
「そんな風に飲んだら危ないよ」
「飲んで忘れたい」
「相手が嫌な人なの?」
「いや、まだ決まってない」
「なら悪いようにとらえなくてもいいんじゃないの。ほら、案外お見合い相手に会ってみたら素敵な人かもしれないよ」
衛もそれほど酷い人ではないだろう。どれほど相手が取り繕うと、人格的に問題がない人しか認めないはずだ。
なのに柊は二杯目を注文する。ペースが速い。どうにか止めようと思ったが、頑なに聞こうとしなかった。それに手を重ねられているせいで、柊を見ることができない。
しばらくすると手が緩んだのでそろりと引っ込める。また手を掴まれてしまったら、と考えるともう彼の気を逆撫でするようなことも言えない。動かせるようになった右手で、ちょっとずつ料理を食べる。
もちろん、小春がとめるのを諦めたので柊は完全に酔っ払っていた。アルコールに頼ることを嫌悪しているから、嗜む程度にしか飲まないのに頬が赤らんでいる。眠そうにうとうとと瞬きをするので、小春自ら家に帰した方がいいだろう。怒らせてしまったことに責任も感じていた。
だけど謝罪の言葉は言えない。言ったところで、小春の決意は固い。今日で終わり。そうしないと、ずるずると会ってしまいそうだった。
柊に水を飲ませ、小春は会計しようとすればいつの間にか料金は支払い済みだった。小春がお手洗いに行った隙に払われてしまったのだろうか。案外酔っていないのかと疑いそうになるが、弱り切った顔を見ると小さく息をつくことしかできない。
結局タクシーだけを頼んで、小春は柊に肩を貸して店の外に出た。そうしないとなかなか立ってくれなかったのだ。小春に比べて肩幅の広い柊に肩を貸していると、抱きしめられているみたいでうなじがカッと熱くなる。酒で熱っぽくなった体が背中にピタリとついていた。小春が何かすると思っていないから、こんなに弱った姿を見せられるのだ。絶対的な信頼は最初の頃であれば喜んでいたのに、今は重たくて辛い。
タクシーの後部座席に二人で乗っても、柊は小春から離れなかった。体がだるいのか、小春の方に体重をかけている。
「どちらまでですか」
その言葉を聞いて、小春は脳裏で不適切な場所を思い浮かべた。隣にいる柊を見れば、さっきまで歩いていたのに小春の肩に頭を置いて目を硬く瞑っている。手のひらがじんわりと嫌な汗をかいた。うっかり目が泳ぎそうになり、柊が一人で暮らしている住所を伝える。
タクシーが走り始めると、柊の目がパチリと開く。小春でなければ、安全に送り届けることはできなかっただろう。こんな風に飲んでしまう要因を作ったのは小春だが、彼の今後を考えると心配になる。
タクシーの中では一言も会話がなかった。窓から都会の景色を眺めながら、小春は喧嘩別れするような形になってしまったと悲しくなる。それなのに体はこんなに触れている。今まで手を握られたことすらなかったのに。
柊が住むマンションの前に着き、一人放置することもできず家の中まで移動する。家を出るまでどれくらい時間がかかるか分からないので、タクシーには帰ってもらう。帰りは電車でも大丈夫だろう。
マンションは十四階建てで、十二階が柊の家だ。実家は都内にあるのだから、わざわざ一人暮らしをする必要はないのだが一度くらいは経験しておきたいからと引っ越したのだ。その手伝いをするため、小春は一日だけ家に入ったことがあった。それ以降は家を訪れたことはない。家でご飯を食べてもいいと柊は言ってくれたが、準備も片付けも迷惑をかけるからと断った。
実家は家政婦が定期的に来ると言っていたので、どんな状態になっているのだろうと柊から受け取ったカードキーで家に入る。電気をつけると、案外綺麗だ。物で散らかっているなんてことにはなっていなかった。ほっと胸を撫でおろして、小春はベッドの前まで移動する。
柊の家の間取りはダイニングキッチンと居住スペースがあり、広々としている。壁は白色で、床はフローリング。フローリングと同じ色のテーブルや棚があり、それ以外は白色かグレーの家具で揃えている。
