ハンガク!

化野 雫

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第百二十四話

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「そう、同じ転校生。
 それから『君』は要らない、『与一』で良い」

「じゃあ、与一……助けてくれてありがとう。
 もし……」

 そう言った後、忍は急にもじもじし始めた。

 実はその時、僕は一瞬、またおしっこを我慢してるんじゃないかと勘繰ってしまった。

「もし……もし……与一さえ良かったら……」

 忍は、そうまた聞き取れない程小さな声でそう呟いた後、顔を上げ僕を真っすぐ見て思い切った様にそう声を上げた。

 そうなのだ。思えば、僕が忍の顔をはっきり真正面から見たのはこの時が初めてだった気がする。だって、転校初日から僕が覚えていたのは、いつも俯いてちょっと長めの髪がベールの様になって隠れた忍の顔でしかなかったのだ。


 そして、確か僕は、この時、初めてまともに見た忍の顔に、『どきり』としたのだ。

 あの時は、その意味が分からなかったけれど、今思うとそれは僕が初めて経験した『ときめき』ってやつだったい気がする。そう、好きになった女の子を見た時に感じるアレだ。

 あの時の忍はまだ『女の子』ではなく『男の子』だった。まあ、詳しく言えば完全な『男の子』ってわけじゃなかったのかもしれないが、少なくとも僕らはみんな忍を『男の子』として認識してた。それなのに、あの時、僕は忍の顔を見て、ときめいたのだ。思えば、今、板額と僕がこういう関係になるのは必然だったのかもしれない、と僕はちょっと思った。


「僕とお友達になって!」

 それは、誰もが初めて聞く、忍の声らしい声だった。それは、この年頃の男の子で声変りが来てない生徒なら普通と言えば普通だったかもしれない。女の子とそう違わない高い声。それだけなら別段珍しくもない。でも、忍の声はそれとは違った感じの声だった。何というか、男の子の声とは違う、艶やかさがあった。もっと端的な言い方をすれば、それは『色気』を含んだものだったのかもしれないと今は思える。

 忍の初めて聞くまともな声に驚いて教室にいた者たちが一瞬、忍の方を見た。それに気が付いた忍はすぐにまた俯いてしまった。そして先ほど以上に恥ずかし気に両手を体の前で繋いでもじもじし始めた。

 その時、僕は確忍の事を『可愛い』と思ったんだ。その時、僕は少なくとも忍の性別には特に関心を持っていなかった。それでも自分と同じ『男の子』とは確実に認識していた。さすがの僕も、あの歳で『男の娘』に萌えるほどマニアックな子供じゃなかった。あの頃は極々普通の子供だったのだ。それでも確実に忍の事を『可愛い』とあの時、思った。その気持ちが、その後、僕が転校するまでずっと忍を弟の様に可愛がった根っこだったのかもしれない。

 今、改めて思い返すと、僕が忍を可愛がったのは『弟』としてではなかったのかもしれない。僕は、自分では気づかぬ内に、忍を『大切な彼女』の様に想って接していたのかもしれない。

 そうなると僕にとって初恋の相手は紛れもなく、忍、そしてそれは、紛れもない板額でもあるのだ。そして忍も僕の事を好きでいてくれた。板額の言葉が本当なら、あの時の忍も、僕と同じような気持ちでいてくれたに違いない。僕と忍は、初恋が成就し付き合っていたことになるのだ。

 もっとも、その後、半年ほどで離ればなれになってしまったのだけれど……。


「そうだ、忍、君の新しいあだ名を決めよう。
 忍って名前すごくカッコ良いけど、やっぱりあだ名の方が親しみがわくからね」

 僕は『友達になって』と思い切って声を上げた忍に、出来るだけ優しい表情を浮かべてそう言った。

「僕……『タレちゃん』で良い」

 ところが忍はまったく予想外の事を口にした。

「いくらなんでも『タレちゃん』はダメだろ」

 僕は忍の言葉を否定した。だってそうだろ。それをあだ名にするなんて、それこそ酷いいじめその物じゃないか。

「これは、このクラスのみんなが初めて僕にくれたあだ名だから。
 そして、このあだ名があったからこそ、与一と友達になれた。
 だから僕は『タレちゃん』で良いんだ」

 そんな僕に忍は可愛らしい微笑みを浮かべながらそう答えた。

 その時の僕は、そう言われながら忍の言っていることがよくわからなかった。だって、もしこれが自分だったら絶対にこんなあだ名、嫌だと思ったからだ。でも今なら少しは分かる気がする。自身の弱さから起こした失敗を忘れぬ為、そしてそれをバネに自身を作り替えようとする覚悟の証だったのかもしれないと今は思える。
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小説の匣
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