ハンガク!

化野 雫

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第百七話

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 板額は刀の柄を右手でしっかりと握ると、その場にゆっくりと跪き、静かに目を閉じた。

 それはアニメではおなじみの刀を構えるスタイル。それは、刀を鞘に納めた状態で構え、間合いを見極め、刀を引き抜くと同時に切りかかる『抜刀術』と言われる構えだ。もっとも、それはアニメなどから知った知識。あれが、本当に『抜刀術』の物なのか、あるいはそもそも『抜刀術』なるものが本当に存在するのか、本当は詳しいことなど僕は知らない。

「心配するな。一太刀ひとたちで確実に殺してやる」

 跪いて構えた板額がそう呟いた。

 『殺してやる』、今は異形の化け物と化したとは言え相手は望月先輩だ。まだ高校生の少年相手に『殺してやる』と口にした板額に僕は少なからず衝撃を受けた。


「ぐおおおおおおっ!」

 そんな、板額を見て異形の化け物と化した望月先輩が突如咆哮を上げた。もしかしたら本人は言葉を吐いたつもりだったのかもしれない。しかし今の僕らには、それは獣の咆哮にしか聞こえなかった。

 もともと板額同様に180cm近い長身の望月先輩は、今は身の丈優に2mを超えていた。体が大きくなるに従い、獣の様に前かがみの姿勢になっているから良いものの、もし人間同様に完全に直立していれば確実に天井に頭が着きそうだった。

 その望月先輩が床に置いてあった長い鉄パイプを拾い上げた。今の望月先輩からすれば小枝を持った様に錯覚するが、実際はそれでもかなり長く太い鉄パイプだった。力の弱い女子供なら振り上げることすら困難かもしれない物だ。

 望月先輩はその鉄パイプを振り上げると、いきなり、目を閉じ床に跪き構え微動だにしない板額に襲い掛かった。

 その動きの中に僕は、姿こそ異形の化け物だったが人間だった時のままのまだ理性が残っている様な気がした。

 もし、そうなら。そして板額が言った様に、本当にこのまま人間ひとに戻れないとしたら。それはあまりに悲しすぎる事実だと僕は思った。だから板額はあんな表情を浮かべたのだと僕は理解できた。板額はこんな卑劣なことをした望月先輩に対してでも、人間ひととして哀れみを感じていたのだ。

 同時に僕は板額が口にした『ツキモノ』の意味も分かった気がした。たぶん『ツキモノ』とは『憑き者』と書くのだろう、と僕はその時、考えた。今の望月先輩は、まるで何か良からぬモノに憑かれているとしか考えようがなかった。

 後から思えば、それは本当に、瞬きするより速い一瞬だった。そんな短い瞬間なのに、何故か僕はそんなことを長々考えていた。いやその時間を実際よりかなり長く感じていたんだ。


『あの、本当にあの人を切り殺す気なんだ。
 なんて残酷な人なのかしら。
 ああ、かわいそう……本当にかわいそう……』

 突然、耳元で白瀬京子の怨霊がいつもの様に氷の吐息ともにそう囁いた。

 そのささやきに、僕の心が惑わされざわついた。

「やめろ、板額!」

 僕は板額を止めようとそう叫ぼうとした。しかし、実際にはその叫びは声にはならなかった。

「や……」

 と第一声を出した途端、僕はその後が続かず息をのんでしまった。


 望月先輩が板額に襲い掛かるとほぼ同時だった。

 床に跪いて構えていた板額の体が、まるでバネ仕掛けのからくり人形の様に弾かれた。同時に腰に吊るされた刀を目にもとまらぬ速さで抜刀していた。板額の体は低い姿勢のまま、迫りくる望月先輩の方へと一直線に走った。いや走ったというより、床すれすれを軽やかに飛んだと言う方がはるかに正確かもしれない。それほどの速さと身軽さだった。


 すべては一瞬で終わっていた。

 気がつくと板額と望月先輩は、お互いが最初に相手のいた位置に立っていた。

 板額は抜刀した刀を片手に持ったまま最初と同じく床に跪き、望月先輩は鉄パイプを大上段に構えたままだった。

 やがて、板額がゆっくりと立ち上がった。そして、手に持った刀を一振りした。何か液体のようなものがしぶきの様に床に飛び散った。たぶん、あれは望月先輩の血のりだったのだろう。その後、板額は優雅なしぐさでその刀を腰に吊るされた黒い鞘に納めた。


 その瞬間だった。

 鉄パイプを頭上に構えたまま仁王立ちだった望月先輩の上半身がぐらりと揺れた。それでも下半身は微動だにしない。

「巴、見るな!」

 僕は思わずそう叫んで、緑川の頭を両手で自分の胸に抱え込んだ。
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小説の匣
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