柊をベッドに座らせて他に何ができるか考え、別にもう帰ってもいいのだと気づく。早めに帰らなければ、理性が鈍りそうだ。
けれど最後にきちんと挨拶がしたかった。
「柊くん」
聞こえているのだろうか。話しかけられた柊は眠たそうな表情をしたまま、ぼんやりしている。
「私、もう帰るね」
寂しい別れ方かもしれない。いや、こっちの方がよかったのか。
すこし待ってみたが、答えはなかった。
もう帰ろう。座っている柊から離れようと体を動かせば、腕を掴まれた。
「柊くん?」
柊の前で立っていた小春は腕を引かれて、呆気なくベッドに倒れる。起き上がろうとすれば、すぐに柊が小春に覆い被さる。ベッドに押し倒された状態に、腰が砕けそうになった。逃げなければいけないのに、足がピクリとも動かない。
「小春、友達やめるならさ……俺のことは放っておけばよかっただろ」
抑揚のない声だった。泣いているようにも、怒っているようにも聞こえる。
「何で? 柊くん、すごく酔ってるんだよ。放っておいたら、誰かに襲われちゃいそう」
「俺はどっかのいいとこのお嬢さんかよ」
ふっと柊の口元が笑みを作る。それにつられて、小春も「今はそうかもね」と軽口が出た。すると大変不服そうな顔をするので、彼の怒りは時間の経過で和らいでいるのかもしれない。
「私、そろそろ帰りたいんだけど」
「やだ」
「……えっと、柊くん」
ここで帰らせてもらえなければ困る。たぶん今が一番いいタイミングだった。お互いちょっとした軽口を出して、元気でねってさようならができる。未練が残るような別れにはしたくない。
「帰りたいなら、俺のことを襲ってから帰ってくれ」
「何言ってるの」
酔っているとはいえ、何て恐ろしいことを言うのだろう。できるはずがない。そして下心があろうと小春には難しいだろう。
柊は酷く重たい悩みを打ち明けるように、ぐっと眉を寄せた。
「誰とも経験がないんだ」
「柊くんが?」
真上にいる男の顔を見るが、そんな風には見えなかった。大学時代、柊はとてもモテた。駄目元でも告白する女性が何人もいて、誰が告白しただとかそういう噂が絶えなかった。だが、そんな集団から柊が逃げていたのを思い出す。有り得なくはないのか。
「襲うって言われても……」
自分よりも体格がいい男をどうやって襲えばいいのか。それにこの体勢は襲うというより、襲われる一歩手前だ。……そうでなくとも、見合いを控えている人に手を出す度胸はない。
「酔いすぎだよ、柊くん」
「……全然酔ってない」
柊の顔はとても赤かった。これは相当酔っている。
「そうかなぁ」
どうにかして小春を留めようとする柊の姿に、小春は戸惑った。
本当は小春だって友達をやめたくない。できる限り長くそばにいたかった。何と言っても柊と友達をやめたら、これから困るのは小春だ。
大学で一番親しい友人は柊だ。他に話せる同級生がいるにはいたが大学の外で遊ぶほどの仲ではなかった。どこまで近づいていいのか、距離感が掴めなかったのだ。なので今ではもうすっかり連絡を取っていなかった。
なら職場ではどうなのかというと、関わりのある女性の社員は全員、既婚者だ。小春のような独身の女性はいないので、気軽に話せるのは会社の中か定期的に開催される飲み会のみだ。
こうして気軽に会って、仕事や趣味の話を聞いてくれるのは柊だけだった。
たぶん、人間関係が下手なのだ。年上で、ある程度歩み寄ってくれる人でないと小春はうまく付き合えない。相手に申し訳ないと思うのだが、どれほど頑張っても空振りで終わってしまう。
「小春」
どこにも行かないで、とまでは言われなかった。けれど柊の声は弱っていた。他にも何か言いたそうにしているのに、言葉にならないのか小春の首筋に頭を擦りつける。
さらさらした髪の毛が首にも鎖骨にも触れてくすぐったい。じゃれるような素振りに思わず笑い声が出た。柊の頭が首筋に触れたままぴたりと止まって、小春の中にあった強張りが解ける。
「私、男だったらよかったね。そうしたら柊くんが困っていたら助けられたし、結婚式にも行けるでしょ。それでね、柊くんがどれほどいい人なのか友人のスピーチを――っ」
