あなたと友達でいられる最後の日がループする

佐倉響

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第一章 あなたと友達でいられる最後の日

お別れの挨拶

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 コロンコロン、コロンコロン、とスマホのアラームが鳴っていた。

 日付は四月十七日。

 スケジュールには「柊と夕飯」と書かれている。楽しみだったはずの予定に、別の感情が紛れこむ。会いたいのに会いたくない。終わって欲しくない。

 小春が柊に会わないで欲しいと言われて頷けたのは、彼をどうでもいい存在だと思っているからではないのだ。都会の生活にも大学の生活にも不慣れだったのを気にかけてくれたのは柊である。なかなか馴染めない小春にあれこれ教えてくれた。

 出かける前に鏡で姿を確認する。レーススリーブのブラウスに薄桃色のフレアスカート。それだけではまだ寒いので、ミント色のカーディガンを羽織っていた。髪はいつものように下ろす。普段より、血色が悪い気がした。

「古川さん、何だか元気ないね」

 隣の席の尾村おむらに話しかけられ、小春は顔を上げる。そんなことないですよ、と答えるけれど声のトーンは普段よりも落ちていた。

「昨日の午後から落ちこんでいるように見えたんだけど」
「寝不足だからかもしれないです。寝る前にちょっと動画を観るつもりが、深夜になっていたんですよ」
「そうなの? 寝る前にスマホを見ない方がいいってよく聞くけど、ついつい触っちゃうのよねぇ」

 尾村は頬に手を当てて溜め息をついた。彼女は小春と同じ事務員だった。歳は四十代後半で、入社したばかりの小春に仕事を教えてくれた人だ。服装はいつも白いシャツに灰色のカーディガンと黒いズボンを身に着けている。アクセサリーは左手の薬指にシンプルな指輪があるだけで、肩にかかる髪も一つにまとめている。あまり派手ではないこととたまに見せるそそっかしい面のおかげで、小春にとって尾村は社内で一番話しやすい人だった。

 会話が終わり、小春は受け持っている仕事のうち単調なものを選ぶ。データ入力を進めているとどこからか「あっ」と声が上がる。声のした方を見ると、同じく事務員の湯崎ゆざきがコピー機の前に立っていた。

「間違えて中止のボタン押しちゃった……」

 肩を落としてコピー用紙を取りに行くのを見るに、用紙切れで出る画面のボタンを反射的に押してしまったのだろう。確か会議用の冊子を作っている最中だったはずだ。会議は午後なので、冊子を作るのを手伝おうかと考えていると隣の尾村に「古川さん……」と悲痛そうな声で名前を呼ばれた。

「請求書の金額が合わなくて、ちょっと見てくれない?」
「どの請求書ですか」
「これなんだけど」

 金額が合わない請求書を一行ずつ確認していく。こういう日は小さなトラブルが幾つか発生しがちだった。自分まで何かやってしまわないかヒヤヒヤする。ちなみに請求書は一件だけ入力ミスが発覚した。昼休みが終わった後の会議室では次長が何か怒鳴り散らしていたという噂話が流れる程度で、無事に小春の業務は終了する。

 どうにか定時で帰れそうだ。とくに今日はすこしも遅れたくない予定があった。



 柊とご飯を食べる約束をしていた店はネットに掲載されていない隠れ家的な居酒屋だった。築百年以上の日本家屋をリノベーションした建物で、天井やガラス戸などは当時の状態を残している。内装はレトロな雰囲気だが、ソファや小物はカラフルで可愛らしい。居酒屋だけれど、夜カフェのような場所だった。見つけたのは柊で、小春が好きそうだからと予約してくれたのだ。

 小春が居酒屋に向かうと、すでに柊は店の中で待っていた。

「小春、お疲れさま」
「お疲れさま」

 柊がいたのは店の縁側だった。緑豊かな庭園を見る形でソファが配置されている。どこに座ろうと思わず目が泳ぐ。ソファは一台しかない。柊の隣しか座れる場所がなかった。まるでカップルシートのようだったが、柊がいる場所に案内されるまでに見た中で一番いい席だ。夜の庭園は美しく、竹林がライトアップされていた。ししおどしの音もする。

