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一章

プロローグ

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――その日、氷坂師走こおりざかしわすは本屋で彼女と出会った。


道脇に積まれていた雪の山はいつのまにか、僕の膝下まで溶けていた。
 これだけ溶けているなら自転車でも大丈夫だろうと僕は、家の物置から半年ぶりに自転車をひっぱりだしてきて、たまに道端にあるぐしゃぐしゃのシャーベット状の泥雪を避けながら、最寄りの駅。南郷18丁目駅へ向かっていた。

 家から10分足らずで駅の近くまで着き、駅を右手に捉えつつ、僕は信号を右折した。
 駅の周りは郊外らしく昭和を思わせるような居酒屋が連なっていて、人通りも多からず少なからずである。

駅の駐輪場はまだ冬だと言うのに沢山の自転車で埋まっていた。
 端の自転車を蹴れば、ばたばたとドミノみたいに倒れそうだ。

僕は綺麗に並べられた自転車の列の隅に自転車を止めて、鍵を閉めた。

 ――まあ、僕が乗っている自転車は親戚からのおさがり物だから、サビも酷くて今にも壊れそうな雰囲気をぷんぷん醸し出しているから、鍵を閉めなくとも僕の自転車を盗む馬鹿はいないだろう。


駅のホームまでの長い階段を降りて、改札を通り大通り宮の沢行きのホームの列に並ぶ。
平日だけあってあまり人は並んで居ない。

そして僕はスマホをジャンパーのポケットから取り出して、Musicアプリを開いた。最近ハマっている。

『J.S.バッハ 管弦楽組曲第2番ロ短調よりバディネリ』

を再生する。
 この曲はJ.S.バッハを代表する四つの中の一つだ。

バックグラウンド再生したままホーム画面に戻り、家で調べていたWebサイトを立ち上げる。
 出てきたのは僕が長年探し求めていた小説。

『リリとララの協奏曲』

――俗に言うミステリー小説で、主人公のリリとララの周りで次々と起こる事件や事故の謎を解決していく、と言うストーリーだ。
 売り上げは10万部で、知名度はさほど高くはない。――だが、僕は半年前にその小説に一目惚れしてしまった。まるで初恋の相手を見つけたみたいに。

浮足でその小説をネットで色々調べているうちに電車がゴゴと激しい騒音をたてながら駅のホームにキィと止まった。
 そして僕は誰も降りてこない電車に乗り込む。

いつもどおり電車は進みだした――。







―――僕は、札幌駅から歩いて数分の本屋に来ていた。

自動ドアをくぐり抜けてから、入り口付近に陳列された人気文庫の新作小説など、目もくれずにずかずかと足早に僕の求めている小説が並べられている本棚まで向かう。
きょろきょろしながら歩きまわっていると、ようやくミステリー小説のエリアを見つけた。

僕の求めていた本は、人気小説の棚――では無く。
とくに人気の無い小説が並ぶ、あまり人目につかなそうな奥の棚に隠れるように並べられていた。

――僕はその小説の前で立ち止まる。
ずっと探していた小説を目の前にして、全身が身震いするのを感じる。
心臓の鼓動もさっきよりも一段と早く、そして大きくなっていた。

スッとその小説を並べられている本棚から抜き取った。手に取った本のザラザラした表紙の質感を肌で感じた。

ここからは流れ作業だ。レジへ向かい。お金を払う。
そしたらこの本は僕の物となる。

「へへ……」
ふいに嬉しさのあまり笑みがこぼれた。
そして、僕はくるりと向きを変えてレジへと――

――行けなかった。

「……」

瞬きを数回。どうやら、僕の幻覚でも妄想でもなく、ちゃんとした現実のようだ。輪郭もはっきりしている。

――そこには今にも泣きそうなその双眸で俺を見つめてくる――黒髪黒瞳のショーボブヘアの美少女(?)が僕の目の前に立っていた。

足元には黒色の冬用のブーツ。すらりと伸びた足を強調するように包んでいるのは、少しだけ肌が透けて見える黒のタイツ。そして今の季節には似つかわしくない、袖がない黒のワンピース。露出度の高いそのワンピースは肩から肌色の腕が出ている。

――それは、黒ただ一色で表されたものすごく端的な美貌だった。

正直言って彼女は僕の好みではない。けど、世間的には超がつくほど可愛いと思う。……いや、可愛い。

で、その美少女が僕の前で泣きそうになっているのだ。

――てか、ほぼ泣いている。

僕は少し困惑したが、すぐに彼女を見て口を開いた。

「……ど、どうかしました?」
「……いや、その……」

今にも消え入りそうな声音が微かに聞こえた。
ここがもし、ショッピングモールだったとしたら間違いなく、その声は他の音にかき消されていただろう。

彼女は自分の腕で目尻に溜まった涙を拭うと、喉から絞り出すように言う。

「――その本……買うんですか……?」
「え、えぇ。買いますけど」
「………」

僕の言葉を聞いた彼女は顔を曇らせて俯いた。
はて? 僕は彼女が俯いた意味も分からず首を傾げる。

「どうかしたんですか?」
「その……手に持ってる本なんですけど……私も……」

彼女は俯いたまま、おどおどしながら言った。
……もしかして、この本を彼女も買おうとしてたのか? だとしたら、これは中々の修羅場なのでは?

僕はスッと横目で本棚を見た。
予想通り僕が手にしている、『リリとララの協奏曲』は在庫があるはずもなく。この本が置いてあった本棚の横には、また違う本が並べられている。
――むしろ、この本が一冊あるだけでも凄いと言うのに。

僕は困ったように頭を掻きながら言う。

「この本、あなたも買おうとしてたんですか?」
「はぃ……そうです……」

彼女はコクと小さく頷いた。
なるほど、だから僕がこの本を手にしたのを見て涙目だったのか。
……まぁ、買おうとしていた本を先に買われそうなだけで泣くのはどうかと思うが。

「僕も買おうとしてたんですよ」
「――ですよね……」

そう言って彼女は、ぐたりと頭こうべを垂れた。

「――あの……この『リリとララの協奏曲』好きなんですか?」

僕の特に意図も意味もない質問を聞いた彼女は、ハッと目を見開いて――

「好きですッ!! 大好きです!」

叫びとも聞き取れる声が静かな本屋全体に響いた。幸い、僕達は本屋の隅っこにいるので、周りにはお客さんも店員さんも居なかった。

……しかし、僕だって叫んだりしないものの、周りに人がいなければ彼女より大きい声で叫ぶだろう。

「そ、そうなんだ。――でもこの本は僕が買わせて貰うよ」

僕はハッキリ言った。
彼女は僕の言葉を予想していなかったのか、呆然と固まっている。
それをいいことに僕は彼女の横を足早に通り過ぎて行こうとしたのだが。

――僕の足は止まった。
止まったと言うより、止められた。



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