そもそも性別が違えば、悩むこともなかった。友達をやめるだとかそういう話は出ないのだから。
しかし、首筋に鋭い痛みが走る。びっくりして、小春は目を丸くする。
今、噛まれた。
首筋を。
カプリと。
小春の心臓がまるで爆発するようにドッドッと音を立てる。うなじには玉のような汗がぷくりと浮かぶ。直感的に危機感を抱いた。何を呑気に話していたのだろう。
「柊くん、酔っているよね。あの、えっと、待ってね……水……水を飲もう……」
そしてコップを近くに置いたら逃げよう。もぞもぞと足を動かす。だがそれも柊が退いてくれなければできないことだった。
「一回でいい」
柊の口からぽつりとこぼれる。
小春はどうしていいのか分からなかった。今度こそ、本当に分からない。柊は元々プライドの高い人で、こんなに弱ったところを見たことがなかった。二人きりの時に多少の愚痴は聞いたが、落ち込んだ姿を見せるような人ではない。いつも飄々としていて、大抵のことはポジティブに受け取っている。
「そんなことしたら、きっと後悔するよ。相手がどんな人かも決まってないんでしょう」
「後悔なんてしない」
「……友達に手を出すのは」
「もう友達じゃなくなるだろ」
「それはいくら何でも最低だよ」
「後でいくらでも嫌ってくれ」
今ここで無理矢理されても、小春は柊を嫌うことはないだろう。むしろ素面に戻った彼の精神面が心配だ。もう会うこともないのだから気まずくなったって構わないが、たぶん気にする人だろう。
「そもそも、コンドーム持ってないよ」
これを理由にすれば帰られるだろうか。ないなら買ってくると言って、帰ることができそうだ。
「それならある」
「経験がないのに?」
「なくても買ってるもんだ。今まで何の機会も恵まれなかったけどな」
どうやらそういう機会を待っていたらしい。知りたくなかった事実に小春は天井の角を見る。憎たらしいほど真っ白だ。このまま柊が寝るまでなだめればいいだろうか。そのうち寝るはずだ。考えられる選択肢の中で一番平和な解決策だった。
「ひゃっ」
噛まれた箇所がぬるりと滑り、小春は声を上げる。
「小春」
歯の先が首筋を掠め、息が止まった。こんなことを続けながら、柊が眠るのを待たなければならないのか。小春だって酒を飲んでいる。一杯でやめておけばよかったのに、たくさん飲む柊につられて二杯飲んでしまった。
だからかもしれない。柊に触れられて、体がきゅうっとなると頭までくらくらした。トドメに首をまるでキスするように吸われ、腹が熱くなる。柊と体が接している箇所が気持ちいい。そのまま体を預けそうになって戸惑う。
柊は酒を飲んでどうかしてしまったのだ。自分だけは正気でいなければならない。だめ、とうわごとのように言い続けるが、柊はちゅうっと甘い音を立てて首を吸う。今なら未遂のうちに入る。
なのに小春の唇からこぼれる吐息は乱れていた。小春、小春と何度も呼ばれて、狂いそうになる。こんな風に切なく名前を呼ばれたら一生忘れられない。どうして分かってくれないのだろう。今押し倒している友人が自分のことを好きだなんて考えたこともないのか。
大学生だった当初、柊には男女関係なく友人が多かった。だが、女友達はいつの間にやら柊に落ちて色目を使うようになって、結局友情は破綻した。残った女友達は小春だけだ。だからどうしても隠したい。こんなにも近くに軽蔑したくなるような存在がいるのだと知られたくなかった。
――今日までずっと耐えられたのに。
触れて欲しい。もっと、首以外にも。どうせ会わないのだから、もうどうなったっていい。
「……そこまで、言う……なら……」
「本当にいいのか?」
「柊くんが言ったんでしょう」
「そうだけど」
ようやく首から唇が離れる。顔を上げた柊は、驚いたような顔をしていた。それを見ると、小春はここまでずっと柊に気づかせないでいられた自分を褒めたくなる。気持ちがバレたらどうしようと躊躇していたけれど、そんな心配はいらないみたいだった。
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