「寒かったらブランケットがあるから使って」
「うん、ありがとう」

 ソファに置いてあったブランケットを柊が小春に渡す。受け取って、やはりここしか座る場所がないと諦めて腰を下ろした。友達なのだから、変に意識した態度を取る方がおかしい。しかし柊の隣に座ったことはほんの数回しかなかった。その数回もまだ柊に対して特別な好意を抱いていた時のことではない。肩に力が入るのも無理はなかった。

「何食べようか」

 柊はメニューを広げると、さりげなく小春の方に寄せる。

「柊くんはもう決めた?」

 メニューから視線を外し、小春は柊を見て息が止まった。隣に座ってメニューを見ているからか、思ったよりも距離が近い。もうすこし離れて座ればよかった。まだ一滴も酒を飲んでいないのに、小春の頬が赤らむ。後ろに流していた横髪を、さっと前に流した。見ないようにしても隣から、甘くほのかに塩気とムスクが合わさった上品な香りが微かに匂う。

「俺はカルパッチョかな。小春が迷うなら、お任せ料理コースにする?」
「そうしようか」

 柊は「ん」と返事をすると、店員を呼んで料理を頼む。その間、ようやく小春は落ち着いて呼吸ができた。昨日出会った柊の父親を思い出す。あの時もドキドキしたが、今のドキドキは種類が違う。

 父親の衛は優しい見た目とは裏腹に内面は息を抜くことも許されないほど鋭い部分があった。柊は反対だ。鋭い眼光とツンとした雰囲気。アッシュグレイの髪は短く整えられているが、ややふんわりしていた。服装は黒いシャツとブレザーに茶色のチノパンツ。シャツの襟元はすこしだけ開いている。小春からすれば近づきにくい見た目をしているのに、形のいい唇からは優しい言葉が多かった。……時々、意地悪なことを言われていることもあるが。

 会う回数が減ったのもあって、柊はどんどん大人に近づいていく。会うたびに溜め息をつきたくなった。

 これほど外見も内面も優れているのに、恋人ができないのは最初から家の都合で結婚すると決めているからなのかもしれない。ちょっとだけ遊ぼうなんて真面目な柊は考えそうになかったし、そのおかげで小春は今まで友達としてそばにいられたのかもしれない。そうでなければ二人きりでなんてとても遊べない。

「会うの、半年ぶりだよな。元気だったか」
「そうだね。やっぱり年度が替わる時期は忙しくて」
「そのわりには休みの日に遠出してるよな。昨日も夕飯をカフェで食べてたし。ホワスタで投稿してただろ。一人なら誘えよ」

「えっ、見てたんだ。あのでも一人って言っても何となくふらっと行く感じだから、誘われても困るでしょう」
「どうにかして行く」
「そっかじゃあ……」

 今度、誘うと言いかけて口を噤む。もう今度はない。今日で会うのを最後にするのだから。

「小春?」

 途中で口を閉ざしたのを訝しむように、柊は小春を見た。会話を楽しんでいた表情がふっと消えて、心配そうに様子を窺う。二人の間に沈黙が流れると、店員が注文した料理をテーブルに並べていく。どうにか会話を切り抜けられた小春はどうにか笑顔を作る。

「このお酒、すごく綺麗だね」

 トマトのような鮮やかな赤色の酒が入ったグラスを手にする。小春が頼んだのはブラッドオレンジの梅酒だった。ソーダで割っているので、シュワシュワと泡が弾けている。

「……度数高くないよな」
「大丈夫じゃないかな」
「ならいいけど、無理そうだったら言えよ」

 そう言っている柊はウィスキーを頼んでいた。二人でグラスを軽く当てて乾杯をした後、酒を楽しみながら料理を食べる。カリフラワーのガーリック炒めやチーズリゾット、鰆のソテー、ポテトサラダ、キャロットラペと彩りが鮮やかだった。小春は頼んだ酒を口に含むとオレンジは濃厚で甘酸っぱい。贅沢なジュースみたいだけれど、柊が心配した通りアルコールの度数がすこし高いことが分かる。

 料理も酒も美味しいのに、小春はどうやって話を切り出すか考えこんでしまう。会ってすぐは止めた方がいいだろうか。食事をする時はいつも向かい合っていたから、表情を見ながらの会話が難しい。

