ハンガク!

化野 雫

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第百四十三話

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 そして、ひと月もせぬ内に、板額との別れはやって来た。

 板額自身も引っ越しで色々忙しかった様だ。

 学校を休む日もあった。もちろん、まだ対外的には転校の事は公にされてないのでクラスに適当な理由が担任の杉下から告げられるだけだった。

 それでも、あの『最後の晩餐』からこの日まで僕は出来る限り多く何度も板額とデートした。いや、板額が登校してる日はほとんど毎日、一緒に学校とマンションの間を登下校してた。

 でも、僕はその時、板額と何を話してたかはもちろん、どういう風に一緒に登下校してたのかすら良く想い出せない。

 そうだ、この日まで教室では一緒だったのに、その時の事すらおぼろげながらしか思い出せないんだ。

 僕は、こういう時は最後の最後まで一日、いや一秒までも鮮明に想い出せるほど心に刻まれるものだと思っていた。そして、その思い出を頼りにいつまでも板額の事を忘れず過ごせるのだと思っていた。

 でも現実という奴は、時として、いや往々にしてこの様に残酷な結果しか残さないのだ。


 そしてついにやって来たその日の、朝礼はまるでお通夜の様だった。

 あの担任の杉下ですら、教室に入ってくるその瞬間から纏う雰囲気が尋常でないほど暗かった。

 そして、教壇につくなり彼はいつものハイテンションな挨拶を完全にすっ飛ばし、まるで葬式の司会進行役の様な声で半分、機械的な口調で、板額の転校を告げた。

 その声に誘われる様にして板額がゆっくりと席を立ち教壇へと向かった。


 もちろん、僕も緑川は、この日が板額との別れになる事は知っていた。

 ただしクラスの他の者には、板額からその事実を伝える事を口止めされていた。

 それでも杉下が教室に入って来た時から、クラスの者たちは敏感その異様な雰囲気を感じ取ったのだろう。その瞬間から教室を今まで経験した事のないほどに重苦しい沈黙が覆っていた。

 そして、それがこの瞬間、ゆっくりと崩れて行った。

 それはまるで地震の揺れ初めの様だった。

 そこかしこに起こった小さなささやき声が、ゆっくりとうねる様に互いを飲み込み融合しながら、やがて悲鳴にも似た大きなざわめきの津波となって教室を包み込んで行った。


 先ほど僕は杉下が『機械的に』板額の転校を告げた……と言った。

 しかし、それは言葉通りの『機械的』では決してない事くらい、僕には分かっていた。いや僕だけではない、少なくともこのクラスの者なら分かる。相手があの杉下なら、決して無感情にただ事務的に板額の事を告げたりなどしない。

 もし、その表面上の通りなら、この杉下の事、あんな風に重々しい雰囲気で教室に入って来る訳がない。いつもの様に、清々しい程の軽いノリでやって来て、大げさな表情を作りそう告げたに違いない。

 きっと杉下自身も、短い間とは言え自分の可愛い生徒だった板額が、自分から離れて行く事を寂しく思っていたのだろう。

 いや、もしかしたら杉下も担任とは言えまだ若い男だ。板額を単に自身の教え子としてのみ認識してたのではないかもしれない。さらに言えば板額が元男の子って事だって僕以外は緑川と白瀬以外は知らない事なのだからなおさらだ。

 ……とこの時の僕は何故かこんな事を考えていた事だけは鮮明に思い出す事事が出来る。

 そうこれが板額との永遠の別れになるかもしれないのにだ。

 あの時は、阿鼻叫喚の荒らしとなった教室内で一人、何故か僕はまるで部外者の様にぼんやりこんな事を考えていたのだ。

 後に緑川にその事を話したら、彼女は笑いながら……

「それ、人間が極限状態になった時に時々起こす現実逃避じゃないしら。
 パニックになった脳がそれ以上考える事を拒否して、
 一時的にの痴呆状態になるって感じ?」

と解説してくれたっけ。

 つまりあの日の僕はパニックになるほど本当は心かき乱され、尋常な状態じゃなかったって事なのだろう。


 教壇に立った板額が、教室のクラスメイト達に向かって最後の挨拶をした。

 僕はその時の板額の言葉はほとんど思い出せない。

 ただすごく短い挨拶ながら、誰もの胸を打つ素晴らしい言葉だったって事だけは何故か覚えている。


 その日一日、授業中以外、板額の周りはクラスの者の人垣が絶える事はなかった。

 板額を独り占めしたかった僕はそんな状態に不満が無かったかと聞かれれば否定は出来ない。

 でも、クラスの者たちにとっては、まさに今日、学校にいる間が板額と居られる最後の時間なのだ。板額との別れを惜しみたい気持ちは僕と彼らと何ら変わる物ではない。

 そのくらいの事は、あの当時のまだまだ子供だった僕だって分かっていた。
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小説の匣
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