ハンガク!

化野 雫

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第百九話

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 やはり板額は、僕ら普通の人間とっては刀が特別な恐れの対象である事がわかっていた様だ。いや、もしかしたらそれは一般的な刀ではなく、板額の持つ黒い刀だからだったのかもしれない。あの黒い刀だからこそ、僕らの目から早くその刀身を隠したかったのかもしれない。

 確かに板額の持つ黒い刀は、僕が今まで見た日本刀とは違う感じがあった。日本刀は美しさと共に何か引き込まれる様な妖しさがある。それは畏れすら感じる。よく言われる刀を持つと人は必ずそれを使って人を斬りたくなる誘惑に駆られるって奴だ。しかし、板額の黒い刀はもっと妖しく、そして底知れぬ恐怖を僕らに感じさせていたのだった。『死』いや『滅び』と言う生き物なら誰もが持つ深い本能的な畏れを僕らの心に呼び起こすような感じがした。


「板額!」

 手足が自由になった緑川は突然そう叫ぶとそのまま板額の胸に飛び込んだ。そして、いきなり板額の唇に自分の唇を押し当てた。一瞬、驚いた様な顔になった板額だったが、すぐに唇を離した緑川の体を優しく自分の胸に抱いた。

 それを見て、僕は鳩が豆鉄砲を食った様な顔になった。そう、それはまったく予期せぬ事だった。正直、僕は手足が自由になった緑川は僕の胸に飛び込んで来ると思っていた。そう、あわよくば今のキスは板額にではなく僕にしてくれるものだとさえ思っていたのだ。

 正確に言えば、僕が緑川を救ったわけじゃない。実際に緑川を救ったのは板額だ。それでもだ。板額は緑川と同じ女の子なのだ。しかも、ほんの少し前は角を生やした異形の鬼に変化していた。それなのに、手足の自由を取り戻した緑川が真っ先に飛び込んだのが板額の胸だったとは、僕としてはやや納得のゆかないものがあった。

 僕は驚くと同時に少々失望してしまった。もちろん失望したは緑川ではなく、まして板額でもない。それは僕自身に対してだ。よりにもよって女の子、しかも自分の彼女に負けるなんて、ある意味、男としては屈辱以外何物でもないじゃないか。その上、緑川は世間一般公認の僕の彼女だったはずだ。僕はそんな彼女を板額に取られてしまった様な気がした。さすがにこれは、僕の男として自尊心がかなり傷ついてしまった。

 しかし、もう一歩、考えれば、僕は、僕の彼女にもう一人の彼女を取られたって事になる。なんかそれってすごくややこしい事になったんじゃないかと僕はその時気が付いた。これは三角関係どころの騒ぎじゃない。思う一方で、板額と緑川の『百合関係』って、その頃の僕ぐらいの男の子ならなんかすごくエッチな響きがあってどきどきした事を僕は妙に覚えている。年頃の男の子の多くは結構、美少女同士の百合ネタが好きなのだ。少なくとも僕はそう今でも信じている。

 直面する危機確かに去った。しかし、あまりに非日常的な、というかはっきり言ってオカルトや厨二病的な現象が目の前で起きたのだ。それなのに、そんな事を考えていた僕もかなり度胸が据わっていたものだと思う。やはり、それはあんな鬼の姿の板額だったが、それが僕らに強い安心感をもたらした結果だのだろうと、僕は今は思っている。

「怖かったよね。でも、もう大丈夫だよ、巴」

 しばし、胸に飛び込んできた緑川を優しく抱いていた板額がそう囁いた。

 すると、緑川は板額の胸に押し当てていた顔を上げ、小さく頷いた。


 しばらく板額の胸に抱かれた緑川がふいに顔を上げた。

「ところで板額、今のは何なの?
 そもそもあなたは何者なの?
 詳しく説明して」

 そして、一歩、板額から離れて、緑川が板額に向かってそう尋ねた。その時の緑川の顔は、板額の胸に飛び込んだ時の弱々しい女の子の顔ではなかった。いつもの教室で見せる、あの通称『委員長』たる、きりりとした緑川女史に戻っていた。いや、どっちかというと少し不満げな表情にも見えた。どうやら緑川は板額が自分に対して隠し事をしていた事がご不満な様だった。

 しかし、こんな事、例え板額が事前に話してくれたとしても、何も無い時に聞かされたら絶対に信じなかっただろう。それは僕だけじゃなく緑川だってそうだろう。下手すれば、板額の事を『痛い厨二病患者』と判定しかねない。板額が事前に話してくれなかった事を不満に思ったとしたら、それは緑川のわがままと言う物だと僕はその時、ちょっと思った。
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小説の匣
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