「写真、撮らなくてよかったのか。いつもなら、料理撮るだろ」
「あ」

 小春はカリフラワーを一口食べていた。

「お腹空いていて忘れてた……!」

 笑いながら鞄からスマホを取り出す。すこし手を出してしまったけれど、料理はほとんど残っている。料理のバックに庭園も入っていて写真うつりがいい。

「なんか元気ないよな。何かあったのか」
「そんなことないよ」
「本当かよ」
「本当だよ。そういえば昨日、柊くんのお父さんと会ったよ」
「へ」

 小春がそっと隣を見ると、柊は苦々しい顔をしていた。
 本当はまだこの話題を出すつもりはなかったのだが、元気がない理由を知られたくない。

「お昼休みにコンビニでばったり会ってびっくりした」

 衛の印象は強烈だ。喋ることが不得意な小春ですら、すらすらと話せる。話題の塊みたいな人だった。

「それはびっくりするよな」
「そうそう。柊くんがお見合いするって聞いたから、もっとびっくりした」
「……まじか」

 あいつ、そんなこと言ったのかと柊が嫌そうにこぼす。けれど初めて見合いの話を聞いたわけでもないようだ。

「忘れてたけど、お父さんは大企業の社長だもんね」

 実際は一時も忘れたことはなかった。身分の違いとまではいかないものの、育ちの違いを感じることが多い。一番驚いたのは、小春の誕生日だからと高級なレストランに連れて来られた時だ。

 当時まだ大学生だった小春では考えられないような場所である。都会のファミレスでさえ高級な店のように感じるのに、本物を体験させられると驚きのあまり楽しめなかった。柊が小春のレベルに合わせてくれているのは分かっていた。次は小春が合わせたいのに、どう振る舞えばいいのか分からなかった。今もそれは変わらないだろう。

「やっぱりお見合いのことを考えると、もう会わない方がいいよね」
「小春が気にすることじゃないだろ。それにすぐ相手が決まるわけじゃない」

「ううん。私は気にするよ。相手の女性に失礼だし、私のせいでなかったことになったら申し訳ないよ。婚約が決まったら会わないでしょう? 皆、私と柊くんがなんて考えもしないと思うけどそういうわけにもいかないから。何も知らない人から見ればいい気持ちにはならないと思う。いつかできる婚約者も不安になると思うから」

 言い訳のような言葉が小春の口からするすると出る。自分に言い聞かせるように、小春は長々と喋った。たぶん余分なことも話している。でも止められなかった。どう切り出そうかあれほど悩んだのに、頭の中で架空の女性ができあがる。どうやっても敵わないような女性だったらいい。大学時代にいた戸塚のような美貌と、有力者のパーティーに参加すれば柊のサポートを完璧にこなす頭の良さ。家柄も申し分ない。そして柊のことを大切にしてくれる。そういう非の打ち所がない女性だったら、小春は安心できる。彼にはすべての面で不安なく、幸せになって欲しかった。

「俺は?」
「え?」

 小春の声を柊が遮る。怒りを抑えられないとばかりに、黒い瞳がまるで炎のように揺れていた。声は大きくないのに、悲憤をこもっている。

「俺のことは? 見合いをするからって、友人関係を切らないといけない俺の気持ちは?」

 不意打ちを受けたような衝撃に、声が出ない。喉がきゅうっと締めつけられて苦しかった。

 違うよ、そんなつもりじゃないよとしぼり出す。なのに冷たい声でどこが、と言われて血の気が下がる。だって自分はただの友達だ。柊には他に友達がたくさんいる。むしろ自分は柊のことを考えて自ら離れようと言ったつもりだった。ありがとう、と弱々しく言われるとばかり。言葉を重ねれば重ねるほど、柊の怒りは悲しみの方が強くなるのが伝わっていく。ぶわりと広がった怒気が剥がれ落ちると、そこには傷ついた顔しか残らなかった。

「いや。そうか。そうだよな。小春は俺がいなくても平気だよな」

 へらりと唇の端を持ち上げたが、柊の顔はすこしも笑えていない。
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