ハンガク!

化野 雫

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第百六話

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 そうなのだ。

 今の板額の姿は確かにそれ自体は恐ろしい鬼の姿だ。

 でも、何故か僕にはその姿が強い安心感を与えていた。だからこそ、こんな非常時にそんな呑気なことを考える心の余裕が出来たのだ。それは緑川も同じだったのかもしれない。今、痛む体で守る様に抱きしめている緑川の体は、こんな下着姿にされているのに、もうこわばっては居なかった。ちらりと見た表情も落ち着いている感じがした。

「まったく、何が公認の愛人よ。
 まだあなたに本妻の座を明け渡した覚えはないわよ」

 そんな板額に、緑川がぼそりと呟いて苦笑した。こんな状況下でも、軽口が叩けるなんてやっぱり女の子は精神的に強いんだなって僕はこの時改めて思った。そして麻痺していた痛みがじわじわ戻ってくる中、僕はそんな緑川を見てくすりと小さく笑った。

「与一の馬鹿……」

 そんな僕に気がついたのか、あるいは僕の前であんな風に呟いた照れ隠しだったのか、緑川は消え入りそうな声でそう囁いて頬をうっすら染めた。


「誰が土下座などするものか!
 僕は間違っていない!
 間違っているものか!
 あんな陰鬱な奴に僕が負けるわけがないんだ!」

 突如、望月先輩がそう叫んだ。それは今までの望月先輩とは明らかに違っていた。

 常軌を逸した。

 そう明らかに何か、そう何かとても大事な物がぷつりと切れてなくなってしまったかの様な感じがした。

 同時に、わさわさと望月先輩の少し長めの髪が生き物の様に波打ち始めた。そればかりかその体もぶるぶると異様な震えを起こし始めていた。

 その状態は、声と様子だけでなく、その身体までもが、もう普通じゃくなりつつあるのが僕にも分かった。

「やはりツキモノだったか……」

 板額がそんな望月先輩を見てそう独り言のように言った。その時の板額の顔は、相変わらず鬼の顔だった。それでも、その言葉を呟いた時、今までとは打って変わって、なんだか少し悲しそうな表情をしたように見えた。

 その板額の表情と共に、板額言った言葉の意味が、その時の僕には理解できなかった。でも、今なら、そう今の僕なら、その言葉の意味も、なぜ板額があんな表情を浮かべたのか、良く分かる。


 やがて、望月先輩の体がまるで風船が膨らむ様に大きくなっていった。すぐさま、着ている服が膨らむ体に耐え切れず、風船が弾ける様に破れ始めた。

 それはまるでアニメを見てるかの様だった。

 アニメでは何度も見たお約束でお馴染みのシーン。そういう意味では見慣れた光景なのに、それが現実となるとまったく感じが違った。どんなにシリアスな場面でも、ああいうシーンには『またかよ』って感じでクスリと笑えるものだ。しかし、今、現実に望月先輩がそうなると、とても笑いなど浮かばない。あるのはただ驚きと恐怖だけだった。

 そして、その顔もみるみる変わっていった。元々、運動部の男子にしては白かった肌の色が、一気に赤黒く染まってゆく。それと同時に、目は吊り上がり、口は文字通り耳まで裂け、額の両側には長い角が生えて来た。

 変化して行く望月先輩の顔は、どことなく今の板額に似ている気がした。しかし、板額の顔が鬼に近くてもまだ人の感じを強く残しているのに対して、望月先輩のそれは完全に異形の化け物だった。肌や顔の形の変化は原型を止めぬほど激しく、その角は板額の物よりはるかに長く醜悪だった。


「可哀そうだが、こいつの場合、遅かれ早かれこうなっていただろう。
 そして、こうなってはもう元には戻れない」

 そんな望月先輩の変化を、少し悲し気に見える表情を浮かべたまま見つめていた板額が、小さくそう呟いた。

 そして、板額は羽織っていた血しぶきの付いた白いコートをばさりと脱ぎ捨てた。

「あっ、あれは……」

 僕は思わず声を出してしまった。

 板額の腰には太めのベルトが巻かれ、そこには細く黒い杖の様な物が吊るされていた。

 それは僕らアニメ好きならすぐに分かった。あれは間違いなくあれは『刀』だ。

 あの時、緑川に、いくら血で汚れているとは言え自分のマントではなく、僕の上着を、と言った板額の本当の理由が、僕は今、分かった気がした。板額は、この刀を最後まで望月先輩たちの目から隠しておきたかったのだ。その為に板額はマントを脱がずにいたのと思った。

 それなら、この刀こそ、板額の『切り札』に違いないと僕は確信した。
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小説の匣
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