ハンガク!

化野 雫

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第百四話

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「板額、後ろだ!」

 僕もほとんど反射的に声を上げていた。

「ふっ……もう遅い……」

 望月先輩はそう言って笑った。

 男はチェーンを大きく振り回し、すでにその先端を板額の後頭部へと叩きつけようとしている所だった。


 僕が見ていた時には、男は板額のあの姿に動揺して動けなくなっていたように見えた。でも、望月先輩が言う様に、ここに集められた連中は本当に喧嘩慣れしているのであろう。そんな状態でも、相手の隙を見つければ即攻撃を加えようとする獣の本能だけは本物だった。

 チェーンがまるで黒い大蛇の様に板額の後頭部に襲い掛かろうとしている時に、まだ板額は望月先輩の方を見て全く気がついていないかの様だった。

 今更、板額が反応しても間に合わない。僕は思わず目を閉じてしまった。

 自分の彼女の絶体絶命の危機に目を閉じてしまうなんて。僕はこの先いつでも、この時の自分の反応を思い出す度に、穴があれば入りたいくらい恥ずかしく思う様になった。そしてこんな失態は二度とするまいとお心に誓うのだった。

「いきなり後ろからとは酷いな。
 まあ、下の連中もやってる事は同じだったけどね」

 拍子抜けするくらい平然とした板額の声が目を閉じた僕の耳に飛び込んできた。

 当然、今頃はあの太い鉄製のチェーンが板額の頭を打ち砕いていると思っていた僕はその声を聴いて驚いた。いや、驚いたと言うより、何だか拍子抜けした様に感じた。だって、普通なら勝ち誇った望月先輩の雄叫びと板額の苦しむ声が聞こえてくるはずだったのだ。

 恐る恐る目を開いた僕は衝撃に光景を目にしていた。


 板額は望月先輩を見据えたまま、まったく動いては居なかった。こうなった後も、後ろから襲って来た男には何の脅威も感じていなかったかの様だった。

 そして、板額の頭を襲うはずだった、あの太い鉄製のチェーンは上げられた板額の右腕に絡みついていた。どうやら、板額はチェーンが頭に当たる前に、自身の右腕を上げてそこにチェーンを絡ませ、自らの頭を守った様だった。

 確実に板額の頭にチェーンを当てられたと思っていたあの男は呆然とした表情で立っていた。もちろん望月先輩も今目の前で起こった事が理解できずに言葉を失っていた。

 いや、待て。

 相手を見ても居ないのにあの板額の対応は確かに驚異的だ。しかし、相手はかなりの重さのある太いバイク用のチェーンだ。しかも、男はかなりの勢いを付けて板額に投げつけた。例え、腕に絡ませて当初の目的である頭を守る事は出来たとしても、あんな物が女の子の細腕で止める事が出来るだろうか?

 確かに今の板額は角まで生やした鬼の様な顔つきにはなっている。でもその身体は、今まで通り長身ではあるが華奢な女の子の体型だ。腕だって長いけど、かなりほっそりしている。下手をすればあのチェーンでは骨が折れてしまう。いや、折れなくとも相当のダメージを与えるはずだ。そもそも、あの勢いなら腕を上げただけで止められるわけがない。上げられた腕もろとも頭を直撃しているはずなのだ。そのまま体ごとなぎ倒されても不思議じゃない。

 でも、板額は平然と立っている。その姿勢は僕が目を閉じる前に見た姿勢とまったくブレがなかったのだ。


 しかし、彼らが、いや彼らだけでなくその場にいた板額以外の者たちが、本当に度肝を抜かれるのはこの後だった。

「僕は今、すごく機嫌が悪いんだ。
 悪いけど少し大人しくしててくれないか?」

 板額は落ち着いた声でその男をまったく見ずにそう言った。

 そして、その直後だった。

 板額がチェーンの絡まった腕を大きく振った。

 こちらから見ているとそれはすごく軽々振った感じだった。しいて言うなら手に持ったテニスボールを軽く前方へ投げる様な感じだ。当然、それならもう片側をあの男がしっかりと手首に巻いて持っているので板額の腕は振り切れずに途中で止まるはずだった。

 しかし、板額はそのまま軽々と腕を振り抜いたのだ。

 すぐにピンと張った状態なったチェーンを板額が大きく振り抜けばどうなるか。板額の腕が途中で止まらなければ、結果は誰にだってわかる。

 でも、それはモデルばりに170cm近くある女の子にしては長身の板額だとしても、相手はかなりがたいの良い大男なのだ。その結果を脳が受け入れる事など簡単にはできはしなかった。
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小説の匣
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